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1 北海道・東北

北海道・東北 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



伊達政宗は出身は山形なのでは?という意見もあるかとは思いますが、この「47都道府県 歴史的偉人めぐり」では、領地という概念を持つ大名は出生地よりも、まず権力基盤を確定させた土地、次に最も権力を発揮した土地を優先させるつもりです。


岩手は藤原氏なのでは?と至極もっともな意見もあるかとは思いますが、だいぶ昔に高橋克彦の「火怨」を読んでからアテルイのファンなので…。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!














シャクシャイン (北海道)

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シャクシャインはシベチャリ川下流東岸(現在の新ひだか町静内地区)を拠点としていたアイヌ民族集団メナシクルの首長であった。
 
新ひだか町静内

メナシクルは、シベチャリ川上流西岸のハエ(現在の日高町門別地区)を拠点としていたアイヌ民族集団シュムクルとシブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いが続いており、メナシクルの先代首長・カモクタインはシュムクルの首長・オニビシとの抗争で殺害され、メナシクルの副首長であったシャクシャインが首長となる。
 
日高町

1668年4月、今度はシャクシャインがオニビシを殺害。




もともとアイヌ民族は松前城下や津軽・南部方面まで交易舟を出して和人製品である鉄製品・漆器・米・木綿などと、獣皮・鮭・鷹羽・昆布などの交易を比較的自由にしていた。


しかし17世紀以降、幕府により対アイヌ交易権は松前藩が独占することとなり、津軽や南部などの東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなったため、アイヌ民族は対和人交易の相手が松前藩のみとなってしまう。


アイヌ民族は取引相手が限定され、松前藩以外の選択肢がないので、交換レートはアイヌ民族に不利なものへとなり、シャクシャインの戦い前夜の1665年には、従来の「米30kg=干鮭100本」から「米10.5kg=干鮭100本」と変化し、アイヌ民族にとって極めて不利益なものとなった。


レートが不利になったことにより、アイヌ民族はそれまで以上の干鮭、熊皮、鷹羽などの天然資源を確保する必要に迫られ、これがシャクシャインとオニビシの縄張り争いの要因の一つともなる。



現代に例えると、富裕層に富が集中するシステムに目が向かないように、庶民間に勤労者と社会保障受給者を分断させるのと同じように、大くくりな同胞・同族・同階級に対立構造を作る戦略は古い時代から支配層の常套手段であった。



一方で、アイヌが交易に応じなかった場合、子供を人質に取るなどと脅して、不利になった交換レートよりもさらに安値で強引に取引することが横行し、大名の鷹狩用の鷹や砂金を掘るために蝦夷地内陸部を切り開いたり、松前藩船による鮭の大量捕獲が、アイヌ民族の生活を脅かし、アイヌ民族の和人への不満も高まっていく。

松前城

シャクシャインにオニビシを殺されたシュムクルは松前藩に武器の提供を希望するが拒否され、その使者が帰路に疱瘡で死亡してしまい、この死亡が松前藩による毒殺であるという風説が広がると、アイヌ民族の松前藩および和人に対する敵対感情が沸点に達し、対立していたメナシクルとシュムクルが一つにまとまるキッカケとなった。

1シャクシャイン

シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ松前藩への戦いを呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応し、1669年6月21日、イシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現在の白糠町)から西は天塩のマシケ(現在の増毛町)周辺において一斉蜂起が発生。



アイヌ一斉蜂起の報を受けた松前藩は、クンヌイ(現在の長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えると同時に、幕府へ援軍や武器・兵糧の支援を求めた。


幕府は松前藩の求めに応じ、弘前・津軽氏、盛岡・南部氏、秋田・佐竹氏へ出兵準備を命じ、松前藩主・松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣する。




シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、7月末にはクンヌイに到達して松前軍との戦闘が始まり、戦闘は8月上旬頃まで続くが、鉄砲主体の松前軍に対して弓矢主体のシャクシャイン軍は劣勢となり、クンヌイからの後退を余儀なくされた。

長万部町国縫

シブチャリに退いたシャクシャインが徹底抗戦の姿勢をみせたため、松前藩は戦いの長期化によって交易が途絶えることなどを危惧して、シャクシャインに和睦を申し出る。


11月16日、シャクシャインがこの和睦に応じてピポク(現在の新冠町)の松前藩陣営に出向くと、和睦の酒宴で謀殺された。

翌17日、シャクシャインの本拠地であるシブチャリが陥落。


指導者を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。


翌1670年、松前軍はヨイチ(現在の余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から松前藩への恭順の確認をし、戦後処理のための出兵は1672年まで続く。
 
2シャクシャイン

その後、松前藩は蜂起に参加しなかったアイヌ民族に対しても服従を誓わせ、松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化された。


その結果、アイヌ有力首長によって強い自立性をもっていたアイヌ民族の地域統一的な政治結合も解体されていき、松前藩にとってアイヌ民族は交易相手から強制労働者へと変わっていく。



松浦武四郎の『知床日誌』には「女は最早十六七にもなり、夫を持べき時に至ればクナシリ島へ遣られ、諸国より入来る漁者、船方の為に身を自由に取扱はれ、男子は娶る比に成らば遣られて昼夜の別なく責遣はれ、其年盛を百里外の離島にて過す事故、終に生涯無妻にて暮す者多く」と記されている。



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津軽 為信 (青森)

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1567
年、為信は大浦城主・大浦為則(為信の伯父にあたる)の養子となり大浦氏を継いで大浦城主となる。大浦氏は、北は下北半島から南は北上川中央部に及ぶ広大な領地を支配する南部一族に属していた。

 

 

 

為信が、同じ南部一族の石川高信(後の南部宗家当主・南部信直の父)を攻めることを家臣達に提案すると、兵力が不十分だと猛反対を受け、為信は「戦は兵の数ではなく、将たる者の戦略しだいだ。」と返す。

 

 

為信は自領内の堀越城(高信の石川城から2キロほどに位置する)の修復作業と称して、大工と称した数百人の兵が、土や石と称した食料や武器を運搬し、戦闘の準備を着々と進め、とりあえずの修復作業を終えると、高信の家臣を招いてもてなした。
 

石川城
 
 

157155日の夜、為信はわずか80騎ほどの兵を率いて、すっかり油断した高信の石川城(弘前市石川町)に奇襲をかけ攻略する。



以後、為信は、1576年に大光寺城を攻め滝本重行を、1578年に浪岡城を攻め北畠顕村を攻略し、南部一族での存在感を増していった。

 

 


 

1582年、南部氏最盛期を築いた南部晴政が没すると南部家内は後継者問題で顕著になる。

 

晴政のあとを継いだ晴継がすぐに13歳で急死し、南部宗家当主は石川信直(為信が倒した石川高信の子)と九戸実親(くのへ さねちか)で争われた。

 

為信は九戸実親を支持するが、南部宗家は石川信直が相続してしまい、為信は本家筋に反旗を翻す討伐対象の勢力とされる。

 


しかし、南部領内には外敵侵入が度々あり、また九戸氏が反乱することを警戒しなければならず、南部信直(石川信直)は大規模な為信討伐軍を率いることができなかった。

 

津軽 (2)
 

そのため、南部家からの独立意識を強める為信は、1585年に油川城・横内城(いずれも現在の青森市)さらに田舎館城を攻略し、1588年に飯詰高楯城(現在の五所川原市)を攻略して、津軽地方の統一を果たす。

 

津軽為信2

為信は、石田三成を介して、鷹を献上するなど豊臣秀吉への接近を計り、1590年、秀吉の小田原(北条氏)征伐の知らせが届くと、すぐさま18名の重臣を連れて駆け付け、秀吉より津軽領45000石を承認する朱印状を手に入れ、独立した大名として認知されることに成功した。


 

一方、南部家も前田利家を頼って秀吉への接近を計っていたが、期待していた成果は出せずに終わる。

 

 

 

 

為信は近衛家(藤原氏の流れをくむ有力な公家)に金品や米などの贈物をしたうえで、近衛尚通(このえ ひさみち)が奥州遊歴をした際にできた私生児が為信の祖父・大浦政信であるという伝承を主張した。

 

 

その頃、近衛前久(近衛尚通の孫で元関白)は財政難であったため、為信を猶子(準養子のようなもの)にして近衛家紋の牡丹にちなむ杏葉牡丹の使用を許す。

 
 

為信は、形式上は藤原氏の流れであるというお墨付きを得て、この頃から姓を大浦から津軽に改める。

 

関ヶ原の戦い
 

1600年、関ヶ原の戦いでは周囲がすべて東軍という状況であったため、為信は三男・信枚(のぶひら)と共に東軍として参加した。


一方で、嫡男・信建
(のぶたけ)は大坂城で豊臣秀頼に仕えており、真田氏らと同様に津軽氏は、両軍生き残り策を考えた可能性がある。

 

 

こうした意図が見え隠れしたためか、戦後の論功行賞では上野・勢多郡大館村など6か村2000石の加増に留まった。

 

津軽為信1
 

1607年、嫡男・信建が京都で病に倒れた際、為信は自身も病を陥っていたが見舞いに向かうも、到着前に信建が病死し、その2ヵ月後に為信も京都で死去する。

 

 

津軽家の跡取りとして確実視されていた嫡男・信建と、為信自身が相次いで死去したため、家督は三男・信枚が継いだ。

 

弘前城
 

為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、一度も開かれることがなかった社があり、明治になってその扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。

 

為信は、徳川幕府に処分される危険を冒しても、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていた。

 

 

また、津軽家と豊臣家の仲介役が石田三成だったため、関ヶ原の戦いで西軍が壊滅すると、三成の次男・重成を保護したり、三成の三女・辰姫を息子の信枚の妻に迎えており、義理堅い人物であったことが分かる。

 

 

 

一方で、南部宗家に対して謀反した人物と語られることも多く、「土民、童幼、婦女といえども津軽を仇敵視する」ことが南部家の気風となり、その確執は江戸時代に入っても尾を引いた。



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アテルイ (岩手)

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かつて、大和朝廷から続く中央政権から見て、現在の関東地方と東北地方といった日本列島の東方に住む人々を異端視・異族視して蝦夷
(えみし)と呼んだ。

 

 

古代の蝦夷は、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指す。

 

 

そのため、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収され、中央政権の征服地域が広がるにつれ、蝦夷と呼ばれる人々や地理的範囲は北へ北へと変化する。

 

 

中世以後の蝦夷(えぞ)はアイヌ民族を指すのが主流であるが、近年の研究で、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)の連動性は薄いことが分かっている。

 

桓武天皇
  
桓武天皇

今から約1200年以上前、桓武天皇の時代になると、朝廷は東方にさらなる支配地域を求め、本格的な蝦夷(えみし)征討が開始される。

 

軍事遠征の準備が整った788年、征東将軍・紀古佐美(きのこさみ)に、蝦夷の本拠地である胆沢遠征の命令が下された。

 

 

朝廷軍は多賀城を出発し、789年、紀古佐美は胆沢の入り口にあたる北上川支流の衣川を渡ると、軍を二手に分けて北上川の両岸から、アテルイの拠点である巣伏村(現在の奥州市水沢区)を目指して進軍する。

 

衣川

北上川左岸を進む朝廷軍4000はアテルイ軍300と遭遇、朝廷軍が逃げるアテルイ軍を深追いして巣伏村に至ると、そこにアテルイ軍800が加わって反撃に転じ、さらに朝廷軍の背後からアテルイ軍400が現れた。

 

右岸を進んでいた朝廷軍が迅速に合流できなかったため、左岸を進んでいた朝廷軍は完全に挟みうちにあう。


北上川
 
 

戦闘とは囲い込みや挟みうちの状態をいかに作るかが勝負である。

 

 

100人の集団を20人が円形に囲んでいる状態を想像してみて欲しい。この100人と20人の戦いは圧倒的に20人側が有利になる。100人側の中心部は戦闘に参加できないため、ものの数にはならず、戦闘が展開される円周部の数的優位は20人側にある。20人側は二人で一人を攻撃しながらその囲いをジリジリと狭めていくことが出来る。

 

 

この例に近づけるための様々な駆け引きがなされるのが戦闘であり、軍事の天才と呼ばれた名将達は、アレクサンドロス大王しかりユリウス・カエサルしかり韓信しかり、この駆け引きを制するセンスが抜群であった。

 

巣伏の戦いの跡碑
 

アテルイ軍の挟みうちにあった朝廷軍は崩壊し、丈部善理(はせつかべのぜんり)ら将校を含む戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人という大敗北を喫する。

 

この敗戦で、紀古佐美(きのこさみ)を征東将軍とした朝廷の胆沢遠征は失敗に終わった。

 

 

 

 

朝廷は直ちに次の胆沢遠征の準備をはじめ、征夷大将軍に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)、副将軍に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が任命される。

 

794年、この第2回の胆沢遠征では朝廷軍10万がアテルイ軍に圧倒し、蝦夷勢力は胆沢の地から一掃された。

 

 

 

ここまでの戦いでアテルイ側は多くの兵士を失い、加えて西岸一帯の荒廃から食糧難となり、もはや蝦夷勢力には抵抗する力は無くなる。

 

坂上田村麻呂
  坂上田村麻呂

しかし、
796年、朝廷は弱った蝦夷勢力にトドメを刺すべく、前回の余韻も冷めやまぬうちに坂上田村麻呂を征夷大将軍にし、801年、前回の半分以下に縮小された約4万の軍勢で第3回の胆沢遠征を開始。

 

この遠征は胆沢に止まらず、遠く閉伊地方(岩手県閉伊郡)にまで侵攻し、いったん帰京した田村麻呂は朝廷から蝦夷をほぼ完全に制したという評価を与えられた。

 

 

 

802年、田村麻呂は確保した地域に浪人4,000人を移して胆沢城の建設を開始。

 

 

アテルイ側は立て続けに大軍に侵攻され、戦力が風前の灯となったところで、巨大な胆沢城を目にし、もはや万策尽きたことを受け止める。
 

胆沢城
 

アテルイ、モレ(アテルイに次ぐ蝦夷の代表)が蝦夷の戦士500余人を率いて、胆沢城造営中の田村麻呂に投降し、アテルイらは平安京へと連行された。

 

 

 

田村麻呂は、この先の蝦夷を安定させるにはアテルイらの協力が必要であると主張し、2人の命を救うよう提言するが、京都の貴族達は「野性獣心、反復して定まりなし」と国家に抵抗した蛮族に甘い顔をする方が蝦夷の支配が安定しないと主張する。

 

 

旧暦813日、河内国椙山(現在の現在の大阪府枚方市)にてアテルイとモレは処刑された。

 

京都清水寺(アテルイ・モレ)
 

アテルイについての史料は、蝦夷に文字資料がないため、敵である朝廷側の資料『続日本紀』での「巣伏の戦い」についての紀古佐美の詳細報告と『日本紀略』でのアテルイの降伏に関する記述の二つのみであるため、人物像などは全く分かっていない。

 

 

黄金が見つかったがゆえに朝廷への恭順を求められた蝦夷であるが、もともとは朝廷から辺境と蔑まされていたがゆえに平和に暮らせていた。

 

 

アテルイ達は、蝦夷が異境に生息する人に似た獣ではなく、家族と仲間と故郷を愛する人間であるがゆえに勝ち目のない抵抗を続けたことを、失われた平和と引き換えに、少なくとも田村麻呂には伝えたのではないだろうか。

 

 


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伊達 政宗 (宮城)

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1567
年、伊達氏第16代当主・伊達輝宗とその正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の間に生まれる。

 

幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

 

1579年、伊達政宗が13歳の時、三春城(現在の福島県田村郡三春町)主・田村清顕の娘、当時12歳の愛姫を正室に迎える。

 

 

1581年、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾り、1584年、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となった。

 

伊達政宗2

1585年、政宗は大内定綱の小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめのために城中の者を皆殺しにする。


 

定綱と姻戚関係にあり政宗の攻撃を受けていた二本松義継は降伏を申し出たが、政宗はそれを受け入れず二本松付近のわずかな土地を除いた所領を没収し、大名としての地位を維持できない状況にまで追い込もうとした。


 

政宗を深く恨んだ義継は、宮森城に居た政宗の父・輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとするが、途中の粟の巣(二本松市平石高田)で政宗に追いつかれる。

 
 

政宗は鉄砲を放って、なんと輝宗もろとも一人も残さず射殺した。

 

粟の巣

政宗はこの時すでに、東北を統一し、より広く豊かな領土を求めて関東へと進出する野心をハッキリと抱いていたが、そこに天下統一を目前にしていた関白・豊臣秀吉が立ちはだかる。

 

 

秀吉は自らの権威を誇示するべく、大名同士の派手な争いを禁じる「惣無事令」を発令した。

 

 

しかし、政宗は秀吉の命令を無視して、大崎氏、最上氏、などと戦争を繰り返し、1589年、会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で撃破し、敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、戦国大名としての蘆名氏が滅亡する。

 

 

政宗は領土を急速に拡大していき、現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し、114万石を支配する東北最大の大名となっていく。

 

摺上原

この頃、秀吉に従わない大名は東北の政宗と関東の北条氏直だけであった。

 

1590年、秀吉は全国の大名に北条討伐の号令をかけ、政宗にも参陣要求がされるが、当初、政宗はこれを無視。

 

 

しかし、秀吉が20万の軍勢で小田原城を包囲すると、秀吉の強大さを知った政宗はその軍門に下ることを決め、遅れて小田原城を目指すが、秀吉は命令に従わない政宗を殺そうとしているという噂が入ってくる。

 

 

政宗は切腹の時に用いる白装束姿で秀吉の前に現れ、この死を覚悟したパフォーマンス色の濃い振る舞いが、派手好きの秀吉の気を変え、秀吉は政宗の遅参を許した。

 

 

 

小田原城が落城し、秀吉の天下統一がほぼ達成されると、政宗は秀吉を会津・黒川城に迎え、そこで衝撃的な処分を受ける。

 

 

その内容は会津・石背(いわせ)・安積(あさか)3郡を取り上げられるというもので、さらにその後、政宗は伊達家の故郷・伊達郡を含む6郡を取り上げられ、領地はほぼ現在の宮城県にあたる地に移され、伊達家は114万石から58万石に減る。

 

 

1591年、政宗は米沢城から新しい本拠である岩出山城へと移り、そこで一面に広がる荒れ地を目にすることとなった。

 

岩出山城
 
 

1593年、秀吉の最初の朝鮮出兵(文禄の役)に政宗は従軍する。

 

この時、政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は絢爛豪華なもので、他の軍勢が通過する際に静かに見守っていた京都の住民が、伊達家の軍装の見事さに歓声を上げるほどで、これ以来、派手な装いを好み着こなす人を伊達者(だてもの)と表現するようになった。

 

 

政宗は、秀吉に仕える身となった以上、秀吉のもとでの出世を目指すが、1598年、秀吉が死去する。

 

 

 

 

秀吉の死後、秀吉への忠義を果たそうとする石田三成と徳川家康が対立を深めていった。

 

 

1600年、家康は3万の兵を会津に率いて、上杉景勝討伐に向かうと、その隙に三成は大阪で挙兵し、景勝と三成は家康を挟みうちにしようとする。

 

 

そこで、家康は政宗に景勝を攻撃して会津に釘付けにするように命じた。

 

この時、家康は、その恩賞として、伊達家の旧領649万石を与える約束する。

 

 

政宗は家康の要請に応じて景勝を攻めるが、一方で別の思惑も存在していた。

 

伊達政宗1
 

家康に味方する南部氏領内で発生した一揆を支援するために、政宗は南部領に4,000の兵を侵攻させ、あわよくばその領地を奪おうとする。

 

 

家康と三成の戦いは長引き、再び群雄が割拠する世が訪れると、政宗は予想していた。

 

 

ところが、両軍あわせて16万が激突した天下分け目の「関ヶ原の戦い」は、たった一日で決着し、家康が天下を制する。

 

 

政宗が景勝を攻めたことによって、家康は三成との戦いに集中できたため、政宗は約束の恩賞を与えられ100万石の領土を手にすることを期待していたが、南部氏領内での一揆に加勢したことを口実に家康は恩賞の約束を破った。

 

 

1603年、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸幕府が成立し、以後、諸大名は幕府から領地を委ねられる時代が訪れる。

 

この江戸幕府における政宗の領地は仙台を中心に62万石に定められた。

 

 

戦国大名として天下の覇者となる夢が消滅した政宗は、絶望するどころか逆に、仙台を1000年に渡る豊かな国にし、平和的に100万石の領土を作ることを目指すようになる。

 

仙台城

1601年、仙台城、仙台城下町の建設を始め、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。

 

 

仙台藩の北上川流域は湿地が多く耕作できない土地が広がっていたので、西に広がる湿地帯の水はけを良くして新田を開発するため、政宗は北上川の流れを変える壮大な大事業に乗り出す。

 

 

5年に渡る工事の末、北上川は約3㎞東を流れることになり、西側の広大な平地が耕作可能な土地に生まれ変わり、政宗は減税を約束に農民達にその土地で水田開発させていった。

 

北上川
 

1614年、政宗は、江戸幕府が豊臣家を滅ぼした「大坂の陣」には1万の兵で参加するが、すでに恩賞に対する期待を抱かなくなっていた。

 

 

 

世情が落ち着いてからは、政宗はさらに領国の開発に力を入れ、かつて毛利輝元に仕えていた土木工事の専門家・川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし)を登用し、農地を安定させるため大雨時の洪水対策などを進める。

 

川村孫兵衛重吉 (2)
  
川村孫兵衛重吉 

 

こうして、有り余るほどに生産されるようになった米は、江戸に送って売りさばかれるようになり、やがて江戸に入ってくる米の3分の2は仙台藩の米といわれるようになっていく。

 

 

 

江戸に米を送り始めて16年の後、1636年、政宗は70歳で世を去った。

 

 

 

江戸時代の中頃には、仙台藩の実質的な石高は100万石を超えるようになる。

 

 

秀吉に領地を取り上げられ、家康に約束を破られ、ついえたはずの100万石の夢は、政宗の死後80年を経て平和的に達成された。

 

 


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佐竹 義宣 (秋田)

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1570
年、佐竹義宣(さたけよしのぶ)が太田城(現在の茨城県常陸太田市)で生まれた頃、父の義重は、那須氏を攻めていたが、那須氏当主・那須資胤の娘を義宣の妻に迎えること等を条件に和睦する。

 

義宣は3歳であった。

 

 

15861590年の間に、義宣は、父・義重の隠居によって家督を相続し、佐竹氏19代当主となる。

 

太田城
 

この頃の佐竹氏は、小田原・北条氏と和議を結んで常陸国(現在の茨城)から南方の安全をはかっていたが、北方では義宣の弟・蘆名義広(あしなよしひろ)が城主となっていた黒川城は、伊達政宗に陥落させられ、南奥州の基盤を失っていた。

 

 

佐竹氏は伊達氏と対立しながら、豊臣秀吉、石田三成、上杉景勝と親交を結び、1589年、秀吉から北条征伐への出陣命令を受ける。

 

 

 

義宣は伊達政宗(義宣にとって母方の従兄にあたる)と対峙している最中であったため、直ちに命令に従うことはできなかったが、1590年、宇都宮国綱ら与力大名(より大きな大名に加勢として附属した武将)を含めた1万の軍勢を率いて北条氏の本拠地・小田原へ向かった。

 

 

義宣は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、秀吉のもとを訪れると臣下の礼をとり、石田三成の指揮下で忍城(現在の埼玉県行田市)を攻めた。

 

忍城
 

北条征伐の後、伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館、南郷)について、義宣は秀吉から所領支配権を認められる。

 

 

また、本領である常陸国(結城氏領を除く)および下野国の一部は「佐竹氏50.2:与力家来49.8」の割合での所領支配となるが、秀吉に服従せずに独立を認められなかった勢力も佐竹氏の配下として編入されたため、家臣化が不十分で領主権力は貧弱であった。

 

 

 

以後、義宣は常陸国全域に支配を及ぼすため、1590年、北条征伐に参陣しなかった江戸重通(えどしげみち)の水戸城を攻め落とし、そのまま南下し、大掾清幹(だいじょうきよもと)の常陸府中城(石岡城)を攻めて大掾氏を滅亡させ、常陸国全域の領主権力の強化に成功し、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将といわれる。

 

水戸城
 

1595年、太閤検地(豊臣秀吉が日本全土で行なった田畑の収穫量調査)を経て、義宣は54万石の支配を認める朱印状を秀吉から受けた。

 

 

 

1598年に秀吉が死去すると、秀吉への忠義を果たそうとする石田三成と徳川家康が対立を深めていく。

 

 

 

1600年、徳川家康より義宣は、上杉景勝の討伐を命じられるが、この時期の佐竹氏は東軍につくとも西軍につくともいえない状態でいた。

 

佐竹義宣1
 

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、家康が天下を手中にすると、義宣は伏見にいる家康のもとへ向かい、途中、神奈川で会った秀忠(家康の子で後の2代目将軍)に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康に謝罪および家名存続の懇願をする。

 

 

 

1602年、義宣は、出羽国秋田郡に国替え(転封)の命令を家康から受けた。

 

これは54万石から20万石への減転封である。

 

 

その理由は家康への恭順をハッキリさせなかったことに加え、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざけるためであった。

 

土崎湊城
 

義宣は秋田の土崎湊城に入城すると、角館城、横手城、大館城などを拠点に内政を行い、仙北地方で起こった一揆を平定して領内の安定をはかる。

 

 

後に土崎湊城に代わって本城となる久保田城の築城は1603年から始まった。

 

 

久保田藩の初代藩主となった義宣は、家柄や旧例にとらわれず能力本位で仕事を任せ、浪人あがりから家老となった渋江政光などは農業生産と藩財政の安定に貢献する。

 

そうした成果から、江戸中期の久保田藩の実高は45万石にも上った。

 

 

しかし、こうしたことは譜代(数代にわたって主家に仕えた家臣)の老臣の反感を買い、川井忠遠らが義宣の暗殺を企てることに繋がる。

 

久保田城
 

 

1614年、徳川方として参陣した「大坂冬の陣」で義宣は上杉景勝とともに、今福の戦いで、木村重成などの軍勢を撤退させ、これが戦況に大きな影響を与えたので、幕府における佐竹軍の評価は高まり「大阪冬の陣」で幕府から感状を受けたわずか12名のうち5名が佐竹家中の者であった。


大阪冬の陣


義宣の妻は、正室・正洞院
(那須資胤の娘)、後室・大寿院(多賀谷重経の娘)、側室・岩瀬御台(蘆名盛興の娘)など数人いたが、跡取りとなる男子がいなかったため、紆余曲折ありながら亀田藩主であった岩城吉隆(義宣の甥)が久保田藩の第2代藩主となる。

 

 

 

1633年、義宣は江戸神田屋敷にて64歳で死去した。

 

 


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上杉 鷹山 (山形)

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1751
年、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。

 

鷹山の父は能力主義の登用を進め、兄は日本初の子ども手当を実施するなど、秋月家には名君を生みだす気風が存在していた。

 

鷹山の教育係だった細井平洲は「民をみる時に、怪我人をみるように、飢えている人をみたら自分が飢えているように思えないなら殿様になってはいけない。」と鷹山に教え込む。
 

高鍋城
 

1760年、米沢藩主・上杉重定の養子となって米沢藩邸に移る。

 

しかし、これは弱小藩の次男坊が名門上杉家の当主となるサクセスストーリーとはいかなかった。

 

 

上杉家の祖先である上杉謙信は越後(現在の新潟県)を中心に120万石を支配した戦国時代屈指の英雄であったが、謙信の死後、上杉家の領地は豊臣秀吉によって東北に移される。

 

関ヶ原の戦いでは敗れた西軍に味方したため、江戸時代になると領地は30万石に大きく削減され、その後さらに3代藩主・綱勝が世継ぎを決めずに急死したため、お家断絶の危機(江戸時代の大名家は世継ぎを幕府に伝えなくてはならなかった)にさらされた。

 

幕府の温情でお家断絶は免れたものの、領地はついに15万石にまで減らされる。

 

米沢
 

しかし、領地が減っても、上杉家へ仕えることを誇りとする会津120万石時代の家臣5,000人は離れず、同じ規模の他藩の3倍の家臣を抱え (今でいうと公務員が多すぎる状態)、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与え、過剰な公務員を支えているようなものである農村は疲弊していた。

 

 

米沢藩は慢性的な赤字で、1771年の米沢藩は収入3万両に対して支出7万両(うち4万両が借金返済分)となっている。

 


 

そんな有様の中で、1767年、鷹山は17歳で上杉家の家督を継ぎ、米沢藩の第9代藩主の座に就く。

 

 

鷹山はまず藩主自ら倹約に努め、生活費はそれまでの7分の1に切り詰めた。

 

しかし、鷹山の義理の父である先代・重定は名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改めようとはせず、領民救済は幕府に委ね、お家返上を本気で考えるほど政治に投げやりであり、鷹山は倹約の難しさを悟る。

 
 

竹俣当綱
  竹俣当綱

鷹山は、産業に明るい竹俣当綱
(たけまたまさつな)と、財政に明るい莅戸善政(のぞきよしまさ)という二人の家臣を抜擢し、先代任命の家老らと厳しく対立した。

 
莅戸善政
  
莅戸善政 

 

倹約だけでは財政再建はとても出来ないため、鷹山は米の生産を上げるため、武士にも田畑を耕させ、鷹山自らも鍬を握るが、こうした改革は、名門上杉家の伝統を汚すとして旧臣達の反発を大きく買う。

 

 

藁科立沢は鷹山から仕事ぶりが不真面目であると減俸された不満から、同じように不満を持つ重臣7名を集め、1773年、鷹山に改革中止を訴えた(七家騒動)


 

当時の常識から考えると、武士を田畑に入らせる鷹山に圧倒的な非があり、苦しい状況になった鷹山が場を立ち去ろうとする。

 
 

すると、一人が鷹山の裾を引っ張って引き止めようとする事態となり、これは主君に対する態度としては、武家社会では万死に値する極めて無礼な行為だったため、鷹山は厳しい処分を下す口実を得ることになった。

 
 

その結果、鷹山は、2人を切腹、5人を隠居、首謀者である藁科立沢は斬首という厳しい処分を下し、保守派の勢力を強硬に排除する。

 

七家騒動
 

保守派の抵抗を乗り切った鷹山は、竹俣当綱を中心に本格的な財政再建に乗り出す。

 

漆の木100万本を藩全体に植林し、そこからロウソクを作り始めるが、その頃、ハゼの実から作る低価格高品質なハゼロウが市場に出回り始め、米沢のロウソクは悪ロウとまで呼ばれ、市場から淘汰される。

 


 

1782年、上杉家では謙信の命日には酒を飲んではいけない決まりがあったが、竹俣当綱は命日の朝まで飲み明かすという失態を演じた。

 

 

改革の中心となった竹俣当綱は権力に奢るようになっており、公費の乱用、度を越した接待、派閥的な人事などのスキャンダルが明るみになり、鷹山のもとには竹俣当綱への批判が次々と舞い込む。それにともなって藩内は改革への不満が渦巻いた。

 

鷹山は竹俣当綱を隠居させ禁固刑にする。

 

その半年後、莅戸善政が隠居を願い出た。

 

こうして、鷹山は腹心二人を失う。

 

 

 

 

1783年、信州の浅間山が大噴火し、噴煙は関東から東北に広がり、日照が遮られて米の収穫は激減し、東北地方の農村を中心に推定約2万人の餓死者が出る「天明の大飢饉」となり、米沢藩は11万石の被害を出す。


天明の大飢饉
 

その大損害の5ヶ月後、今度は贅を尽くした先代・重定の御殿が焼失し、重定は財政難にも関わらず新しい御殿の建設に着手する。

 

 

鷹山の改革は挫折し、鷹山は35歳で藩主の座を退くことになった。

 


 

 

新たな藩主の座には、先代・重定の実子(鷹山が養子となった後に生まれた)である治広が就き、鷹山は自身の養子でもある治広に「国家と人民のために君主を立てるのであって、君主のために国家や人民があるのではない。」と想いを託すが、その願いもむなしく、新しい藩主の儀式などの出費で財政はさらに悪化。

 

 

藩はこれに対して家臣の給料33%削減で対応する。

 

その結果、生活に困った家臣の中には年貢徴収の際に不正をする者が現れるようになり、農民達から余分に年貢を徴収して差額を懐に入れるといったことが横行した。

 

 

こうした重税に耐えかねた農民達は、田畑を捨てて米沢藩から逃げていき、13万人だった人口は9万人まで減り、需要が減った城下町では商品が売れなくなり、商人が藩に納める税金は激減する。

 

 

この惨状に胸を痛めていた鷹山は、再び改革の舵取りに乗り出す決意を固めていく。
 

上杉鷹山1

1790年、鷹山はそれまで上層部しか把握していなかった財政状況を、初めて藩士に対して公開し、さらに武士だけでなく農民や町人からも財政再建のためのアイディアを募った。

 

 

それにより、政治への不信感は払拭されていき、身分に関係なく採用された優れた意見の中には、かつて鷹山が処分した改革反対派の息子によるアイディアもあり、これが大きな転機となる。

 

 

それは、蚕のエサとなる桑の苗木を無料配布し、藩全体に桑の木の栽培方法や蚕の飼育方法を周知し、藩をあげて士農工商みなで養蚕に取り組むというものであった。

 

桑の木
 

こうして地元で生産された生糸を、さらに下級武士の妻や子ども達に機織りを学ばせて誕生したのが、米沢織である。

 

 

それは、もともと米沢藩が輸出していた麻糸の一種「からむし」が、大和に行くと「奈良さらし」へと付加価値を付けて高価なものに変わっている流れを、今度は原料を提供するだけではなくヒット商品に変えるところまで米沢藩でやるというものであった。

 

米沢織

鷹山は最初の改革では、倹約(痛み)の後の希望を示していなかったが、二度目は経済を理解させることによって、生産品に対する希望と誇りを持たせることに成功する。

 

 

米沢織は藩士の生活を支える産業へと発展していき、こうした中で超ヒット商品「透綾」が開発され、開発した下級武士は3万両もの資産を誇る大金持ちとなった。

 

 

 

二度目の改革で鷹山は、倹約ではなく、攻めの経営で一人のリストラも出さずに、20万両(現在の価値で換算すると約100億円)におよぶ借金を抱えていた藩財政は立ち直り、72歳で鷹山が死去した翌年、米沢藩は借金をほとんど返済し終える。

 

上杉鷹山2
 

二度目の改革から33年目であった。



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保科 正之 (福島)

保科正之700x1000


1611
年、正之は江戸の神田白銀町で生まれる。

 

母・お静は徳川第2代将軍・徳川秀忠の乳母・大姥局の侍女であった。

 

 

下級女中を妾にする場合はしかるべき家の養女として出自を整えるのが常識であったが、正之はそれがなされずに生まれたうえ、秀忠の正室・お江は嫉妬深く側室を認めない女性であったため、お江を恐れた秀忠は正之を認知しなかったので、正之は生涯、父親と対面することなく終わる。

 

徳川秀忠
  
徳川秀忠
 

こうした事情もあり、幼い正之はお江に見つかれば命の危険もあった。

 

 

そんな正之を保護したのは武田信玄の娘・見性院で、見性院は正之の存在を知ったお江から再三の引き渡し要求があっても毅然と断り続けて、養育にあたる。

 

 

7歳になった正之は、見性院の縁で旧武田氏家臣の高遠藩(現在の長野県伊那市)主・保科正光に託され、高遠城で正之は母と生活した。

 

 

高遠は石高わずか3万石の弱小藩であったが、ここで正之が後に名君となる人格が形成される。

 

この頃、正之が教育係の家臣と農家を回っていた時「馬を農家に入れてはいけない。馬が穀物や野菜を食べてしまったら、農民の心はつかめない。」と教えられた。

 

 

1631年、正之は養父・保科正光の跡を継ぎ、21歳で高遠藩3万石の藩主となる。

 

長野県伊那市

高遠藩主となった正之が、3代将軍・徳川家光と謁見するために江戸城に行った際、正之は大名衆の末席に座るが、正之が家光の弟であることは噂になっていたため、大名達は正之に上座を勧めるが、正之は「自分は小さな藩の藩主で若輩者ですから。」と末席から動かなかった。

 

家光は正之のこの態度に好感を抱く。

 

 

家光が正之という弟の存在を知ったのは、家光が身分を隠して目黒に5人ほどの供を連れて成就院という寺で休憩していた時、そこの僧侶から「肥後守殿(正之のこと)は今の将軍家の弟君である。」と聞かされたからと言われている。

 

 

家光に気に入られた正之は、家光が朝廷へ向かう際のお伴や秀忠の墓所造営などの仕事を任され、1636年には石高7倍増という異例の大出世となる山形藩20万石に転封された。

 

徳川家光
   
徳川家光


1637
年、原城(長崎県南島原市南有馬町乙)で迫害を受けたキリシタンや農民が武装蜂起した一揆軍3万を幕府が12万の軍勢で殲滅する。

 

この「島原の乱」の大きな原因は、領主の過酷な年貢の取り立てや圧政であったため、島原藩主・松倉勝家と唐津藩主・寺沢堅高はお家断絶の処分となった。

 

原城
 

正之はこの出来事から、反乱が起きるのは政治の責任であると認識し、善政へ邁進するようになる。

 

 

 

 

1643年、会津藩23万石へさらなる出世を遂げた正之が初めてお国入りした頃、会津は、前藩主・加藤明成の過酷な年貢の取り立てと「寛永の大飢饉」によって国土は荒廃し切っていた。

 

 

正之が藩全体の正確な石高を調査すると、前藩主は実際の取れ高よりも多く年貢を徴収する不正をしていたことが分かったため、正之は年貢を低く修正して減税する。

 

 

前藩主・加藤明成は百姓一揆が起きたら全村なで斬りにすると豪語する決断力あるリーダーであったため、農民達には自分の身は自分で守らなければならないという意識が強かったため、隠していた水田が少なくなかった。

 

 

しかし、正之の減税に感動した農民達は隠していた水田を自主的に申告し、その結果、税収は逆にプラスとなる。

 

会津

減税によって税収を増やした正之は、藩が米を備蓄して凶作や飢饉に備える「社倉制度」を実施し、7000俵からスタートした社倉は10年後には23000俵、幕末には10万俵と拡充し続け、会津藩では度重なる飢饉でも餓死者を一人も出さなかった。

 

 

さらに、年を取って働けなくなった老人は一家のお荷物とされたこの時代、会津では長生きは良いこととして、90歳以上の老人には「養老扶持」として掛け金なしの生涯年金が支給されるようになる。

 

 

1889年にドイツ帝国のビスマルクによる「年金保険」が年金制度のさきがけとされているが、正之はその226年前の1663年に「養老扶持」を開始していた。

 

 

こうして、「社倉制度」や「養老扶持」で、将来不安が減少した会津の領民の消費は活性化し、経済を発展させることになる。

 

 

また、領民に限らず旅人も対象にした医療の無料化によって、多くの行商人が集まり、これも会津の経済を発展させた。

 

会津若松城2
 

1651年、家光は死の間際に正之を枕頭に呼び寄せ「家綱を頼むぞ。」と言い残す。

 

父に認知されなかった正之にとって、時の将軍である兄からの信頼はなによりもの存在肯定であった。

 

これに感銘した正之は、11歳で4代将軍となった家綱と幕府のために尽くし、1668年には「会津家訓十五箇条」を定め、その第一条は「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。」で、以降、会津藩の藩主・藩士はこれを忠実に守る。

 

 

しかし、幕末には、この遺訓を守ることによって、会津藩は過酷な運命を辿ることになった。

 

明暦の大火

1657年、本郷丸山の本妙寺より出火した「明暦の大火」は、その火の手が江戸城にまで迫って来る。

 

 

幕閣達は将軍・家綱をどこに避難させるかで議論し、それぞれの別荘や屋敷に迎えようとするが、正之は「本丸に火が廻ったら西の丸に移れば良い。西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣を立てれば良い。城外へ将軍を動かすなどもってのほかだ。」と進言した。

 

 

リーダーが軽々しく動けば人心が動揺すると考えた正之は、将軍を江戸城に留めることで災害本部を明確にし、徳川家はどんな時も江戸の町を統治するのだという事を人々に示す。

 

 

また、将軍が避難先を選べば、選ばれた家臣と選ばれなかった家臣とが、後々門閥闘争を起こす可能性もあり、将軍個人を逃がすという意味では決してベストとはいえないこの正之の判断は、本物の危機回避であり、一石二鳥の戦略であった。

 

浅草御蔵
 

火の手はさらに浅草御蔵(江戸最大の米蔵)に迫る。

 

火消し達がことごとく出払っている状況で、正之は「米蔵の米、取り放題」という奇策を打ち出す。

 

これは米経済のこの時代では、国家の金庫を解放して現金掴み取りの大判振る舞いをするようなものであった。

 

飲まず食わずの被災者達は、食料欲しさに道々で必死に火を消しながら米蔵を目指したため、被災者が消防隊として働き、焼失するはずだった米が救援物資になるという、まさに一石二鳥の結果となる。

 


 

10万人もの死傷者を出し、焦土と化した江戸の町を、正之は火事に強い町へ作り変えるべく復興に乗り出す。
 

上野広小路
 

まず、建物から建物へ火が移りにくい町にするため、幹線道路を拡大し、上野広小路はこの時に作られた。

 

次に、当時は敵の侵入を防ぐため隅田川に橋を架けることは制限されていたが、多くの人が墨田川に飛び込み溺死したため、正之は軍事より市民の安全を優先して両国橋を建設する。

これは江戸が隅田川を越えて発展するキッカケにもなった。

 

両国橋
 

焼失した江戸城天守閣の再建は中止し、そのための費用や資材は復興に回される。

 

 

復興には16万両という国庫が空になるほどの資金が投入されたため、多くの反対意見ももあったが、正之は「こういう時に使うために貯めてきたのだ。こういう時に使わないのであれば、最初から貯めなければ良い。」と、反対の声を一蹴した。

 

 

こうして、大災害を教訓に民の安全を第一にしたことで、交通・経済を活性化させ、江戸は世界に例を見ない100万都市へと発展した。

 

 

 

江戸幕府は、幕府権力の絶対優位を確立するために、3代将軍・家光までに131の大名家が厳罰化された「大名改易」で取り潰され、職にあぶれた大量の浪人が不満分子となり、それが社会不安となる。

 

 

力で抑える政治に限界を感じていた正之は、江戸時代という世界的にも珍しい300年間も戦争のない太平の世を印象付ける政策を打ち出していく。

 

保科正之2
 

「末期養子(まつごようし)の禁の緩和」

後継ぎのいない大名家を取り潰して徳川の権力を盤石にするために、それまで後継ぎのいない大名が死の間際に養子を迎え、お家の存続をはかる末期養子を幕府は禁じていたが、正之は末期養子を認めることで、諸藩に幕府の共存共栄の意思を示す。

 

 

「大名証人制の廃止」

幕府は、大名の家族や家臣を人質として差し出させ、謀反を起こさせないようにしていたが、これを廃止して、信用による和平路線へと前進する。

 

 

「殉死の禁止」

殉死は、主君が死んだ後、家臣が後を追って切腹することで、主君への忠義を示すものである。

正之は、これからの時代は、忠義を示すのは藩や幕府などの政治体制であるべきだと考えていたため、殉死を禁止することによって、個人を崇拝する独裁的な気風に対して意識改革をもたらした。

 

保科正之1

1669年、正之は嫡男の正経に家督を譲って隠居し、1672年に江戸三田の藩邸で死去した。

 

 

正之は幕府より松平姓(徳川家と祖先を同じくする家臣の姓)を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通し、第3代・正容になってようやく松平姓と葵の紋(徳川一門の家紋)が使用されるようになる。

 

 


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