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4 近畿

近畿 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



近畿地方は明治時代になるまで、ずっと日本の中心であり続けた京都があるだけに、総じて言ってしまうとこの地域が日本の歴史のようなものかもしれません。


この近畿地方で最も悩んだのは、もちろん京都です。

とにかく候補が多過ぎて多過ぎて、一方で織田信長・豊臣秀吉・徳川家康くらいの突き抜けかたをしている人物もおらず、一人に絞るのは相当に無理がありました。

なので、京都に関しては特例として複数名を取り上げることにしました。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!






・三重県 「藤堂 高虎」       (案内人・パーシヴァル)








・京都府 「平清盛」        (案内人・ユーサー)

藤堂 高虎 (三重)

藤堂高虎700x1000

1556
年、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。

 

藤堂氏は先祖代々、近江国(現在の滋賀県)19村を支配する小領主であったが、乱世の中で没落し、父の代には地侍に落ちぶれていた。

 

高虎の父は安定した収入が得られるように知行取り(土地の支配権を任される)を目指したが叶わなかったため、高虎は武功を挙げて父の果たせなかった知行取りになることを夢見た。

 

滋賀県犬上郡甲良町

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の同盟軍が戦った「姉川の戦い」で、15歳の高虎は浅井軍の足軽として初陣を迎える。

 

 

この初陣に強い想いをかけていた高虎は、当時の平均身長を30cmは上回る188cmの巨体の持ち主で、子どもの頃から一度も泣いたことがないという筋骨隆々の剛の者だったという。

 

 

高虎はこの初陣で見事に敵の武将の首を取る手柄を立て、さらに翌年、最初に敵の首を取る一番首の手柄をたてるなど、戦のたびに浅井軍の中で戦功を挙げる。

 

姉川の戦い
 

浅井長政は高虎の活躍を高く評価して褒美の刀を授けたが、1572年、高虎はその浅井家を離れ(浅井氏はその後すぐに織田信長に滅ぼされる)、浅井家から目と鼻の先であった阿閉貞征(あつじさだゆき)のもとへ士官した。

 

 

新天地にのぞむ17歳の高虎は家中の裏切り者2人を始末するように命じられ、剣の腕が立つといわれていたその2人を難なく討ち取り、阿閉貞征は高虎の聞きしに勝る働きに目を見張るが、高虎はこの阿閉家もわずか1年で去ってしまう。

 

 

次に高虎が士官したのは、これまで仕えた主君の敵である織田信長の家臣・磯野員昌(いそのかずまさ)であった。

 

 

敵も味方もお構いなく渡り歩く高虎が、決して手放さずに次の士官先に持参したのが、日本全国どこの領主にも通用する「感状」という武士の履歴書のようなものである。

 

戦場には必ず一人一人の武将の活躍を記録する「目付」という記録係おり、この記録をもとに領主から合戦後に発行されるのが「感状」で、この「感状」があったから高虎は次々に主君を変えることが出来た。

 

磯野員昌
  
磯野員昌
 

磯野員昌からこれまでの武功を評価されて召し抱えられた高虎は、80石の知行を与えられ、18歳にして父が一生かかっても果たせなかった知行取りとなる。

 

その後、磯野員昌の所領を織田信長の甥・織田信澄(のぶずみ)が継ぎ、高虎は織田一門の家臣となった。

 

高虎は織田信澄のもとでも数々の武功を挙げるが、知行が80石から上がらなかったので、織田信澄に武功に見合う知行に上げて欲しいと求めるも聞き入れられなかったため、高虎は織田の家名もやっと手にした80石もアッサリと捨てて三度目の浪人となる。

 

 

 

次に高虎は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の弟・羽柴秀長に仕える。

 

羽柴秀長の所領は8500石しかなかったが、羽柴秀長は高虎を以前の3倍以上となる300石の知行で迎え入れた。

 

 

高虎は羽柴秀長軍の先鋒として多くの戦に出陣し、1582年、織田信長が「本能寺の変」で世を去ると、羽柴秀吉が一気に天下を掴み、高虎は羽柴家に仕えて7年で知行4600石、一軍を率いる武将へと出世する。

 
羽柴秀長
  
羽柴秀長

しかし一方で、高虎は戦場での武功だけに頼る出世に限界を感じるようになっていた。

 

羽柴家には賤ヶ岳七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)と呼ばれる戦上手の家臣がひしめいており、優秀な人材が揃う羽柴家でさらに出世するにはどうすれば良いのか考えた高虎は30歳の頃に「築城」に目を付ける。

 

10ヶ所を越す城攻めを経験していた高虎は城の重要性に着目して「縄張」と呼ばれる城の設計を研究した。

 

羽柴秀吉の四国平定戦で難攻不落といわれた阿波国(徳島県徳島市一宮町)の一宮城を攻めた時、高虎は一か月経ってもおちないこの城の秘密を探るために、夜一人で一宮城の堀の深さを測りに行ったために鉄砲で撃たれるなど、時に危険を冒しながら攻めにくい城の設計術を研究する。

 

 

そんな高虎が造った城の一つである伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内)20メートルを越える石垣が特徴で、高い石垣は鉄砲や弓に対する防御力を持ち、さらに攻め手に難攻不落だと精神的に威圧する効果もあった。


伊賀上野城

高虎は生涯におよそ20の城を造り、築城の第一人者として羽柴家で不動の地位を獲得する。

 

その後、羽柴家が姓を豊臣と改め、専門性を身につける事で他の武将との競争を勝ち抜いた高虎は2万石を与えられた。

 

藤堂高虎3
 

1591年、高虎が長年仕えてきた豊臣秀長がこの世を去ると、紀伊・和泉・大和の100万石は豊臣秀長の子・豊臣秀保に受け継がれる。

 

しかし、それを機に高虎は豊臣家のお家騒動に巻き込まれていく。

 

それまで実子が育たなかった豊臣秀吉は、甥の秀保や秀次を重く用いていたが、1593年、豊臣秀吉の実子・秀頼が生まれると、次第に秀保や秀次を疎んじるようになった。

 

1595年、豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられ秀次が切腹させられた後、高虎の主君である秀保も原因不明の死をとげる。

 

 

秀保の家が廃絶となり、多くの秀保の家臣が豊臣秀吉の配下へと移っていくなかで、高虎は今まで築き上げた2万石の知行を捨て、秀保・秀長を弔うためと、忽然と俗世間から姿を消して高野山へと入った。

 

一方、秀保や秀次に仕えていた家臣は、謀反に関わったとして次々に死罪に処せられる。

 

高虎は秀保の家臣である自分にもいずれ豊臣秀吉の刃が向けられることを察知していたのであった。


高野山
 

さすがの豊臣秀吉も、全てを捨てて寺に入った高虎には手を出すことが出来ず、それどころか逆に高野山へと使者を送って、自分に仕えるようにと説得を繰り返すようになる。

 

高虎が考慮の末に説得に応じると、喜んだ豊臣秀吉は高虎に伊予・宇和島7万石という以前の3倍の知行を与えた。

 

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

1598年、豊臣秀吉が亡くなると、それをキッカケに次の天下を狙う徳川家康、それに抵抗する石田三成とが対立していく。

 

諸大名が状況を伺うなかで高虎は、いち早く徳川家康支持の態度を鮮明にする。

 

豊臣恩顧の大名達はそんな高虎を裏切り者とののしったが、高虎は「侍で自分の考えを固持することができない者はナタの首が折れたようなものである。」と動じなかった。

 

 

1600年、天下を二分した「関ヶ原の戦い」は徳川家康の東軍が勝利し、この戦いにおいて高虎は脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱の寝返り工作を成功させる。

 

 

しかし「関ヶ原の戦い」で東軍に寝返って勝利に貢献した小早川秀秋が2年後にお家廃絶、さらに高虎が寝返らせた小川祐忠が所領没収と、徳川家康はいくら自分の味方につこうとも裏切りをするような外様大名を容易に信じようとはせず、その徳川家康の疑いの目は当然のごとく次々に主君を鞍替えしてきた高虎にも向けられた。

 
徳川家康
  
徳川家康
 

1614年、さらに高虎の立場を危うくする事件が起こる。

 

徳川家康が大阪城の豊臣秀頼を攻撃した「大阪冬の陣」において、大阪城の豊臣秀頼から高虎に宛てた書状が徳川家康のもとへ渡ってしい、その内容は「申し合わせたように徳川を裏切ってくれれば約束した領国を与え、その他の恩賞も望み通りとする。」というものであった。

 

 

この書状は徳川家康側の内部分裂を誘うために豊臣秀頼側がくりだした謀略であったが、高虎の経歴を知る諸将は疑いをぬぐうことが出来ず、高虎に不審の目が向けられる。

 

 

そんな折に、苦楽を共にしてきた高虎の重臣二人(藤堂良勝・藤堂高刑)は「この度、我々は是が非でも戦死する覚悟でございます。藤堂家をつぶさないで下さい。家康の信頼を勝ち取ることを第一に考えて下さい。」と高虎に告げる。

 

なによりも大切にしてきた家臣達を犠牲にしてでも戦うことで突破口を開くのか、それともいつ取り潰されるかもしれない恐怖に怯えて暮らすのか、長いこと考え続けていた高虎はこの二人の言葉で心を決めた。

 

藤堂高虎4
 

1615年「大阪夏の陣」で藤堂軍5000は徳川家康側の先鋒として大阪城に向けて進軍を開始すると、河内の八尾の付近で豊臣秀頼側の長宗我部盛親の軍を発見する。

 

この長宗我部軍は後方にある徳川家康本陣への奇襲を目論んでいた。

 

 

藤堂軍は長宗我部軍をここで食い止める必要があったが、両軍の間には湿地帯が横たわっており、藤堂軍が湿地帯を渡って攻撃した場合、陣形が崩れて壊滅的な被害を受けることが予想され、戦の常識としては回避すべき状況だったが、高虎は徳川家康に忠義を示すために突撃を命じる。

 

 

ぬかるみに足を取られる藤堂軍は勇猛果敢で知られる長宗我部軍に苦戦して多くの戦死者を出し、戦いの直前に高虎に道を示してくれた二人の重臣・藤堂良勝と藤堂高刑も相次いで討ち死にした。

 

 

高虎は深い悲しみの感情をあらわにしながらも前進を命じ続け、決死の覚悟で襲いかかる藤堂軍を前に長宗我部軍は敗走し、長宗我部軍による徳川家康本陣への奇襲は未遂に終わる。

 

 

「大阪夏の陣」は徳川家康側が勝利したが、高虎はこの戦いで徳川家康側では類を見ない被害を出した。
 

大阪夏の陣
 

しかし、それによって疑り深い徳川家康が、主君を何度も変えてきた高虎を信頼して「国に大事が起こったときは一番手を藤堂高虎とせよ。」と評し、その後、藤堂家は加増されて伊勢・伊賀32万石となる。

 

 

「大阪夏の陣」は徳川家による太平の世までの最後の戦いであったため、徳川家康に対して何かを示すにはラストチャンスでもあった。

高虎は大きな時代の変化を見事に見抜き、勝負をかけるポイントを的確に捉え、自分の家臣を犠牲にしてまでも徳川勝利のために尽くすという忠義を見せた。

 

 

高虎60歳、知行なしの地侍として槍一本で初陣してから45年、8番目の主君のもとで国持ち大名へと出世する。

 

藤堂高虎1

徳川家康の死後も高虎は藤堂家を盤石のものとするため、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光に仕えて、老いて目が見えなくなっても徳川将軍家のご意見番として出仕し続け、晩年までほとんどの時間を江戸で過ごした。

 

 

そんな高虎は自らの人生で学びとったものを200カ条に渡る藤堂家の家訓としてまとめる。

 

「寝室を出るときから、今日は死ぬ番であると心に決めなさい。その覚悟があれば、ものに動ずることがない。」

「冬でも薄着を好むべし。厚着を好めば癖になり、にわかに薄着となったとき、かじかむものである。」

「人をだましてはならない。真のとき承諾がえられない。深く慎むべし。」

 

 

1630年、74歳で死去した高虎の亡骸には隙間がないほど鉄砲や槍の傷があったという。

 

 

江戸時代260年間、お家断絶やお家取り潰しとなった大名家が数多くあるなかで、高虎の教えを守り続けた藤堂家は大きな処分を受けることなく存続した。




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石田 三成 (滋賀)

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1560年、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)の豪族である石田正継の次男として誕生。

 

 

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の同盟軍が戦った「姉川の戦い」は両軍合わせて15000の死者が出るという凄惨を極めたものであった。

 

 

当時11歳の石田三成はその戦場からわずか5キロメートルのところで暮らしており、3年後、織田信長に滅ぼされた浅井氏に代わりその地の領主となったのが、三成がその生涯を捧げる羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)である。


滋賀県長浜市石田町
 

さっそく城下の再建に乗り出した羽柴秀吉は、整備した長浜の城下町に市を開き、鍛冶などの工業を奨励し、長浜は瞬く間に全国から人とモノが集まる商業都市として生まれ変わっていった。

 

 

1577年、近江の人々が笑顔を取り戻す姿を見つめながら羽柴秀吉の領国経営に心酔して成長した三成は18歳の時に士官を求める。

三成の才智謀慮を感じ取った羽柴秀吉は、まだなんの実績もない三成に300石の高い禄を与えて家臣に召し抱えた。

 

秀吉と石田三成

1583年、羽柴秀吉が柴田勝家と織田信長の後継を争った大事な一戦「賤ヶ岳の戦い」で24歳の三成は、賤ヶ岳七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)と呼ばれるメンバーをさしおいて「先懸衆」として先陣をきる。

 

しかし、三成はこの戦場でなんの武功も上げられず、また、その後も戦場での槍働きで活躍することはなかった。

 

 

武功こそ立身出世の条件であった戦国時代でありながら羽柴秀吉は戦下手の三成を重臣として使い続ける。

 

豊臣秀吉
   
豊臣秀吉
 

1590年、羽柴秀吉が天下統一を果たし、時代が戦乱から太平へと大きく転換する中で、三成はその真価を発揮していく。その代表的なものが太閤検地である。

 

 

検地とは田畑の面積を測り、その生産力を石高として把握する調査であるが、検地奉行に抜擢された三成はその方法を根本的に変えた。

 

これまで検地はその土地の領主が自ら申告していたので、不正な申告が横行し、石高の実態がつかめなかったが、

三成は他の家臣と共に国中の農村に直接おもむいて土地を測り直したのである。

 

 

その結果、例えば島津氏が治める薩摩では、215000石とみなされていた石高が倍以上の58万石と評価されるなど、三成の検地改革によって初めて全国の大名の力が正確に把握できるようになった。

 

 

当時、長さや体積の単位は地域によってマチマチであったが、三成はこれを全国的に統一してモノサシや升などを作り、こうして単位が統一されたことにより流通は円滑となって、全国の商業は大きく発展する。

 

 

緻密な計算が得意で経済感覚に長けた三成は豊臣秀吉(羽柴家が姓を豊臣に改める)の右腕として辣腕をふるい、豊臣秀吉は三成の功績を認めて筑前・筑後33万石の大名になることを勧めた。

 
太閤検地
 

しかし三成は、この所領が倍増することになる破格の加増に対して「私が九州の大名になってしまったら大阪で政務をつかさどる人がいなくなります。」と断る。

 

 

自分の所領を増やすよりも豊臣政権のもとでいち早く統一国家を建設し、故郷の近江が復興したように国全体に秩序と繁栄を築くことこそが三成の願いであった。

 

 

 

しかし、1598年、豊臣秀吉が死去し、まだ6歳の豊臣秀頼がその後継者となると三成の運命が大きく変わっていく。


石田三成3
 

三成が「天下が騒乱にあった時、太閤様が現れ世をしずめ、今ようやくこの繁栄を得た。誰が後継ぎの秀頼公の世になることを祈らない者があろうか。」と言う一方で、徳川家康は天下は実力ある者が取るものだと豊臣秀吉の喪が明けぬうちに野心を見せ始めた。

 

 

三成は再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけないと徳川家康の行動を警戒するも、豊臣秀吉の死から4カ月後の冬、徳川家康は突然に諸大名との縁組を盛んに始める。

 

大名同士の縁組は特定の大名が勢力を拡大することになるため、豊臣秀吉の生前から固く禁じられた行為であった。

 

 

徳川家康の行動が豊臣体制の切り崩しと見た三成であったが、豊臣家の一家臣にすぎない三成が大大名である徳川家康の行動を止める事は容易ではなかったため、三成は対抗手段として「五大老・五奉行」制にうったえる。

 

 

五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)・五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)は幼い豊臣秀頼の補佐役として政権を担う中枢であり、重要な課題に関してはこの「五大老・五奉行」10人の合議で取り決めるのが約束事であった。

 

 

三成はこの合議の約束を盾に徳川家康の行動を糾弾し、全員が三成に同調したため、さすがの徳川家康も大名同士の縁談をあきらめざるを得なくなる。

 

 

1599年、徳川家康を実力でけん制できる唯一の大名である前田利家が死去すると、かろうじて三成主導でされていた政権運営が揺るがされていく。

 

前田利家
  
前田利家

前田利家が死去したその夜、かねてより奉行として豊臣政権で幅を利かす三成に反感を募らせていた加藤清正・福島正則ら七人が突如、三成を襲撃した。

 

 

三成は間一髪で襲撃を免れるが、徳川家康が七人の武将を説得して襲撃をあきらめさせたため、三成は徳川家康に弱みを握られることとなる。

 

徳川家康から「今回の騒動は三成殿にも責任がある。自国に戻って12年、謹慎されよ。」と告げられた三成は、襲撃から8日後、近江の佐和山城で謹慎することとなった。

 

 

こうして、豊臣秀吉の死からわずか半年足らずで、三成は徳川家康により豊臣政権の中枢から追放される。

 

 

1599年、権力への野心を隠さなくなった徳川家康は豊臣家の根拠地である大阪城に入城し、豊臣秀頼の後見役におさまると、大名達の所領を独断で加増し始めた。

 

さらに徳川家康は上杉景勝を武力討伐するため会津へと向かう。

 

この上杉景勝討伐への出兵は三成をおびき出すための徳川家康の戦略であった。


徳川家康
  
徳川家康
 

徳川家康の挙兵から一月後、三成の無二の友である越前敦賀の大谷吉継が佐和山城の三成のもとを訪ねると、三成は「天下は家康のものになろうとしている。戦いによって除くべし。」と打ち明ける。

 

 

三成の挙兵計画を聞いた大谷吉継は、もはや徳川家康にかなう者はいないと無謀な戦いを止めようとするが、三成の心が決まっているのを悟ると、大谷吉継も「三成とは昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない。」と心を決めた。

 
大谷吉継
  
大谷吉継
 

三成は徳川家康の号令に従い上杉景勝の討伐に向かう諸大名を、逆に徳川家康を討つ軍に変えてしまう事を考えるが、奉行職を解かれた三成には諸大名へ命令する権限がなかったため「今度の家康公の行いは太閤様に背き、秀頼様を見捨てるがごとき行いである。」と徳川家康の弾劾状を有力大名へ送る。

 

 

豊臣秀頼の威光は功を奏し、弾劾状によって進退を決めかねていた毛利輝元が呼応して総大将として大阪城に入ると、これを機に状況を眺めていた西国大名達は雪崩をうって大阪城に結集した。

 

 

1600年、こうして三成は「関ヶ原の戦い」において西軍となる9万の大軍勢が誕生し、会津に向かった徳川家康軍8万を凌ぐ勢力を自ら表に出ることなく組織する。


毛利輝元
  
毛利輝元
 

西軍は手始めに徳川家康の西の本拠である伏見城を攻め落とした。

 

 

「大阪に大軍現る」を知った徳川家康は、西から西軍9万と北から上杉軍3万に挟み討ちにあえばひとたまりもないため、急遽、江戸へと引き返し、江戸から動けなくなる。

 

この時点ではまだ三成は徳川家康に勝っていた。

 

石田三成2
 

三成は西軍を大阪を守る4万、丹後方面に4000、伊勢方面に3万、美濃方面に2万、北陸方面に70005つに分け、さらに別働隊として会津から上杉軍36000が対峙する形を作る。

 

そして、三成は東軍の豊臣恩顧の大名達に豊臣秀頼の命という大義を掲げた徳川家康弾劾状を送りつけ、東軍8万のうち最大5万が西軍に変わる可能性を探った。

 

 

 

ところが、三成率いる美濃方面軍2万が伊勢方面軍3万と合流するために大垣城(岐阜県大垣市郭町)に入ると、大垣城から25kmに位置する清州城(愛知県清須市一場)に東軍の先鋒45000が突然現れる。

 

 

軍を分散させ2万しかいない三成は、45000の東軍に対して身動きがとれない状態となるが、さらに三成を驚かせたのは東軍の先鋒を務めたのが福島正成・黒田長政といった豊臣秀吉への忠誠心が強いことで知られた武将達だった。

 

豊臣恩顧の武将が徳川家康になびくわけがないと信じていた三成の自信が揺らいだ。

 

大垣城
 
豊臣恩顧の大名も敵に回すことになった三成は戦略を見直し、西軍の総大将である毛利輝元に大阪城からの出陣を要請するが、徳川家康と毛利配下の大名との間で「戦闘に参加しなければ毛利の所領は保証する。」という密約が交わされていたため、毛利輝元はいっこうに大阪城から動かなかった。

 

 

徳川家康は所領の安堵や加増の空手形をエサに多くの大名の参戦を封じており、三成も諸将が徳川家康に籠絡(巧みに手なずける)されていることに勘付いていく。

 

三成は豊臣家への忠誠よりも現実的な利に走る人のもろさを嘆いていて「人の心、計りがたし。」ともらした。

 

 

毛利輝元が出陣せず、徳川家康が大垣城から4キロメートルの地点に到着すると、三成はこうなっては戦下手の自分が大将となるしかないと決戦の覚悟を決める。

 

その夜、三成は軍勢を集めて「明日、早朝に関ヶ原へ出陣すべし。」と告げた。


石田三成1
 

午前8時、豊臣政権による統一国家を守ろうとする石田三成率いる西軍85000、次なる天下人を狙う徳川家康率いる東軍75000による「関ヶ原の戦い」が開戦。

 

 

三成隊に襲いかかる東軍先鋒部隊に対して、三成隊は長槍部隊で応戦して押し返す。

 

そして、三成は山の上に布陣する味方に加勢を求め、何度も狼煙を上げるが彼らは動かず、この時、西軍で実際に戦闘に参加していたのは、宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継の隊だけであった。

 

 

正午、西軍側から味方に攻撃をする裏切り者が出始め、午後1時、大谷吉継隊は持ち堪えられずに全滅し、三成の無二の友である大谷吉継が命を落とす。

 

さらに宇喜多秀家・小西行長の隊も敗走し、残るは三成隊だけとなると、各所で戦っていた東軍部隊が総出で三成隊めがけて殺到した。


宇喜多秀家
  
宇喜多秀家 

 

その様子について「三成は戦下手と評されていたが、その戦いぶりは尋常ではなかった。」と記されているものがあり、三成隊は一人また一人と壮絶な討ち死にをしてみるみる消耗していく。

 

午後2時、三成隊が全滅して「関ヶ原の戦い」は東軍の勝利で終わる。

 

 

当代随一の知性を持ちながらも戦下手で人望がなかったと評されている三成であるが、実際のところ裏切らなかった配下の武将達は三成のために命を捧げて戦った。

 

 

「関ヶ原の戦い」に敗れた三成は独り落ち延びて滋賀県木之本町の山中にある洞窟に身を隠すが、6日後、追手に捕まり、京都へと護送される。


大蛇の岩窟
 

そして「戦に敗れて自害しないのはなぜか?」と問われた三成は「私は再起するつもりでいた。」と答えた。

 

三成は市中引き回しのうえ、賀茂川のほとり京都六条河原で処刑され、40歳でその生涯を終える。

 

 

 

「関ヶ原の戦い」後、三成の居城である佐和山城も、なんとか徳川家康の関心を買おうと先を争う小早川秀秋・脇坂安治ら東軍に寝返った武将達に攻められ落城した。

 

佐和山城

その城内は、再び天下が乱れることを憂いた三成の一途な生き様を写したかのように、豊臣政権で奉行を務めた男の居城とは思えぬほど質素そのものであったといわれている。




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豊臣 秀吉 (大阪)

豊臣秀吉700x1000

1537年、かつての尾張国である現在の愛知県濃尾平野で生まれた秀吉は、立身出世を夢見て13歳の時に村を出る。

 

頼る人も手掛かりもない秀吉は行商や物売りなど30以上の職を転々とし、やがて今川氏の家臣・松下之綱に仕えるが、足利将軍家に近い今川氏は保守的な体質で貧しい生まれの秀吉が活躍する機会はなかった。


松下之綱
  
松下之綱

1556年、秀吉に尾張を基盤に急成長した新興の大名・織田信長のもとに士官するという運命の転機が訪れる。

織田信長は才能のあるものならば身分を問わずに登用する革新的な大名であった。

 

秀吉は持ち前の知恵と工夫で次第に織田信長に認められるようになっていく。

 

織田信長
  
織田信長

1567年、隣国・美濃の斎藤氏の居城・稲葉山城(岐阜県岐阜市)を、織田信長が攻め取った攻城戦「稲葉山城の戦い」で、秀吉は野武士を使って川の上流から密かに木材を運ぶという工夫により、わずか1週間で強固な砦を敵前に造るという離れ業をやってのけた。

 

この砦は墨俣一夜城と呼ばれ、秀吉が織田家で頭角を現すキッカケになったとして語られる事が多い。

 

「稲葉山城の戦い」に大勝利した織田信長は、稲葉山城を岐阜城に改名して居城とし、この拠点から天下統一を本格的に目指すようになる。


稲葉山の月

1573年、織田信長の妹・お市を嫁がせていた浅井長政が、織田信長と敵対する朝倉義景との同盟関係を重視したため、織田信長が浅井長政の居城・小谷城(滋賀県長浜市湖北町)を攻めた「小谷城の戦い」で、秀吉は守りの堅い本丸を力攻めすることを避け、守りの手薄な砦から次々に攻略して本丸を孤立させるという機転の利いた攻撃で活躍した。

 

 「小谷城の戦い」での功績を認められた秀吉は、織田信長から北近江12万石を任され、さらに翌年には長浜に城を持つことを許されて長浜城(滋賀県長浜市公園町)を築城する。

 

立身出世を夢見て23年、保守的な権威主義ではなく実力主義の織田信長のもとで秀吉はついに一城の主となった。

 

長浜城
 

1577年、加賀国の手取川において上杉謙信の軍と織田信長の軍が戦った「手取川の戦い」で、織田軍の総大将は北陸方面の攻略を担当していた柴田勝家が任される。

 

柴田勝家は、織田家の家臣の中でも最古参で勇猛果敢で知られ、武勇で数々の手柄を挙げ、特に正面突破する力攻めの戦いでそのセンスを発揮した。

 

秀吉はこの柴田勝家の傘下に組み入れられて戦いに参加していたが、この戦いでも正面突破を主張する柴田勝家に対して、秀吉は敵地で地の利もなく軍事の天才と称される上杉謙信に真っ向からぶつかっては大損害が出ると反対した。

 

しかし、日頃から秀吉を成り上がりの新参者と軽く見ていた柴田勝家は耳をかさなかったため、秀吉は独断で戦線を離れて長浜に帰ってしまう。

 

秀吉が撤退した後、柴田勝家は上杉軍に正面からぶつかり、手痛い敗北を喫す。

 

柴田勝家2
  
柴田勝家

一方、戦線離脱は切腹に値する重大な軍規違反であり、秀吉が軍規に厳しい織田信長から切腹を命じられることは免れないだろうと思われたが、処分を待つ秀吉に織田信長から届いた命令は、犯した罪は仕事で償えといわんばかりに中国地方の攻略であった。

 

名誉挽回に必死になった秀吉はわずか半月で播磨国(兵庫県南西部)を平定し、その後も織田信長が休みを与えようとしても休まずに次の戦へと兵を進めて奮闘する。

 

 

1582年、織田信長が京都の本能寺で明智光秀の謀反によって亡くなる「本能寺の変」が起き、秀吉はこの自らの運命を大きく変える出来事を、中国地方で毛利勢と対峙している最中に知った。

 

自分に思う存分に力を発揮させてくれた織田信長の死に、秀吉はしばらく呆然となるが、再び息苦しい秩序に縛られた時代に戻ってしまわないように、自らが織田信長の意思を継いで天下を取る決意をする。

 

秀吉は毛利氏と休戦協定を結ぶと直ちに軍勢を引き、織田信長の仇を討つべく高松城(岡山県岡山市北区高松)から京都へと向かい、「本能寺の変」からわずか11日後に明智光秀を討ち破った。


高松城水攻築堤

その後、柴田勝家の呼びかけで天下の行く末を決めるべく、柴田勝家・丹羽長秀そして秀吉による「清州会議」が清州城で開かれる。

 

最初に話し合われたのは、織田信長の後継者についてであったが、柴田勝家は自らが元服に立ちあうなど親子のような間柄であった織田信長の三男・信孝を推す。

 

これに対して秀吉は、織田信長の長男・信忠(本能寺の変で死亡)の子で筋目でいえば後継ぎの一番手であるまだ3歳の三法師を推し、自分が守り役となって実権を握ることを目論む。

 

両者が真っ向から対立するなか、丹羽長秀が「柴田殿、秀吉の申すことの方が筋目が正しいですぞ。そもそも光秀を討ったのは秀吉でござらぬか。」と口を出したため意見は21となり、後継者は秀吉の推す三法師に決まった。

 

実は秀吉は丹羽長秀に近江国の西半分を与えることを約束しており、これによって丹羽長秀は秀吉に味方したのである。

 

丹羽長秀
  
丹羽長秀

後継者問題で敗れた柴田勝家は巻き返しに、秀吉の居城・長浜城と北近江の領地を柴田勝家の甥・佐久間盛政に譲れと難題をふっかけてきた。

 

長浜は秀吉が精魂込め、時間をかけて領営していた土地である。

 

柴田勝家は秀吉が断ることをキッカケに斬って捨ることを計画し、この時、隣の部屋には刀を構えて秀吉の返答を待つ佐久間盛政が控えていた。

 

すると秀吉は「わかり申した。長浜は譲りましょう。ただしお譲りするのは甥の佐久間殿ではなく勝家殿のご養子で嫡男の勝豊殿にお譲り申す。それが筋でござろう。」と、柴田勝家がかわいがる佐久間盛政に譲ることを避ける。

 

 

「清州会議」の4日後、秀吉は世継ぎである三法師のお披露目を行い、織田家の重臣達が勢揃いするなか、秀吉は三法師を抱いて現れた。

 

三法師に対して深々と頭を下げる柴田勝家達の姿は、あたかも秀吉に対して臣下の礼をとるかのような構図となり、秀吉は織田信長の実質的な後継者が自分であることをモノ言わずに語ったのである。


三法師
  
三法師
   

しかし、秀吉が三法師の後見人として実権を握り始めると、柴田勝家は織田家のなかでの力を維持して秀吉に対抗すべく、織田家の家臣に慕われるお市(織田信長の妹)と祝言をあげた。

 

両者の間は再び緊張し、いずれ対決は避けられない情勢となっていく。


お市
  
お市
 

 「清州会議」から半年後、秀吉は先手を取るべく柴田勝家に譲ったはずの長浜城を突如、包囲する。

 

実は、柴田勝家と勝豊は不仲であり、秀吉はそれを知っていたため勝豊に長浜城を譲り、その後さらに自分に味方するように働きかけていたので、城内にいた勝豊は抵抗しなかった。

 

「清州会議」でせっかく手にした長浜城が呆気なく秀吉に取り戻されたことを知った柴田勝家は激怒するも、深い雪に阻まれて軍勢を動かすことが出来ない状況にあり、雪に閉ざされた越前で焦りを募らせる。

 

なんとか秀吉の優位に立ちたいと思った柴田勝家は、この頃、中国地方の毛利氏に身を寄せていた足利義昭(織田信長が追放した室町幕府15代将軍)に、足利義昭が再び京都にのぼって幕府を再興し諸大名に号令する手助けをするという内容の書状を送った。

 

柴田勝家は室町幕府という古い権威を甦らすことで、秀吉という新しい勢力に対抗しようとしたのである。

 
 

足利義昭を京都に迎えるためには長浜にいる秀吉を叩く必要があったため、1583年、柴田勝家は雪解けを待たずして3万の軍勢を率い、越前を出発して北国街道を進んだ。

 

 

一方、秀吉も直ちに出陣し、両軍は賤ヶ岳(滋賀県長浜市)で対峙する。

 

秀吉は正面突破が得意で織田家最強といわれる勝家軍の正面攻撃を防ぐために、強固な柵を築いて街道を完全に封鎖し、街道の脇にそびえる山には10カ所以上の砦を築き、徹底的に防御を固めた。


賤ヶ岳の戦い
 

そのため、両軍の睨み合いは2カ月近く続き、思いがけず持久戦に引きずり込まれた柴田勝家は焦り、兵士達にも苛立ちが目立ち始める。

 

 

そんな折に、柴田勝家がひいきにしていた織田信長の三男・信孝が美濃で兵を挙げて賤ヶ岳に向かっているという知らせが、秀吉に届く。

 

秀吉は北に勝家軍、南に信孝軍と前後に敵を抱えることになった。

 

 

ここで秀吉は、賤ヶ岳の陣にわずかな兵を残してもぬけの殻同然にし、主力2万を率いて信孝軍を攻めるために美濃を目指し、途中、揖斐川の氾濫にあったため近くの大垣城に入る。

 

この敵前に背を向けるに等しい行動はすぐに柴田勝家のもとへと知らせが届き、佐久間盛政はこの隙をついて今こそ攻撃すべしと進言するが、柴田勝家は秀吉にはなにか策略があるに違いないと警戒した。


佐久間盛政
  
佐久間盛政
 

実際に、秀吉は柴田勝家が攻撃を仕掛けてくると信じて待ち続けていたのだが、賤ヶ岳の戦場では部下の進言に押された柴田勝家が運命的な決断をする。

 

 

夜明けとともに勝家軍は1万の攻撃隊を秀吉側の砦に突撃させ、難なく砦を奪うと、敵陣を突破しかねない勢いで秀吉側の陣中深くに入り込んでいく。

 

勝家軍が動いたという知らせを受けた秀吉は「我、勝てり。勝家の命、我が掌中にあり。」と言うと、直ちに出陣を命じて大垣城を出発した。

 

 

沿道の住民には「炊き出しをし、食料を用意せよ。」「街道には松明をかかげ進軍を助けよ。」という秀吉からの命令があらかじめ出されていたため、秀吉軍は当時の常識ではどんなに急いでも12時間はかかる大垣から賤ヶ岳まで52Kmの距離を、出発からわずか5時間で賤ヶ岳に到着する。

 

 

午前2時、秀吉軍がすぐに引き返して来ても現れるのは夜明けだと考えていた勝家軍攻撃隊に、秀吉軍の総攻撃が始まった。

 

不意を突かれた勝家軍攻撃隊は壊滅し、勝家軍からは逃亡者が相次ぎ、柴田勝家はわずか100騎の手勢と共に越前へと逃げ帰るが、秀吉は追撃の手を緩めずに一気に越前まで攻め進み、ついに勝家を自害に追い込む。

 

 

秀吉と柴田勝家の戦いは、室町幕府の復活や再び群雄割拠となって時代が巻き戻る可能性の瀬戸際であった。

 

豊臣秀吉1
 

「賤ヶ岳の戦い」に勝利した秀吉は本格的に天下統一に向けて動き出すが、この時点では四国の長宗我部氏、九州の島津氏などまだまだ有力大名がひしめいていて、なかでも最大の勢力は関東の北条氏だった。

 

北条氏は5100年に渡り関東を支配し続けた名門で、北条氏政・北条氏直の親子が守る小田原城は、かつて軍事の天才である上杉謙信の攻撃にも耐え抜いた難攻不落の城である。

 

 

北条氏は秀吉に対抗するため、三河の徳川家康、奥羽の伊達政宗と同盟を結び、三国合わせた動員兵力は11万人となり、北条連合軍は秀吉軍15万と拮抗する勢力となった。


小田原城
 

1584年、秀吉はその同盟の一役を担う徳川家康と「小牧・長久手の戦い」で対決する。

 

秀吉軍8万が、小牧山(愛知県小牧市)に陣取る家康軍2万と対峙すると両者はしばらく睨み合いを続けた。

 

秀吉軍は兵数で勝るとはいえ、徳川家康は戦上手なうえに有利な高台に陣を敷いているので、秀吉が迂闊に手を出せずにいると、池田恒興が兵の一部を密かに徳川家康の本拠地・岡崎城に向かわせて城を奪い取るという計画を進言する。

 

しかし、秀吉は徳川家康の領内で奇襲を試みても見破られる可能性が高いと懸念し、なかなか首を縦に振らなかったが、池田恒興はかつて織田軍団で共に戦った秀吉の同僚であったため、度重なる進言を抑えきれなくなった秀吉はしぶしぶ奇襲作戦に同意した。

 

 

そうして、池田恒興が率いる2万の部隊が密かに岡崎城へ向けて進軍を開始すると、その様子は領民からの報告ですぐに徳川家康に知らされ、先回りした徳川軍は待ち伏せて逆に奇襲をかけ、池田隊は壊滅して池田恒興も討ち取られる。

 

秀吉は「小牧・長久手の戦い」の失敗で、全軍を統率することの重要性を思い知った。

 

池田恒興
  
池田恒興
 

その後、秀吉は大阪城に移り、姓を「豊臣」に改め、朝廷を動かして天皇の代わりに政治を行う官職である「関白」に任ぜられ、朝廷の権威を背景に諸大名を従わせられるようになった。

 

すると秀吉は強敵である徳川家康を抑えるために、妹と母を人質として徳川家康に差し出して恭順を呼び掛ける。

 

関白である秀吉にそこまで懇願されて強気に出ると、天皇に反抗したことになりかねないため、1586年、徳川家康はついに秀吉の臣下となった。

 

徳川家康
   
徳川家康

さらに秀吉は大名同士の争いを禁じる「惣無事令(そうぶじれい)」を発し、これに反するものは関白・秀吉が朝廷に代わって成敗すると宣言する。

 

秀吉はこの「惣無事令」に反した大名に次々と大軍を送り込んでは平定していき、四国の長宗我部氏や九州の島津氏をも降伏させた。

 

こうして秀吉の天下統一まで、残るは関東の北条氏と奥羽の伊達氏だけとなる。

 

 

一方、小田原城では秀吉に屈するか否かの会議が開かれ、父・北条氏政は5100年に渡る北条氏が成り上がりの秀吉ごときに屈するのは恥であると、息子である当主・北条氏直に強く主張した。

 

徹底抗戦を決めた北条氏は、全ての領民に「当方の興亡この時にあり。15歳から70歳までのすべての者は武器を持ち集合のこと。」と命令を出して城に集め、さらに関東一円に広がる配下の城90以上を整備して強固な防衛網を作り上げる。

 

北条氏直
  
北条氏直
 

この頃、秀吉は国の仕組みを根本から変える改革を進めていた。

 

秀吉は「太閤検地」によって田畑の面積を一つの基準で測量して正確な年貢の徴収を可能にし、これによって軍の兵糧調達も計画的に行えるようになる。

 

さらに秀吉は農民の武器を取り上げる「刀狩り」を行った。

 

それまでの戦は、都度々々、自前の武器を持つ農民を動員していたため、田植えや刈り入れ時期には戦いの最中でも軍を引かなくてはならなかったが、この「刀狩り」によって農民と武士の職業がハッキリと区別され、農民が戦に駆り出されなくなった分だけ収穫が増え、武士は農業をすることがなくなって一年中従軍できる体制が整う。

 

 

秀吉は「太閤検地」と「刀狩り」によって兵糧と軍勢の確保を着々と進め、堅固な小田原城を落とすために遠く関東まで大軍勢を送り込むための地盤を作っていった。

 

刀狩り
 

1589年、秀吉の配下になっていた真田氏の名胡桃(なぐるみじょう)(群馬県利根郡みなかみ町下津)を北条配下の武将が強奪し、ついに秀吉と北条氏との戦いが決定的となる。

 

 

真田氏の訴えを聞いた秀吉は「北条は領土争いを禁じるふれを踏みにじり、狼藉をしている。秀吉が公儀にかわって誅罰をあたえる。」と北条氏に宣戦布告の書状を送りつけた。

 
名胡桃城
 

秀吉は小田原城を大軍勢で完全に包囲する作戦を立案し、徳川家康・前田利家を先発隊とした北条討伐の軍勢は総勢22万という破格に大規模なものとなる。

 

 

秀吉はこの大軍勢の遠征にあたり、戦う兵とは別に米を集める「兵糧奉行」を作り、兵糧奉行は22万人の兵を10カ月以上も養える20万石の米を瞬く間に集めた。

 

 

その頃、小田原城では秀吉軍といかに戦うか軍議が開かれ「大軍勢の秀吉軍は兵糧がもたず、長く陣をはることはできぬであろう。小田原城は堅固なこと天下無双である。」と籠城戦で迎え討つことが決まる。

 

 

かつて11万もの兵で攻めてきた上杉謙信は1カ月で撤退し、こうした戦いの経験から北条氏は、秀吉の大軍勢はすぐに兵糧が尽きると籠城戦に自信を持っていた。

 

北条氏政
  
北条氏政

箱根を越えた秀吉軍は、北条軍57000が立て篭もる小田原城の周囲に10万人以上の兵を展開させて完全包囲して孤立させた。

 

 

秀吉は小田原城から西へ3Kmに位置する笠懸山に登り、頂上に着くと、しばし小田原城を眺めてから、突然「ここに城を築け」と告げる。

 

秀吉は石垣の工事のために近江から、織田信長の安土城や秀吉の大阪城の石垣を手掛けた職人集団である穴太衆(あのうしゅう)を呼び寄せ、6万人を動員して築城工事を進めさせた。

 

この工事は北条氏に気付かれないように山の斜面を覆う木の影で密かに進められる。

 

 

小田原攻めが始まって2カ月、北条氏と同盟を結び最後まで秀吉に抵抗していた伊達政宗が、秀吉の圧倒的な力の前に恭順を決意して小田原に到着し、命を預けるという意味を込めた白装束をまとって秀吉に頭を垂れた。

 

伊達政宗
  
伊達政宗
 
秀吉軍の補給部隊が続々と兵糧や物資を前線に届けていることを知る由もない北条氏は、秀吉がいっこうに包囲を解かないことに不安を抱き始め、当主・氏直は和平の道を探るが、あくまで徹底抗戦を主張する父・氏政らの反対で籠城は続けられる。

 

 

1590年、笠懸山の山頂に築いた石垣山城がわずか80日で完成すると、秀吉は周りの木を一斉に切り倒せと命じた。

 

すると、当時の関東では造られたことのない総石垣に白く輝く天守閣がそびえ立つ壮麗な城が、小田原城を見おろすように出現する。

 

一夜にして現れた巨大な城に北条氏は我が目を疑い「秀吉は天狗か神か」と怖れおののき、徹底抗戦を主張していた父・氏政もついに籠城を断念して、ついに北条氏は降伏し、100年の間、難攻不落を誇った小田原城が開城した。

 

 

秀吉は最後まで徹底抗戦を主張した北条氏政には切腹を命じるが、和議を主張した北条氏直は許して高野山に入れ、北条氏の領地を全て没収し、秀吉の夢である天下統一が事実上完成する。

 

石垣山城
 

1591年、秀吉は明(13681644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)の征服と朝鮮の服属を目指して肥前国に出兵拠点となる名護屋城(佐賀県唐津市)を築き始め、1592年、宇喜多秀家を元帥とする16万の軍勢を朝鮮に出兵した「文禄の役」は、初期は日本軍が朝鮮軍を撃破するが、明からの援軍が到着すると戦況は膠着状態となり、1593年、明との間に講和交渉が開始された。

 
文禄の役
 

1596年、明との講和交渉が決裂すると、秀吉は再出兵の号令を発し、1597年、小早川秀秋を元帥として14万人の軍を朝鮮へ再度出兵した「慶長の役」は、日本軍が「第一次蔚山城の戦い」で明・朝鮮軍を大破すると、64000の兵を拠点となる城郭群に残して防備を固めさせる。

 

その後「第二次蔚山城の戦い」「泗川の戦い」「順天城の戦い」においても日本軍が拠点の防衛に成功すると、秀吉は1599年の再出兵を計画し、それに向けて兵糧や玉薬などを備蓄するように諸将に命じたが、秀吉の死後、朝鮮半島の日本軍に帰国命令が発令された。

 

慶長の役
 

1598年、秀吉は京都の醍醐寺諸堂の再建を命じて庭園を造営し、各地から700本の桜を集めて境内に植えさせ、嫡男・秀頼や奥方達と宴(醍醐の花見)を楽しんだ。

 

その後すぐ、秀吉は病に伏せるようになり日を追う毎にその病状は悪化していき、自分の死が近いことを悟った秀吉は居城である伏見城(京都市伏見区桃山町)に徳川家康ら諸大名を呼び寄せ、徳川家康に対して幼い嫡男・秀頼の後見人になるように依頼する。

 

豊臣秀頼
  
豊臣秀頼
 

秀吉が61歳でその生涯を終えると、豊臣家の家督は豊臣秀頼が継ぎ、五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)と五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)がこれを補佐する体制が合意された。



 

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大石内蔵助 (兵庫)

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大石家は平安時代中期に平将門追討の功により貴族に成り上がった藤原秀郷の末裔小山氏の一族で、代々、近江国守護佐々木氏のもと栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)で現地の田荘などで実務を取りし切る下司職をつとめていた。

 
藤原秀郷
  
藤原秀郷

その後、大石氏は一時期没落するが、大石良勝(内蔵助の曽祖父)は大坂夏の陣での戦功が著しかったため、豊臣政権の五奉行筆頭・浅野長政の三男・浅野長重(浅野長矩の曽祖父)の永代家老(武家の家臣団のうち最高の地位)に取り立てられ、浅野長重の長男・長直が赤穂に転封されると大石家も赤穂に移る。

 

赤穂城

1659年、内蔵助は大石良昭の長男として誕生し、1673年に父が34歳の若さで亡くなると、内蔵助は祖父・良欽の養子となり、内蔵助が19歳の時に祖父・良欽が死去すると、その遺領1,500石を受け継ぎ、21歳の時に正式な筆頭家老となった。

 

 

平時における内蔵助は凡庸な家老だったようで、昼行燈(ぼんやりした人や役に立たない人をあざける言葉)とアダ名され、藩政は老練で財務に長けた家老・大野知房が牛耳っていたといわれている。

 

1686
年、内蔵助は但馬豊岡藩京極家筆頭家老・石束毎公の18歳の娘りくと結婚し、1688年には長男・松之丞(後の良金)を、1690年に長女くう、1691年に次男吉之進、また1699年に次女るり、さらに1702年には三男・大三郎(後に広島藩に仕える)をもうけた。

 

 

1694年、備中松山藩水谷家が跡継ぎが無かったため改易(身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること)となった際、内蔵助の主君・浅野長矩(あさのながのり)が城の受取りを任じられたため、内蔵助は改易への不満から徹底抗戦の姿勢を見せていた松山城(岡山県高梁市内山下)に単身入り、水谷家の家老・鶴見内蔵助を説得して無事に城を明け渡させる。


大石内蔵助3
 

1700年に浅野長矩が参勤交代(各藩の藩主を定期的に江戸に出仕させる江戸幕府の法令)により赤穂を発ち、浅野長矩は1701年に、東山天皇の使者達の接待役を幕府より命じられ、接待の指南役は高家肝煎(江戸幕府における儀式や典礼を司る)の吉良義央であった。

 

 

1701421(元禄14314)、幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた「勅答の儀」が執り行われるはずであったが、この儀式が始まる直前、江戸城松之大廊下において、接待役にある浅野長矩が吉良義央に対して「この間の遺恨覚えたるか」と叫び、脇差で斬りかかる。

 

脇差は本来突くほうが効果的であるため、浅野長矩は吉良義央の額と背中に傷をつけただけで致命傷を与えることはできず、側にいた梶川頼照が即座に浅野長矩を取り押さえた。


 

浅野長矩は取調べで刃傷に及んだ理由を「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので、この事件の原因は真相不明であるが、最も有力とされている説は、賄賂をむさぼるのが好きな吉良義央に対して浅野長矩が賄賂を拒否したために辱められたという「賄賂説」で、映画やドラマなどではこの説を採用するものが多い。

 

 

朝廷との儀式を台無しにされた第5代将軍・徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は大名としては異例の即日切腹を命じられ、さらにの赤穂浅野家はお家断絶となる。

 

一方で、吉良義央には何の咎めもなかった。

 

浅野長矩
  
浅野長矩

事件から2週間ほどで、次々と江戸から赤穂へ「刃傷事件」「浅野長矩切腹」「赤穂藩改易」といった情報が送られ、一通りの情報が揃うと、幕府の処置に不満で徹底抗戦を主張する篭城派と、開城すべきとする恭順派に分かれるが、赤穂藩士の多くは喧嘩両成敗の武家の定法に反する幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持つ。

 

 

こうした中、内蔵助は城をあけ渡した上で浅野長矩の弟・浅野長広を立てて「浅野家再興の嘆願」および「吉良義央の処分」を幕府に求めることで藩論を統一し、篭城殉死希望の藩士たちから「義盟」の血判書(誓いの強固さを示すため血液で捺印する)を受け取った。

 
浅野長直
  
浅野長広
 

さらに内蔵助は、赤穂藩改易のため紙くず同然になる藩札(江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣)を六分替え(額面の6割交換)という高い率で幕府の正規の貨幣(金・銀・銅貨)との交換に応じ、城下の混乱をおさえ、家中が分裂する危険の回避につとめる適切な処置を行う。

 

 

また、内蔵助は「浅野家再興」と「吉良義央処分」を求めた嘆願を再三行うが、赤穂城受け取りの使者に任命された隣国の龍野藩藩主・脇坂安照と備中足守藩藩主・木下公定率いる軍勢に赤穂城を明け渡すこととなる。

 

 

赤穂城退去後の内蔵助は、遠林寺(兵庫県赤穂市加里屋)において藩政残務処理にあたり、この間は幕府から29人扶持(一人扶持=米5俵で、1日あたり5合の1年分)を支給された。

 
遠林寺跡
 

残務処理を終えた内蔵助は生まれ故郷である赤穂を後にし、家族とともに京都山科で隠棲する。

 
山科は、内蔵助の母方の大叔父にあたる進藤俊式(進藤家は公家である近衛家の家臣の家柄で分家が浅野家に仕えていた)の親戚である進藤長之(近衛家家臣)が管理していた土地であった。

また、大津の錦織にいた母の叔父(阿波蜂須賀藩家老・池田玄寅)の子・三尾正長からの資金援助を受ける。


京都山科
 
そして、京都東山の来迎院(泉涌寺塔頭)の住職・卓巖和尚が大石家の外戚にあたり、内蔵助はこの人物を頼って来迎院の檀家(寺の会員のようなもの)となって寺請証文(寺院が檀家に対して発行した文書で身分証明書となった)を手に入れた。

 

こうして内蔵助は、山科の居宅と来迎院を行き来し、旧赤穂藩士たちと密議をおこない浅野家再興を目指す。


来迎院

この頃、浅野家遺臣達の意見は二つに分かれはじめる。

 

一つは奥野定良・進藤俊式・小山良師・岡本重之ら赤穂詰めの高禄取り家臣を中心とした「お家再興優先派」で、もう一つは堀部武庸・高田郡兵衛・奥田重盛ら江戸詰めの腕自慢な家臣を中心とした「吉良義央への仇討ち優先派」であった。

 

 

リーダーである内蔵助は、どっちつかずの態度で分裂を回避しながら、実際にはお家再興に力を入れて「吉良義央への仇討ち優先派」にしかるべきタイミングを待つよう促すという立場をとる。


堀部武庸
  
堀部武庸

しかしながら、お家再興よりも吉良義央の首を挙げることを優先する堀部武庸らからは再三にわたり江戸へ来るようにとの書状を送りつけられたため、内蔵助は「吉良義央への仇討ち優先派」をなだめるために原元辰・潮田高教・中村正辰・進藤俊式・大高忠雄らを江戸へ派遣するが、派遣した彼らは逆に堀部武庸に論破されて「吉良義央への仇討ち優先派」になってしまったため、内蔵助自身が江戸へ向かうことになる。

 

 

内蔵助は前川忠太夫宅(東京都港区三田)で堀部武庸と会談し、浅野長矩の一周忌での決行を約束した。

 

江戸での用事を済ませた内蔵助は京都へ戻り、盟約に加わることを望む長男・大石良金(おおいしよしかね)の参加を認める。

1702年、妻りくをはじめとする大石良金以外の家族を妻の実家である豊岡へ帰す。


大石良金
  
大石良金
 

そしてこの頃から内蔵助は、吉良家や上杉家(米沢藩の第4代藩主・上杉綱憲は上杉氏に養子入りした吉良義央の長男)の目を欺くため遊廓などでの遊びが激しくなった。

 

 

また、徐々に脱盟者も出始め、その一人は「吉良義央への仇討ち優先派」の中心人物であった高田郡兵衛だったため、面目を失った「吉良義央への仇討ち優先派」は発言力を弱らせ、内蔵助はこれをチャンスと「浅野長広(浅野長矩の弟)に浅野家を継がせるかどうかの幕府の判断が決まるまで仇討ちはしない。」ということを決定する。

 

 

しかし、吉田兼亮と近松行重を江戸に派遣して「吉良義央への仇討ち優先派」にその決定を伝えさせると「吉良義央への仇討ち優先派」は納得せずに堀部武庸が京都へ乗り込んで来た。

 

 

そして、ついに幕府は浅野長広が浅野家を継ぐことを認めず、浅野長広を広島藩お預かりとすることを決定し、これにて「お家再興」は絶望的となった。

 

 

お家再興が絶望的となり、幕府への遠慮が無用となった内蔵助は、堀部武庸なども呼んで会議を開催し、吉良義央を討つことを決定する。


大石内蔵助2
 

討ち入りを決定した内蔵助は、盟約の当初に提出させていた誓紙を一人一人に返し(神文返し)、死にたくない者は脱盟するようにと促すと、奥野定良・進藤俊式・小山良師・岡本重之・長沢六郎右衛門・灰方藤兵衛・多川九左衛門ら「お家再興優先派」が続々と脱盟していき、最大で約120人いた参加者から約60人が脱落した。

 

 

内蔵助は軽部五兵衛宅(神奈川県川崎市幸区平間)に滞在して、ここから同志達に第一訓令を発してから江戸に入り、息子・大石良金が滞在中であった日本橋近くの旅館・小山屋(東京都中央区日本橋本町)の裏店を拠点に定めると、同志に吉良邸を探索させ、吉良邸絵図面を入手する。

 

 

また吉良義央の在邸確実の日を知る必要もあった。

内蔵助は1214日に吉良邸で茶会がある情報を入手し、この茶会の予定日が確かな情報と判断すると、討ち入りを同日夜に決定する。

 
吉良義央
  
吉良義央
 

122日に深川八幡の茶屋で全ての同志達を集結させ、討ち入り時の武器・装束・所持品・合言葉・吉良の首の処置などを事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない。」ことを確認し、これが最終会議となった。

 

 

 

1215日未明、47人の赤穂浪士は吉良屋敷に討ち入る。

 

表門は内蔵助が大将となり、裏門は大石良金が大将を務めた。

2時間近くの激闘の末に、赤穂浪士達はついに吉良義央を探し出し、これを討ち果たして首を取る。


大石内蔵助4

見事に主君の仇討ちを成し遂げた赤穂浪士一行は江戸市中を行進し、浅野長矩の墓がある泉岳寺へと引き揚げると、吉良義央の首を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。

 

 

その後、吉田兼亮・富森正因の2名が赤穂浪士一行と別れて大目付・仙石久尚の屋敷(東京都港区虎ノ門)へと向かい、自首手続きを行うと、幕府から石川弥一右衛門・市野新八郎・松永小八郎の3人が泉岳寺へ派遣され、内蔵助ら赤穂浪士一行は彼らの指示に従って仙石久尚の屋敷へ移動する。

 


幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、内蔵助は肥後熊本藩主・細川綱利の屋敷(東京都港区高輪)に預けられ、大石良金は伊予松山藩主・松平定直の屋敷(東京都港区三田)に預けられたため、この時が親子の今生の別れとなった。

 

細川綱利邸
 

仇討ちを義挙とする圧倒的な世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした将軍の御用学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)などの意見から切腹が決定し、赤穂浪士を預かっている4大名家に切腹の命令がもたらされる。

 
大石内蔵助の切腹

同日、幕府は吉良家当主・吉良義周(吉良義央の養子)の領地没収と信州配流の処分を決定。

 

 

内蔵助は細川家家臣の安場一平の介錯で切腹し44歳で生涯を終える。

その亡骸は主君・浅野長矩と同じ泉岳寺(東京都港区高輪)に葬られた。




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聖徳太子 (奈良)

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かつて、大王と呼ばれた天皇と有力な豪族によって統治されていた倭国・大和王権は、現在の奈良県明日香村をその拠点としていた。

 

574年、聖徳太子(厩戸皇子)は天皇家の皇子として生まれる。

 

585年、物部氏や蘇我氏に擁立され聖徳太子の父・用明天皇が即位。


用明天皇
  
用明天皇
 

物部氏は古くから王権に仕えてきた豪族で、軍事と神事を司り、古の神々を祀る儀式は大和王権の政治と強く結びついていた。

 

蘇我氏を率いる蘇我馬子(そがのうまこ)6世紀の半ば朝鮮半島の百済から倭国にもたらされた仏教を信仰し、この外来思想をもとに新たな国造りを目指して権力の拡大を目論んでいた。

 

 

物部氏と蘇我氏はそれぞれ天皇家と深いつながりを持ち、皇位継承にも大きな影響力を持つ二大勢力として対立。

 

 

物部氏の実力者である物部守屋(もののべのもりや)は仏を異国の神として排斥して、当時に流行した疫病の原因も蘇我氏が仏教を信じたためとし「聖徳太子絵伝」には物部守屋が蘇我氏の建立した寺院を焼き払う場面が描かれている。

 

物部守屋
  
物部守屋

587年、用明天皇が即位後わずか2年で病に倒れて崩御すると、物部氏と蘇我氏が倭国の主導権を巡って全面対決する日がやってきた。

 

 

この古くからの神々を奉じる物部氏と新たな思想である仏教を奉じる蘇我氏の戦いで、仏教を厚く信仰する伯父・蘇我馬子を通じて仏教に出会った聖徳太子は蘇我軍の一員として参戦する。

 

 

激闘の末、戦いは蘇我軍の勝利に終わったが、長く激しい戦いに民は傷つき、血で血を洗う権力抗争のなかで死んでいく者達を目の当たりにした聖徳太子は、仏教の教えとは程遠い過酷な現実を知った。

 

聖徳太子伝
 
政治の実権を握った蘇我馬子は甥にあたる崇峻天皇を即位させるが、崇峻天皇が徐々に蘇我馬子が大和王権を牛耳っていることに不満を漏らすようになると、蘇我馬子は配下の者に崇峻天皇を亡き者にするよう命じ、592年、崇峻天皇が暗殺される。

 

 

続いて蘇我馬子は聖徳太子の叔母にあたる推古天皇を即位させ、大和政権が始まって以来、初の女性天皇が誕生した。


推古天皇
  
推古天皇
 

593年、20歳となった聖徳太子は推古天皇のもとで摂政に任じられ、蘇我馬子と共に政治を担う立場となる。

 

この時、聖徳太子は「太陽や月は、天上にあって大地をあまねく照らす。政をおこなう者が、太陽や月のようにあまねく国を照らすものとならなければ、幸福な国を創ることはできない。」と決意の言葉を残した。

 

聖徳太子3
 

この頃、東アジアでは300年以上も分裂していた中国が「隋」によって統一されるという大きな変化を迎え、これは稀にみる巨大帝国の出現であり、朝鮮半島の国々や倭国にとって存亡に関わる出来事となる。

 

 

「隋」の都・長安(現在の西安)は碁盤の目のように整然と道路が敷かれ、壮麗な建造物が建ち並び、世界でも稀にみる大都市であった。

 

 

中国との関係が深い朝鮮半島の高句麗・百済・新羅は、この「隋」という脅威が誕生すると、すぐさま使者を送って君臣関係を結ぶ。

 

 

倭国は中国とは100年以上に渡って正式な国交を結んでいなかったため、巨大帝国「隋」出現にどのような対応をすべきか検討するための情報が不足していた。


長安
 

聖徳太子は高句麗からやって来た慧慈(えじ)という僧侶から、長安では広大な寺院がいくつも建立され、高度な建築や装飾工芸の技術が発達し、絵画や彫刻などの美術も盛んになり、多彩な仏教文化が花開き、「隋」の初代皇帝・文帝(楊堅)は仏教を保護する国造りを進めていることを聞く。

 
文帝
  
文帝


聖徳太子は寺院建立や仏像鋳造など様々な技術を倭国に伝えた仏教と同様に、中国や朝鮮半島では政治家や役人の道徳・倫理を説く思想として尊ばれていた儒教も学んだ。

 

 

「隋」は官僚制度が整えられ、強固な中央政権国家が成立し、その官僚の規律として儒教が導入され、仏教や儒教を重んじる先進的な国であった。

 

 
一方で、倭国の政治制度は重要な事柄は中央の有力豪族の思惑で決められ「隋」の進んだ制度とは程遠いもので、多くの民が貧しく苦しい生活を余議なくされ、その現実は聖徳太子が思い描いた慈悲の心で民をあまねく照らすものとはかけ離れていた。

 

「聖徳太子伝暦」では、聖徳太子は飢えた民と出会うと、自ら衣をぬいで、その民の身を覆い「かわいそうに、どんな境遇の人なのだろう。この道ばたで行き倒れた人は。」と嘆く場面が描かれている。

 

奈良県明日香村
 

598年、高句麗が「隋」の支配地域に侵入し、激怒した文帝は直ちに高句麗に大軍を差し向けると、強大な「隋」の軍隊を前に高句麗は屈服する。

 

 

朝鮮半島の国々と深い関係にあった倭国にとって、大国「隋」の朝鮮半島への影響力の増大は脅威であり、友好関係を結ぶ必要に迫られていた。


高句麗
 

600年、聖徳太子は120年ぶりに倭国の使者を中国に派遣(第一回遣隋使)する。

 

「隋」の役人は倭国の使者に対して「倭国ではどのように政治がおこなわれているのか。」と問うと、倭国の使者は王の権威を強調しようと思うあまり「倭国の王は、天を兄とし、太陽を弟とする。王は、兄である天が明るくなるまで王宮で政をおこない、弟である太陽が昇ったあとは政をしない。」と、古くから伝わる神話をそのまま持ち出して答えた。

 

 

これを聞いた文帝は、倭国は神話を語る政府機構のない国だとあきれ、外交を結ぶような相手ではないとバカする。

 

 

聖徳太子はこの屈辱的な外交失敗から大きな改革に乗り出していく。

 

第一回遣隋使
 

603年、聖徳太子は「冠位十二階」を制定する。

 

聖徳太子は冠位を表す名称に儒教の徳目を表す6つの言葉をさらに大小に分けて「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」12の冠位を作り、これは豪族のなかから一族の地位や血縁に関係なく、実力のある者を登用し、位を授けるという革命的な制度であった。

 

聖徳太子は豪族が支配する倭国を官僚が政治を取り行う国へ変え、その結果、中央集権国家の基礎が形づくられていく。

 

 

さらに聖徳太子は明日香の地に新たな宮殿「小墾田宮(おはりだのみや)」建造し、この小墾田宮は朝庭と呼ばれる儀式を執り行う場と上級の官人達が毎朝出勤する庁(まつりごとどの)と呼ばれる建物が造られた。

 

小墾田宮1
 

そして604年、誕生したばかりの官僚がどのように行動するべきか、その規則や道徳を示す「憲法十七条」が完成する。

 

聖徳太子はこの「憲法十七条」に理想国家実現への願いを込め、仏教や儒教などの思想を学んだことを活かして官人がいかに正しく政治を行うか具体的に記した。
 

「官人は、朝早く出勤し、夕方は遅く退出せよ。公の仕事には、暇はない。」


「官人たるもの、貪りを絶って、欲を棄て、民の訴えを公正に裁かなければならない。私利私欲や賄賂によって判断を誤るようなことは、官人にあらざる行いである。」


「すべての官人は、礼の精神を根本とせよ。上に立つ官人が礼をもてば、世が乱れることはない。官人に礼あれば、民も必ず礼を守り、国家は自ずと治まる。」

 
小墾田宮2

また仏教の教えに従い行いを正すことも説く。


「篤く三宝を敬え。三宝とは、仏、経典、そして僧である。人間は極悪の者はまれである。教えられれば、道理にしたがうものである。仏の教えを篤く敬えば、よこしまな心や行いを正すことができる。」

 
 

そして人と人との関わりについて持つべき心の有り様を示す。


「こころのいかりを絶ち、人の違うことを怒らざれ、人皆心あり。我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚かにあらず。共にこれ凡夫。ここをもちて、かの人いかるといえども、かえりて我が失ちを恐れよ。」

 

 

幼い頃から、豪族達の凄惨な争いや骨肉の王位継承争いを間近に見てきた聖徳太子は、己の利や一つの考えに囚われれば必ず争いが起こることを知り、仏教、儒教、外来の思想や法律など優れたものを分け隔てなく「憲法十七条」に採り入れた。

 

聖徳太子4
 

第一回遣隋使の屈辱以来、聖徳太子は「冠位十二階」「憲法十七条」「小墾田宮の建設」など着々と改革を進め、今こそ再び大国「隋」に使者を送り、国交を取り結ぶべき時と決断する。

 

 

聖徳太子が使者に抜擢した小野妹子は、有力な豪族ではなく、能力によって「冠位十二階」の「大礼」の位を授かった人物であった。

 

小野妹子
  
小野妹子
 
607年、二度目の遣隋使が倭国を旅立ち「隋」へと向かう(第二回遣隋使)

 

この時、小野妹子は倭国の国書を携え、そこには「日出づる処の天子、書を日没する処の天子へ致す。つつがなきや。」と、まるで倭国と「隋」が対等以上かであるように記されていた。

 

倭国の国書を読んだ二代目の皇帝・煬帝は「世界に天子はこの煬帝ただ一人、倭国の無礼な使者は二度と取り次いではならない。」激怒する。

 

 

しかし、この時「隋」は高句麗との戦争が再び目前と迫っていたため余計な敵を増やしたくないという事情があり、さらに、小野妹子が公式の冠位を持つ使者であったため倭国が官僚制度を整えた国家に成長していることを知り、倭国を外交交渉が可能な相手と認めた。

 

煬帝
  
煬帝
 
608「隋」の使者が初めて倭国の地を訪れる。


「隋」の使者は倭国に敬意を払い、
4回深々とお辞儀をする倭国の作法をとって、小墾田宮で煬帝の国書を読み上げた。

 

 

それは屈辱の第一回遣隋使から8年、アジアの大帝国「隋」が聖徳太子の改革によって生まれ変わった倭国を公式に認めたといえるものである。

 

聖徳太子1
 

聖徳太子は若い頃から大切にした仏教の慈悲の心を形にし、薬を作る施薬院(せやくいん)、病んだ者を治療する療病院(りょうびょういん)、飢えた者を養う悲田院(ひでんいん)、悪を絶ち善を修める敬田院(けいでんいん)などの施設を建て、民の救済に力を尽した。

 

奈良県明日香村2

605年から現在の法隆寺のあたり斑鳩(いかるが)に居を構え、仏教の経典の研究に没頭していた聖徳太子は、622222日、48歳で病に倒れ、理想国家の建設に捧げた生涯を終えた。

 

「日本書記」ではこの時の様子を「日月、輝きを失い。天地、既に崩れぬ。」と記している。




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徳川 吉宗 (和歌山)

徳川吉宗700x1000

徳川御三家の一つ紀州徳川家の城下町であった和歌山県和歌山市は、江戸時代の人口は
55000人で京都、大阪、奈良などに次ぐ賑わいをみせていた。

 

1684年、紀州藩2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。

 

元服後の吉宗は城下で最も賑わった寄合橋界隈に居を構えた。


和歌山市
 

吉宗が育ったのは元禄時代は、大商人達が湯水のように金を使い、歌舞伎や浄瑠璃などの娯楽がもてはやされ、日本は空前の好景気に沸き、そんな太平の世で吉宗も和歌山城下の繁華街で家臣達と、よく食べよく遊びながら実社会の成り立ちを感じ取っていく。

 

 

しかし、一方で、紀州藩は派手な結婚式や将軍家との交際に費用がかさみ、深刻な財政難に陥っていた。

 

さらに、江戸の藩邸が度重なる火事に見舞われ、再建に莫大な費用がかかり、日照りや干ばつなど災害も相次ぎ、紀州藩は幕府から10万両(現代の貨幣価値でおよそ100億円)という莫大な借金を背負う。

 

和歌山城
 
1705年、吉宗の兄達が相次いでこの世を去ったため、22歳の吉宗が紀州藩第5代藩主を務めることになった。

 

 

吉宗はさっそく藩財政の建て直しに取り掛かかり、倹約第一を掲げて、自ら率先して食事を質素なものにし、酒の量も制限する。

 

さらに吉宗は荒れ地を切り開いて水田とするために大規模な治水工事を行い、この工事では木の樋(水を通すための溝または管を樋という)をもちいて水路を川の上に通す画期的な技術がもちいられた。

 

出来あがった小田井用水は全長30kmにおよび、新しい水田は豊かな実りをもたらし、年貢米の増加となって藩財政を潤し、吉宗は藩主となって12年で藩の借金を返済し、そのうえで14万両の金と116000石の米を蓄えるまでに至る。

 

小田井用水1

吉宗は支出を減らし収入を増やすという極めてオーソドックスな方法で財政再建を成し遂げた。

 

幕府の学者・室鳩巣(むろきゅうそう)は「吉宗はことに優れた名君だと噂され人々の信頼も厚い。」と、吉宗を高く評価した。

 

 

その頃、江戸城では、まだ8歳の第7代将軍・徳川家継が重い病気にかかり、明日をも知れぬ命と言われていたため、次の将軍を誰にするかが話し合われ、吉宗にその白羽の矢が立つ。

 

1716年、吉宗33歳、御三家からの将軍就任という前例のない大抜擢で、第8代将軍となった。

 

徳川吉宗2
 

しかし、将軍に就任して間もなく、吉宗は蓄えが底をつき、商人達への借金が積み重なり、すでに幕府の財政が崩壊状態であることを知る。

 

 

財政再建に取り組む決意をした吉宗は、紀州藩の時と同じように、食事は自ら率先して一日二食、オカズは二品、それ以上は「腹のおごり」と戒める倹約第一を掲げた。

 

さらに大奥に命じて美女50人を選抜し、着飾って現れた絶世の美女達に対して吉宗は「美人なら暇を出しても、その後、引く手数多であろう。」とリストラを敢行し、経費削減をする。

 
大奥
 

一方で、好景気に沸いた元禄時代、金銀が町に溢れ、物価は異常な値上がりが続くインフレ状態となっていた。

 

1718年、物価を下げるには金銀貨幣の量を減らせば良いと考えた吉宗は、世の中に出回る古い貨幣を回収するように命じ、数年のうちに通貨の量を3分の2にするという極端な金縮政策を取り、物価はやがて落ち着きを取り戻す。

 

 

続いて吉宗は、幕府の収入増加のためにこれまた紀州藩の時と同じように、関東平野を始め各地で治水工事を行って新田開発をする。

 
見沼代用水1

吉宗が作らせた全長60kmにも及ぶ江戸時代最大規模の農業用水路である見沼代用水は、パナマ運河のように高さの違う二つの土地を水路で結ぶという画期的なもので、さらに通船堀と呼ばれる船を通すための堀も作られ、物資の運搬にも利用された。

 

こうして切り開かれた水田からの年貢米は年々増加し、1722年、長年積み重なっていた幕府の債務16万両が完済される。

 

見沼代用水船堀
 
吉宗の経済政策は紀州藩の時のように成功したかに思われたが、米の生産量が大きく上がると米の値段は下がり、4年間で40%もの暴落をした。

 

そして、この米の値崩れが武士の生活を困窮させることになる。

 

江戸時代、武士は毎年決まった量の米を俸禄(給料)として受け取り、その米を売ることで金銀貨幣を手に入れて生活必需品を買っていたため、武士にとって米の値段が下がることは実質収入の減少を意味した。

 

 

武士の収入が大幅に減少すると、消費は大きく冷え込み、瞬く間に深刻な不景気が全国を直撃する。

 

 

紀州藩では成功した吉宗の政策が裏目に出たのは、藩内だけの増産の場合は増産分が他藩への輸出分に出来たが、将軍となって全国的な増産をすると全国的に米余り状態となり、それが米の価格を下げるという結果になった。


 

労働の価値よりも希少価値が力を持つ市場経済において、全国規模での過当競争がこういった結果を招くことは、現代なら常識であったが、吉宗の時代はまだ市場経済が産声を上げたばかりなのである。

 

徳川吉宗
 

天下の台所といわれ全国の物資の集散地として栄えていた大阪の中之島には、諸藩の蔵屋敷が集まり、商人を通じて年貢米の販売が行われ、ここで取引される値段が全国の米の値段を左右した。

 

米の値段を引き上げたい吉宗は、江戸から御用商人(幕府や諸藩に様々な特権を認められた商人)を大阪に送り込んで、米市場をとり仕切らせて相場の操作を目論んだ。

 
中之島
 

しかし、実勢とかけ離れた高い値段で取引をしようとしても無理があり、さらに1730年、江戸町奉行・大岡忠相(通称・大岡越前)のもとを大阪の商人達が陳情に訪れ「諸国の米商人達は幕府が開く米市場を敬遠するので、大阪で取り引きをしなくなってしまった。扱う米が無いので、大阪の仲買商人は商売が成り立たず生活に困っている。」と訴えたため、吉宗は大阪の米商人に自由な商いを認めざるを得なくなる。

 

 

そうして、米の値段は下落を続け、一石30匁を割り、10年前の3分の1にまで価格を落とした。

 

そこで、吉宗は米を買い占めることで相場のつり上げることを考え、28万石ともいわれる米を買い上げる。

 

さらに、1731年には加賀藩から15万両を借りてまで米の買い占めを続けた。

 

しかし、思ったほどの効果はなく、米の値段に一喜一憂する吉宗は、いつしか「米将軍」と揶揄させるようになる。

 

もはや相場は幕府一藩がどんなに金をつぎ込んでも動かせるような規模ではなくなっていた。

 

堂島
 

1732年、梅雨からの長雨が約2ヶ月間にも及ぶ冷夏とイナゴやウンカなどの害虫が大発生し、稲作に甚大な被害をもたらしたことにより西日本一帯で、200万人が飢えに苦しみ、12000人が餓死する「享保の大飢饉」が発生する。

 

吉宗は直ちに東日本の米を西日本にまわすように指示し、さらに幕府の蔵を開け95000石の米を送り、また、20万両あまりを投じて被災地の救済も指示した。

 

 

米余りから一転して、深刻な米不足が生じたことで、皮肉にもこの年、米の値段は一気に急騰して一石100匁を越える。

 

「享保の大飢饉」救済のために幕府の財政は再び傾きはじめ、吉宗の改革は頓挫しようとしていた。

 
享保の大飢饉
 

1734年、吉宗が将軍になって19年目の年、飢饉の年にいったんは高騰した米の値段は再び下がり始め、一石あたり40匁を割るまで値段を下げる。

 

 

そんな時、江戸町奉行・大岡忠相が吉宗に「米の値段を上げるには貨幣を増発して、世の中に出回る通貨の量を増やすしかない。」と進言するが、それはこれまでの幕府の政策を180°転換せよというものであり、物価の値上がりに苦しんだ経験のある幕府にとって容易に決断できるものでなく、吉宗は大岡忠相の進言を却下した。

 

 

しかし、その後も米の値段が上がるようなことはなく、不景気はさらに深刻なものとなると、1736年、大岡忠相は再び吉宗に「通貨の量を増やさなければ、米の値段は上がらない。」と強く迫る。

 

大岡忠相
   
大岡忠相

通貨の量を増やせば世の中は乱れるかもしれない、しかし、このままでは米の値段は上がらず、人々は苦しみ、幕府財政も建て直せないと判断した吉宗は、ついに通貨の増発の決断をした。

 

 

貨幣鋳造の総責任者には大岡忠相が任命され、さっそく新しい貨幣「元文金銀」の鋳造が開始されると、吉宗の命令から1カ月後には続々と「元文金銀」が世の中に出回り始め、その発行量はそれまでの貨幣の2倍近くにまでなる。

 

 

すると、米の値段は次第に上昇し始め、やがて、一石60匁ほどに落ち着き、ようやく不景気は終わりを告げた。

 
元文小判
 

貨幣改鋳の2年後、大岡忠相は日記に「ようやく最近になって米の値段がよろしくなった。武士達の暮らし向きも良くなり、町人達も仕事に励むことができるようになった。」と記している。

 

 

吉宗の言葉を伝える「紀州政事鏡」には「誤りを知るを真の人という。」という言葉が記されている。

 

政治家という民の運命を背負う責任ある者は、間違えたら切り替えるという困難な思考・判断が必要であり、吉宗は過去の成功体験が通用しないことや過去の不況の原因が今度は特効薬になることを受け入れることが出来た。

 

そんな誤りを知る者だったからこそ吉宗は、米経済から通貨経済への時代の移り変わりに見事に対応することが出来たのである。

 
米俵
 

1751年、吉宗は66歳でこの世を去り、その墓は寛永寺(東京・上野)の第5代将軍・徳川綱吉の廟の中に建てられた。

度重なる財政再建でまず倹約第一から始めた吉宗らしく、自分のための新しい廟を決して作らせないように言い残していたからである。




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藤原 道長 (京都)

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10世紀後半の京の都では天皇を中心に貴族達による政治が行われていた。

 

貴族はおよそ150人で、その一握りの上位20人が公卿(左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議)と呼ばれて国政を司り、こうした公卿の座を巡って、貴族達の間では激しい抗争が繰り広げられる。


京都

数々の陰謀を働かせた結果、公卿の大半を占めるに至った藤原氏は、今度は次第に一族同士で相争うになっていった。

 

 

966年、道長は藤原兼家の五男として京都に生まれる。

 

道長の父・兼家は実の兄である藤原兼通との出世争いで不遇な目にあいながらも、そこから這い上がり、朝廷での権力を築き上げ、右大臣にまで出世した人物であった。

 

道長はこうした一族の骨肉の争いを目の当たりにしながら、どうして肉親同士で争わないとならないのかと苦悩しながら育つ。

 
藤原兼家
  
藤原兼家


父・兼家の五男であった道長は病弱であったこともあり、兄達を差し置いて朝廷で昇進することをあまり意識していなかった。

 

 

しかし、987年、道長が22歳の時、左大臣・源雅信の娘・倫子(りんし)との結婚という大きな転機が訪れる。

 

この当時の結婚は、夫が妻の家に入る「婿入り婚」であったため、妻の家柄が夫の将来を大きく左右し、道長も結婚によって倫子の父・源雅信が所有する莫大な財産と名誉を手にすると、計らずとも出世の糸口を掴むことになった。

 

988年、道長は参議を飛び越して権中納言となって、公卿の一員に加わる。

 

藤原道長
 
それから7年後の995年、疫病が全国で蔓延し始め、朝廷でもわずか3カ月のうちに道長の兄を含む7人の公卿達が次々に亡くなった。

 

これによるポストの欠員から、権大納言の道長と内大臣・藤原伊周(ふじわらのこれちか)の二人が次の政権トップを担うと目されるようになる。

 

藤原伊周は道長より上位だが、道長から見て甥(道長の兄・道隆の嫡男)であった。


 

間もなく、朝廷で新たな人事が発表されると、道長は右大臣に昇進、伊周は内大臣に留任となり、道長は伊周を抜く。


一条天皇の母・詮子
(せんし)は道長の姉で、甥の伊周よりも弟の道長の昇進を一条天皇に強く訴えかけていたことが、この逆転劇に大きく影響した。


一条天皇
  
一条天皇

最高職である左大臣が空席だったため、道長は30歳で事実上の政権トップへと登りつめる。


 

しかし、当時の藤原一族・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が書き綴った日記「小右記」では、道長に出世で追い越されて憤る伊周の行動が記されており、この人事は大きな波紋を広げた。

 
藤原実資
   
藤原実資


995
年、御所で伊周が道長と乱闘さながらの口論となり、さらにその3日後、道長と伊周の従者同士が衝突し、道長の従者が殺される。

 

 

しかし、これに対してもし、伊周に制裁を加えれば、父・兼家のように一族を骨肉の争いに巻き込んでしまうと考えた道長は、報復のための行動を取らなかった。

 

 

996年、藤原為光の四女に通う花山法皇を、伊周は自分の想い人である藤原為光の三女が目当てと誤解して矢を放つという乱心行為を起こし、大宰府への流罪となった。

 

 

伊周の失脚後、道長はそれまで空席だった左大臣に昇格し、数々の幸運が続いた結果、名実ともに政権トップの座が転がり込んで来る。

 

 

穏やかな政治を目指し、一族同士が争うことのない政権をいかにして作るか考え続けた道長は、実はその生涯で陰謀を働いたことがなかった。

 

京都2
 

左大臣に就任してから20年に渡って道長が綴った日記である国宝「御堂関白記」は、そのほとんどが朝廷の日々の出来事に対する簡潔な内容であるが「(道長の娘・彰子)産気づく、午の刻、ヘソの緒を切る。」など、天皇家に嫁がせた娘達に関する事はイキイキと詳しく書き留めている。

 

 

自分の娘が産んだ皇子が天皇に即位すれば、道長の血を引く天皇が生まれることになり、道長は孫である天皇の権威を背景に長期安定政権を築くことを考えるようになった。

 

道長は天皇家との間に外戚(母方の親族)関係を築くことに執念を燃やし、朝廷での地位を確固たるものにしようとする。

 

藤原道長1
 
999年、道長の長女12歳の彰子(しょうし)20歳の一条天皇に嫁ぐ。

この時、一条天皇には正室の定子と側室が他に3人いたが、一条天皇の寵愛はとりわけ定子へ向けられていた。


 

一条天皇は彰子の寝所には寄りつかず、嫁いでから5年が過ぎても彰子が身ごもる気配はなく、道長は焦りを覚えるようになる。

 

源氏物語
 

そこで道長は、源氏物語の作者としてその教養の高さがすでに宮中で評判となっていた紫式部に彰子の教育を委ね、妃としての魅力を養うことで、向学心の高い一条天皇の気を引こうとした。

 

彰子のもとには、紫式部の意向に従って漢籍や古今東西の珍しい書物が揃えられ、一条天皇はその書物に興味を持ったことをキッカケに彰子のもとへ通うようになっていく。

 

1008年、彰子が一条天皇に嫁いでから9年、ついに彰子と一条天皇との間に皇子・敦成(あつひら)親王が産まれる。

 

 

天皇との血縁の濃さがそのまま発言力となったこの時代、道長は自らの政権を安定させるキッカケを掴み、その喜びは尋常ではなかった。

 

紫式部
  
紫式部
 

1011年、一条天皇が病のために32歳の若さでこの世を去ると、次の皇位に就いたのは道長の姉・超子と冷泉天皇との間に生まれた三条天皇となる。

 

しかし、道長の意向が認められて皇太子は敦成親王になり、道長は次の皇位が自らの孫に約束されたことでひとまず安心した。

 

ところが、さらにその次の皇太子の座を巡り、道長と三条天皇の思惑がぶつかる。

 

三条天皇は次の皇太子には自分の皇子をと考えていたが、道長はもう一人の孫・敦良(あつなが)親王を立てることを望んだ。

 
三条天皇
  
三条天皇
 

自分が生きているうちに2代先の皇太子まで決めておきたいと考えた道長は、なんと三条天皇に譲位を迫るという強引な行動に出る。

 

三条天皇は憤慨して「私に対する左大臣の無礼な態度は甚だしく、寝食もままならないほどで憂鬱極まりない。」と当然のごとく譲位には応じないが、道長は計5回も三条天皇に譲位の要求を突き付けた。

 

 

1015年、御所が2度に渡って焼け落ち、公卿達は口々に「天下滅亡の時が来た。」と怯え出す。

 

これを好機と見た道長は「火事は天皇の不徳が招いたものとせん。」と三条天皇に強く譲位を迫り、ついに三条天皇は道長に屈して譲位の要求を呑んだ。

 

 

1016年、道長の孫・敦成親王が後一条天皇として皇位を継ぎ、悲願であった天皇の外戚となった道長は、この日の日記に「天晴(てん はれ)。」と記している。

 
御堂関白記
 

さらに一年後、道長は思惑通り、もう一人の孫・敦良親王を皇太子とすることに成功し、これによって後一条天皇に続いて、その次の天皇も自分の孫となることが約束された。

 

 

一方で、この頃52歳となっていた道長は、老いと病から激しさを増す胸の痛みに死期を感じ始め、自らの死後も末永く政権を安定させたいと強く願うようになる。


 

そこで道長は、天皇の外戚が他に出現しないように、なんと孫である後一条天皇の妃に自分の娘・威子を立てようとした。


公家の間で近親婚はそれほど珍しいことではないが、さすがに甥と叔母の結婚は当時でも極めて異例である。

 

平安京

10181016日、政権安定にこだわる道長の執念が実り、威子が後一条天皇の妃となった。

 

道長の娘と孫が夫婦になったその日の夜、道長は宴の席で居合わせた公卿達を前に歌を読んだ。

 

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」

 

藤原道長3
 

1019年、道長は病からの救いを求めるかのように出家し、日記から最後の一月はひたすら念仏を唱え続ける日々であったことが分かる。

政権の最高権力を手に入れた道長も、その晩年は一人のか弱い病人であった。

 

1027年、道長は61歳でこの世を去る。

 
 

 

後一条天皇から三代に渡って道長の孫が皇位を継承し、この間に、それまで長いこと続いていた権力抗争は終わりを告げ、かつてない長期安定政権を迎えた朝廷では王朝文化が花開いた。

 
京都3
 

道長の天皇家との婚姻戦略は、政治的にだけではなく、文学の面でも平安を生み出したのである。




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平 清盛 (京都)

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1118年、伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれる。

 

 

1156年、権力を一手に握っていた鳥羽法皇の死後、後継の座を巡り対立を深めていた後白河天皇と崇徳上皇には、それぞれの陣営に警護役である武士達が連なり、双方の武力衝突に至った「保元の乱」において、平氏の頭領であった清盛は後白河天皇側についていた。

 

 

崇徳上皇は寝静まる夜明け前に館(白河殿)に火をかけられ、駆け引きをする間もなく勝負は決し、その結果、崇徳上皇は讃岐に流さる。

 
保元の乱
 

勝者である後白河天皇側の清盛は、播磨守となり、さらに大宰府(現在の福岡県太宰府市)の次官にも任じられ、これが武士である清盛が権力の階段を登る第一歩となった。

 

播磨国(現在の兵庫県南部)は都と西国を結ぶ瀬戸内海の要衝であり、大宰府は中国大陸への窓口であったため、後の清盛にとってこの二つを得たことは大きな意味を持つ。

 
大宰府
 

一方で「保元の乱」を制した後に上皇となった後白河天皇は、一部の武士を寵愛したため、朝廷内に新たな対立が生まれることになる。

 

「保元の乱」から3年後の1159年、二つに分かれた貴族勢力とともに武士も両派に分かれた。

 

西国に拠点を持つ清盛率いる平氏と東国に基盤も持つ源義朝率いる源氏、「保元の乱」では協力し合って崇徳上皇軍を倒した両者が力と力で激突する。

 

 

源義朝は清盛が京都を留守にしている隙に、まず16歳だった二条天皇の身柄を確保、さらに後白河上皇も御所に幽閉し、優勢に争いを進めた。

 
源義朝
  
源義朝


その時、都を離れて紀伊半島の熊野へと向う途中であった清盛はほとんど武器を携えておらず、このまま京都へ戻っても勝負の行方は明らかであったが、熊野の水軍が丸腰の清盛一向に鎧や弓矢などの提供を申し出る。

 

かつて清盛の父・平忠盛が熊野本宮を造営して以来、平氏はこの地に強い影響力を持っていた。

 

 

しかし、京都の六波羅の屋敷に戻った清盛はすぐに反撃に打って出ずに、秘策を計画する。

 

平清盛1
 
源義朝らが陣取る御所の北の門から一台の牛車が出てくると、暗闇の中で源氏の軍勢が取り囲む。

牛車の中にいた4人の娘が神社への参詣だと告げると、兵達はいぶかしながらも中にいたのが女なので牛車をそのまま通す。

 

ところが、牛車の中にいた4人のうち一人は、十二単をまとった二条天皇であった。

 

御所をあとにした牛車は清盛の待つ六波羅に到着する。

 

清盛が狙い通りに、敵を油断させ、密かに二条天皇を奪うと、ほどなく後白河上皇も御所を脱出し、天皇を手中にした清盛は官軍となった。

 

牛車
 
そうして清盛は兵を挙げ、御所に立て篭もっていた源氏の軍勢を巧みに外へとおびき出すと、本拠地である六波羅で戦いを挑む。

 

この平氏と源氏による武士の覇権をかけた決戦は、地の利を活かした平氏が勝ち取り、天皇と上皇を奪われた源氏は賊軍となって敗走する。

 

源義朝は東国に逃げる途中、裏切りにあって殺され、その首は都で晒された。

 

 

清盛は謀反に加担した貴族や武士を容赦なく粛清するなかで、源義朝の幼い子ども達の命だけは清盛の母の強い願いから助けてしまう。

そして、14歳の源頼朝は伊豆へ流し、2歳の源義経は鞍馬山へと預けられる。

 

 

「平治の乱」を収めた43歳の清盛は恩賞として、武士で初めて「正三位(上から5番目の位)」に任じられ、参議へと特進し、天皇のそばで国政へ発言できるようになった。

 

平治の乱
 

1160年、武士として初めて政治への参画が認められた清盛は、そのお礼と報告をかねて厳島神社を参詣する。

 

海に浮かんでいるかのような壮麗な社殿を誇る世界遺産・厳島神社は清盛によって造営され、古来より瀬戸内海で生きる人々から崇敬を受けた。

 

厳島神社4
 
各地から都へと運ばれる物資、それを略奪する海賊の追討を代々朝廷から命じられていた平氏は、瀬戸内を勢力の基盤とし、その海域を守っていたのである。

 

平氏は海賊を武力で圧するだけではなく、海賊行為を止めさせ、地形や潮流の複雑な瀬戸内海の水先案内役として海賊を自らの水軍として組み入れた。

 

瀬戸内海
 

この頃、都では若き二条天皇とその父・後白河上皇という血を分けた親子が政治の主導権を巡って対立を始め「保元の乱」「平治の乱」に続く新たな戦いの火種がくすぶる。

 

清盛は「平治の乱」で御所から救いだした二条天皇から後見役として強い信頼を得て、深く政治に関わる一方で、二条天皇と対立する後白河上皇とも良い関係を保っていた。

 

清盛は仏教を深く信仰していた後白河上皇のために、蓮華王院(三十三間堂)を造営し、千手観音象をはじめ様々な宝物を奉納する。

 
蓮華王院
 

1165年、二条天皇が23歳の若さで急死すると、明確な後ろ盾を失った清盛は、躊躇することなく後白河上皇への接近を強めた。

 

 

二条天皇の死後、後白河上皇は自身の7歳の皇子で、清盛の義理の甥にもあたる高倉天皇を後継者とする。

 

まだ子どもであった高倉天皇は後白河上皇にとって扱いやすく、清盛にとっては義理の甥という近い存在であり、両者の利害が一致する高倉天皇の存在は二人の関係を強くした。

 
 

後白河上皇との関係を強化した清盛はわずか一年半の間に大納言、内大臣、さらに官職の最高位である太政大臣へと猛烈なスピードで出世していく。

 

高倉天皇
  
高倉天皇

太政大臣となり官職を極めた清盛であるが、相次ぐ病に襲われ、1168年、六波羅の屋敷を離れて出家する。

 

 

一方で、清盛は摂津国・福原(現在の神戸)の大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれる小さな港の改修に着手した。

 

大輪田泊は水深が深く潮の干満の差も少ないため、遠浅の海岸が続く大阪湾に比べて大きな船が停泊するのに都合の良い地形である。

 

九州の太宰府を窓口に宋(960年~1279年に存在した中国の王朝)との貿易を行っていた当時の日本は、大宰府で大型船から小型船へと荷を積み替えてから、荷物を都へと運んでいたため、清盛はこうした手間を省くために福原に直接大型船を入れて、ここを日宋貿易の拠点にしようと考えた。

 

兵庫区(大輪田泊)

その大輪田泊には東からの強い風でしばしば船が難破するという欠点があったため、清盛はまず福原周辺の山を切り崩してその土砂を使い、海岸から沖に通じる30ヘクタールの埋め立て地を作り、その先に強風を防ぐための防波堤を設けて港を築いたのである。

 

 

さらに清盛は、大宰府から福原までの瀬戸内海航路の整備も行う。

 

大小700余りの島々と潮流が複雑に入り組む瀬戸内海の難所の一つであった音戸の瀬戸(現在の音戸大橋が架かっている)は、清盛が大型船を通行させるために島を切り開いて作り上げたものである。

 
音戸の瀬戸
 

1170年、前年に清盛にならって出家していた後白河法皇を、清盛は福原に招き、宋の商人に引き合わせると、陶磁器や宋銭さらにオウムなどの珍しい動物を献上し、これを契機に日宋貿易はさらに発展した。

 

清盛は福原の整備に力を注いで貿易の利権を独占し、日宋貿易を活性化してさらなる富の拡大を目論んだのである。

 

しかし、9世紀末の遣唐使廃止以来、皇族が異国の人々と接見することはなかったため、当時の貴族の日記には「未曾有のことなり。天魔の仕業か。」と、清盛に対する反発が朝廷内で芽生えていく。


平清盛3
 

後白河法皇と清盛の親密な関係は、平氏一門の繁栄にも繋がり、清盛の長男・重盛は大納言、三男・宗盛は中納言、娘の徳子は高倉天皇に嫁ぐ。

 

 

清盛をはじめ平家一門の一人一人が反映を祈って厳島神社に奉納した国宝「平家納経」は、贅をつくされ33巻の経典全てに金や水晶がほどこされ、平安時代最高峰の装飾芸術といわれている。

 

平家納経
 
しかし、武士として朝廷の警護役から身を起こし、権力の階段を駆け上がり、圧倒的な富を背景に栄華を極め、絶大な力を誇示する清盛を疎ましく思う勢力が現れた。

 

1177年、反清盛・平氏打倒を掲げ、貴族中心の政治体制を取り戻そうとする人々が京都の鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)に密かに集結する。

 

「鹿ヶ谷の陰謀」といわれるこの密談が行われた藤原俊寛の山荘には、清盛の権勢の前に完全に影響力を失っていた後白河法皇の姿もあった。

 

しかし、この企みは密告によって露呈し、清盛は陰謀に関わった者を斬首や島流しなど厳罰に処し、側近を失った後白河法皇の孤立化は進んだ。

 
鹿ヶ谷
 

1178年、清盛の孫となる高倉天皇の皇子(後の安徳天皇)が誕生し、清盛の立場がさらに有利となった。

 

 

ところが1179年、清盛の後継者に決まっていた長男・重盛が死去すると、白河法皇は重盛の所領を全て召し上げて平家一門が相続することを認めず、さらに重盛の喪中にも関わらず遊興にふけて平氏の体面を踏みにじったため、清盛と後白河法皇の対立は決定的なものとなる。

 

 

それまで清盛は朝廷の権威を重んじる姿勢を示し「鹿ヶ谷の陰謀」でも後白河法皇は一切咎めなかったが、度重なる後白河法皇の挑発的な振る舞いに堪忍袋の緒が切れ、ついに後白河法皇を捕えて幽閉した。

 
後白河天皇
  
後白河法皇

清盛は19歳の義理の甥・高倉天皇を後白河法皇の代わりに上皇へ、そして3歳の皇子(清盛の孫)を安徳天皇として即位させる。

 

 

こうして清盛が武士として初めて政治の実権を奪って築き上げた武士の世は、江戸時代まで600年以上続くこととなっていく。

 

平氏は全国の領地の半分近くを独占、一門の者は「平氏にあらざるは人にあらず」と言い放った。

 
安徳天皇
  安徳天皇

1180
年、清盛は都を京都から日宋貿易の拠点にと開いた福原に移し、400年近く続いた平安時代で初めての遷都が行われる。

 

しかし、この遷都を境に次々と干ばつや疫病の流行が起こり、深刻な病が高倉上皇を襲ったため、人々は遷都が招いた災いだと噂した。

 

清盛はやむなく都を京都に戻すが、ここで平氏にとって最大の危機が訪れる。

 
六波羅
 

「平治の乱」で敗れてからおよそ20年、勢力を再び強めた源氏が、平氏打倒を掲げて、かつて清盛が命だけはと助けた源頼朝を中心に東国で挙兵した。

 

源頼朝やその弟・義経に率いられた源氏の軍勢は各地で平氏を打ち負かして京都へと迫る。


源頼朝
  
源頼朝

源氏との激しい戦いの最中の1181年、清盛は熱病に倒れて、そのまま63歳でその生涯を閉じた。


清盛は死の間際「頼朝が首をはね、我が墓の前にかくべし。」と言い残す。

 

平清盛4
 
清盛を失った平氏は源氏軍に都を追われ、西へ西へと敗走し、清盛の死から4年後の1185年、源義経を総大将とする源氏軍に「壇ノ浦の戦い」で敗れて滅亡する。

 

瀬戸内の海とともに力を伸ばした平氏がその海の中に没していった。




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足利 尊氏 (京都)

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1305年、鎌倉幕府の御家人であった足利貞氏の次男として生まれる。

 

尊氏が当主となった足利家は源氏直径の東国武士のなかでも筆頭格の名門で、鎌倉幕府内でも北条氏に次ぐ勢力をもっていた。


鎌倉1

典型的な東国武士達は、もともと農民と共に荒れ地を開墾して、その地を領地とした開発領主であったため土地への執着心が強かったが、その土地を手放さないとならない事件が起こる。

 

13世紀後半、元(1271年~1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝)が二度に渡って日本に侵攻してきた(元寇)

 

鎌倉幕府は元の再度の襲来に備えて、武士達に沿岸部の警備を命じたり重税を強いるなど、強圧的な政治を行ったため、武士は次第に困窮し、厳しい生活を強いられる。

 

武士達は借金の肩に先祖伝来の土地を失っていく。

 
元寇
 

幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていくばかりであった。

 

東国武士の筆頭格であった尊氏は、腐敗堕落した幕府に対する武士達の不満を強く肌で感じていく。


北条高時
  
北条高時
 

1331年、この情勢を好機と見た後醍醐天皇が、鎌倉幕府を滅ぼして権力を朝廷に取り戻そうと挙兵すると、鎌倉幕府は尊氏に派兵を命じ、尊氏は後醍醐天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加し、幕府軍の勝利に貢献するものの、この頃から幕府に対する反感を強く抱くようになる。


楠木正成
  楠木正成

1333
年、鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった尊氏は、再び倒幕軍を起こした後醍醐天皇を討つために京都に向かうが、途中で後醍醐天皇の倒幕の綸旨(天皇の意志を伝える文書)に応じ、尊氏が倒幕軍についたことで多くの武士が倒幕軍についた。

 

 

尊氏の謀反をきっかけに倒幕の軍勢は、東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


新田義貞
  
新田義貞
 

武家政権であった鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は全ての政治を自らが行う事を宣言し、平安時代を理想として公家に富や権力を集中させる「建武の新政」が始まり、武士の生活は再び苦しめられることとなった。

 

 

それは倒幕のために戦った武士達の期待を裏切るものであったが、そもそも異民族蔑視する「夷」という表現を用いて鎌倉幕府を「東夷」と呼んでいた後醍醐天皇には武士に対する差別意識があったのである。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

実際に、後醍醐天皇の綸旨には「信濃国の伴野庄という土地は玉井孫五郎という武士に与えた」直後「土地を没収した」と記されているものが残っている。

 
後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

「太平記」には当時の武士が「これでは御家人はみな公家の奴隷のようだ。」と怒りを込めている様子が描かれていて「建武の新政」に対する武士の不満は日ごとに大きくなり、生活が苦しい武士達のなかには窃盗などを行う者が現れ、地方では大規模な反乱も相次いだ。

 

 

これを見て立ちあがった尊氏は、武士のための奉行所を独自に設置して相談に乗るようになり、より多くの武士達の期待が尊氏に集まっていく。

 

 

新政権の一員として京都に留まっていた尊氏であるが、先祖伝来の東国はなによりも大切な場所で常に気にかけていたため、尊氏は後醍醐天皇に掛け合い、弟・足利直義を鎌倉に派遣して東国を足利の支配下に置いた。

 

ところが、2年後の1335年、旧幕府の残党が東国で挙兵し、弟・足利直義の軍は旧幕府側に敗れて鎌倉の支配権を奪われたので、京都の尊氏は直ちに出陣すると、各地で旧幕府勢力を次々に撃破し、瞬く間に鎌倉の奪還に成功する。

 
鎌倉2

勝利を収めた尊氏は京都に戻ろうとせず鎌倉に留まり、一族の拠点である鎌倉、ひいては東国の支配を盤石なものにするために武士の心を掴むことを考えた。

 

後醍醐天皇に安芸国を没収された小早川祐景(こばやかわすけかげ)という武将に尊氏は「再び領地の所有権を与え、自らの武力でその権利を守る。」という内容の書状を送っている。

 

このように尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していった。

 

 

これに激怒した後醍醐天皇は、尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣する。

 

足利尊氏1
 
尊氏の「尊」の字は、天皇になる前の後醍醐天皇が尊治親王だったためであり、尊氏は武士にはない雅で威風堂々とした後醍醐天皇を敬愛していた。

度々名前を変更することが珍しくない時代において、後醍醐天皇の敵になった後も「尊氏」と名乗り続けていたことからも、尊氏が生涯において後醍醐天皇に対する憧れを持ち続けていたことが分かる。

 

 

尊氏は朝廷に逆らう意思がないことを見せるため、武士にとって命ともいえる本結を切り落とし、政務の一切を弟・足利直義に譲ると宣言して、鎌倉の寺に引きこもって戦いを放棄した。

 

 

寺に引きこもった尊氏に代わって出陣する家臣達は、東へと迫りくる足利討伐の朝廷軍を迎え討つが、三河、駿河と大敗北をくり返して壊滅寸前となり、追い詰められた足利軍は箱根に立て篭もる。

 

足柄峠
 
ここを破られれば鎌倉まで一気に攻められる状況で、尊氏はここが一門の運命の分かれ目だと感じ、朝廷軍と戦うことを決意してザンバラ髪のまま出陣した。

 

 

尊氏の求心力から大軍勢となった足利軍は、東国の鎌倉と西国を隔てる重要な防衛ラインで、古来から東海道の難所とされてきた足柄峠(神奈川県南足柄市)で決戦に挑む。

 

この防衛ラインを破られたらもう後がない足利軍は、天地を揺るがすほどだったと伝えられる激戦「竹ノ下の戦い」の末、朝廷軍を撃破した。

 
竹ノ下の戦い
 

劇的な勝利を収めた足利軍は、この時、京都へと敵を追撃すべきか、それとも鎌倉に戻るべきか、意見が分かれ、ここでピタリと足を止めることになる。

 

弟・直義や東国の武士達は強固に戻ることを主張するが、倒幕以降、尊氏のもとには西国の武士達も参集しており、彼らは京都で戦うことを主張した。

 

そして、この分かれた意見の選択は、武家政権の拠点を鎌倉と京都のどちらにするかということを意味する。

 

 

この時から150年前の1180年「富士川の戦い」で勝利し、今の尊氏と同じ選択を迫られていた源頼朝は、平氏を追撃するために京都に向かおうとするが、家臣達の意見を受け入れて鎌倉に戻り、鎌倉幕府を開く。

 
源頼朝
  
源頼朝

尊氏の脳裏には、この源頼朝が下した伝説の決断がよぎるが、尊氏には西国の武将が多く味方につき、彼らをないがしろにして期待を裏切れば、彼らは朝廷の味方につくかもしれないという状況の違いがあった。

 


そして、さらに源頼朝の時と決定的に違う時代背景ある。

 

関東武士達が抱えた借金の先は主に京都の寺社であり、元寇以来、借金を返せなくなった関東武士達は土地を手放してきた一方で、後醍醐天皇が所有していた荘園は主なものだけでも全国に220カ所あり、他にも公家や寺社など多くの荘園所有者が集中していた京都には全国から圧倒的な金品が集まり、盛んな経済活動が行われていた。

 

 

京都の経済活動を取りこんでこそ、文化の中心地である京都を手に入れてこそ、関東武士の地位も上がると、尊氏は判断する。

 
足利尊氏4
 

1336年、尊氏は鎌倉から京都へ攻め上ることを決断したが、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍に京都から追い出されて九州へと逃れることになった。

 
 

この頃、尊氏が戦功のあった武士に出した感状には、戦いがあったその日のうちに恩賞を約束していたことが記されている。

 

当時、感状を即日に発効することは珍しく、尊氏の細かな心配りで武士達は尊氏への忠誠を誓い、尊氏のもとには次々と武士が集まり、朝廷軍から寝返る者も出てきた。

 


九州で武士を集めて大勢力となった尊氏は、再び京都を目指し、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で後醍醐天皇側の新田義貞・楠木正成の朝廷軍と衝突する「湊川の戦い」に勝利し、この戦い以後、朝廷軍は尊氏に抗う力を失う。

 
湊川

尊氏が日本の政治の中枢であった京都を制圧後、後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げた。

 

その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 
光明天皇
  
光明天皇

後醍醐天皇は、尊良親王・恒良親王に新田義貞を従えさせて北陸へ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へ、と各地に自分の皇子を送って北朝側に対抗させようするが、劣勢を覆すことができないまま病に倒れた。

 

 

この南北朝時代は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一する1392年まで56年続く。


後小松天皇
  
後小松天皇
 

尊氏は幕府を京都に開くという決断が、南北朝の動乱を招いてしまったという現実に苦悩して「早く現世と縁を絶ちたい。現世の幸福に代えてでも、どうか来世はお助け下さい。」と記した文書を清水寺に納めている。

 

 

1350年、尊氏と意見が対立していた弟・足利直義が南朝側につくと、尊氏に実子として認知されず足利直義の養子となった足利直冬も南朝側につき、南朝と北朝の抗争「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」は激化した。

 

足利直義
  
足利直義
 
1358年、尊氏は足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて52歳で死去した。

 

足利尊氏2
 

一方で、尊氏は新しい武士の政権の安定に心血を注ぎ、室町幕府の施政方針を示した「建武式目」を改定する追加本を次々に出し、その数は60を越えた。

 

「恩賞は家柄や身分を問わず成果次第である。」

「恩賞が遅れた場合、尊氏自身に直訴してよろしい。」

 

こうして天皇や貴族の本拠地であり続けた京都に、初めて誕生した武士の政権が安定していくと、地方から多くの武士団が移住し、京の町はさらに発展していった。

 
祇園祭

日明貿易など東アジアとの交流も盛んになり、平安京以来の雅な公家文化に質実剛健な武家文化が融合し、生け花、能楽、茶の湯など、この時期に日本独特の伝統文化の礎が確立する。

 

室町時代に入って一大消費地となった京都では、商業も飛躍的に発展し、この頃「町衆」と呼ばれる有力商人達が現れはじめ、その町衆が莫大な財力や磨かれた美意識を競い合う「祇園祭」もこの時代に今の形をとるようになった。

 

 

尊氏が幕府を開いたことで、京都は政治・経済・文化、全ての面で新たな都となった。




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