関東は他の地方に比べると古い時代の人物が多くなるのが特徴です。
2 関東
関東は他の地方に比べると古い時代の人物が多くなるのが特徴です。
将門の生年は903年頃とされているが正確な生年は不詳である。
将門の父・平良将(たいらのよしまさ)は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、佐倉市には将門町という地名が残っている。
将門は桓武天皇の5世で、父・良将は鎮守府将軍(武門の栄誉職)であったが、15~6歳の頃に平安京に出てから12年程の在京期間で、大きな役職を得ることはなく東国へと戻る。
父・良将の死後、良将の遺領は伯父の平国香(たいらのくにか)や平良兼(たいらのよしかね)に勝手に分割された。
そんな折に、源護(みなもとのまもる)と領地争いをしていた平真樹(たいらのまき)から将門は協力を求められる。
源護は将門の伯父らと姻戚関係にあったため、平真樹が源護に敗れてしまうのは将門にとって都合が悪かった。
935年、将門は源護の子・源扶(みなもとのたすく)らに常陸国真壁郡野本(現在の筑西市)で襲撃されるが、返り討ちにすると、源護の本拠を焼き討ちし、その際、伯父の平国香(たいらのくにか)を焼死させる。
平良正(たいらのよしまさ)は軍勢を集め鬼怒川沿い(現在の茨城県八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、この平良正も将門に撃破され、平良正は平良兼に救いを求めた。
平良兼は、平国香の子・平貞盛(たいらのさだもり)を誘って軍勢を集め、936年、将門を攻めるが敗れる。
その後、紆余曲折ありながらも、将門は一族での争いを制し、鉄の体を持つ東国一の猛将として、その名声は関東一円に鳴り響いた。
この頃、東国は朝廷の完全な支配下におかれ、民衆は重税や労役に苦しみ、さらに、朝廷から派遣された役人(国司)の横暴が際立つようになる。
国司達はただでさえ厳しい税のさらに2倍も余分に取り立て、農民達は働けど働けど飢えていた。
そんな東国の農民の苦しみなどかえりみず、都では集められた税で、貴族達は贅沢三昧の暮らしを送っていた。
将門は、東国の人々を国司から守るため、国司や朝廷から自立する術を探すようになる。
将門は根拠地とした現在の茨城県岩井市で、農民達と原野を開墾して農地を増やし、砂鉄から鉄製の農具を作って農作業の効率は上げ、収穫を増やしていく。
こうして失意の人に希望を与え、余力ない人を助けて元気づける将門の人柄を慕って、土地を捨てた人々が集まり出した。
さらに将門は、鉄製の武器と、東国から産出される豊富な馬を利用して軍馬の育成に力を入れ、軍事力を強化する。
こうした中で、それ以前の刀は刀身が真っ直ぐであった(正面から敵を突きやすい)が、馬上から敵を斬りつけやすい刀身の反った刀が開発した。
これが最初の日本刀といわれている。
939年、常陸国の国司に反抗し、朝廷が管理する蔵を襲って米を民衆に分け与えたため、国司に追われていた藤原玄明(ふじわらのはるあき)が一族郎党を引き連れ将門もとにやってきた。
将門は藤原玄明をかばい常陸国の国司からの引渡し要求を拒否したため、常陸国は3000の兵をもって将門に宣戦布告する。
最先端の騎馬軍に作り上げられている将門軍1000は、3倍の敵を軽々と撃破し、圧勝した将門は常陸国の国司を捕え、国司に託された朝廷の権限を象徴する「国印」と「倉の鍵」を奪う。
これは将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味した。
将門はこのまま東国全ての「国印」と「倉の鍵」を奪い、国司を都に送り返し、民を味方につけ、東国を自らの手で治めることを決意する。
常陸国を落とした将門軍は破竹の勢いで兵を進めると、行く先々で朝廷の圧政に苦しんでいた民衆が合流していき、現在の栃木県に相当する下野国(しもつけのくに)から、現在の群馬県に相当する上野国(こうずけのくに)へと、次々に「国印」と「倉の鍵」を奪っては、国司を都に送り返していき、将門は東国の事実上の支配者となっていく。
ある時、京都の朝廷から東国の独立を目指していた将門のもとに、八幡大菩薩(民衆の絶大な信仰を集めていた)の使いの巫女が現れ「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授ける。」と伝えた。
東国中の民衆は歓喜し、その声を後ろ盾に、将門は新皇に即位すると、東国は朝廷の圧政を脱した独立国へとなる。
そして、将門は即位の儀式に、菅原道真の霊魂を登場させる演出をした。
その昔、道真は朝廷によって都を追放され、無念の死を遂げると、都では天変地異が次々に起こり、道真を追放した大臣達が変死し、御所に落ちた雷で天皇が死ぬということまで起こり、これら全て菅原道真の祟りとされ、都は恐怖によって混乱する。
将門による菅原道真の霊魂を登場させる演出は、東国の人々に朝廷の圧政から解放された印象を高めるとともに、朝廷の将門に対する恐怖感を与えることにつながった。
将門の反乱が京都にもたらされると、朝廷は大混乱となる。
国を支配できるのは、そのことを神から託された天皇だけであり、それを地方の豪族に過ぎない将門が名乗るなど、古代以来の支配体制を揺るがす大事変であった。
朝廷は、九州から北関東まで全国の寺社を総動員して、を呪い殺すための祈祷を命じる。
それに対して将門は「昔から武芸に優れた者が天下を治める例は多くの歴史書に見られ、この将門に日本の半分を領有する天運がないとはいえない。」という内容の書状を朝廷に送った。
朝廷による将門を呪い殺すための祈祷は全く効き目がなく、朝廷の兵力では将門を鎮圧することは不可能であったため、朝廷はその存亡をかけて、それまでの常識を覆す通達を全国に発する。
その前代未聞の内容は「もし将門を殺せば、身分を問わず貴族にする。」という約束であった。
これは活躍次第では誰でも貴族になれるという事であり、貴族社会というものが血統によって定められた特権であるという絶対条件を、特例とはいえ覆した前例となる危険なものであった。
この異例の通達は、大きなチャンスとして受け止められ、まず、東国での勢力争いで将門に敗れて以来、将門に強い恨みを持っていた常陸国の豪族・平貞盛が、さらに、貴族になることに強い憧れを持っていた下野国の豪族・藤原秀郷が朝廷のもとに馳せ参じる。
一方、東国に平和で豊かな新しい国を造ろうと励んでいた将門は、そんな朝廷の動きをつかんでいなかったため、940年、一年の収穫を左右する田起こしの春が訪れると、それまで共に戦ってきた兵を村に帰す。
しかし、この民への思いやりが裏目に出る。
将門が兵を解いた事を嗅ぎつけた平貞盛と藤原秀郷が4000の兵を集めているという報告が、将門のもとに入った。
将門のもとには1000人足らずの兵しか残っていなかったが、将門は時間が経てばますます不利になると判断して出撃する。
長きに渡り朝廷の圧政に苦しんできた東国を独立させるために将門は民と共に立ち上がったが、今、同じ東国の平貞盛と藤原秀郷が、私欲がために故郷を裏切り、東国を再び朝廷に売り渡そうとしていた。
将門は自ら陣頭に立って奮戦し、おおいに敵をたじろがせるが、徐々に数に劣る将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされる。
この敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかけようとするが、平貞盛と藤原秀郷はその策には乗らず、自分達の勝利の勢いを民衆に呼びかけて更に兵を集めた。
将門は各地を転々としながら、反撃に向けて兵を集めようとするが、敗色濃厚なため思うような成果は出せず、そうして、わずか手勢400で将門は、平貞盛と藤原秀郷が率いる2900の軍勢と最後の決戦の時を迎えることになる。
940年2月14日の午後3時、将門は7倍の軍勢に決戦を挑む。
吹き荒れる北風は将門軍にとって追い風であったため、将門軍は矢の撃ち合いを優位に展開し、一度は敵を退却させるほどとなる。
しかし、急に風向きが変わり南風になると、反撃に転じた敵軍の矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。
この一連の「将門の乱」は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした乱とあわせて「承平天慶の乱」と呼ばれている。
その後、将門を討った平貞盛と藤原秀郷は約束通り憧れの貴族となった。
討ち取られた将門の首は平安京へ運ばれ京の町で晒されるが、将門の首はカラカラと笑ったあと、故郷である東国まで飛び去ったという。
さて、朝廷が将門を倒すために武士が貴族となる道を開いたことは、やがて貴族政権の弱点となり、武士政権時代を作ることになっていく。
将門を討ち取って貴族となった平貞盛の子孫は、武士の世を確立したあの平清盛である。
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1302年、宇都宮貞綱の子として生まれ、宇都宮氏第9代当主となる公綱を理解するためには、若干なり時代背景を知る必要がある。
鎌倉時代に皇統は持明院統(後深草天皇の系統(北朝))と大覚寺統(亀山天皇の系統(南朝))の二つに分裂(共に後嵯峨天皇から派生)し、両統による皇位争奪は、鎌倉幕府が仲裁していた。
1318年に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、源頼朝を創設者とし途中から北条氏が実権を握っていった武家政権である鎌倉幕府の打倒を目指すが失敗し、後醍醐天皇は幕府方に捕えられ、隠岐島へ流される。
後醍醐天皇
幕府は後醍醐天皇に代わって、大覚寺統の光厳天皇を即位させた。
後醍醐天皇の反鎌倉幕府に加担した楠木正成(くすのきまさしげ)らは、後醍醐天皇が隠岐島へ流されてからも倒幕運動を継続する。
楠木正成らの倒幕運動が活発化してくると、1333年、幕府はその鎮圧のために東国から軍勢を送るようになった。
1333年、北条高時の命を受けて、公綱もこれに参加する。
鎌倉時代の宇都宮家は、関東が基盤である幕府にとって有力な軍事勢力で、地域での紛争が収まらない時は幕府軍として関東から出陣し、戦功をあげてきた。
弘安の役(モンゴル帝国による二度目の襲来)の際には、第8代当主の宇都宮貞綱(公綱の父)は6万騎を率いる総大将となっている。
四天王寺の合戦で楠木軍が5000騎の大軍で六波羅探題(幕府が朝廷の動きを監視するための出先機関)を撃破すると、公綱は楠木軍と戦うよう命じられて四天王寺へと向う。
公綱の出陣を知った楠木軍は、公綱の率いる軍勢がわずか500騎ほどであることから楽観視をするが、当の楠木正成は、自分達の大軍に負けてなお送られてくる小勢は決死の覚悟であると判断し、味方に「合戦の勝負は必ずしも軍勢の大小ではなく、大敵を見てはあざむき、小勢を見ては恐れよ。宇都宮は坂東一の弓矢取りなり。良将は戦はずして勝つ。」と言って、四天王寺を退くという判断をした。
そのため、宇都宮軍が四天王寺へ攻めかかると、楠木軍は兵を退いており、両者の衝突はなく終わる。
楠木軍が退いたことで、幕府方は宇都宮軍の行動を「さすがは宇都宮!」と賞賛して勝利を喜んだ。
しかし、楠木正成は4~5日経つと、和泉や摂津の野伏5000人ほどを集めて四天王寺周辺に篝火(かがりび)をたかせる。
この動きで宇都宮軍は大軍が攻めてくるかと緊張が走るが、一向に攻めてくる様子はなかった。
そこで宇都宮軍の精鋭部隊である紀清両党(きせいりょうとう)から「我々は先日、敵を追い散らしたから、面目は立ったはず。」という声が高まると、宇都宮軍は京都へと戻る。
宇都宮軍が四天王寺を後にすると、それに入れ替わるようにして、翌日、楠木軍が再び四天王寺を占領した。
結局、宇都宮軍と楠木軍は一戦もせず、引き分けに終わるのだが、両者共に味方に甚大な被害を出さず、また、その名声に傷を付けなかったことは、智謀深い良将の判断として評価されている。
さて、当時、勢いに乗る楠木軍であれば、強引な戦術でも公綱を破ることができたはずであるが、それをしなかったのは味方の被害を抑えるためだけではなく、倒幕後の天皇の世を確実に実現するためには、東の有力御家人達を味方に引き込む必要性を感じていたからかもしれない。
実際、幕府軍の中核的な存在だった公綱は最終的に南朝方として戦うことになっていく。
それ以後も、公綱は千早城攻めなどに参戦し、倒幕軍と戦いを続けるが、幕府軍であったはずの足利尊氏が京都で寝返り、鎌倉でも新田義貞の攻撃により北条高時が滅ぼされ、鎌倉幕府は滅亡した。
鎌倉幕府滅亡後に、公綱は後醍醐天皇に降伏する。
その後、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦うが敗れて降伏し、一時的に尊氏の家臣となるが、尊氏が新田義貞に大敗を喫して九州に逃れると、公綱は再び天皇のもとに帰参した。
そこから北畠顕家(きたばたけあきいえ)のもとで各地を転戦し、東国における南朝側の中心勢力の一人として後村上天皇からも厚い信任を受ける。
1356年、55歳で死去。
公綱は楠木正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能があり「新続古今和歌集」には公綱の作品が修められている。
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新田氏本宗家の7代当主・新田朝氏(にったともうじ)の嫡男として生まれた。
義貞は戦死した際に37~40歳であったといわれ、生年については1300年前後と考えられている。
義貞の育った上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)は、気象の変化が激しく、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土で、義貞はそのような風土の中で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていった。
1318年、父・朝氏が死亡したことにより、義貞が新田氏本宗家の家督を継承し、第8代当主となる。
新田氏は源義国(源義家の四男)の長男・新田義重に始まり、もともと広大な領地を有していたが、新田氏とは同祖の足利氏(源義国の次男・源義康から始まった)と比べると、鎌倉幕府を掌握していた北条家に冷遇され、義貞の代の新田氏はその領地も縮小していた。
源義国
1331年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒する計画を立てるが、その計画が鎌倉幕府にもれ失敗し、幕府軍に捕えられた後醍醐天皇は隠岐島に流される。
幕府に従って千早城(大阪府南河内郡)に立てこもっていた楠木正成(後醍醐天皇側)への攻撃に義貞は加わっていたが、病気を理由に無断で新田荘(現在の群馬県太田市および桐生市・伊勢崎市・みどり市・埼玉県深谷市の一部にあった荘園)に帰還した。
その後、楠木正成の討伐のために膨大な軍資金が必要であった幕府は、資金調達のために重税を集め出していたが、義貞はその徴税の使いを殺害した。
間もなく幕府が報復として新田討伐の軍勢を差し向けるという情報が入ると、義貞の弟・脇屋義助の主張によって幕府と積極的に対立する方針をかためる。
義貞はわずか150騎で挙兵すると、長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所(現在の群馬県安中市)に攻め入って壊滅させ、八幡荘(現在の群馬県高崎市・安中市にあった荘園)で体勢を整えた。
そこに利根川を越えて越後国・信濃国・甲斐国の新田一族や、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの氏族が合流し、7,000の大軍に膨れ上がった義貞軍が鎌倉を目指すこととなる。
さらに、利根川を渡って武蔵国に入る際、足利尊氏の嫡男・千寿王(せんじゅおう)と久米川付近で合流した。
千寿王が率いていたのはわずか200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、その軍勢の規模は約20万といわれている。
新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)に達し、桜田貞国を総大将とする幕府軍と衝突した。
両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなく激戦となり、義貞軍は入間川まで幕府軍は久米川まで撤退して軍勢を立て直すこととなる。
翌朝、義貞軍が久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けて戦闘が再開された後、幕府軍は分倍河原まで退却することになった。
分倍河原に布陣する幕府軍に北条泰家を大将とする10万騎が加わるが、それを知らずにいた義貞軍は突撃を敢行して返り討ちにあう。
堀兼まで敗走した義貞は、退却も検討していたが、そこへ北条氏と親しいはずの大多和義勝が6000騎を率いて義貞に加勢すると、義貞軍は分倍河原へと奇襲を仕掛け、多摩川を渡り、霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家に大勝利を収める。
勢いに乗った義貞は一気に鎌倉まで攻め上がり、幕府軍は敗戦に次ぐ敗戦により鎌倉の防備を固め、どの方面にも援軍がすぐ駆けつけられるよう、鎌倉中に兵を配置した。
鎌倉は攻撃しにくい地形であるため、義貞は海岸ぞいから攻めることを考えたが、潮が満ちていて鎌倉まで行けなかったが、「太平記」では義貞が稲村ヶ崎の海岸で黄金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応してみるみる潮が引き、鎌倉へと続く砂浜が広がる奇蹟が起こり、義貞軍は鎌倉に突入できたといわれている。
いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、由比ヶ浜における激戦の後、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させた。
1333年、北条高時らが自害し、鎌倉幕府は滅亡する。
義貞が鎌倉を陥落させるも、武士達の評価は、後醍醐天皇の誘いを受けて天皇方につくと鎌倉陥落に先んじて京都を制圧した足利尊氏の方が高く、武士達は新田よりも足利へと接近していき、義貞と足利尊氏の対立が深まっていった。
1334年、後醍醐天皇が貴族や寺院の利益を考えた天皇中心の政治(建武の新政)を始め、これによって武士の不満が高まることになる。
後々、足利尊氏はその不満をまとめ上げていく。
1335年、信濃国で北条氏残党が北条高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領した(中先代の乱)。
足利尊氏は後醍醐天皇の命令を受ける前に北条時行の討伐に向かい、鎌倉に本拠を置くと、武功のあった者への褒美として新田一族の所領を分け与える。
さらに、足利尊氏は朝廷の帰京命令に従わず「義貞と公家達が自分を陥れようとしている」と主張して鎌倉に留まった。
後醍醐天皇は、義貞に「錦の御旗」を贈って足利尊氏の討伐を命じる。
義貞は事実上の官軍(天皇および朝廷に属する軍)総大将となるものの、形式上の総大将である尊良親王(後醍醐天皇の子)の周辺には口うるさいだけの公家達がおり、加えて同時に進軍した北畠顕家は義貞よりも官位が上で指図できる立場でなかった。
そのため指揮系統が混乱して上手く連携が取れず、足利側に兵をまとめて出撃するだけの余裕を与えてしまう。
新田軍は迎撃してくる足利軍に三河国矢作(愛知県岡崎市)、駿河国(静岡県静岡市駿河区)で勝利するが、箱根で大敗を喫し、伊豆から西へと逃れる。
その途中、義貞は天竜川に橋を駆けて渡った後、部下の「追撃してくる足利軍がこの橋を渡れない様、橋を切り落すべきである。」という提案に対して、「敵の追撃に対する焦燥からあわてて橋を切り落して逃げたと思われては末代までの恥である。」と返答して、橋を切り落とさず、また、義貞は部下達に先に橋を渡らせ、自らは一番最後に橋を渡った。
義貞は帰京するも、義貞を追撃する足利軍は破竹の勢いで京都まで攻め上がり、義貞らは敗北し、京都は足利軍に占領されることとなる。
しかし、奥州より上ってきた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が京都へ到着すると形勢は逆転していき、義貞が楠木正成、北畠顕家らと共に、京都へ総攻撃を仕掛けると、京都の奪還に成功した。
一方で、尊氏をはじめとする足利軍の主要な武将の首を挙げることはできず、敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れ、九州へと落ち延びる。
義貞は足利尊氏を追撃し、その途上で足利側の赤松則村(あかまつのりむら)の拠点である播磨を攻めた。
しかし、新田軍は赤松則村の白旗城をなかなか陥落させることが出来ず、50日近くも時間を浪費すると、着実に九州で戦力を増強した足利尊氏が30万人ともいわれる軍勢で海上・陸上の二手に分かれて再び京都を目指す。
新田軍は進撃してきた足利軍に福山城(岡山県総社市)で敗れ、義貞はさらに進撃を続ける足利軍を楠木正成と共に和田岬で迎撃する(湊川の合戦)が、海と陸からはさみ討ちにされて敗れる。
楠木正成は自害し、義貞は敗走することとなった。
京都を占領した足利尊氏が後醍醐帝との和平工作に着手すると、後醍醐帝もこれに応じるが、この和平交渉は義貞には知らされず、義貞は事実上、天皇から切り捨てられる形となる。
事情を知った義貞の部下である堀口貞満(ほりぐち さだみつ)は「なぜ義貞の多年の功を忘れ、大逆無道の尊氏に心を移されるのか。」と目に涙を浮ながら後醍醐帝の無節操を非難した。
それから間もなく、義貞が3000騎で駆けつけ、後醍醐帝を包囲すると、後醍醐帝は新田一族の功をねぎらい「和議を結んだのは計略であり、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐため。」と取り繕う。
義貞は妥協案として、後醍醐帝の子である恒良親王と尊良親王の臣下として北陸に行かせて欲しいと提言する。
1336年、義貞は両親王らとともに北陸道を進み、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)へ到着した。
この年は通年に増して寒さが厳しい年であったことが分かっており、降雪にはまだ早い時期でありながら、金ヶ崎城まで落ち延びる義貞一行は、途中猛吹雪に襲われ、多くの凍死者を出す。
義貞が金ヶ崎城に入城後まもなく足利軍の攻撃を受ける。
足利軍は6万の大軍で金ヶ崎を攻め、海上にも水軍を派遣して四方から包囲して総攻撃を仕掛けるが、戦いの序盤は義貞が優位に展開する。
しかし、金ヶ崎城の食料は日に日に尽きてゆき、城中は飢餓に襲われ、馬を殺して食糧にしたり、死人の肉すら食べるという凄惨な状況へと追い詰められていった。
1337年になると斯波高経(しばたかつね)率いる足利軍の攻撃はより激しさを増し、新田軍は城内から出撃し、足利軍の背後にいる杣山城の脇屋義助(義貞の弟)らと連携して足利軍をはさみ討ちにしようとするが、風雪の激しさから同時に攻撃することができず、金ヶ崎城はついに陥落する。
落城に際して、新田義顕(義貞の長男)は戦死、尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となった。
義貞は難を逃れて、ここを生き延びる。
1338年、義貞の率いる50騎は、黒丸城(福井県福井市黒丸町)から出撃してきた斯波軍300と燈明寺畷(とうみょうじなわて)で遭遇し、乱戦の末、義貞は水田に誘導されて身動きが取れなくなってしまう。
そこに矢の乱射を受け、義貞は落馬し、起き上がったところに眉間に矢が命中する。
致命傷を負った義貞は観念し、自害した。
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熊谷直実(くまがいなおざね)は、武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身で、幼名を弓矢丸といい、その名のとおり弓の名手であった。
直実は2歳の時に父を失ったため、母方の伯父の久下直光(くげなおみつ)に育てられる。
1156年、朝廷が皇位継承問題などで分裂したことで、後白河天皇側の源義朝・平清盛らと崇徳上皇側の源為義・平忠正らが武力衝突(保元の乱)した。
16歳の直実は、後白河天皇側の源義朝の指揮下でこの戦いに参加して活躍する。
1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した(平治の乱)ため、直実は源義朝の長男・源義平の指揮下で働くが、戦いは平氏が勝利し、平家はここから20年間の全盛期を迎えた。
その後、直実が29歳の時、伯父・久下直光の代理人として、京都で街の警備にあたる大番役を務める。
ある時、京都で相撲大会があり、直実は10人以上を投げ飛ばし、それを観ていた平知盛(たいらのとももり)に気に入られて仕えることになった。
平知盛
直実が独断で平知盛に仕えたため、怒った伯父・久下直光は直実の領地の一部を没収し、この遺恨が後々大きな分岐点のもとになる。
1180年、平清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が34歳で挙兵し、平氏軍と石橋山(神奈川県小田原市)で戦うが、平氏軍の大庭景親に大敗を喫し、敗走した源頼朝は山中に逃げ込み、わずかな部下と共に洞穴(しとどの窟)に身を隠す。
この時、大庭景親に従って「石橋山の戦い」に参加していた直実は、梶原景時と共に、源頼朝が隠れている洞穴を発見するが、洞穴から二羽の鳩が飛び立つと「人は見当たらず」と、源頼朝を見逃し、以後、直実が源頼朝の御家人となったため、熊谷氏の家紋は二羽の鳩が描かれるようになったといわれている。
態勢を立て直した源頼朝は、源氏に従わない常陸国の佐竹秀義を討つべく金砂城(現在の茨城県常陸太田市)を攻めた。
直実はこの戦いに一族郎党を引き連れて出陣し、抜群の武功を挙げると、源頼朝は「直実は日本一の剛の者だ。」と褒め称え、直実に熊谷郷の支配権を与える。
源頼朝に木曾義仲が敗れた「宇治川の戦い」で、義仲軍は頼朝軍の京都進入を阻むため、宇治川にかかる橋の橋板を外したので、橋げたのみが残っている状態となるが、源頼朝の弟・源義経の指揮下でこの戦いに参戦していた44歳の直実は、16歳の息子・直家と共に橋げたを足場にして敵陣に向かっていき、敵からの攻撃に対してはお互いをかばいながら、勇猛果敢に先陣をきっていった。
1184年、平氏一門の多くが討たれ、源平の形勢が大きく源氏に傾いた「一ノ谷の戦い」で、直実は、正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属する。
直実は息子・直家と共に一番乗りで平氏軍に突入するも、直家が矢に射抜かれ深手を負う。
息子の負傷により、一層に手柄を欲した直実が海岸を走っていくと、形勢不利とみて逃げ出す平氏軍の船と、それに乗ろうとする武者を見つけた。
直実はその武者を大声で呼び止めると、手にしていた扇を振りながら一騎打ちを挑む。
武者は振り向くと「おう!」と返事をすると勇敢にも直実に応じた。
直実が武者を馬から落として組み伏せると、武者は我が子・直家と歳の変わらぬ若者であったため、若武者を見逃してやりたくなって直実が名前をたずねると、若武者は「首を取って人に見せれば名は分かる。良かったな。私は良い手柄になるぞ。」そう威風堂々と答える。
平敦盛
直実は若武者の振る舞いに感動し、さらに今日の戦いで息子が負傷しただけで自分の心は痛んでいるのに、この若者が討ち取られれば、その父親はいかに悲しむだろうと考え、すでに今日の戦は源氏の勝ちが決しており、この少年一人を討ったところで戦の結果が変わるわけでもないと思い、ますます見逃すことを心に決めた。
しかし、その刹那、背後に味方の武者50騎ほどが迫っていることに気付く。
直実は、その若武者の首を涙ながらに斬り落とす。
これが「平家物語」の名場面「泣く泣く首をぞかいてんげる(掻き斬る。回転蹴るではない。)」である。
直実は首を落とした若武者が腰のあたりに、錦の袋におさめた笛をさしているのに気が付くと、朝に平氏軍から聴こえてきた音色を思い出し、何万人といる源氏軍には戦争の最中に音楽を奏するような教養と風雅を備えた者は一人もいないと思い、ますます胸がしめつけられるのであった。
その後、若武者は平家の頭領である平清盛の甥・平敦盛(たいらのあつもり)と判明し、そして、あの笛は、笛の名手として知られた平敦盛の祖父(忠盛)が鳥羽上皇から贈られたものであることがわかる。
平敦盛を討って以降、直実から勇ましい雰囲気は失せていき、直実の苦悩は日に日に深まっていった。
その後「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡し、勝った源氏の頭領である源頼朝が征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府が成立する。
1192年、直実は過去の経緯から不仲だった伯父・久下直光との領地をめぐる争いが続いており、ついに源頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになる。
久下直光は孤児となった幼少期の直実を庇護し、そのため直実を自らの配下と捉え、それを前提として本来は久下氏の支配下にあった熊谷郷を直実に預けていた。
その後、直実は平氏との戦いを通じて自らの力で、源頼朝より熊谷郷の支配権を認められる。しかし、久下直光からするとそれは直実に熊谷郷を奪われたという感覚であった。
武勇には優れていても口下手な直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自らの正当性を理論立って展開できない憤りから「もはや自分の敗訴は決まっているも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと。」と怒鳴ると、刀を抜いて髻を切り、源頼朝はあっけにとられる。
そして、直実は源頼朝に止められるのも聴かず、出家することを決意した。
1193年頃、直実は、当時、京都に浄土宗を開いた法然という僧の弟子となり「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」という名を与えられる。
直実は多くの寺院を建立した。
1193年、法然が生まれた美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)に誕生寺を建立。
1195年、東海道藤枝宿(現在の静岡県藤枝市)に熊谷山蓮生寺を建立。
1197年、直実が関東に帰郷する際、法然の姿を拝したいと願うと、法然は自作の木像を与え、その木像を安置した法然寺(京都府京都市右京区嵯峨天竜寺立石町)を建立。
1198年、法然が初めて「念仏」の教えを説いた地である粟生(京都府長岡京市)に西山浄土宗総本山光明寺の基礎となる念仏三昧堂を建立。
1204年、64歳となった直実は、阿弥陀仏の前で、早く仏となって、再び生まれ変わり、多くの人を救う誓いを立てる(上品上生の往生)。
そして、1206年、直実は武蔵村岡(現在の熊谷市)に往生の日を告げる高札を立て、1207年に実際に往生し、その場所が埼玉県熊谷市仲町にある熊谷寺(ゆうこくじ)となった。
直実の遺骨は遺言により、西山浄土宗総本山光明寺の念仏三昧堂に安置され、また、高野山には直実と敦盛の墓が並んである。
法然は直実を「坂東の阿弥陀仏」と称えた。
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千葉氏は、桓武天皇の曾孫・高望王(たかもちおう)の末子・平良文(たいらのよしふみ)を祖とし、平良文は「平将門の乱」前後に下総国相馬郡(現在の柏市、我孫子市、茨城県北相馬郡など)を獲得し、以後この地を中心に活躍するようになる。
平良文から5代下がった平常兼(たいらのつねかね)の息子・千葉常重(ちばつねしげ)は平安時代後期の1126年に現在の千葉県千葉市中央区亥鼻付近に本拠を移して武士団を形成し、これが、千葉の都市としての始まりとなった。
後の世に千葉氏中興の祖とされる千葉常胤(ちばつねたね)は、千葉常重の子として大椎城(現在の千葉県千葉市緑区大椎町)で生まれる。
1135年、18歳で家督を相続し、亥鼻の居城や相馬郷(現在の柏市、我孫子市周辺)の領土を受け継ぐ。
常胤が家督を継いだ翌年、下総国の国司(朝廷の役人)・藤原親通(ふじわらのちかみち)が税金の滞納を理由に父・千葉常重を逮捕・監禁し、相馬郷と立花郷(現在の千葉県香取市、千葉県香取郡東庄町)の権利を要求する。
1143年、源義朝(源頼朝の父)がこの問題に介入し、相馬郡の権利を奪った。
こうした事態に対して常胤は一旦、相馬御厨と立花郷を譲ることに同意し、後に滞納分を返済すると相馬郡の郡司(国司の下)に任命され、相馬郷の権利を回復させていく。
また、源義朝に対しては、主従関係を結ぶことで、土地の支配権を確保した。
そのため常胤は、1156年、朝廷が皇位継承問題などで分裂したことで、後白河天皇側の源義朝・平清盛らと崇徳上皇側の源為義・平忠正らが武力衝突した「保元の乱」に源義朝の指揮下で出陣する。
しかし、1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した「平治の乱」で、源義朝が平清盛に敗れると、常胤が約20年かけて回復させていった所領は没収され、常胤は相馬御厨と橘庄の権利を全て失う。
藤原親通(平氏側)とむすび、所領没収のキッカケを作った常陸国の佐竹義宗と、常胤に確執が生まれる。
この頃「平治の乱」で敗れた源義朝の大叔父にあたる源義隆の生後50日余りの子・源頼隆が、常胤のもとに流されてくると、常胤は厳しい平氏の監視下にありながら、この子を密かに源氏の子として庇護し大切に育てた。
1180年、平清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が34歳で挙兵し、石橋山(神奈川県小田原市)で平氏に敗れ、安房国に逃れてくると、頼朝は直ちに常胤に使者を送って加勢を求めた。
常胤はすぐ源頼朝に従うことを決意し、一族300騎を率いて救援に向かう。
この時に源氏の子として育ててきた源頼隆を伴い、源頼朝から源氏の孤児を育ててきたことを深く感謝される。
常胤がすぐに源氏軍へ参陣した背景には、源頼朝の父・源義朝との関係だけでなく、領地問題でもめた藤原親通・佐竹義宗が平氏側の立場であることも大きかった。
実際に、この後、佐竹氏討伐を進言して相馬御厨の支配を奪還する。
また、平氏に討たれた息子・日胤の仇をとるのが目的の一つでもあった。
その後、常胤は一貫して頼朝を支え、相模国鎌倉を本拠とすることを進言するなど、筆頭御家人として鎌倉幕府の創設に重要な役割を果たす。
安房国で再挙した源頼朝に東国武士が参集して大軍へと膨れ上がり、は鎌倉に入った後、駿河国富士川(現在の静岡県富士市)で平氏軍と衝突し(富士川の戦い)勝利すると、平氏打倒に焦る源頼朝はこのまま平氏を追撃して京都に進入することを望むが、常胤はそれに反対して東国を固めるように進言する。
実際に、源頼朝がここで一度地盤を固めたことが、確実に平氏を追い詰めることにつながった。
1184年、常胤は源範頼軍に属して、木曾義仲の追討、「一の谷の戦い」に参加、その後、豊後国(現在の大分県の大部分)に渡り軍功を上げる。
1185年に「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡すると、源頼朝が征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府が成立した。
1190年、奥州藤原氏を滅亡させた「奥州合戦」で、常胤は東海道方面の大将に任じられて活躍し、奥州各地に所領を得る。
源頼朝は常胤を父のように慕い、正月には必ず常胤の屋敷で新年を祝うほど厚い信頼を寄せていた。
1201年、82歳で死去。
常胤は息子たちとともに源平合戦や奥州合戦に参加し、その功績によって失った相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2か国をはじめ、東北地方から九州地方まで全国20数カ所といわれる広大な所領を獲得し、千葉氏は鎌倉幕府の中でも屈指の御家人に成長する。
獲得した所領は、千葉六党と呼ばれる常胤の6人の息子達が、それぞれ所領を分割して引き継ぎ、それぞれが本拠とした所領の地名を名乗り、分家を繰り返しながら、全国各地に広がっていった。
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1542年、室町時代末期の三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で誕生した。
父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。
松平氏は弱小な一地方豪族であった。
家康の祖父・松平清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により・家康の父・松平広忠は命を狙われ、伊勢に逃れる。
その後、帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に誠意を示すため、家康を人質として差し出すことになった。
しかし、今川氏へ送られる途中で家康は誘拐され、今川氏と対立する織田氏の人質となり、そのまま織田氏の元で数年を過ごすが、織田氏と今川氏の交渉の結果、あらためて今川氏へ送られる。
こうして家康は8歳から12年間、人質として生殺与奪権を握られる恥辱と恐怖のなかで忍従の日々を過ごした。この間に家康は正室・瀬名(築山殿)を娶る。
1560年、ついに転機が訪れた。
「桶狭間の戦い」で今川義元が、織田信長に討ち取られる。
家康は今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ戻ると、松平家の惣領として三河の地の統治を開始した。
名を元康から家康(今川義元の「元」をとった)に改め、信長と同盟を結んで(清洲同盟)背後を固めると、領地を遠江(現在の静岡県西部地方)まで広げる。
1570年、家康は遠江に堅固な浜松城(静岡県浜松市中区)を築き、ここを本拠とした。
今川氏の人質となってから21年、家康は三河と遠江を領地とする。
そんな家康を脅かす巨大な影が忍び寄っていた。
武田信玄は、甲斐、信濃、駿河など合わせて100万石を領し「人は城、人は石垣、人は掘」の言葉通り、類稀な人望で数多の戦いを勝利してきた戦国一の知略と武勇を誇る名将である。
信玄は足利義昭と連携し、当時、畿内を制していた織田信長を攻撃する予定であったが、信玄が京都へ向かう途上には、信長の同盟者・家康が邪魔な小石のように存在していた。
信玄は小手調べに家康の領土を荒らし始める。
すぐに兵を出そうとする家康に対して、信長は、家康が信玄にかなうわけがないので「遠江を渡して、三河へ戻るのが良い。」と「待った」をかけた。
織田信長
やっとの思いで手に入れた領地を手放したくない家康は「浜松城を捨てるほどならば、刀を踏み折って、武士をやめる。」と信長の忠告を無視する。
一方で、信玄は強引に攻め込もうとはせず、時間をかけて家康側の武将達の切り崩しにかかった。
信玄が家康の配下の武将達に領地を約束する書状を送って、自分の味方につくように誘いかけと、武将達は若輩の家康を見捨てて離反が相次ぎ、3年が過ぎる頃には家康の領土の2割が信玄に奪われ、戦力差はひらく一方となる。
1572年、武田軍25000が信濃と遠江の国境を越え、家康の領地に侵入。
浜松城に緊張が走った。
信玄は家康の領土内の城を次々に攻め、只来城、天方城、飯田城、各和城がわずか2日で陥落し、浜松城の目と鼻の先である二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)に迫る。
二俣城が陥落すると浜松城は裸同然となるが、家康の兵力はわずか8000で信玄の3分の1でしかなく、頼みの綱は同盟者・信長の援軍であった。
しかし、この時、古い室町幕府に対して新たな政治体制を確立しようとする信長に対して、将軍・足利義昭をはじめ信長に反対する大名や宗教勢力が次々に挙兵し、信長は四面楚歌となる。
かつてないほどの窮地に立たされ、合戦にあけくれる信長は、家康をフォローしきる余裕がなかった。
二俣城が取り囲まれてから2カ月、浜松城にようやく信長の援軍が到着するが、その数はわずか3000で家康の軍勢と合わせても武田軍の半分にも満たず、家康は愕然とする。
家康が手をこまねくうちに最後の砦である二俣城は陥落し、それまで静観していた家康方の武将が次々と信玄に寝返った。
もはや信玄と戦って勝つ可能性はほとんどなかったが、家康は自分の領土が踏みにじられているのに、おめおめと合戦をせずにいられるか、と意を決して出陣する。
決戦の場となった浜松城の西に広がる三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)は、周囲が崖で逃げることが出来ない台地で、木が一本もなく広大で、騎馬軍団にこの上なく適した戦場であった。
信玄は時間をかけて家康の領土の地形を調べ尽くし、武田軍の主力である騎馬軍団の能力を発揮できる三方ヶ原で決戦することをあらかじめ予定し、家康をこの場所におびき出す。
武田軍は浜松城の目の前をなぜか通過し、家康軍に背を見せて去って行く、家康軍が武田軍をおそるおそる追走すると、武田軍は行軍速度を変えずに三方ヶ原に到着し、そこで陣を展開することなく台地を下ろうとした。
台地を下る道は、崖で道幅が狭く、急転回は不可能な場所であったため、家康はこのチャンスをものにすれば、いかに大軍といえど、背後から取り囲んで、少しずつ殲滅することが出来ると判断して一斉攻撃を命じる。
そうして、家康軍11000が三方ヶ原に通じる坂を登り終えると、音もなく隊列を組む武田軍が待ち受けていた。
信玄は防御力の高い浜松城を攻めるのではなく、一人でも損害少なく圧勝できる条件に家康をおびきだすことに成功する。
家康軍は総崩れとなり、家康の本陣は武田軍に取り囲まれ、家康は討ち死にを覚悟するが、一人の家臣が身代わりとなって敵を引きつけ、家康は急死に一生を得た。
家康はわずかな護衛に守られながら浜松城に逃げ帰る。
ところが、その後、武田信玄が突然に病死したため、武田軍は浜松城を攻めて来なかった。
家康は「三方ヶ原の戦い」での屈辱と恐怖を噛みしめることを忘れないように、絵師に三方ヶ原で怯えていた自分の姿を描かせる。
10年後、織田信長によって武田家が滅亡させられると、家康は武田家の家臣をそっくり召し抱えた。
あの強かった信玄のやり方を知るには、信玄をよく知る家臣達を自分のものにしてしまうのが手っ取り早いと考えたのである。
1575年、武田氏の後継者となった武田勝頼よりが15000を率いて三河に侵攻する(長篠の戦い)が、この時は織田信長との連合軍38000で撃破した。
1582年「本能寺の変」において信長が明智光秀に討たれると、空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって、周辺大名らが争う(天正壬午の乱)。
結果として、上杉景勝は北部4郡の支配を維持、北条氏直は上野南部を獲得、真田昌幸が信濃国小県郡および上野国吾妻郡・同国利根郡を支配して独立勢力化、家康は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域を手に入れた。
家康は5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承して天下人になりつつある豊臣秀吉との対立が深まり「小牧・長久手の戦い」で対峙する。
1584年、秀吉軍8万に対して、家康軍は2万は小牧山に立てこもって持久戦に持ち込む。
両軍が砦の修築や土塁の構築を行ったため、双方共に手が出せなくなり、戦況は先に動いた方が負ける様相となっていたが、この我慢比べを制したのは家康であった。
しびれを切らした秀吉軍の一角が動くと、家康はすかさず奇襲を敢行し、秀吉軍を散々に打ち破る。
秀吉は態勢を立て直すと、しばらくにらみ合いあいを続けた後、引き上げた。
日の出の勢いの秀吉に兵力で劣りながら、一歩も退かずに戦った家康の名が天下に轟く。
秀吉は自らの権威を誇示するべく、大名同士の派手な争いを禁じる「惣無事令」を発令し、諸大名に大阪に来て自分への服従を示すように通達する。
これに従うことは、秀吉の命令なしに戦争しないことを約束することになるので、もっと領地をと野心を抱く大名は、この命令を拒もうとした。
秀吉としては、自分に次ぐ実力を持つ家康を呼び出せるかは今後の威厳を左右する重要な課題であったため、なりふりかまわない懐柔策に出る。
秀吉はこの時すでに44歳であった妹・旭姫との縁談を家康にもちかけ、家康もこの事実上の人質を断る理由はなかった。
さらに秀吉の母(後の大政所)が旭姫を訪ねに来て、そのまま家康の人質となったため、家康が秀吉の身内二人を人質として抱えながら大阪に出向かないでいると、天下の世論が家康に不利となって秀吉に家康征伐の大義名分を与えかねない状況になる。
1586年、家康は仕方なしに大阪城へ向かう。
明日は面会という日の夜、秀吉は突然に家康のもとを訪ね「明日は他の武将の手前、秀吉の顔を立てて欲しい。」と平身低頭たのみ込む。
あくる日、家康が約束通り臣従の礼を取ると、秀吉は昨晩の態度が嘘のように高圧的な雰囲気で、居並ぶ諸大名に家康が自分の家臣である印象を与え、公式の場で上下関係を明確にさせる秀吉の狙い通りとなった。
その見事な演出に、家康はもはや秀吉には逆らえないと覚悟する。
中国・四国の大名を従え、家康を政治力で抑えつけた秀吉は、1587年には九州を平定、1590年には関東の北条氏政の攻撃に乗り出した。
家康は北条攻めの先鋒を任され、家康が架けた橋を渡って進軍する秀吉軍21万は、小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構えをみせる。
ここで、家康は秀吉に「北条が滅びるのはもはや時間の問題。そこで、家康殿には三河を離れて、北条が治めていた関東8カ国を与えようと思うのだが。」と持ち掛けられた。
先祖伝来の三河を捨てて関東に行けとは、あまりに無理な要求であり、家康の家臣は口々に反対するが、家康は意外にも家臣達の反対を押し切り、2週間後には秀吉の命令通り、江戸へと向かう。
所領200万石の秀吉が自分よりも石高が上回る関東8カ国250万石の条件を出しているのに、それを断れば、どんな難癖をつけて攻め滅ぼそうとするか分からないと家康は判断した。
さらに秀吉は、新しい居城は小田原ではなく江戸に築くことを勧める。
そうして、江戸の地を目にした家康は、町は小さく一面の湿地帯で使える土地はわずかしかない有様に愕然した。
秀吉は手強い家康を少しでも大阪から遠ざけたいという思いと、家康が先鋒を務めて滅ぼした北条氏の関東で、土地の反感を買って、領国経営に失敗してくれたらという期待を抱く。
1590年、江戸城下町の建設を開始、山を切り崩して土地をならし、その山の土を埋め立てに使い、一石二鳥ともいえる方法で工事は進める。
家康は、海につながる運河が交わり経済の中心地として繁栄する秀吉が作った大阪の町を、町づくりのお手本に地帯に水路を作り、江戸の町の原型を造っていった。
政治体制においては、土地の石高を調べる検地を秀吉が推し進める方法ではなく、北条氏がやってきた方法を踏襲して農民との摩擦が起こらないようにし、さらに北条氏の家臣をそのまま召し抱え、古代より朝廷の権威に従わずに独立を保とうとする関東の気風を尊重し、家康の関東支配は順調に進み、秀吉のあては大きく外れる。
1598年、秀吉が死去すると時代はたちまち激動に向かう。
この時、秀吉の息子・秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられたが、秀吉亡きあとの覇権を狙い独裁的な態度を示す家康と、それを阻止しようとする豊臣家の重臣・石田三成の対立が激しくなる。
家康は反抗的な態度を取る上杉景勝を討伐すべく会津へと出陣。
この時、家康が引き連れていたのは秀吉子飼いの武将であった福島正則、池田輝政、山内一豊、細川忠興らであった。
一方、石田三成は毛利・宇喜多など西日本の武将に家康征伐を呼び掛け、豊臣秀頼を担ぎ上げて挙兵する。
こうして、家康は逆賊となって大阪は反家康で染まり、家康の周りには豊臣に忠誠を誓う武将ばかりという絶望的な状況となった。
家康が上杉討伐に連れていた武将達は親豊臣である一方で、石田三成との関係が上手くいっていなかったため、家康はそれを切り口に「家康vs三成」を「徳川vs豊臣」ではなく「豊臣家臣団の内部抗争」にすり替えていく。
秀吉は生前、家康が反旗をひるがえして大阪に攻めてきた時に備え、関東と関西の間の東海道上に有力武将を配していた。
家康が対石田三成の説得をしている武将達は、秀吉の構想では反旗をひるがえした家康の侵攻を阻止する役であったが、結果は逆に出る。
武将達が最終的に家康を選んだ背景には、三成との対立の他に、資産の差(家康250万石、三成19万石)が大きく、恩賞を目的に戦う武将達にとって、家康の資産はいざという時の担保の役目を果たすため無報酬で終わるリスクが低かった。
家康は上杉討伐に引き連れていた秀吉子飼いの武将達を味方につける事に成功し、東軍(家康側)は東海道を西進し清州城に集結し、岐阜城を落とすが、江戸城から出陣した家康の息子・秀忠が率いる徳川主力部隊36000が上田城で真田昌幸に苦戦し合流予定が崩れる。
一方、西軍(三成側)は伏見城、大垣城を制圧し東進する。
こうして、西軍82000と東軍74000が関ヶ原で対峙した。
1600年、家康は主力部隊が到着せず、西軍に数で劣り、しかも味方はもともと秀吉の子飼いばかり、さらに西軍に包囲されているという不利な布陣で、戦いにのぞむ事になる。
しかしながら「関ヶ原の戦い」は、西軍に裏切りが続出(家康が事前に画策していた)し、家康の覇権が定まった。
1603年、家康は後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命され、江戸城に幕府を開き、その支配の正当性を確立させ、その権威のもとで、全国の大名に江戸城と江戸の市街地の造成を命じる。
1605年、家康は将軍となって2年後、自ら将軍職を辞して、三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示した。
この頃、豊臣家は権力を失いながらも、父・秀吉が関白(天皇を補佐する公家の最高職)まで登りつめた豊臣秀頼は権威までは失っておらず、どこかでまた神輿として担がれる可能性を持っていたため、家康は方広寺(京都府京都市東山区)の鐘の「国家安康」の文が、家康の名を分けて呪っていると難癖をつける。
こうして1614~1615年にかけての「大坂の陣」で豊臣氏を滅ぼした。
その後、元号を平和の始まりを意味する「元和」に改元し、安定政権の基礎を固める「一国一城令」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などを発布し、家康の願い通り、徳川幕府は世界的にもマレな約300年もの長期に渡って戦争のない世を築きあげる。
1616年、74歳で駿府城(静岡県静岡市葵区)にて死去する。
その亡骸は駿府の久能山に葬られ、1年後に下野国日光(現在の栃木県日光市)に改葬された。
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清和天皇を祖とし、河内国(主に現在の大阪府東部)を本拠地として源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の流れを汲む源義朝の三男として、頼朝は1174年、尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)の藤原季範の別邸(現在の誓願寺)で生まれる。
遡る(さかのぼる)こと1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した「平治の乱」で、源氏の頭領・源義朝は関東の武士団に挙兵を呼び掛けるが、自らの所領を守ることにしか関心のない関東武士は源義朝の動員要請を拒否した。
保身に走って賢明な判断をしたつもりの関東武士は、ここから全盛期を迎える平氏の世で辛酸を舐めることになる。
兵力が不足した源義朝は、平清盛に敗北して命を落とし、源氏は没落した。
この時、源義朝の嫡男・頼朝は囚われの身となり、死刑が当然視されていたが、平清盛は池禅尼(平清盛の継母)の嘆願もあり、頼朝を殺さずに伊豆への流罪とする。
1160年、頼朝は蛭ヶ小島(現在の韮山)に流され、当初は平氏の権威を恐れた人々の冷たい目が注がれ、その境遇は厳しいものであった。
頼朝に対する監視の目は相当に厳しかったが、行動の自由はかなり認められていたようで、やがて伊豆の豪族・伊東祐親の娘と恋に落ち、男の子も生まれる。
しかし、それを知った伊東氏は、平氏に睨まれることを恐れて激怒した。二人の仲は強引に引き裂かれ、3歳になった男の子は松川の奥の淵に沈めて殺される。
源氏没落後に、朝廷で権力を握った平氏は、全国22カ国で平氏一門が国司(役人)を務めるようになり、伊豆の豪族たちも平氏に取り入ることで領地を保っていた。
ところが、1177年、頼朝は北条政子と結婚する。
政子の父・北条時政も頼朝との結婚には大反対であったが、政子の情熱と強い意思におされてしぶしぶ承諾した。
一方で「平氏にあらずんば 人にあらず」の言葉に現れている通り、京都での平氏の栄光は頂点に達し、1179年、平清盛は権力をより強固にするため、後白河法皇を幽閉し、反対派の貴族を一掃し、孫にあたる安徳天皇を即位させ、平清盛の権勢はもはや誰にも止められないかに思えた。
1180年、ついに平氏の横暴への不満が爆発し、後白河法皇の子・以仁王は決起(以仁王の乱)し、以仁王は平氏打倒を命じる書状を諸国に散らばった源氏の末裔達に発する。
それは伊豆の頼朝にも届き、さらにその2ヶ月後、平氏が以仁王の書状を受け取った源氏を追討する計画を立てているとの続報が届く。
自分の命が狙われていると知った頼朝は、否が応でも決起せざるを得なくなり、関東各地の豪族に書状を送って協力を要請するが、その返事のほとんどが「あなたが平氏にたてつくなど、富士山と背比べをするようなものだ。」というもので、頼朝のもとにはわずか40騎余りしか集まらなかった。
頼朝は伊豆国の目代(役人の代理人)・平兼隆を襲撃するが、その6日後、石橋山(現在の神奈川県小田原市)に陣を構えたとたん、瞬く間に平氏軍3000に取り囲まれ、完膚無きまでに叩き潰された頼朝はわずかな兵を従えて箱根の山中に落ち延びる。
数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、真鶴岬(神奈川県真鶴町)から船で安房国へ脱出した。
一方、平清盛は20年前に命を助けた頼朝が反旗をひるがえしたことに激怒し、平氏のエースと目されていた孫の平維盛(たいらのこれもり)24歳を総大将に頼朝追討軍を組織する。
頼朝の父・源義朝は関東の武士を味方に出来ず平氏に敗れたため、頼朝は関東の武士を味方にするために、現状に不満を持つ人々に目をつけた。
関東では平氏に取り入った一部の武士が勢力を拡大する一方で、多くの武士が先祖伝来の領地や地位を脅かされており、頼朝はそうした豪族達に「以仁王は東国各地の土地の支配権は全て頼朝に任せると言っている。」という書状を送る。
実際の以仁王から頼朝への書状には、そんなことは一言も書かれておらず、書状の内容は頼朝の捏造であったが、このハッタリが功を奏す。
頼朝のもとに、まず安房国(現在の千葉県南部)の豪族・安西氏一族が合流、さらに下総国(主に現在の千葉県北部)の千葉氏が一族300騎で合流し、頼朝は軍勢を集めながら房総半島を北上していった。
上総国(千葉県中部)の大豪族・上総広常(かずさひろつね)は平氏との関係が悪化し、その地位と所領が危うくなっていたが、未知数の頼朝を担ぎ上げて平氏を敵に回す決心もつかず、事と次第によってはその場で頼朝の首を刎ねるつもりで、2万騎を従えて頼朝に合流する。
上総広常は2万の大軍を背景に威圧的な態度で頼朝に挨拶するが、頼朝は合流が遅れた上総広常を一喝し、その迫力に気圧された上総広常は「頼朝は大将軍なり」と服従することを決断。
北上して下総国を抜けた頼朝軍は、武蔵国(主に現在の東京都・埼玉県)との国境である隅田川にさしかかるが、当時の隅田川はまるで海のようだと言われるほど水量が多く、隅田川の交通を支配していた秩父平氏の協力なしに進軍することは不可能であった。
秩父平氏は「平治の乱」で源氏が没落した後、平氏と結びついて勢力を伸ばした一族である。
しかし、この頃から100年前、秩父平氏は頼朝から4代前の源義家に従って、奥羽鎮圧に参加しており、秩父平氏はこの時に朝廷から恩賞をもらえなかったが、源義家は私財を投じて報いたため、源義家は理想の頭領として脈々と語り継がれていた。
頼朝が源氏のシンボルである白旗を隅田川の岸に70本並べると、遠い記憶を呼び覚ますこの呼びかけに秩父平氏は「平氏は今の主、頼朝は四代相伝の君なり。」と応え、頼朝は平氏に不満を持つ者だけではなく満足している者をも味方につけることに成功する。
頼朝は隅田川を渡り、白旗は武蔵国中の噂となって頼朝軍は10万へと膨れ上がり、相模国に進んで源氏に縁の深い鎌倉へと辿り着く。
その頃、平維盛は駿河国(現在の静岡県中部)に進み、頼朝軍が予想外の膨張をする一方で、平維盛は駆武者(国家の正式な徴兵)で兵を集めようとするが、人々はなんの見返りもない徴兵を逃れようとし、平氏軍は3万程度にしかならなかった。
頼朝は、平氏軍が東に進むほど少しずつとはいえ軍勢が増えるので、素早く出陣し、出来るだけ西で決戦しようと考える。
また、相模の大庭氏や常陸の佐竹氏といった平氏勢力に背後を襲われる可能性を考えた。
そこで頼朝は、足柄山で背後を守れる富士川の手前に陣を張る事を決める。
たった2ヶ月で20万の大軍に膨れ上がった頼朝軍は、箱根を越え富士川(現在の富士市)に至ると、対岸には平氏軍3万が頼朝軍の大軍勢に震え上がりながら陣取っていた。
平維盛は川を挟んで睨み合い、そのまま引き分けに持ち込めないかと考えるが、その夜、頼朝軍の一部隊が平氏軍の背後に回ろうと川を密かに渡ろうとすると、水鳥の大群が一斉に飛び立ち、極度の緊張状態にあった平氏軍はパニック状態に陥って我先にと逃げ出す。
戦わずにして勝利した頼朝はこの機に乗じて一気に京都へと攻め込むことを望んだが、千葉常胤らの意見を聞き入れ、鎌倉で勢力を固めることを選び、駿河、遠江、相模、伊豆など戦で得た土地を従った武士達に分け与えた。
遠い未来の大きな報酬よりも、例え小さくとも早い段階で手に入る報酬に、人間は期待と希望と信頼が芽生えるのである。
頼朝は打倒平氏にはやる気持ちを抑え、この段階での戦果を褒美として振る舞ったことによって、関東武士の大きな信頼を勝ち得ることに成功し、こうして作られた主従関係は源平合戦のみならず、後の鎌倉幕府確立の礎ともなった。
「富士川の戦い」を終えた頃、頼朝の弟・源義経が、頼朝の陣へと駆け付ける。
義経は父・源義朝が命を落としたあと、京都の鞍馬寺で育ち、その後、奥州藤原氏に身を寄せていたが、兄・頼朝の挙兵を知ると胸をトキメかせながら馳せ参じてきた。
兄弟二人はこれまでの境遇を語っては涙し、平氏打倒の悲願を誓いあう。
その頃、京都では、頼朝・義経の兄弟とは従兄弟にあたる木曾義仲(きそよしなか)が、平氏の大軍を破って西国に追い払い、平氏の狼藉によって荒廃した京都の治安回復を期待されていた。
ところが、木曾義仲の大軍が京都に居座り、食糧事情が悪化し、さらに皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。
1183年、朝廷は頼朝に木曾義仲の追討を命じた。
頼朝は、義経ともう一人の弟・源範頼(みなもとののりより)を木曾義仲の追討軍として派遣。
義経と範頼は木曾義仲の陣を次々に突破して京都に迫るが、京都を目前とする宇治川の橋は騎馬武者が川を渡れないように外されていた。
川は雪解け水が流れ、相当な激流であったが、義経は怖れることなく流れに馬を乗り入れ、一気に川を渡る。
時間稼ぎが出来ると踏んでいた木曾義仲は、想定外の早さで京都に侵入してきた義経に対応できずに壊滅状態となり、その後、落ち延びる途中で命を落とす。
木曾義仲を破ったのも束の間、平氏が大軍を率いて一の谷に現れた。
平氏軍は傾斜のきつい山と海に挟まれた一の谷で強固な陣を敷いていたので、源氏軍は二手に分かれて谷の両側から挟み討ちにすることを決める。
ところが、義経は突然に2万の部下を取り残し、わずか70騎を引き連れて一の谷の崖の頂上を目指すという単独行動に出た。
そして、下ることは到底不可能に思える最大傾斜60°の崖を猛スピードで下ると、崖側が完全無防備になっていた平氏軍に突撃し、虚をつかれた平氏軍は大混乱に陥れられ、源氏軍が大勝利をおさめる。
しかし、関東の武士をまとめることを第一とする頼朝は、2万の軍勢を置き去りにし、手柄を独り占めするような行動は他の武将との和を乱す行為とし、再三に渡る大勝利の功労者である義経に恩賞を与えなかった。
さらに、義経は後白河法皇より京都の警察権を握る「検非違使(けびいし)」を任じられると、官位をもらえば源氏の名があがるはずだと思い、二つ返事でそれを受け取る。
朝廷の権威を利用して権勢を誇った宿敵・平氏とは異なる関東に根差した新しい独自の権力を模索していた頼朝は、自分と義経のビジョンの違い、そして、後白河法皇の兄弟仲を離間させるための作戦に気付かない義経の政治観のなさにあきれ、義経を平氏追討軍から外した。
ところが、義経を欠いたまま平氏との戦闘を開始した源氏軍は苦戦を重ね、兵糧が欠乏し、騎馬も足りなくなり、戦場を引き上げて国に帰ろうと言いだす者も現れ出し、背に腹は代えられなくなった頼朝は義経の起用を決断。
この頃、平氏は瀬戸内海の屋島を根拠地としていたため、源氏軍は船で屋島に攻め込もうとするが、出港予定日に嵐が起こり、源氏軍は行く手を阻まれる。
義経は出港延期を主張する源氏軍を置き去りにし、わずか150騎の手勢を船に乗せて暴風の中を強行出港、またも独断で単独行動に走った。
屋島に到着した義経は、船を平氏軍の陣から遠く離れた海岸に付け、平氏軍の背後から忍び寄ると、大軍が押し寄せてきたかのように演出するため浜辺に火を放つ。
嵐で油断していた平氏軍は、突然の大軍らしき敵の襲来に驚き、慌てふためいて船に乗って逃亡し、義経はわずか150騎で平氏の大軍を海へと追い払ってしまった。
屋島の戦いから一月後、義経が率いる源氏軍は、船戦が得意な平氏軍に対して、敵の舵取りを狙うという戦法を取り、動きを封じられた平氏軍は壊滅した。
この「壇ノ浦の戦い」で源氏が勝利したことにより平家は滅亡する。
勝利の歓喜とは裏腹に戦場から「義経は勝手にふるまい、統率を乱し、関東武士の恨みを買っている。」という報告が頼朝に届く。
このままでは関東武士をまとめ上げることは困難になると判断した頼朝は、捕虜を輸送して鎌倉の近くまで戻ってきていた義経に対して「鎌倉に入ってはならない。」と告げる。
鎌倉とは目と鼻の先の腰越で、鎌倉入りの許可を待つ義経は「あらぬ告げ口に対し、私の言い分もお聞きにならないで鎌倉に入れてもらえず、私の気持ちはお伝えできず、これでは兄弟の意味もないと同じです。私が朝廷から高い位をいただいたのは、源氏の名誉でこそあれ、私の野心を示すものではあるはずがありません。どうか賢明な判断をお願いします。」といった内容の手紙を頼朝に書く。
頼朝は返事を出さず、義経は2週間待って返事が来ないことを悟ると、わずかな伴を連れて京都へと戻る。
京都で義経は、兄・頼朝からはもらうことが出来なかった平氏討伐の恩賞として、後白河法皇から伊予守(現在の愛媛県の長官)に任じられた。
一方、頼朝は義経が京都で謀反を企んでいるとの噂をから義経の身辺を探る密偵を放つ。
命を狙われていると察した義経が、朝廷に頼朝追討を願い出ると、後白河法皇はこれを許可した。
ところが、朝廷から自分を追討する命令が出されたことを知った頼朝は、5年ぶりに鎌倉を出て京都を目指す。
朝廷や公家はその噂だけで慌てふためき、頼朝を恐れた後白河法皇は、今度は頼朝による義経追討を承認する。
頼朝の大軍に対して、義経に味方しようとする者は皆無に等しく、義経は京都を逃げ去った。
頼朝はこの機に乗じて朝廷に迫り「守護(警察権)・地頭(年貢の徴収権)」という新しい役人を全国に置くことを認めさせ、関東の武士達をその職に就けて朝廷の影響力を弱めることに成功する。
1189年、頼朝は逃亡した義経をかくまった奥州藤原氏を攻撃。
頼朝の圧力に屈した藤原泰衡(ふじわらのやすひら)によって義経は自害に追いやられた。
その後、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし、全国の軍事支配を達成する。
1192年、頼朝は征夷大将軍となり、名実ともに武家政権としての鎌倉幕府を成立させ、以後700年近くに渡って続く武士の時代の幕を開けた。
1199年、51歳で死去。
多くの物語では、義経が悲劇のヒーローとして扱われ、頼朝は冷徹な兄として描かれることが多いが、頼朝の義経討伐は、関東の武士団への配慮だけではなく、義経が無意識に所属した旧体制に対する「NO!」でもあり、平氏とは異なる新たな武士の世を切り開くうえで避けては通れないものであった。
佐奈田与一
また、頼朝は石橋山を訪れては、ここで戦死した佐奈田与一を思い出して大粒の涙を流していたという。
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