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【『 47都道府県 歴史的偉人めぐり 』】

徳川 家康 (東京)

徳川家康700x1000

 

1542年、室町時代末期の三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で誕生した。

 

父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。

 

 

松平氏は弱小な一地方豪族であった。

 

家康の祖父・松平清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により・家康の父・松平広忠は命を狙われ、伊勢に逃れる。


 

その後、帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に誠意を示すため、家康を人質として差し出すことになった。

 

 

しかし、今川氏へ送られる途中で家康は誘拐され、今川氏と対立する織田氏の人質となり、そのまま織田氏の元で数年を過ごすが、織田氏と今川氏の交渉の結果、あらためて今川氏へ送られる。

 

 

こうして家康は8歳から12年間、人質として生殺与奪権を握られる恥辱と恐怖のなかで忍従の日々を過ごした。この間に家康は正室・瀬名(築山殿)を娶る。

 

今川義元
   
今川義元
 

1560年、ついに転機が訪れた。

 

「桶狭間の戦い」で今川義元が、織田信長に討ち取られる。

 

 

家康は今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ戻ると、松平家の惣領として三河の地の統治を開始した。

 

名を元康から家康(今川義元の「元」をとった)に改め、信長と同盟を結んで(清洲同盟)背後を固めると、領地を遠江(現在の静岡県西部地方)まで広げる。

 

 

1570年、家康は遠江に堅固な浜松城(静岡県浜松市中区)を築き、ここを本拠とした。

 

今川氏の人質となってから21年、家康は三河と遠江を領地とする。


浜松城
 

そんな家康を脅かす巨大な影が忍び寄っていた。

 

 

武田信玄は、甲斐、信濃、駿河など合わせて100万石を領し「人は城、人は石垣、人は掘」の言葉通り、類稀な人望で数多の戦いを勝利してきた戦国一の知略と武勇を誇る名将である。


 

信玄は足利義昭と連携し、当時、畿内を制していた織田信長を攻撃する予定であったが、信玄が京都へ向かう途上には、信長の同盟者・家康が邪魔な小石のように存在していた。

 

信玄は小手調べに家康の領土を荒らし始める。

 

すぐに兵を出そうとする家康に対して、信長は、家康が信玄にかなうわけがないので「遠江を渡して、三河へ戻るのが良い。」と「待った」をかけた。

 

織田信長
  
織田信長

やっとの思いで手に入れた領地を手放したくない家康は「浜松城を捨てるほどならば、刀を踏み折って、武士をやめる。」と信長の忠告を無視する。

 

 

一方で、信玄は強引に攻め込もうとはせず、時間をかけて家康側の武将達の切り崩しにかかった。

 

信玄が家康の配下の武将達に領地を約束する書状を送って、自分の味方につくように誘いかけと、武将達は若輩の家康を見捨てて離反が相次ぎ、3年が過ぎる頃には家康の領土の2割が信玄に奪われ、戦力差はひらく一方となる。

 

 

1572年、武田軍25000が信濃と遠江の国境を越え、家康の領地に侵入。

 

浜松城に緊張が走った。

 

信玄は家康の領土内の城を次々に攻め、只来城、天方城、飯田城、各和城がわずか2日で陥落し、浜松城の目と鼻の先である二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)に迫る。


武田信玄
  
武田信玄
 

二俣城が陥落すると浜松城は裸同然となるが、家康の兵力はわずか8000で信玄の3分の1でしかなく、頼みの綱は同盟者・信長の援軍であった。

 

 

しかし、この時、古い室町幕府に対して新たな政治体制を確立しようとする信長に対して、将軍・足利義昭をはじめ信長に反対する大名や宗教勢力が次々に挙兵し、信長は四面楚歌となる。

 

 

かつてないほどの窮地に立たされ、合戦にあけくれる信長は、家康をフォローしきる余裕がなかった。

 

 

二俣城が取り囲まれてから2カ月、浜松城にようやく信長の援軍が到着するが、その数はわずか3000で家康の軍勢と合わせても武田軍の半分にも満たず、家康は愕然とする。

 

 

家康が手をこまねくうちに最後の砦である二俣城は陥落し、それまで静観していた家康方の武将が次々と信玄に寝返った。

 

二俣城

もはや信玄と戦って勝つ可能性はほとんどなかったが、家康は自分の領土が踏みにじられているのに、おめおめと合戦をせずにいられるか、と意を決して出陣する。

 

 

 

決戦の場となった浜松城の西に広がる三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)は、周囲が崖で逃げることが出来ない台地で、木が一本もなく広大で、騎馬軍団にこの上なく適した戦場であった。

 

 

信玄は時間をかけて家康の領土の地形を調べ尽くし、武田軍の主力である騎馬軍団の能力を発揮できる三方ヶ原で決戦することをあらかじめ予定し、家康をこの場所におびき出す。

 

 

 

武田軍は浜松城の目の前をなぜか通過し、家康軍に背を見せて去って行く、家康軍が武田軍をおそるおそる追走すると、武田軍は行軍速度を変えずに三方ヶ原に到着し、そこで陣を展開することなく台地を下ろうとした。

 

 

台地を下る道は、崖で道幅が狭く、急転回は不可能な場所であったため、家康はこのチャンスをものにすれば、いかに大軍といえど、背後から取り囲んで、少しずつ殲滅することが出来ると判断して一斉攻撃を命じる。

 

 

そうして、家康軍11000が三方ヶ原に通じる坂を登り終えると、音もなく隊列を組む武田軍が待ち受けていた。

 

 

信玄は防御力の高い浜松城を攻めるのではなく、一人でも損害少なく圧勝できる条件に家康をおびきだすことに成功する。
 

三方ヶ原の戦い
 

家康軍は総崩れとなり、家康の本陣は武田軍に取り囲まれ、家康は討ち死にを覚悟するが、一人の家臣が身代わりとなって敵を引きつけ、家康は急死に一生を得た。

 

家康はわずかな護衛に守られながら浜松城に逃げ帰る。

 

 

ところが、その後、武田信玄が突然に病死したため、武田軍は浜松城を攻めて来なかった。

 

 

家康は「三方ヶ原の戦い」での屈辱と恐怖を噛みしめることを忘れないように、絵師に三方ヶ原で怯えていた自分の姿を描かせる。

 

徳川家康1

10年後、織田信長によって武田家が滅亡させられると、家康は武田家の家臣をそっくり召し抱えた。

 

あの強かった信玄のやり方を知るには、信玄をよく知る家臣達を自分のものにしてしまうのが手っ取り早いと考えたのである。

 

 

 

1575年、武田氏の後継者となった武田勝頼よりが15000を率いて三河に侵攻する(長篠の戦い)が、この時は織田信長との連合軍38000で撃破した。

  

長篠の戦い
 

1582年「本能寺の変」において信長が明智光秀に討たれると、空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって、周辺大名らが争う(天正壬午の乱)

 

 

結果として、上杉景勝は北部4郡の支配を維持、北条氏直は上野南部を獲得、真田昌幸が信濃国小県郡および上野国吾妻郡・同国利根郡を支配して独立勢力化、家康は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域を手に入れた。

 

 

 

家康は5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承して天下人になりつつある豊臣秀吉との対立が深まり「小牧・長久手の戦い」で対峙する。

 

小牧山
 

1584年、秀吉軍8万に対して、家康軍は2万は小牧山に立てこもって持久戦に持ち込む。

 

両軍が砦の修築や土塁の構築を行ったため、双方共に手が出せなくなり、戦況は先に動いた方が負ける様相となっていたが、この我慢比べを制したのは家康であった。

 

しびれを切らした秀吉軍の一角が動くと、家康はすかさず奇襲を敢行し、秀吉軍を散々に打ち破る。

 

秀吉は態勢を立て直すと、しばらくにらみ合いあいを続けた後、引き上げた。

 

日の出の勢いの秀吉に兵力で劣りながら、一歩も退かずに戦った家康の名が天下に轟く。

 

長久手の戦い
 

秀吉は自らの権威を誇示するべく、大名同士の派手な争いを禁じる「惣無事令」を発令し、諸大名に大阪に来て自分への服従を示すように通達する。

 

 

これに従うことは、秀吉の命令なしに戦争しないことを約束することになるので、もっと領地をと野心を抱く大名は、この命令を拒もうとした。

 

 

秀吉としては、自分に次ぐ実力を持つ家康を呼び出せるかは今後の威厳を左右する重要な課題であったため、なりふりかまわない懐柔策に出る。

 

 

秀吉はこの時すでに44歳であった妹・旭姫との縁談を家康にもちかけ、家康もこの事実上の人質を断る理由はなかった。

 

 

さらに秀吉の母(後の大政所)が旭姫を訪ねに来て、そのまま家康の人質となったため、家康が秀吉の身内二人を人質として抱えながら大阪に出向かないでいると、天下の世論が家康に不利となって秀吉に家康征伐の大義名分を与えかねない状況になる。

 

 

1586年、家康は仕方なしに大阪城へ向かう。

 

 

明日は面会という日の夜、秀吉は突然に家康のもとを訪ね「明日は他の武将の手前、秀吉の顔を立てて欲しい。」と平身低頭たのみ込む。

 

 

あくる日、家康が約束通り臣従の礼を取ると、秀吉は昨晩の態度が嘘のように高圧的な雰囲気で、居並ぶ諸大名に家康が自分の家臣である印象を与え、公式の場で上下関係を明確にさせる秀吉の狙い通りとなった。

 

その見事な演出に、家康はもはや秀吉には逆らえないと覚悟する。

 

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

中国・四国の大名を従え、家康を政治力で抑えつけた秀吉は、1587年には九州を平定、1590年には関東の北条氏政の攻撃に乗り出した。

 

 

家康は北条攻めの先鋒を任され、家康が架けた橋を渡って進軍する秀吉軍21万は、小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構えをみせる。

 

 

ここで、家康は秀吉に「北条が滅びるのはもはや時間の問題。そこで、家康殿には三河を離れて、北条が治めていた関東8カ国を与えようと思うのだが。」と持ち掛けられた。

 

 

先祖伝来の三河を捨てて関東に行けとは、あまりに無理な要求であり、家康の家臣は口々に反対するが、家康は意外にも家臣達の反対を押し切り、2週間後には秀吉の命令通り、江戸へと向かう。

 

 

所領200万石の秀吉が自分よりも石高が上回る関東8カ国250万石の条件を出しているのに、それを断れば、どんな難癖をつけて攻め滅ぼそうとするか分からないと家康は判断した。

 

 

さらに秀吉は、新しい居城は小田原ではなく江戸に築くことを勧める。

 

そうして、江戸の地を目にした家康は、町は小さく一面の湿地帯で使える土地はわずかしかない有様に愕然した。

 

 

秀吉は手強い家康を少しでも大阪から遠ざけたいという思いと、家康が先鋒を務めて滅ぼした北条氏の関東で、土地の反感を買って、領国経営に失敗してくれたらという期待を抱く。

 

 

1590年、江戸城下町の建設を開始、山を切り崩して土地をならし、その山の土を埋め立てに使い、一石二鳥ともいえる方法で工事は進める。

 

江戸城

家康は、海につながる運河が交わり経済の中心地として繁栄する秀吉が作った大阪の町を、町づくりのお手本に地帯に水路を作り、江戸の町の原型を造っていった。

 

 

政治体制においては、土地の石高を調べる検地を秀吉が推し進める方法ではなく、北条氏がやってきた方法を踏襲して農民との摩擦が起こらないようにし、さらに北条氏の家臣をそのまま召し抱え、古代より朝廷の権威に従わずに独立を保とうとする関東の気風を尊重し、家康の関東支配は順調に進み、秀吉のあては大きく外れる。

 

徳川家康3
 

1598年、秀吉が死去すると時代はたちまち激動に向かう。

 

 

この時、秀吉の息子・秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられたが、秀吉亡きあとの覇権を狙い独裁的な態度を示す家康と、それを阻止しようとする豊臣家の重臣・石田三成の対立が激しくなる。

 

 

家康は反抗的な態度を取る上杉景勝を討伐すべく会津へと出陣。

 

この時、家康が引き連れていたのは秀吉子飼いの武将であった福島正則、池田輝政、山内一豊、細川忠興らであった。

 

 

一方、石田三成は毛利・宇喜多など西日本の武将に家康征伐を呼び掛け、豊臣秀頼を担ぎ上げて挙兵する。

 

 

こうして、家康は逆賊となって大阪は反家康で染まり、家康の周りには豊臣に忠誠を誓う武将ばかりという絶望的な状況となった。

 

 

家康が上杉討伐に連れていた武将達は親豊臣である一方で、石田三成との関係が上手くいっていなかったため、家康はそれを切り口に「家康vs三成」を「徳川vs豊臣」ではなく「豊臣家臣団の内部抗争」にすり替えていく。


石田三成
  
石田三成
 

秀吉は生前、家康が反旗をひるがえして大阪に攻めてきた時に備え、関東と関西の間の東海道上に有力武将を配していた。

 

 

家康が対石田三成の説得をしている武将達は、秀吉の構想では反旗をひるがえした家康の侵攻を阻止する役であったが、結果は逆に出る。

 

 

武将達が最終的に家康を選んだ背景には、三成との対立の他に、資産の差(家康250万石、三成19万石)が大きく、恩賞を目的に戦う武将達にとって、家康の資産はいざという時の担保の役目を果たすため無報酬で終わるリスクが低かった。

 

 

家康は上杉討伐に引き連れていた秀吉子飼いの武将達を味方につける事に成功し、東軍(家康側)は東海道を西進し清州城に集結し、岐阜城を落とすが、江戸城から出陣した家康の息子・秀忠が率いる徳川主力部隊36000が上田城で真田昌幸に苦戦し合流予定が崩れる。

 

 

一方、西軍(三成側)は伏見城、大垣城を制圧し東進する。

 

 

こうして、西軍82000と東軍74000が関ヶ原で対峙した。

 

 

1600年、家康は主力部隊が到着せず、西軍に数で劣り、しかも味方はもともと秀吉の子飼いばかり、さらに西軍に包囲されているという不利な布陣で、戦いにのぞむ事になる。

 

 

しかしながら「関ヶ原の戦い」は、西軍に裏切りが続出(家康が事前に画策していた)し、家康の覇権が定まった。

 

関ヶ原の戦い
 

1603年、家康は後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命され、江戸城に幕府を開き、その支配の正当性を確立させ、その権威のもとで、全国の大名に江戸城と江戸の市街地の造成を命じる。

 

 

1605年、家康は将軍となって2年後、自ら将軍職を辞して、三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示した。

 

 

この頃、豊臣家は権力を失いながらも、父・秀吉が関白(天皇を補佐する公家の最高職)まで登りつめた豊臣秀頼は権威までは失っておらず、どこかでまた神輿として担がれる可能性を持っていたため、家康は方広寺(京都府京都市東山区)の鐘の「国家安康」の文が、家康の名を分けて呪っていると難癖をつける。

 

 

こうして16141615年にかけての「大坂の陣」で豊臣氏を滅ぼした。

 

 

その後、元号を平和の始まりを意味する「元和」に改元し、安定政権の基礎を固める「一国一城令」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などを発布し、家康の願い通り、徳川幕府は世界的にもマレな約300年もの長期に渡って戦争のない世を築きあげる。

 

日光東照宮
 

1616年、74歳で駿府城(静岡県静岡市葵区)にて死去する。

 

 

その亡骸は駿府の久能山に葬られ、1年後に下野国日光(現在の栃木県日光市)に改葬された。




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源 頼朝 (神奈川)

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清和天皇を祖とし、河内国(主に現在の大阪府東部
)を本拠地として源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の流れを汲む源義朝の三男として、頼朝は1174年、尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)の藤原季範の別邸(現在の誓願寺)で生まれる。

 

 

遡る(さかのぼる)こと1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した「平治の乱」で、源氏の頭領・源義朝は関東の武士団に挙兵を呼び掛けるが、自らの所領を守ることにしか関心のない関東武士は源義朝の動員要請を拒否した。

 

 

保身に走って賢明な判断をしたつもりの関東武士は、ここから全盛期を迎える平氏の世で辛酸を舐めることになる。

 

 

兵力が不足した源義朝は、平清盛に敗北して命を落とし、源氏は没落した。
 

源義朝
  
源義朝
 

この時、源義朝の嫡男・頼朝は囚われの身となり、死刑が当然視されていたが、平清盛は池禅尼(平清盛の継母)の嘆願もあり、頼朝を殺さずに伊豆への流罪とする。

 

 

1160年、頼朝は蛭ヶ小島(現在の韮山)に流され、当初は平氏の権威を恐れた人々の冷たい目が注がれ、その境遇は厳しいものであった。

 

 

頼朝に対する監視の目は相当に厳しかったが、行動の自由はかなり認められていたようで、やがて伊豆の豪族・伊東祐親の娘と恋に落ち、男の子も生まれる。

しかし、それを知った伊東氏は、平氏に睨まれることを恐れて激怒した。二人の仲は強引に引き裂かれ、3歳になった男の子は松川の奥の淵に沈めて殺される。

 

 

源氏没落後に、朝廷で権力を握った平氏は、全国22カ国で平氏一門が国司(役人)を務めるようになり、伊豆の豪族たちも平氏に取り入ることで領地を保っていた。

 

 

ところが、1177年、頼朝は北条政子と結婚する。

政子の父・北条時政も頼朝との結婚には大反対であったが、政子の情熱と強い意思におされてしぶしぶ承諾した。

 

源頼朝6
 

一方で「平氏にあらずんば 人にあらず」の言葉に現れている通り、京都での平氏の栄光は頂点に達し、1179年、平清盛は権力をより強固にするため、後白河法皇を幽閉し、反対派の貴族を一掃し、孫にあたる安徳天皇を即位させ、平清盛の権勢はもはや誰にも止められないかに思えた。

 

 

1180年、ついに平氏の横暴への不満が爆発し、後白河法皇の子・以仁王は決起(以仁王の乱)し、以仁王は平氏打倒を命じる書状を諸国に散らばった源氏の末裔達に発する。

 

それは伊豆の頼朝にも届き、さらにその2ヶ月後、平氏が以仁王の書状を受け取った源氏を追討する計画を立てているとの続報が届く。

 

 

自分の命が狙われていると知った頼朝は、否が応でも決起せざるを得なくなり、関東各地の豪族に書状を送って協力を要請するが、その返事のほとんどが「あなたが平氏にたてつくなど、富士山と背比べをするようなものだ。」というもので、頼朝のもとにはわずか40騎余りしか集まらなかった。

 

蛭ヶ小島
 

頼朝は伊豆国の目代(役人の代理人)・平兼隆を襲撃するが、その6日後、石橋山(現在の神奈川県小田原市)に陣を構えたとたん、瞬く間に平氏軍3000に取り囲まれ、完膚無きまでに叩き潰された頼朝はわずかな兵を従えて箱根の山中に落ち延びる。

 

石橋山


数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、真鶴岬
(神奈川県真鶴町)から船で安房国へ脱出した。

 

 

一方、平清盛は20年前に命を助けた頼朝が反旗をひるがえしたことに激怒し、平氏のエースと目されていた孫の平維盛(たいらのこれもり)24歳を総大将に頼朝追討軍を組織する。

 

平維盛
  
平維盛
 

頼朝の父・源義朝は関東の武士を味方に出来ず平氏に敗れたため、頼朝は関東の武士を味方にするために、現状に不満を持つ人々に目をつけた。

 

 

関東では平氏に取り入った一部の武士が勢力を拡大する一方で、多くの武士が先祖伝来の領地や地位を脅かされており、頼朝はそうした豪族達に「以仁王は東国各地の土地の支配権は全て頼朝に任せると言っている。」という書状を送る。

 

 

実際の以仁王から頼朝への書状には、そんなことは一言も書かれておらず、書状の内容は頼朝の捏造であったが、このハッタリが功を奏す。

 

 

頼朝のもとに、まず安房国(現在の千葉県南部)の豪族・安西氏一族が合流、さらに下総国(主に現在の千葉県北部)の千葉氏が一族300騎で合流し、頼朝は軍勢を集めながら房総半島を北上していった。

 

 

上総国(千葉県中部)の大豪族・上総広常(かずさひろつね)は平氏との関係が悪化し、その地位と所領が危うくなっていたが、未知数の頼朝を担ぎ上げて平氏を敵に回す決心もつかず、事と次第によってはその場で頼朝の首を刎ねるつもりで、2万騎を従えて頼朝に合流する。

 

 

上総広常は2万の大軍を背景に威圧的な態度で頼朝に挨拶するが、頼朝は合流が遅れた上総広常を一喝し、その迫力に気圧された上総広常は「頼朝は大将軍なり」と服従することを決断。

 

上総広常
   
上総広常
 

北上して下総国を抜けた頼朝軍は、武蔵国(主に現在の東京都・埼玉県)との国境である隅田川にさしかかるが、当時の隅田川はまるで海のようだと言われるほど水量が多く、隅田川の交通を支配していた秩父平氏の協力なしに進軍することは不可能であった。

 

秩父平氏は「平治の乱」で源氏が没落した後、平氏と結びついて勢力を伸ばした一族である。

 

 

しかし、この頃から100年前、秩父平氏は頼朝から4代前の源義家に従って、奥羽鎮圧に参加しており、秩父平氏はこの時に朝廷から恩賞をもらえなかったが、源義家は私財を投じて報いたため、源義家は理想の頭領として脈々と語り継がれていた。

 

 

頼朝が源氏のシンボルである白旗を隅田川の岸に70本並べると、遠い記憶を呼び覚ますこの呼びかけに秩父平氏は「平氏は今の主、頼朝は四代相伝の君なり。」と応え、頼朝は平氏に不満を持つ者だけではなく満足している者をも味方につけることに成功する。

 

 

頼朝は隅田川を渡り、白旗は武蔵国中の噂となって頼朝軍は10万へと膨れ上がり、相模国に進んで源氏に縁の深い鎌倉へと辿り着く。

 

源頼朝2
 

その頃、平維盛は駿河国(現在の静岡県中部)に進み、頼朝軍が予想外の膨張をする一方で、平維盛は駆武者(国家の正式な徴兵)で兵を集めようとするが、人々はなんの見返りもない徴兵を逃れようとし、平氏軍は3万程度にしかならなかった。

 

 

 

頼朝は、平氏軍が東に進むほど少しずつとはいえ軍勢が増えるので、素早く出陣し、出来るだけ西で決戦しようと考える。

また、相模の大庭氏や常陸の佐竹氏といった平氏勢力に背後を襲われる可能性を考えた。

 

そこで頼朝は、足柄山で背後を守れる富士川の手前に陣を張る事を決める。

 

 

たった2ヶ月で20万の大軍に膨れ上がった頼朝軍は、箱根を越え富士川(現在の富士市)に至ると、対岸には平氏軍3万が頼朝軍の大軍勢に震え上がりながら陣取っていた。

 

 

平維盛は川を挟んで睨み合い、そのまま引き分けに持ち込めないかと考えるが、その夜、頼朝軍の一部隊が平氏軍の背後に回ろうと川を密かに渡ろうとすると、水鳥の大群が一斉に飛び立ち、極度の緊張状態にあった平氏軍はパニック状態に陥って我先にと逃げ出す。


富士川
 

戦わずにして勝利した頼朝はこの機に乗じて一気に京都へと攻め込むことを望んだが、千葉常胤らの意見を聞き入れ、鎌倉で勢力を固めることを選び、駿河、遠江、相模、伊豆など戦で得た土地を従った武士達に分け与えた。

 

 

遠い未来の大きな報酬よりも、例え小さくとも早い段階で手に入る報酬に、人間は期待と希望と信頼が芽生えるのである。

 

 

頼朝は打倒平氏にはやる気持ちを抑え、この段階での戦果を褒美として振る舞ったことによって、関東武士の大きな信頼を勝ち得ることに成功し、こうして作られた主従関係は源平合戦のみならず、後の鎌倉幕府確立の礎ともなった。

 

 

 

「富士川の戦い」を終えた頃、頼朝の弟・源義経が、頼朝の陣へと駆け付ける。

 

義経は父・源義朝が命を落としたあと、京都の鞍馬寺で育ち、その後、奥州藤原氏に身を寄せていたが、兄・頼朝の挙兵を知ると胸をトキメかせながら馳せ参じてきた。

 

兄弟二人はこれまでの境遇を語っては涙し、平氏打倒の悲願を誓いあう。

 

源義経
  
源義経
 

その頃、京都では、頼朝・義経の兄弟とは従兄弟にあたる木曾義仲(きそよしなか)が、平氏の大軍を破って西国に追い払い、平氏の狼藉によって荒廃した京都の治安回復を期待されていた。

 

ところが、木曾義仲の大軍が京都に居座り、食糧事情が悪化し、さらに皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。

 

1183年、朝廷は頼朝に木曾義仲の追討を命じた。

 

 

頼朝は、義経ともう一人の弟・源範頼(みなもとののりより)を木曾義仲の追討軍として派遣。

 

義経と範頼は木曾義仲の陣を次々に突破して京都に迫るが、京都を目前とする宇治川の橋は騎馬武者が川を渡れないように外されていた。

 

 

川は雪解け水が流れ、相当な激流であったが、義経は怖れることなく流れに馬を乗り入れ、一気に川を渡る。

 

 

時間稼ぎが出来ると踏んでいた木曾義仲は、想定外の早さで京都に侵入してきた義経に対応できずに壊滅状態となり、その後、落ち延びる途中で命を落とす。


宇治川の戦い
 

木曾義仲を破ったのも束の間、平氏が大軍を率いて一の谷に現れた。

 

平氏軍は傾斜のきつい山と海に挟まれた一の谷で強固な陣を敷いていたので、源氏軍は二手に分かれて谷の両側から挟み討ちにすることを決める。

 

ところが、義経は突然に2万の部下を取り残し、わずか70騎を引き連れて一の谷の崖の頂上を目指すという単独行動に出た。

 

そして、下ることは到底不可能に思える最大傾斜60°の崖を猛スピードで下ると、崖側が完全無防備になっていた平氏軍に突撃し、虚をつかれた平氏軍は大混乱に陥れられ、源氏軍が大勝利をおさめる。

 

 

しかし、関東の武士をまとめることを第一とする頼朝は、2万の軍勢を置き去りにし、手柄を独り占めするような行動は他の武将との和を乱す行為とし、再三に渡る大勝利の功労者である義経に恩賞を与えなかった。

 

一ノ谷の戦い

さらに、義経は後白河法皇より京都の警察権を握る「検非違使(けびいし)」を任じられると、官位をもらえば源氏の名があがるはずだと思い、二つ返事でそれを受け取る。

 

 

朝廷の権威を利用して権勢を誇った宿敵・平氏とは異なる関東に根差した新しい独自の権力を模索していた頼朝は、自分と義経のビジョンの違い、そして、後白河法皇の兄弟仲を離間させるための作戦に気付かない義経の政治観のなさにあきれ、義経を平氏追討軍から外した。

 

 

ところが、義経を欠いたまま平氏との戦闘を開始した源氏軍は苦戦を重ね、兵糧が欠乏し、騎馬も足りなくなり、戦場を引き上げて国に帰ろうと言いだす者も現れ出し、背に腹は代えられなくなった頼朝は義経の起用を決断。

 

 

この頃、平氏は瀬戸内海の屋島を根拠地としていたため、源氏軍は船で屋島に攻め込もうとするが、出港予定日に嵐が起こり、源氏軍は行く手を阻まれる。

 

義経は出港延期を主張する源氏軍を置き去りにし、わずか150騎の手勢を船に乗せて暴風の中を強行出港、またも独断で単独行動に走った。

 

 

屋島に到着した義経は、船を平氏軍の陣から遠く離れた海岸に付け、平氏軍の背後から忍び寄ると、大軍が押し寄せてきたかのように演出するため浜辺に火を放つ。

 

 

嵐で油断していた平氏軍は、突然の大軍らしき敵の襲来に驚き、慌てふためいて船に乗って逃亡し、義経はわずか150騎で平氏の大軍を海へと追い払ってしまった。


屋島

平氏軍は屋島から壇ノ浦に逃亡する。

 

 

屋島の戦いから一月後、義経が率いる源氏軍は、船戦が得意な平氏軍に対して、敵の舵取りを狙うという戦法を取り、動きを封じられた平氏軍は壊滅した。

 

この「壇ノ浦の戦い」で源氏が勝利したことにより平家は滅亡する。

 

壇ノ浦の戦い
 

勝利の歓喜とは裏腹に戦場から「義経は勝手にふるまい、統率を乱し、関東武士の恨みを買っている。」という報告が頼朝に届く。

 

 

このままでは関東武士をまとめ上げることは困難になると判断した頼朝は、捕虜を輸送して鎌倉の近くまで戻ってきていた義経に対して「鎌倉に入ってはならない。」と告げる。

 

 

鎌倉とは目と鼻の先の腰越で、鎌倉入りの許可を待つ義経は「あらぬ告げ口に対し、私の言い分もお聞きにならないで鎌倉に入れてもらえず、私の気持ちはお伝えできず、これでは兄弟の意味もないと同じです。私が朝廷から高い位をいただいたのは、源氏の名誉でこそあれ、私の野心を示すものではあるはずがありません。どうか賢明な判断をお願いします。」といった内容の手紙を頼朝に書く。

 

 

頼朝は返事を出さず、義経は2週間待って返事が来ないことを悟ると、わずかな伴を連れて京都へと戻る。

 

腰越
 

京都で義経は、兄・頼朝からはもらうことが出来なかった平氏討伐の恩賞として、後白河法皇から伊予守(現在の愛媛県の長官)に任じられた。

 

 

一方、頼朝は義経が京都で謀反を企んでいるとの噂をから義経の身辺を探る密偵を放つ。

 

命を狙われていると察した義経が、朝廷に頼朝追討を願い出ると、後白河法皇はこれを許可した。

 

 

ところが、朝廷から自分を追討する命令が出されたことを知った頼朝は、5年ぶりに鎌倉を出て京都を目指す。


朝廷や公家はその噂だけで慌てふためき、頼朝を恐れた後白河法皇は、今度は頼朝による義経追討を承認する。

 

 

頼朝の大軍に対して、義経に味方しようとする者は皆無に等しく、義経は京都を逃げ去った。

 

 

頼朝はこの機に乗じて朝廷に迫り「守護(警察権)・地頭(年貢の徴収権)」という新しい役人を全国に置くことを認めさせ、関東の武士達をその職に就けて朝廷の影響力を弱めることに成功する。

 

源頼朝

1189年、頼朝は逃亡した義経をかくまった奥州藤原氏を攻撃。

 

頼朝の圧力に屈した藤原泰衡(ふじわらのやすひら)によって義経は自害に追いやられた。

 

その後、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし、全国の軍事支配を達成する。

 

 

1192年、頼朝は征夷大将軍となり、名実ともに武家政権としての鎌倉幕府を成立させ、以後700年近くに渡って続く武士の時代の幕を開けた。

 

 

1199年、51歳で死去。

 

 

 

多くの物語では、義経が悲劇のヒーローとして扱われ、頼朝は冷徹な兄として描かれることが多いが、頼朝の義経討伐は、関東の武士団への配慮だけではなく、義経が無意識に所属した旧体制に対する「NO!」でもあり、平氏とは異なる新たな武士の世を切り開くうえで避けては通れないものであった。

 
佐奈田与一1
  佐奈田与一

また、頼朝は石橋山を訪れては、ここで戦死した佐奈田与一を思い出して大粒の涙を流していたという。




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上杉 謙信 (新潟)

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1530
年、越後守護代・長尾為景の四男(または次男、三男とも)として春日山城に生まれる。

母は越後栖吉城主・長尾房景の娘・虎御前。

 

春日山城

現在では日本有数の米所である新潟も戦国時代は湿地帯が広がり耕地は限られ、そのわずかな耕地を巡って越後国の豪族達は激しい争いを繰り返していた。

 

 

謙信は城下の林泉寺に入門し、住職の天室光育の教えを受けたとされ、19歳の時に病弱な兄から家督を譲られると、国内の平定に乗り出し、電撃かつ正確無比の攻撃、カリスマ性あふれる抜群の統率力、ずば抜けた軍事の才で連戦連勝を重ねる。

 

上杉謙信4

 
一方で、幼い頃から仏教の教えに接していた謙信は、果てしない争いに辟易としていた。

謙信は心の救いを求めて、高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺、京の大徳寺など諸国の寺を訪ね、24歳の時、仏に帰依する証として、五つの戒律を与えられる。

 

そうして、謙信は人をむやみに殺すことを禁じる「殺生戒」から、殺生をしないで国を治めることを考えた。

 

耕地に恵まれない越後国に富をもたらすために謙信は、まだ木綿が普及していなかったこの時代に肌着や夏服の素材として珍重されていた青苧(あおそ)という植物繊維の生産を奨励する。

 

さらに謙信は、柏崎や直江津などの港を整備して流通ルートを確立し、自ら京の都でセールスを敢行し、製品の販売に力を尽くす。

 

 

商業の発達によって人々の生活は格段に潤い、国内の争いはなくなっていき、戦争をせずに国を治めるという謙信の夢は実現するかに思われた。

 

青苧
 

しかし、その豊かな越後は甲斐の武田信玄に執拗に狙われることとなる。

 

1541年に武田氏の家督を継いだ信玄は信濃攻略に乗り出し、およそ12年で信玄の領土は越後との国境付近まで広がり、信濃で信玄の領土になっていなかったのは川中島の一帯だけとなった。
 

武田信玄
  
武田信玄
 

謙信は、信玄に攻められた信濃の豪族からの救援要請に応えて川中島に出陣する。

 

「第一次川中島合戦」1553年若くして自ら戦の先頭に立ち連戦連勝を重ねてきた軍事の天才である謙信は武田軍を圧倒し、さらに武田軍を追って次々に武田領内の城を落とし、信玄の川中島侵攻を防ぎ切った謙信は越後へと引き返していった。

 

 

 

1554年、信玄は利害の一致した今川・北条との三国同盟を成立させ自領の背後を固めると、再び川中島への侵攻を計画する。

 

 

この時、信玄は越後から川中島に至る街道のすぐ近くにある旭山城に目を付け、この地域に力を持つ善光寺の栗田鶴寿(くりたかくじゅ)を味方につけた。

 

 

「第二次川中島合戦」1555年、謙信が川中島に進軍するために犀川を渡ろうとすると、武田側についた旭山城が謙信を側面からけん制し、そのまま進軍すると上杉軍は武田軍本隊と旭山城に挟み討ちにあう状況となる。

 

 

謙信は犀川の北の岸辺で足止めを余儀なくされ、両軍は犀川を挟んでにらみ合いを続け、対峙すること200日、両軍共に限界が近づくと、信玄は川中島を元の領主に返すことを条件に謙信へ停戦を呼び掛け、この停戦交渉を受け入れた謙信は越後へと引き返す。

 

 

しかし2年後、雪で謙信が出兵できないタイミングを見計らうと、信玄は協定を無視して川中島に侵攻し、信濃の豪族達は滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊され、民衆の悲しみの声は絶えず、謙信は約束を破った信玄に激怒する。

 

 

「第三次川中島合戦」1557年、謙信は川中島へと出陣すると、川中島からさらに奥へ進撃するが、武田軍は決戦を避けて遠くから監視するということを繰り返した。

 

 

正面から戦おうとしない信玄に謙信は苛立ちを募らせながらも、これ以上敵中に深追いして信玄の術中にはまる危険性を察知し、越後へと帰っていく。

 

川中島
 

「第三次川中島合戦」から2年後の1559年に謙信は京都へ行き、権力を失いつつあった室町幕府の将軍・足利義輝と面会する。

 

 

室町幕府は、戦に勝っても領土を増やそうとせず義を重んじる謙信に大きな期待を寄せ、関東を統率する室町幕府の要職「関東管領」に任じ、関東の秩序回復という大義名分を得た謙信は、関東各地に遠征するが、そのいずれもが他の領主や幕府から出陣を求められたもので、それらの戦いによって謙信自身は領地をほとんど増やさなかった。

 

 

 

そんな折に、武田信玄と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られ、武田・今川・北条の三国同盟に大きな混乱と動揺が生じる。

 

 

謙信はこの三国同盟の動揺を逃さず、北条氏が支配する関東平野への侵攻を始め、わずか7カ月で北条氏の拠点・小田原城まで進撃した。


上杉謙信1
 

北条氏の小田原城が落ちると、今川氏は義元の死によって混乱の中にあり、武田の領地は三方向から謙信に包囲されるという状況になるため、信玄は焦りをつのらせ、1561年、信玄は越後を目指して甲府を出陣し、川中島の南に築いた海津城に拠点を構える。

 

 

これを知った謙信は、すぐに関東平定を中止し、素早く川中島に到着すると、そのまま武田軍の目の前で千曲川を渡り、武田軍の拠点・海津城の間近にある妻女山に陣を張った。

 

 

両者が陣を張ってから15日、信玄は闇に乗じて上杉軍の立て篭もる妻女山の背後へと別働隊12000を出撃させる。

 

 

信玄とった作戦は、兵を二つに分け、別働隊が上杉軍を背後から奇襲し、上杉軍が山から下りたところを本隊で迎え討ち、最終的に挟み討ちにするという「きつつき戦法」と呼ばれるものであった。

 

妻女山
 

しかし、謙信は前日の夕刻に武田軍の動きを察知して、この作戦を見抜く。

 

謙信はすぐさま下山の準備をするように指令を下し、上杉軍は武田別働隊に背後をつかれる前に下山の行軍を開始する。

 

上杉軍は、全ての馬に薪を噛ませて鳴かないようにし、兵は一切声を出さないように厳命され、上杉軍13000は一糸乱れね見事な沈黙の行軍で密かに千曲川を渡り、闇の中で千曲川の北・八幡原に布陣した。

 

 

一方で武田軍本隊は、濃い霧がたちこめていた早朝の川中島で、別動隊に妻女山から追い落とされ慌てて下山する上杉軍を待ち構える。

 

しかし、やがて夜が明け霧がはれていくと、信玄はすでに布陣して攻撃態勢万全で立ちはだかる上杉軍の姿を目にすることとなった。


第四次川中島の戦い
 

上杉軍が怒涛の攻撃を開始すると、予期せぬ事態に遭遇して動揺した武田軍は劣勢となり、武田軍の防御は次々に破られ、乱戦の最中、武田軍の本陣は手薄となる。

 

 

武田側の資料「甲陽軍鑑」では「白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、騎馬武者の馬が槍で刺されると、騎馬武者はその場を立ち去った。」と記され、上杉謙信が武田信玄に自ら斬りかかったという伝説が生まれた。

 

上杉謙信・武田信玄
 

武田軍が上杉軍の猛攻を耐え凌ぐこと4時間、武田軍別働隊がようやく千曲川を渡り八幡原へ到着し、武田軍の怒涛の反撃が始まると戦況は一転、武田軍優勢となって、上杉軍は撤退する。

両軍あわせて死傷者27000を出した激戦「第四次川中島の合戦」に終止符がうたれた。

 

 

 

1564年「第五次川中島の合戦」と呼ばれるこの時は、謙信と信玄は川中島で遭遇するも共に戦うことなく撤退。

 

 

その後、越後への侵攻を断念してその矛先を南へと向けた信玄が、今川氏との戦いで海路を断たれて塩(人間は塩分が不足すると死亡するうえ、この時代は入手が簡単ではなく貴重であった。)が手に入らなくなると、信玄のもとに謙信から大量の塩が届けられ、この故事から「敵に塩を送る」という言葉が生まれた。

 

 

 

 

宿敵・武田信玄との戦いが落ち着いた1569年、京都にいた織田信長の使者が謙信のもとを訪れ「謙信公の武威の誉れは挙げればきりがありません。この信長が手堅く申し付けて将軍家の御所を経営し、お守りいたします。」という書状が届く。

 

 

信長は国境を接する武田信玄を当面の敵としていたため、謙信とは友好関係を持ちたい思惑があった。

 

 

謙信は信長の室町幕府を守るという言葉を信じ、1572年、上杉謙信と織田信長は同盟を結ぶ。

 

 

しかし、1573年、武田信玄が死去した直後、信長は将軍・足利義昭を京都から追放し、約240続いた室町幕府が滅亡し、さらに信長は勢いそのまま、近江の浅井氏と越前の朝倉氏を滅ぼし、その勢力を拡大した。


織田信長
  
織田信長
 

しかし、信長は軍事の天才である謙信とは敵対しないように根回しをする。

 

信長は南蛮渡来のビロードのマントなど珍しい品々の贈り物攻勢を仕掛けた。

1574年には、現在国宝となっている「洛中洛外図屏風」を贈る。

その「洛中洛外図屏風」は、将軍クラスしか乗ることが許されない黒い輿に乗る謙信が描かれており、一緒に京を治めましょうというメッセージと受け止められるものだった。

 

 

 

ところが1575年「長篠の戦い」にて新兵器である鉄砲を駆使して武田軍を撃破した信長は、戦争への自信を深め、越中にいた謙信の重臣である村上氏に離反を促し、さらに常陸の佐竹氏、下野の小山氏などと友好関係を結ぼうとする。

 

 

これらを知った謙信のもとに、京都を追われた足利義昭の使者が訪れ「幕府再興のために信長を討ち、急ぎ上洛して欲しい。」と懇願され、同盟をないがしろにされ信長への怒り爆発寸前の謙信は、それに応じて信長討伐を決意した。

 

 

 

一方、信長も謙信の上洛を阻止するため1576年、琵琶湖の東岸に安土城の築城を開始し、謙信と対決する準備を整える。

 

 

謙信は、堅固な要塞を構えて信長と敵対していた大阪石山本願寺と西国の実力者・毛利氏と同盟を結び、上杉・西山本願寺・足利義昭・毛利氏という反織田包囲網を成立させた。

 

 

謙信は「たとえ信長、億万の軍衆を列ね、山を抜く勢いあるといえども、予が獅奮の矛先に向かいては叶うべからず。」と西に向けて出陣する。


上杉謙信5
 

謙信は途中で越中を平定し、さらに能登に進出すると畠山氏の七尾城(現在の石川県七尾市古城町)を囲んだ。

 

七尾は日本海航路の中心であったため、ここを押さえると船を使って越後から大量の兵糧を運べるため、謙信としてはぜひともとりたい拠点であった。

 

 

謙信は、火あぶりや釜茹でなどで数万人が虐殺され信長から徹底的な弾圧を受けていた加賀一向一揆の勢力と手を結び、難攻不落といわれた七尾城を落として能登を勢力下におく。

 

七尾城
 

謙信の動きを知った信長は焦り、柴田勝家、前田利家、羽柴秀吉からなる4万の主力部隊を七尾城に差し向ける。

 

 

上杉軍は槍や騎馬が主体で大量に鉄砲を揃えた織田軍に装備が劣るため、謙信は鉄砲対策として、合戦を標的が見えない夜に持ち込むことを考え、上杉軍は合言葉の周知訓練を徹底し、暗闇でも統率がとれるようにした。

 

 

織田軍4万が手取川を越えたところに陣を張るのを確認した謙信は、数日来雨が続いた夜に、37000の軍勢を突撃させ、一糸乱れぬ攻撃を仕掛ける。

 

 

突然の奇襲に混乱した織田軍は、雨で火薬がしめり夜で相手が見えず鉄砲が威力を発揮しなかった。

さらにパニック状態となった織田軍は、手取川を渡って退却しようとするが、川は雨で濁流と化し、多くの溺死者を出す。

 

 

織田軍の惨敗は「上杉におうては織田も手取川。はねる謙信、逃ぐる信長。」と言われて瞬く間に評判となり、謙信も「戦ってみると信長は案外弱い。」という印象を持った。


手取川
 

評判以上の謙信の強さを知った信長は「謙信公ご上洛の際には、この信長が扇一本を腰に差し都へご案内いたしましょう。信長は西国、謙信公は東国を治めることにしてはいかがでしょう。」という究極に媚びへつらった書状を送るが、もはや謙信は信長を信じることはなく、1578年、謙信は6万の兵を動員して信長討伐の予定を立てる。

 

 

ところが、信長はこの絶体絶命の危機を思わぬ形で脱出した。

 

 

謙信は春日山城内の厠で倒れると、そのまま意識は戻らず、49歳で生涯を閉じ、死因は状況から脳卒中と考えられている。

 

 

上杉軍は謙信の死によって、信長討伐の上洛を中止し、さらに信長包囲網も謙信という求心力を失って崩壊した。

 

毘沙門天
 

こうして、毘沙門天の化身となって戦国乱世に終止符をうつという謙信の夢は叶わずに終わる。



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佐々 成政 (富山)

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成政は、尾張国春日井郡比良城
(現在の名古屋市西区)を拠点にしていた佐々成宗の子で兄達が相次いで戦死したため、1560年に家督を継ぎ、比良城主となる。

 

比良城

織田信長に仕え、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令をする「馬廻」から戦功を重ねて頭角を表していく。

 

 

1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、斎藤龍興の軍6000を織田軍1500が味方を三手に分け挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、成政は敵将・稲葉又右衛門(稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てた。


森部の戦い
 

1567年、武芸に秀でた馬廻からさらに選抜された豪のエリートが信長直属の使番を務める「黒母衣衆」に抜擢される。

 

 

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利する「姉川の戦い」に先立つ「八相山の退口」で成政は、簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍(後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する)に参加し、鉄砲隊を用いて大活躍した。

 

 

1574年、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起し、織田信長と激しい合戦が起こった「長島一向一揆」との戦いで長男・松千代丸を失う。

 

長島一向一揆

1575年、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐって、織田・徳川連合軍38000が武田勝頼の軍勢15000と戦った「長篠の戦い」では、前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に、この戦いの語り草ともなっている鉄砲隊を率いた。

 

 

 

 

1575年、織田信長は越前国制圧後、成政・前田利家・不破光治の3(府中三人衆)に越前府中10石を与え、成政は小丸城(福井県越前市)を築いて居城とし、北陸方面の軍団長となった柴田勝家を支えた。

 

府中三人衆は柴田勝家を支えながらも、半ば独立した遊撃軍的存在で、石山合戦や播磨国平定、荒木村重征伐などに従軍する。

 

 

 

1578年、軍事の天才・上杉謙信が能登に侵入し、織田信長にとって最大の危機が迫った際には、成政は柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、七尾城(石川県七尾市古城町)が上杉謙信に落とされると撤退した。

 

 

1580年、親上杉氏政策を維持しようとした父と対立し、京都に上って織田信長に仕えた神保長住をサポートして、一向一揆および上杉氏に対する最前線であった越中国の平定に尽力し、この頃に成政は、立山の雪解け水により常願寺川が氾濫して大洪水を引き起こすことを防ぐため、馬瀬口に「佐々堤」と呼ばれる堤防を築造して水害を減少させる。


佐々堤
 

1581年、神保長住が失脚したことにより、長政は富山城を居城とする一国守護となって、富山城の大規模な改修をおこなう。

 

 

成政は新規の家臣を召抱える際、最初に提示したよりも多くのサラリーを与える事から、気前の良い殿様だという事で仕官を望む者が絶えなかった。

 

また、この仕官の際の面接においても、家柄や血筋ではなく実績や武勇を重視し、その話を聞くのが大好きであったといわれている。

 

富山城
 

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、成政が拠点としていた北陸方面は、上杉軍の最後の拠点である魚津城を3ヶ月の攻囲の末に攻略した(魚津城の戦い)ばかりであったため、成政は上杉軍の反撃への防戦で身動きが取れなかった。

 

 

 

豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)は対峙していた毛利氏と和睦し、いち早く畿内に戻り(中国大返し)、明智光秀を討ち果たす手柄をたてる。

 

そのため、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化し、成政は柴田勝家の側についた。

 

柴田勝家
  
柴田勝家
 

1583年、近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)で豊臣秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」では、成政は上杉氏への備えのため越中を動けなかったため、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600を援軍として出すことが出来ずに終わる。

 

 

「賤ヶ岳の戦い」に勝利した豊臣秀吉は、織田信長が築き上げた権力と体制の正統な継承者となることを決定づける。

 

成政は剃髪して秀吉に降伏し、娘を人質に出すことで、越中一国を安堵された。

 

 

こうした経緯から、富山県呉東地区では「賤ヶ岳の戦い」で上司である柴田勝家を裏切った前田利家とは対称的に最後まで忠節を尽くし、治水工事などの善政を布いた成政の人気が高い。

 

 

 

豊臣秀吉が織田信雄(織田信長の次男)・徳川家康と尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に戦った「小牧・長久手の戦い」では、成政は当初は豊臣秀吉の側につく姿勢をみせていたものの最終的には織田信雄・徳川家康の側につき、豊臣秀吉の側に立った前田利家の末森城を攻撃する(末森城の戦い)

 

末森城の戦い
 

この頃の成政は、越後国の上杉景勝とも敵対していたため、二正面作戦を強いられ、その戦いは厳しいものであった。

 

 

ところがそんな成政の苦労とは裏腹に、豊臣秀吉と織田信雄の間で和議が成立し、徳川家康が停戦すると、このままでは立場が危うくなる成政は厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと向かい、徳川家康に再挙を促す。

 

この決死の行動と懇願は「さらさら越え」と呼ばれ、伝説化している。
 

佐々成政1
 

しかし、徳川家康の説得には失敗し、織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかったため、1585年、富山城は豊臣秀吉によって10万の大軍で包囲され、成政は降伏した(富山の役)

 

 

成政は一命は助けられたものの、越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、政治や軍事の相談役である「御伽衆」として豊臣秀吉に仕える。

 

 

 

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」で功をあげた成政は、1587年、肥後一国を与えられるという復活劇を成し遂げた。

 

佐々成政
 

しかしながら、早急に改革に乗り出した成政は肥後国人の反発を受け(肥後国人一揆)、これを自力で鎮めることができず、その失政の責任から摂津国尼崎法園寺にて切腹。

 

 

成政は正確な生年が不詳であるが、没年は51歳くらいとされている。

 

 

 

成政には早百合という美しい側室がいたとされ、早百合が懐妊した際に「早百合の子どもは成政様の子ではない。」と言う噂が流れた。

 

成政は烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿い(富山県富山市磯部町)で殺し、さらに早百合の一族18人全ての首をはね、獄門に磔にする。

 

また、早百合は「立山に黒百合の花が咲いたら佐々家は滅亡する。」と呪いの言葉を残したため、佐々瑞雄(成政の甥)は母から「わが家では、絶対ユリ科の花は活けてはいけません。」と言われていたという。

 

早百合が殺された神通川の辺りでは、風雨の夜、女の首と鬼火が出るといわれた。

 

富山県富山市磯部町

この話以外にも、勝者である豊臣秀吉や前田利家に悪評を創作され、評判を貶めるための数多の真偽不明な逸話が残され、成政はとかく過小評価を受けがちであるが、その豊臣秀吉や前田利家ですら軍事指揮官としての力量ばかりは認めざるをえず、多くの賞賛の記録が残っている。




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前田 利家 (石川)

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1538年、尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)で、その地を支配していた荒子前田家の当主・前田利春の四男として生まれる。

青年時代の利家は、武将の身辺に仕えて諸々の雑用を請け負う「小姓」として織田信長に仕えた。


1552年、元服前の利家は、尾張下四郡を支配する清洲城主・織田信友(清洲織田氏)と織田信長の間に起こった「萱津の戦い」に初陣し、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、織田信長は「肝に毛が生えておるわ」と賞賛する。

前田利家2

1556年、織田信長とその弟・織田信勝による織田家の家督争い「稲生の戦い」では、宮井勘兵衛に右目下を矢で射抜かれながらも利家は「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井勘兵衛本人を討ち取る功を立て、信長は大いに喜んで「利家はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞し、利家は矢を抜くことなく戦後に手柄を確認する「首実検」にも参加した。


日頃から短気で喧嘩早く、戦場での活躍が目立ち、三間半柄(約6m30cm)というとても長く派手な槍を手にしていた利家は、1558年、尾張上四郡を支配していた岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争い「浮野の戦い」にも参加して功を挙げ、この頃から「槍の又左」の異名で称えられるようになる。


また、この戦いの後、武芸に秀でた者達からさらに選抜された豪のエリートが織田信長直属の使番を務める「赤母衣衆」の筆頭に抜擢された。

さらにこの年、従妹のまつ(芳春院)を妻に迎える。

前田利家3

1559年、信長のお気に入りの同朋衆(雑務や芸能に従事する人)拾阿弥とモメて、利家は拾阿弥を斬殺し、出仕停止処分を受けて浪人暮らしとなった。



1560年、織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」に、利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず無断で参加し、計三つの首を挙げる功を立てるも復帰は許されずに終わる。


1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、1500の兵を三手に分け、斎藤龍興の軍6000を挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、利家はまたしても無断で参戦し、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛という怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げると、ようやく復帰を許された。


利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、1569年に織田信長が兄・利久に代わって利家が前田家の家督を継ぐように命じる。

森部の戦い

1570年、浅井氏・朝倉氏との「金ヶ崎の戦い」では、戦国史上有名な織田信長の撤退の警護を利家が担当し、続く「姉川の戦い」では浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げ、織田信長に「今にはじまらず比類なき槍」と褒めたたえられた。


石山本願寺との間に起こった「春日井堤の戦い」で、織田軍は敗走することになるが、利家は一人で踏みとどまって敵を倒し、味方の退却を助けるという働きをみせる。


その後、利家は「一乗谷城の戦い」「長島一向一揆」「長篠の戦い」などの戦で、佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政らと共に織田軍の快進撃を語るうえで欠かすことの出来ない鉄砲奉行として参戦した。

春日井堤の戦い

1575年、織田信長は越前国制圧後、利家・佐々成政・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中10万石を与え、利家は佐々成政らと共に柴田勝家を支えながら上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事する一方で、織田信長の命により「有岡城の戦い」や「三木合戦」といった戦いにも参加する。


1581年、織田信長より能登一国を与えられ、利家は七尾城主となって23万石を領有する大名になり、その翌年、港湾部の町から離れた七尾城を廃城し、港を臨む小丸山城を築城。

小丸山城

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、利家は柴田勝家に従って上杉軍最後の拠点であった魚津城を攻略中だったため、豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)が明智光秀を討ち果たした「山崎の戦い」に加わることができなかった。


そして、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化すると、利家は柴田勝家の側につきながらも豊臣秀吉との関係にも大いに悩んだ。


そんな折に、柴田勝家の命を受け、利家が金森長近・不破勝光と共に山城宝積寺城(現在の京都府大山崎町)にいた豊臣秀吉に一時的な和議の交渉を行った際、利家は豊臣秀吉に逆に懐柔され、1583年の「賤ヶ岳の戦い」で5000ほどの兵を率いて柴田軍として布陣するも、突然に撤退し、豊臣秀吉の勝利を決定づけることになった。


敗北して北ノ庄城へ向かう途中の柴田勝家は、越前府中城(現在の福井県武生市)にこもる利家のもとを立ち寄り、これまでの労をねぎらって湯漬けを所望したという。

北ノ庄城

その後、利家は使者の勧告に従って豊臣秀吉に降伏し、柴田勝家のいる北ノ庄城攻めの先鋒となると、戦後、領土の保障および加賀国のうち二郡を加増されて、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城(後の金沢城)へと移した。

金沢城

1584年、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した「小牧・長久手の戦い」では、佐々成政が徳川家康らに呼応して加賀国・能登国に侵攻したが、利家は「末森城の戦い」で佐々成政を撃破した。


その佐々成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は上杉景勝と連絡をとって越中国境に進出させたり、佐々成政の部将となっている越中国衆・菊池武勝に誘いの手を伸ばす。


そうして、利家が先導役を果たし豊臣秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと、佐々成政は降伏し、利家の嫡子・前田利長が越中国4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。


その後、越前国の国主である丹羽長秀が没すると、利家は豊臣政権下における諸大名の窓口としての機能を求められるようになる。

前田利家4

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」では、利家は8,000の兵で畿内を守備し、嫡子・前田利長は九州まで従軍した。


豊臣秀吉が天皇の代わりに政治を行う「関白」に任官して豊臣姓を賜ると、利家は筑前守・左近衛権少将に任官し、1590年には朝廷組織最高機関での官職「参議」に任じられる。



北条氏制圧のための「小田原征伐」では、利家は北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸と共に上野国に入って松井田城をはじめ諸城を次々と攻略し、さらに武蔵国に入ると鉢形城・八王子城を落とした。

松井田城

1591年、国内を統一した豊臣秀吉は「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」のために名護屋城(現在の佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町)の築城を開始、1592年、利家は諸将に先んじて京都を出陣して名護屋に向かった。


豊臣秀吉が母・大政所危篤の報を得て、急ぎ大阪に戻り、約3ヶ月間名護屋を留守すると、その間、徳川家康と利家が豊臣秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行い、これが後の五大老の原型となる。


1593年、朝鮮(李氏朝鮮)の宗主国・明(1368~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)との講和が進み、明の使者が名護屋に着くと、徳川家康と利家の邸宅がその宿舎とされた。


豊臣秀吉が待望の男子である秀頼誕生の報で大坂に戻ると、利家も金沢に帰り、この時にまつの侍女・千代との間に、後の第三代加賀藩主・前田利常となる猿千代が生まれる。

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉

1598年頃になると利家は健康の衰えを見せ始めるようになり、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した「醍醐の花見」に妻のまつと陪席すると、嫡子・利長に家督を譲った。


利家は隠居することを望んでいたが、「五大老・五奉行」の制度を定めた豊臣秀吉より大老の一人に命じられ、それから間もなく、豊臣秀吉は利家らに嫡子・秀頼の将来を繰り返し頼み没する。


この時、秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられ、豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城(現在の京都市伏見区桃山町周辺)に、利家が秀頼に付き従って大坂城に入り、利家は大坂城の実質的な主となった。

前田利家1

しかし、徳川家康は豊臣秀吉亡き後の覇権を狙い独裁的な態度を示すようになり、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と婚姻政策を進め、利家はこれに激しく反発する。


利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に「関ヶ原の戦い」で家康の側につくことになる細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方し、豊臣秀吉亡き後の実質的な実力者が利家であることは動かし難い事実であった。


利家と対立することを不利と悟った徳川家康は、向島(現在の近鉄向島駅付近)へ退去すること等で和解する。


この直後、利家の病状が悪化し、徳川家康が見舞いのため利家邸を訪問した際、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたという。


利家が大阪の自邸で病死(60歳)すると、徳川家康により加賀征伐が検討されるが、利家の跡を継いだ利長が母・芳春院(まつ)を人質に出す条件を受け入れ、加賀征伐は撤回された。
 
芳春院(まつ)
  
芳春院(まつ)

その後、前田家は政争を上手く立ち回り、明治の世まで加賀藩主として生き残る。



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朝倉 義景 (福井)

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1533年、越前国の朝倉氏第10代当主・朝倉孝景の長男として生まれ、この時、父・朝倉孝景は40歳で唯一の実子であった。

 

生母は若狭武田氏一族の広徳院(光徳院)といわれいる。

 

義景の幼少期に関しては不明な点が多く、守役や乳母に関しては一切が不明で、伝わる逸話もほとんど無い。

 

一乗谷城
 

1548年、父が死去したため家督を相続して朝倉氏第11代当主となるが、当初は若年のため1555年までは一族の名将・朝倉宗滴に政務・軍事を補佐されていた。

 

 

朝倉宗滴の死後もしばらくは深刻な政治情勢に巻き込まれることが無かったため、越前国は周辺諸国に比べて安定・平和・栄華を極め、この当時の越前国を訪れた者は「義景の殿は聖人君子の道を行ない、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と讃えている。

 

 

 

1552年、室町幕府の第13代将軍・足利義輝より「義」の字を与えられ「義景」と改名し、左衛門督(鎌倉時代以降は朝廷の機能としては有名無実化していたが、源頼家なども歴任し、官職のなかでも武家に好まれた。)にも任官。

 

こうしたことは、父・朝倉孝景の時代に室町幕府での地位を高めたことに加え、衰退する室町幕府にとっては守旧的な朝倉家の力を必要として優遇された。

 

家紋朝倉義景
 

1565年、将軍・足利義輝が松永久秀らによって暗殺されると、義景は足利義輝の家臣であった和田惟政・細川藤孝・米田求政らと連絡を取り合い、足利義輝の弟・足利義昭が幽閉先の奈良を脱出して近江国に移るように画策する。

 

 

その後、若狭武田家を頼っていた足利義昭が越前国に身を寄せると、義景はその来訪を歓迎した。

 

 

 

1567年、朝倉家の家臣・堀江景忠が、朝倉家と長年の対立が深刻化していた加賀一向一揆と通じて謀反を企てたため、義景は加賀国から来襲した杉浦玄任率いる一揆軍と交戦しつつ、堀江家に攻撃をしかける。

 

堀江景忠は必死に抗戦をするが、結局、加賀国を経て能登国へと没落した。

 

一方で、加賀一向一揆とは足利義昭の仲介により和解が成立する。

 

加賀一向一揆
 

足利義昭は上杉謙信など諸大名に上洛(広義においては京都に入ることを意味するが、狭義では室町時代末期に足利幕府の将軍を保護することを意味した。)を促す書状を送ったが、それらの大名家は隣国との政治情勢などから出兵は難しかった。

 

 

足利義昭は義景にも上洛戦を求め、義景の館を訪問したり、さらに義景に限らず朝倉一門衆とも関係を深める。

 

 

京都に自らが軍勢を連れて上洛し、室町将軍の保護者となる事は、権威をもたらし、政治的影響力を高める事となるが、義景は嫡男・阿君丸が急死して悲しみにくれていたことなどもあり、足利義昭が望む上洛には冷淡であった。

 

 

義景がここでもし上洛していれば、天下を狙える可能性すらあったが、こうした決断力の鈍さが後々大きく運命を左右する。

 

結局、足利義昭は美濃国を支配下におき勢いに乗る織田信長を頼るため越前国から去った。

 

足利義昭
  
足利義昭
 

1568年、若狭守護・武田氏の内紛に対して、義景は当主である武田元明の保護という名目で介入し、若狭を支配下に置くが、武田家臣の粟屋勝久や熊谷氏などは義景に従属することを拒否して頑強に抵抗する。

 

 

 

この頃、足利義昭を将軍にした織田信長は、織田領である美濃と京都の間に突き出た位置関係となる越前国を治める義景を服属させる必要があったため、足利義昭の命令として2度にわたって義景に上洛を命じるが、義景は織田家に従うことを嫌い、さらに上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安から拒否した。

 

 

 

しかし義景の上洛拒否は、反意があるという言い掛かりから越前出兵への口実を織田信長に与え、1570年、織田信長・徳川家康の連合軍が侵攻を開始、天筒山城・金ヶ崎城(共に福井県敦賀市)が織田軍の攻勢の前に落城する。

 

 

ところが織田信長と同盟関係にあった浅井長政は、越前侵攻を不服として織田信長を裏切って急襲したため、前に朝倉軍、背後に浅井軍という絶体絶命の窮地に陥った織田信長は京都に撤退。

 

浅井長政
  
浅井長政
 

このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の最後尾部隊を率いた豊臣秀吉(この時は木下秀吉)の抵抗に阻まれ、織田信長をはじめとする有力武将を取り逃がし、再挙の機会を与えることになった。

 


 

1570年、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川(滋賀県長浜市)で激突した「姉川の戦い」で、朝倉軍は徳川軍と衝突したが徳川四天王と名高い榊原康政に側面を突かれて敗北し、織田信長は浅井方の支城の多くを落とし、朝倉・浅井連合軍は非常に不利な立場に陥る。

 

姉川の戦い
 

織田信長が三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えた三好氏の一族・重臣だった三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3)および石山本願寺討伐のために摂津国に出兵している隙に、義景は浅井軍と共同して織田領の近江坂本(現在の滋賀県大津市)に侵攻し、織田信長の弟・織田信治と重臣・森可成を敗死に追い込んだ。

 

 

織田信長が軍を近江に引き返してくると、朝倉・浅井軍は比叡山延暦寺に立て籠もって織田軍と対峙し、小競り合いや合戦があるものの、足利義昭・二条晴良らの和睦の調停に応じて、両軍は講和することとなる。

 

この講和の際、織田信長は義景に対して「天下は朝倉殿持ち給え。我は二度と望みなし」という書状を送っており、強敵として警戒していた。

 

織田信長
  
織田信長
 

織田信長が本願寺と交戦状態に入る(野田城・福島城の戦い)と、将軍・足利義昭は甲斐国の武田氏をはじめ近江国の浅井氏、そして越前国の義景らと織田信長包囲網を構築。

 

義景は、こうして織田信長包囲網の一角を担った本願寺の顕如の子・教如と娘の婚約を成立させる。

 

 

義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが敗退し、この後、織田信長は前年に朝倉氏に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちし、延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。

 

比叡山延暦寺
 

1572年、甲斐国の武田信玄が遠江・三河方面へ侵攻し、徳川軍が次々と城を奪われる。

 

それに対して織田信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で攻勢をかけるが、虎御前山砦(滋賀県長浜市中野町)の豊臣秀吉(この当時は羽柴秀吉)に阻まれた。

 

 

義景が部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退すると、武田信玄はそれに対して激しい非難を込めた文章を送りつける。

 

義景が再三の出兵要請に二の足を踏む間に、同盟者であった武田信玄が陣中で病死し、武田軍が甲斐へと引き揚げたため、織田信長は主力軍を朝倉家に向けることが可能となった。

  

朝倉義景1
 

1573年、織田信長が3万の大軍を率いて近江に侵攻すると、義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとするが、決断力の弱さから数々の好機を逸してきた義景は家臣の信頼を失いつつあり、朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが出陣命令を拒否。

 

 

このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣するも、大嶽砦(滋賀県長浜市小谷丁野町)が織田信長の暴風雨を利用した電撃的な奇襲を受けて大敗する。

 

 

さらに丁野山砦(滋賀県長浜市小谷丁野町)が陥落すると、義景は浅井長政と連携を取り合うことが不可能となり、越前への撤兵を決断した。

 

しかし、撤退する朝倉軍は織田信長の追撃を受ける。

 

織田信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂(福井県敦賀市刀根)において壊滅的な被害を受けた。

 
刀根坂
 

義景自身は命からがら疋壇城(福井県敦賀市疋田)に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延ら有力武将の多くが戦死。

 

 

義景はさらに疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、その間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。


疋壇城
 

さらに、朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半が逃走してしまい、義景の出陣命令に対して朝倉景鏡(あさくらかげあきら)以外は出陣して来なかった。

 

 

 

義景は一乗谷を放棄し、越前大野の東雲寺に逃れ、平泉寺(福井県勝山市)の僧兵に援軍を要請するが、すでに織田信長に懐柔されていた平泉寺は逆に東雲寺を襲ったため、義景は賢松寺(福井県大野市泉町)に逃れる。

賢松寺


一方、柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込んだ織田軍は、手当たり次第に居館や神社仏閣などを放火し、その猛火は三日三晩続き、朝倉家
100年の栄華は灰燼と帰した。

 

 

 

義景は従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていたが、その朝倉景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃すると、ついに観念した義景は自害を遂げ、39歳で生涯を閉じる。

 

 

義景の首は織田信長の家臣・長谷川宗仁によって、京都で獄門に曝され、血族の多くも織田信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害され、朝倉氏は滅亡した。

 

丹羽長秀
  
丹羽長秀
 

義景は朝倉氏代々の功績を受け継ぎ、一乗谷に京都から多数の文化人を招き、一大文化圏を築き上げ、個人としても戦よりも文芸に凝り、歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道など多くの芸事を好んだ。

 

 

1581年に越前国へ布教に赴いたルイス・フロイスは、越前のことを「日本において最も高貴で主要な国のひとつであり、五畿内よりも洗練された言語が完全な形で保たれていた」と記している。




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武田 信玄 (山梨)

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1521
年、躑躅ヶ崎館(甲斐国山梨郡古府中)を拠点とする甲斐の守護大名・武田家の嫡男として誕生する。

 

武田家の治める甲斐国は狭い盆地ごとに諸豪族が独自の勢力を築き、家臣達の武田家への忠誠心も薄く、信玄の父・信虎は隣国との領土争いに明け暮れ、また、家臣達をまとめるために逆らう者は容赦しない態度でのぞみ、国は貧しく、人々は信虎を怖れて反感を抱いていた。

 

躑躅ヶ崎館

信玄は16歳で初陣を飾ると、わずかな手勢で夜襲をかけ、見事に城を落とし、一番の手柄をあげた優れた知略は家臣達の評判となる一方で「一切、夜昼のわきまえもなく乱鳥の狂。」と言われるほど道楽三昧の日々を送る。

 

 

1541年、家臣達は信玄の父・信虎を国外に追放し、21歳の信玄を新たな国主へとまつりあげた。

 

 

しかし、信玄は国主になっても相変わらず遊び続け、間もなく、これを好機とみた勢力に攻め込まれ、領土の一部を奪われてしまう。

 

 

このままでは自分達の生活が危うくなると危機感をおぼえた家臣達は、新たな領土を求めて内紛に揺れる信濃の諏訪氏を攻め、家臣達は当主のためというよりも自分のためにと奮戦し、わずか11日で勝利を収める。


要害山城
 

信玄はこの戦の後、絶世の美女と謳われた諏訪氏の娘・諏訪御料人(すわごりょうにん)に熱をあげるが「もし二人の間に男子が生まれて諏訪の地を治めることになれば、せっかく手にした領地を失う」と考えた家臣達はいっせいに反対した。

 

 

その時、新参の家臣・山本勘助は「もし男子が生まれれば、諏訪家の旧臣達はお家再興に望みをかけ、奉公に励むでしょう。」と機転を利かせた言葉で信玄に味方した。

 

 

この頃、信玄は「頼まずよ、人の心のつれなさを、恨むるほどに夜も更けにけり。」と嘆いているように、家臣達の横暴な振る舞いが目立ち、勝手に関所を設けて領民から密かに通行税を徴収する者までいた。

 

武田信玄
 
そんな状態を打開するために、信玄は26カ条におよぶ「甲州法度」を作成し、その条文の最後は「自分も決まり事を破ったら相応の処分を受ける。」という言葉で締めくくられていたが、家臣達はいっこうに従わず、自らの領内に「甲州法度」を一切停止するとふれ回る者も現れる。

 

 

信玄が家臣達を掌握できずにいる中で、隣国信濃の有力豪族・村上氏との間に武力衝突が起こり、家臣達は功を焦って信玄の命令を無視して我先にと敵陣深くに切り込んで暴走し、武田軍は兵の一割を失う大損害を受け、戦は完敗に終わった。

 

 

 

信玄が、浪人として諸国を巡り各地の大名の統治方法を目の当たりにしてきた山本勘助に、家臣の統率術を尋ねると「戦を続けて領土を獲得なさいませ。その土地を全て家臣に与えれば、大将を大事にするはずです。」と、山本勘助は答える。


山本勘助
  
山本勘助
 

1551年、隣国の村上氏が度重なる戦で疲弊していると聞いた信玄は、密偵を派遣して敵の一部を武田側に寝返らせ、そのうえで村上氏に奇襲をかけ、瞬く間に勝利を収めた。

 

新たな領土を獲得した信玄は、即座に家臣に分け与え、これにより信玄を主君として積極的に敬う家臣が現れはじめ、信玄はその後も隣国・信濃に攻め続け、信濃の7割を支配するようになる。

 

武田信玄2
 

しかし、領土を広げ、獲得した領地を惜しみなく恩賞に使い、家臣達の求心力を高めるには、戦を繰り返さなくてはならず、そしてそれには軍備や戦術以上に戦争で重要な食料の増産が不可欠であったが、山がちな甲斐国は水田が少なかった。

 

 

米の生産をあげるには新田開発をしなければならないが、甲府盆地を流れる河川は甲斐を取り囲む山々から流れ出るため、雪解けの時期は水量が多く、流れも急で、ひとたび大雨が降れば大洪水を引き起こし、田畑や人家に大きな被害を与える。

 

 

信玄の父・信虎の時代、公共事業は各々の豪族が自分の領内だけで行っていたが、信玄は武田家主導のもとで甲斐全体の治水を計画し、総延長50㎞、川の上流から下流まで甲斐全体を広い視野で見据えた合理的な治水工事を、甲斐の豪族や家臣をあげて取り組む。

 

 

当時、甲府盆地を東西に流れる御勅使川(みだいがわ)は何本にも枝分かれし、南北を流れる釜無川と6カ所で交わり、この交差地点で水かさが増えて洪水が起きていた。

 

 

そこで信玄は、御勅使川の枝分かれを2本にまとめて釜無川との合流地点を減らし、さらに合流地点を人里離れた地域になるようにコントロールしたため、洪水被害が少なくなり、この治水事業によって耕地は3倍へと増える。

 

釜無川
 

こうして甲斐国の結束を改善する信玄の前に、若くして越後を統一し、周辺の大名から戦の神・毘沙門天の化身と怖れられていた上杉謙信が大きな壁として立ちはだかっていた。

 

 

 

そこで信玄は嫡男に今川家から嫁をもらい、北条家には娘を嫁がせ、今川・北条・武田の三国で軍事同盟を成立させ、背後を固めて上杉謙信と領土を接する信濃に兵を集中し、1553年の「第一次川中島合戦」を皮切りに計5度の川中島での戦いを演じることになっていく。

 

一騎討ち
 

戦の手柄に対して評価・賞賛するために発給する「感状」は、戦後、館に戻って作成されるのが常であったが、信玄はその日のうちにその場で発行して家臣に渡した。

 

さらに黄金や陣羽織や刀といった褒美も、信玄は常に戦場に持参し、戦功のあった者へその日のうちに与え、こうした気遣いによって家臣達はよく働くようになり、信玄は強敵・上杉謙信と互角に渡り合う。

 

 

ところが「永禄の大飢饉」によって農作物は壊滅、税を納められなくなった農民は逃亡、家臣達の収入は途絶えるという危機が信玄を襲うと、謙信はこの好機を見逃さず「第四次川中島の戦い」が始まる。

 

 

1561年、謙信率いる上杉軍は川中島を見渡せる妻女山に陣取り、その知らせを受けた信玄は慌てて海津城(長野県長野市松代町松代)に入るが、山の上に陣取った謙信から完全に動きを掌握されてしまう。


海津城

追い詰められた信玄は山本勘助の策に頼って、兵を二つに分け、別働隊が上杉軍を背後から奇襲し、上杉軍が山から下りたところを本隊で迎え討ち、最終的に挟み討ちにする「きつつき戦法」をとるが、これは謙信に見破られ、上杉軍は密かに山から降りていた。

 

 

作戦が空振りした武田軍は上杉軍の猛攻を受け、激戦の中、山本勘助も戦死し、上杉軍が武田軍の本陣まで押し寄せ、信玄絶体絶命かと思われた時、間一髪で妻女山に向かっていた武田軍の別働隊が戻ってくる。

 

この時、信玄の目に映ったのは、自分の命にかえても主君を守ろうとする家臣達の姿であった。

 

数々の戦を経ることによって育まれていった家臣達との結束がここで発揮され、攻勢に転じた武田軍は上杉軍を撤退させる。

 

第四次川中島の戦い
 

信玄は家臣団に戦の褒美として、現在の価値にして約150万円にもなる黄金を与えていた。

 

甲斐国には20以上の金山があったが、そのほとんどが武田氏以外の各豪族の領内にあり、もともと甲斐国の黄金は武田氏の収入にはなっていなかったのである。

 

 

黄金を採掘していた金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる高度な技術者集団は、豪族に従属せず独立した生活をしていたため、豪族から身を守ることが大きな負担となっていた。

 

 

信玄は金山衆の安全を保証し、安全を保障されて作業に専念することが出来た金山衆の黄金産出量は増え、信玄はその見返りに産出した黄金の4割を受け取ったのである。

 

 

強引に金山衆を配下に置こうとするのではなく、利害が一致する契約によって、信玄は結果的に黄金産出の効率を上げ、手にした豊富な黄金で日本最初の金貨である甲州金を発行した。

 

甲州金
 
 

一方で、これまで天下に最も近いと言われていた駿河の今川義元が織田信長に討たれるなど甲斐を取り巻く勢力図は大きく変わり始める。

 

動揺する今川家をこの機に乗じて討ち滅ぼせば、京都への道が開け、天下取りが現実味を帯びてくると信玄は考えた。

 

 

信玄の嫡男・武田義信は同盟関係にある今川家から嫁をもらっていたが、信玄は今川攻めを決意していたので、義信に妻と離縁するように命じるが、義信はそれを拒否し今川攻めにも真っ向から異をとなえる。

 

 

この今川攻めを巡って、信玄に賛成する者と、義信について反対する者とに分かれて対立し、強い結束を見せるようになった家臣達に大きな波紋が広がった。

 

 

やがて、義信が反対派の家臣達と信玄の追放を企てているという報告が入ると、信玄は義信を幽閉し、さらに80人あまりの義信派の家臣を処刑・追放に処し、残った家臣達に血判で忠誠を誓わせた「血の起請文」を提出させる。

 

 

しかし、それでも家臣達の対立は収まらず、信玄は悩み続けた末、争いの根は元から断たなければならないと判断し、1567年、嫡男・義信を自害に追い込み、さらに義信の法名に謀反人の印である「謀」の字を加えて未来永劫反逆者の汚名を着せた。

 
武田義信が幽閉された東光寺
 

信玄が示した強い覚悟は再び家臣達の結束を取り戻していく。

 

 

1568年、信玄は駿河への侵攻を開始し、甲斐と駿河の国境にある深沢城(静岡県御殿場市)を包囲した際、この城攻めに多くの金山衆を同行させている。

 

金山衆は黄金採掘で坑道を切り開く技術を活かして、深沢城の地下にトンネルを掘り、城内の井戸に穴を空けて籠城の生命線となる水を深沢城から絶やしたり、城壁を陥没させて崩すなど大きな戦果をあげた。

 

 

わずか半月で深沢城を落とした信玄は、瞬く間に駿河の東半分を手中にし、東海道への進出を果たす。こうして武田の領土は100万石を超え、戦国時代有数の大国へとのし上がった。

 

深沢城
 

織田信長に警戒心を抱いていた将軍・足利義昭は、信玄の活躍を耳にすると密書で織田信長の討伐を要請する。

 

家督を継いで31年、家臣団の結束に心を砕き、我が子までを手にかけた信玄は、堂々と京都まで侵攻する大義名分を得て、ついに天下取りの道が見えてきた。

 

1572年、信玄は「我、存命のうちに天下を取り、京に旗を立つ。」そう言うと、過去最大となる25000の兵を率い、京都を目指して出陣する。

 

 

 

信玄の行く手を待ち受けるのは急速に領土を拡大していた織田信長・徳川家康の連合軍であったため、信玄はまず三河・遠江を支配する徳川家康を倒してから西へ進むことを考え、徳川家康のいる浜松城(静岡県浜松市中区)付近まで兵を進めた。

 

ところが、数で劣る徳川家康は城から兵を全く出さず、いつ終わるとも知れない籠城戦の構えを見せる。

 

 

武田軍はここで無理に城攻めを行えば無駄に兵を失う危険があったが、しかし、徳川家康を無視して西に兵を進めれば背後を取られて織田信長と挟み討ちにされるため、信玄はどうしても徳川家康を叩かなくてはならなかった。

 

 

戦う前にすでにかつてない窮地に立たされていた信玄は大胆な行動に出る。

 

三方ヶ原の戦い

信玄は突如、三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)の台地へと軍勢の進路を変え、徳川軍に背を向けると、そのまま三方ヶ原の台地を横断して逃げ場のない細く狭い一本道を下りはじめた。

 

 

武田軍が不利な環境で無防備な体勢になりかけている知らせを受けた徳川家康は、これを千載一遇のチャンスと見て11000の兵を城から出撃させ、猛然と武田軍の背後へと迫る。

 

 

一方で武田軍は、信玄の号令のもとで一斉に進行方向をそれまでの逆にとり、下りてきた坂を一気に駆け上がると、再び三方ヶ原の台地へ登り、一糸乱れぬ動きで陣形を整えた。

 

 

浜松城の西に広がる三方ヶ原は、周囲が崖で逃げることが出来ず、木が一本もなく広大で、この騎馬軍団に適した台地で、信玄は正面への攻撃に力を発揮する「魚鱗の陣」で待ち構える。

 

 

これを成し得たのは、信玄が自らの人生を懸けて作り上げた武田軍の結束力であった。

 

 

全軍一致となった武田軍は有利なシチュエーションで、あたかも猛虎が羊の群れに突撃したが如く、まんまとおびき出された徳川軍へと猛攻を加え、なす術のない徳川軍は壊滅し、わずか2時間で戦いは武田軍の圧勝に終わる。

 

 

 

この戦いで完膚無きまでに打ち負かされた徳川家康は、この時に感じた死の恐怖を生涯の教訓にし、また、武田家滅亡後、強かった信玄のやり方を知るために積極的に武田の遺臣を保護して召し抱え、そのことは徳川家康の大きな躍進の礎となった。

 

徳川家康
  
徳川家康
 

「三方ヶ原の戦い」に圧勝した信玄は、京都へ、そして天下を目指すはずであったが、1573年、陣中で重い病にかかり志半ば、51歳でこの世を去る。

 

 

信玄は「3年間は自分の死を隠し、国の守りを堅めよ。そして、いつの日か、武田の旗を瀬田(京への入り口)に立てよ。」という遺言を残す。

 

 

信玄の死後、後継者の武田勝頼は「長篠の戦い」で織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、急速に衰えていった武田家は、信玄の死後わずか10年で滅亡する。

 

武田勝頼
  
武田勝頼
 

その生涯を家臣の統率に心血を注いだ信玄は、最後まで家臣への配慮を忘れず、子ども達にもその心得を家訓として残した。

 

「家臣が病の際には、たとえ手間がかかっても見舞うこと。」

「離反した場合でも、覚悟を直す者については過去を咎めず、再び召し抱えること。」

「家臣の身を喉の渇きのように思い、潤し続けること。」



 

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木曾 義仲 (長野)

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義仲の父・源義賢は河内源氏一門で東宮帯刀先生を務め、武蔵国の最大勢力である秩父重隆の娘を娶るが義仲の生母は遊女と伝えられており、また、出生地に関しては武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)といわれている。

 

 

源義賢が源氏一族の権力争いで源義平(義仲の従兄にあたり源頼朝の兄)に討たれると、当時2歳の義仲も源義平によって殺害の命が出ていたが、幼い子供に刃を向けることをためらった畠山重能が斎藤実盛に義仲の身柄を預け、密かに信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)へ逃がされた。

 

そこで義仲は後に側近となる樋口兼光・今井兼平・巴御前の三兄妹と共に育てられる。


樋口兼光
  
 樋口兼光

 今井兼平

   今井兼平

1巴御前
  
巴御前  

 

義仲の子ども時代は、天皇・平氏・源氏が三つ巴の権力争いをくり広げ、平清盛を筆頭とする平氏が政治権力を手にして全盛期を築いていく。

 

 

1180年、平清盛のために皇位継承争いに敗れた後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が平氏討伐の令旨を全国へ発すると、27歳になっていた義仲はこれに応じて小県郡依田城にて挙兵する。

 

 

1181年、平氏側の城助職(じょうすけもと)6万の大軍で越後国から横田河原(長野市)に攻め込んで来ると、義仲は兵の一部に平氏の紅旗を掲げさせ敵背後に回り込ませて、挟み討ちにするという騙まし討ちにより、わずか2000の兵で勝利し、そのまま越後から北陸道へと進み、同じ源氏一門である源頼朝や武田信光(甲斐源氏)の勢力が浸透していない北陸へと勢力を広げた。

 

横田河原の戦い
 

1183年、源頼朝と敵対して敗れた志田義広(源為義の三男で義仲の叔父にあたる)と、同じく源頼朝から追い払われた源行家(源為義の十男で義仲の叔父にあたる)が義仲を頼り、この2人の叔父を庇護した事で義仲と源頼朝との関係が悪化する。

 

 

両者は武力衝突寸前となるが、平氏追討を前に源氏同士で争うわけにはいかず、義仲の息子・源義高を人質として鎌倉に送る事で和議が成立した。

 

 

 

一方、平氏はエース平維盛(平清盛の孫)と平知度(平清盛の七男)が率いる10万の大軍が、難攻不落といわれた燧ヶ城を落とし、加賀国で井上範方を撃破し、越中へと向かって来る。

 

 

ここで平氏軍は、平知度が率いる3万が志雄山、平維盛が率いる7万が倶利伽羅山へと二手に分かれた。


平維盛
  
平維盛
 

義仲は地元で5万の兵を集めると、倶利伽羅山に陣を張り、平氏軍を谷から落とすことを考える。

加賀と越中の境にある倶利伽羅山は高く、道は細く、谷は深い。

 

 

義仲軍は500頭ほどの牛の角に松明をスタンバイして夜が更けるのを待ち、平氏軍が眠りに就いた深夜に奇襲をかけ、太鼓を打ち、法螺貝を吹き、鏑矢を放ち、叫びながら角に松明を燃やした牛を平氏軍の陣に追い入れ、それらは山びこで響き渡った。

 

 

真夜中の大騒音、地鳴りと共に押し寄せる炎の数々、平氏軍は大パニックに陥り、太刀一つに3人が群がり弓一つを4人が掴み、暗闇で方向も分からず、18000もの兵が谷から転落する。

 

一夜明け、倶利伽羅山の劣勢の知らせを聞き、志雄山から駆け付けた平知度は戦況を打開できず自害に追い込まれた。

 

倶利伽羅峠の戦い
 

「倶利伽羅峠の戦い」に勝利した義仲軍は破竹の勢いで京都を目指し、また、源行家が伊賀方面から進攻し、京都の防衛を断念した平氏は安徳天皇(後白河法皇の孫で、母は平清盛の娘)とその異母弟・守貞親王を連れて西国へ逃れる。

 

 

この時、平氏は後白河法皇も連れていくつもりであったが、後白河法皇は比叡山に身を隠してやりすごし、間もなく義仲が平氏に入れ替わって京都へと入った。

 

 

義仲軍は官軍として迎い入れられ、平氏追討の勲功から義仲は「伊予守」となる。

 


 

後白河法皇は平氏に安徳天皇と神器の返還を求めたが、交渉は失敗に終わったため、京都に残っている高倉上皇(安徳天皇の父)の二人の皇子(惟明親王・尊成親王)のいずれかを天皇にすることを決めた。

 

 

しかし、義仲はこの際に「平氏の悪政がなければ本来は以仁王が天皇になっていたはずなので、その子である北陸宮を即位させるべき。」と申し立てる。

 

 

皇族・貴族にあらざる武士が皇位継承問題に介入することは極めて不快感を買う行為であったが、山村で育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした源頼朝とは違い、宮中の政治・文化・歴史への知識が全くなかった。

 

 

これにより義仲は後白河法皇との関係が悪化し、京都において粗野な田舎者と疎まれるようになる。

 

 

さらに「養和の飢饉」で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、食糧事情はますます悪化し、都や周辺での略奪行為が横行したため、義仲は平氏の狼藉によって荒廃した京都の治安回復を期待されていたが、大きくその期待を裏切ることになった。


養和の飢饉
 

しかし京中守護軍は源行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、その中で義仲がもっとも有力だっただけで全体の統制が出来る状態になく、義仲は批判に対して開き直った態度をとり、半ばヤケになっている様子が伺える。

 

 

 

たまりかねた後白河法皇は義仲を呼び出し、立場の悪化を懸念した義仲は、西国で再起の力を蓄えている平氏の討伐に向かって挽回を目指す。

 

 

播磨国へと出陣した義仲は「水島の戦い」で平氏軍に惨敗し、さらに有力武将の矢田義清を失い、苦戦を続けていた。

 

 

そんな義仲の耳に、源頼朝の弟(源義経・源範頼)が大将軍となり大軍を率いて京都に向かっているという情報が飛び込み、驚いた義仲は平氏軍との戦いを切り上げて少数の軍勢で京都へと引き返す。

 

 

 

源義経・源範頼の率いる鎌倉軍が京都へと向かっているのは、後白河法皇と源頼朝が通じていたからなので、義仲は後白河法皇に激烈な抗議をし、逆に源頼朝追討の命令を下すように要求する。

 

義仲の敵はすでに平氏ではなく源頼朝に変わっていた。

 

 

とはいえ、義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態で旗色は極めて悪く、鎌倉軍の京都到着が間近との報に力を得た後白河法皇は義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。

 

 

後白河法皇は延暦寺や園城寺の協力をとりつけ、さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れ、圧倒的優位に立ったと判断すると義仲に対して最後通牒を行う。

 

 

その内容は「直ちに平氏追討のため西へ向かえ。源頼朝と戦うなら朝廷の命を得ようとせず私闘としてやれ。京都に居座るなら謀反とする。」というこの上なく容赦ないものであった。

 

この非情さには、朝廷側に立場する九条兼実ですら義仲を擁護するが、後白河法皇は義仲への武力攻撃の決意を固める。


後白河法皇
  
後白河法皇  

 

焦った義仲は後白河法皇の御所を襲撃し、後白河法皇を捕えると五条東洞院の摂政邸に幽閉し、復権を目論む前関白の松殿基房(まつどのもとふさ)の子・松殿師家(まつどのもろいえ)を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。

 

また、義仲と手を結んだ松殿基房は、娘である絶世の美女・藤原伊子を義仲に嫁がせている。

 

新たな摂政となった松殿師家によって義仲は、源頼朝追討に対して形式的に官軍(天皇の軍)の体裁を整えて、征東大将軍に任命させた。

 

木曾義仲3 (2)
 

鎌倉軍が目前に迫ると、義仲は京都の防備を固めるが、京都での人望を完全に失っていた義仲には兵が集まらず「宇治川の戦い」に惨敗して、鎌倉軍が京都に進入すると人質として捕えていた後白河法皇も奪われる。

 

木曾義仲1
 

 「宇治川の戦い」に敗れて京都をあとにする義仲軍わずか7騎の中に一人の女性がいた。

 

女性は樋口兼光・今井兼平の妹で幼少より義仲と共に育った巴御前で「平家物語」では「色白く髪長く、容顔まことに優れた美人で、強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)」と記されている。

 

この時、巴御前は左右から襲いかかってきた2人の武者を両脇に挟みこんで絞め、2人は頭がもげて死んだという。

 

 

義仲は一緒にいたがる巴御前に「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのは恥ずかしい。」と言って説得すると、巴御前は「最後の奉公でございます。」と言い残し、怪力と名高い敵将・御田八郎師重を馬から引き落として首を切った。

 

 

その後、巴御前は鎧・甲を脱ぎ捨てて泣く泣く落ち延びると、出家して尼となり91歳まで生きたとされている。

 

3巴御前
  
巴御前
  

琵琶湖湖畔の粟津浜(滋賀県大津市)に追い詰められた義仲は今井兼平と二人だけとなり、義仲は雑兵に討ち取られては猛将の恥と自害できる場所を求め、今井兼平は義仲の名誉を守るために押し寄せる鎌倉軍に単騎立ちはだかった。

 

 

しかし、義仲の馬が田んぼに足をとられて身動きがとれなくなると、義仲に矢が命中する。

 

1184年、挙兵から4年、征東大将軍にまでなった木曾義仲が没した。

 

それを確認した今井兼平は、刀を口にくわえると馬から落ち、自害して義仲のあとを追う。

 

粟津の戦い
 

義仲のもう一人の幼馴染み樋口兼光は、これから間もなく京都で処刑された。

 

 

義仲が戦死したとき嫡子・源義高は、源頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれたため義仲の血は絶えたとされるが、戦国大名の木曾氏は義仲の子孫を自称している。

 

 

 

義仲は、時代を制して最高権力者となった源頼朝と対立したため「逆賊」として評価され続けたが、平氏全盛の世に反旗をひるがえして新しい時代を拓いた一人であり、北陸方面を制圧して京都から平氏を追い出すなど「源氏の世」の功労者であることは間違いない。

 

 


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斎藤 道三 (岐阜)

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「美濃のマムシ」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は「美濃国諸旧記」などにより形成されていったが、
1960年代に始まった「岐阜県史」の整理の過程で発見された「六角承禎書写」によって、その人物像は転換する。

 

 

これにより、それまで道三一代のものと見られていた「国盗り物語」は、松波庄五郎(まつなみしょうごろう 別名・長井新左衛門尉)と道三の二代にわたるもので、これまで道三の生涯とされていた前半部分は、道三の父・松波庄五郎の事績であった可能性が非常に高くなった。

 

 

松浪家は先祖代々北面武士を務めていたが、松波庄五郎は事情にあって山城国西岡(現在の京都府乙訓郡)に住んでおり、11歳の春に京都妙覚寺で出家の儀式を受けて法蓮房という名の僧侶となる。

 

京都妙覚寺

その後、学友の日護房が美濃国厚見郡今泉の常在寺の住職となったのをキッカケに松波庄五郎は俗人に戻って、油問屋の奈良屋又兵衛の娘を娶った。

 

 

松波庄五郎は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といったパフォーマンスが評判をよび、油売りの行商として成功する。

 

 

ところがある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ。」と言われたのをキッカケに商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという。

 

 

その後、武士になりたいと思った松波庄五郎は学友だった日護房の縁故を頼って美濃守護土岐氏小守護代(守護の下に置かれた役職)の長井長弘の家臣となることに成功する。

 

 

松波庄五郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現わし、土岐守護・土岐政房の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。

 

そして、頼芸が兄・頼武との家督相続に敗れると、松波庄五郎は密かに策を講じて頼武を越前へ追いやり、頼芸が土岐守護に就くことに大きく貢献する。

 

 

頼芸の信頼をますます得た松波庄五郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘を除去するため殺害した。

 

斎藤道三2

ここまでは近年の研究では道三の父・松波庄五郎である可能性が高いとされ、公卿三条西実隆の日記では1533年頃に松波庄五郎が死去したとされているので、この頃に道三は父から家督を継ぎ、ここから先が道三の事績である可能性が高い。

 

 

 

1535年、道三は頼芸とともに頼武の嫡男・土岐頼純と激突し、これに朝倉氏と六角氏が加担したことにより、戦火は美濃全土へと広がる。

 

 

 

1538年、美濃守護代の斎藤利良が病死すると、道三はその家名を継いで斎藤姓を名乗り、1539年に居城である稲葉山城(後の岐阜城)の大改築を行なった。

 

稲葉山城
 

1541年、道三による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺を機に、頼芸と道三との対立抗争が始まり、1542年、道三は頼芸の大桑城(岐阜県山県市)を攻め、父の代から懇意であった頼芸とその子・頼次を尾張へ追放し、事実上の美濃国主に登りつめる。

 

 

こうした隙あらば寝首をかく道三のスタイルは好感度は低く「主君や婿を殺すような荒業は身の破滅を招く。昔で言えば尾張の長田忠致、今なら美濃の斎藤山城守利政であろう。」という落首(主に世相を風刺した詩を記した立て札)が作成さるなどした。

 

 

尾張に追放された頼芸は織田信秀(織田信長の父)の後援を得ると、同じく道三に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純と連携し、美濃での土岐氏復活を掲げ、朝倉氏・織田氏の援助を得ると美濃へ侵攻した。

 

 

頼芸・頼純の土岐氏による美濃侵攻によって、頼芸は揖斐北方城(岐阜県揖斐郡揖斐川町北方)に入り、頼純は革手城(岐阜県岐阜市正法寺町)に復帰する。

 

揖斐北方城
 

1547年、織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けた「加納口の戦い」では、頼純・朝倉孝景・織田信秀あわせて25千の軍勢が道三の戦術の前に5000人の戦死者を出す大損害を受け、織田軍は壊滅寸前となり、織田信秀合は67人を連れただけで逃げ帰った。

 
加納口の戦い
 

さらにこの年、土岐頼純が病死。

 

 

道三は織田信秀と和睦すると、1548年、娘の帰蝶(濃姫)を織田信秀の嫡子・織田信長に嫁がせた。

 

 

この和睦を好機に道三は、これまで織田家の後援を受けて道三に反逆していた相羽城主・長屋景興や揖斐城主・揖斐光親らを滅ぼし、1552年、さらに揖斐北方城に留まっていた土岐頼芸を再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定する。

 

 

道三は娘・帰蝶を織田信長に嫁がせた後、正徳寺(現在の愛知県一宮市冨田)で会見した。

 

その際、織田信長が多数の鉄砲を護衛に装備させ、さらに正装で訪れたことに大変驚き、織田信長が尾張のバカ息子という評判とは裏腹の才覚に道三は気付き、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちは織田信長の家臣になるだろう。」と言う。

 

聖徳寺
 

1554年、道三は家督を嫡男の斎藤義龍へ譲り、常在寺で剃髪して出家すると「道三」と号し、鷺山城(岐阜県岐阜市)に隠居した。

 

斎藤道三1

しかし、道三は義龍よりもその弟である孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍への家督相続の取り消しを考え始め、道三と義龍の不仲が深刻化すると、1555年、義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。

 

 

1556年、道三と義龍の親子対決となった「長良川の戦い」は、義龍軍17500に対して、道三は美濃国盗りの経緯から旧土岐家家臣団などの反感を買っていたため2,500しか集まらなかった。

 
斎藤義龍
  
斎藤義龍
 

戦いは、義龍軍の長屋甚右衛門が一騎討ちを挑むと、道三軍から柴田角内がそれに応じ、両者の一騎討ちに柴田角内が勝利し、勝負が決すると両軍とも全軍突撃となる。

 

 

道三軍は序盤こそ戦いを優勢に進めるも、圧倒的な兵力差をくつがえすことは出来ず、ついに道三の目の前まで義龍軍が押し寄せ、道三は戦死した。

 

 

道三の娘婿にあたる織田信長は、道三への援軍を派遣していたが、この合戦に間に合わず、道三の救出はかなわずに終わる。

 

長良川の戦い
 

道三は戦死する直前に、織田信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を渡していた。

 

また、道三は「長良川の戦い」における義龍の采配の見事さを目にして、これまで義龍を「無能」と評したことを後悔したといわれている。

 

 

道三の首は、義龍側についた旧臣の手で手厚く葬られた。

 

 


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北条 早雲 (静岡)

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長らく早雲の出自は不明で、講談などの影響で伊勢の素浪人として描かれることが多かったが、近年の研究で備中国荏原荘
(現在の岡山県井原市)の領主・伊勢盛定の子というものが定説化している。

 

 

伊勢氏は武家の名門である平氏の流れを汲み、代々、武家の礼儀作法を司った由緒ある家柄で、京都の伊勢氏本家では歴代足利将軍の嫡男を預かって礼儀作法を教えるならわしがあり、伊勢氏は室町幕府に影響力のある家であった。

 

 

備中伊勢氏は分家とはいえ、早雲も伊勢一族として高い教養を身につけていたことが考えられる。

 

 

30代の頃の早雲は、室町幕府8代将軍・足利義政の弟・足利義視(あしかがよしみ)に仕えていた。

 

足利義視
   
足利義視
 

1467年、畠山家の家督争いなどに端を発した「応仁の乱」は、細川氏と山名氏の戦いに発展すると全国から守護(幕府が治安維持などのために設置した地方官)が兵を率いて東軍と西軍に分かれ、主要な戦場となった京都は市街戦が繰り広げられ灰燼と化し、民衆に多大な犠牲を強いるものとなる。

 

 

民衆に多くの犠牲を生んだ最大の要因は、銭で雇われ敵軍への放火や撹乱を主な任務とした「足軽」の存在が大きかった。

足軽は戦場下においてしばしばコントロール不能の暴徒と化し、戦には直接関係のない寺社や民家に押し入って略奪、放火、人さらいも珍しくなく、さらに天災や飢饉も民衆を苦しめ、都の辻々のいたるところに難民があふれる。

 

 

 

早雲の主君・足利義視は東軍の総大将を務め、餓死者があふれる京の都で民衆の苦しみを知りながらも兄である将軍・足利義政の機嫌を取るため戦に明け暮れた。

 

しかし、その足利義視は兄・足利義政に謀反の疑いをかけられると東軍から西軍に寝返って戦い続けることになる。

 

 

30代後半の頃、早雲は5年あまり仕えた足利義視のもとを去った。

 

「応仁の乱」を身近に体験したことは、後々の早雲の思想に大きな影響を与えることになる。

 

応仁の乱
 

その後、早雲は一時的に妹の嫁ぎ先であった駿河に行くが、再び京都に戻ると40代で僧となって修行三昧の日々を送った。

 

 

しかし、50歳を過ぎた頃、早雲は修行を止めて「申次衆」という将軍へ諸国からの陳情を取り次ぐ役職で幕府の仕事に復帰する。

 

 

俗世に見切りをつけて仏門に入った早雲が、なにを思って再び幕府の仕事をし出したのかは憶測の域を出ないが、申次衆は各地の守護と接するため地方の情報が入ってくるため、この後の駿河国での出来事はここで得た情報が大きく影響したことは間違いない。


駿河国
 

1487年、申次衆を辞した早雲は駿河(現在の静岡県北東部・中部)へと向う。

 

代々、駿河国を治める室町幕府の名門・今川家は、早雲がつかんだ情報では深刻なお家騒動にあり、その今川家の代理として駿河国を支配していた小鹿範満(おしかのりみつ)には全く人望がなかった。

 

 

早雲はわずか半年で小鹿範満に不満を持つ駿河の領主達をまとめると、電光石火の奇襲で館を襲撃し、まったくの不意をつかれた小鹿範満は成す術なく殺害される。

 

 

事前に敵の情報を集めて周到に準備を整え、一瞬の勝機を活かした奇襲で相手を打ち破る戦い方は、この先も早雲の常套手段となっていく。

 

 

室町幕府の名門・今川家の代理として駿河国を支配していた小鹿範満を殺害することは、幕府勢力に挑戦状を叩きつける行為であり、この出来事によって早雲は初めて歴史の表舞台に姿を現す。

 

人生50年といわれたこの時代であるが、この時の早雲はすでに56歳となっていた。

 

北条早雲3
 

駿河国の東の端にある興国寺城(静岡県沼津市)を手に入れた早雲は、関東における将軍の代理人として駿河の隣国・伊豆に居を構える足利政知に睨みを利かせる。

 

 

この時代の城はその多くが館のような造りにとどまっていたが、興国寺城は100メートルを超える空堀や土塁を備え、さらに東海道から興国寺城までは馬が足をとられて進軍もままならない広大な沼地が広がる天然の要害であり、その東海道の様子は城からよく見えた。

 

興国寺城
 

1493年、2年前に足利政知が病死して一族に深刻な跡目争いが起きていることをつかんだ早雲は、わずかな手勢と共に興国寺城を出撃すると伊豆の足利館に夜襲をかけ、女・子どもを含めた1000人以上を皆殺しにし、その首を城の塀にぶら下げる。

 

 

庶民の暮らしに背を向けてお家騒動を繰り返し、幕府の権威を振りかざすばかりの足利一族に、早雲はこのような厳しい態度でのぞむ一方で、自らの軍を厳しく律して民衆への略奪行為は一切禁じていた。

 

さらにこの頃、伊豆では1000人以上の死者が出る疫病が大流行していたが、早雲は率いていた兵に村人達の看病をさせるなどしている。

 

 

60歳となっていた早雲は「生かすべき者を生かし、殺すべき者を殺す。それが政治というものである。」という自らの言葉そのままの戦いで伊豆国を手に入れた。

 

北条早雲1

一国の主となった早雲は、伊豆を足がかりに箱根を越えて、東海道と相模湾の交通の要衝である小田原の獲得を目指す。

 

 

早雲は、自分が国中の盲人を捕えて海に沈めるという噂を流し、これを聞いて慌てて他国へと逃げる盲人達の中に多くのスパイを紛らせ、小田原城の情報を集め、その結果、小田原城は物理的な守りは堅いが城主・大森藤頼は若く隙がある人物であることに目をつける。

 

 

 

早雲は「敵がもし攻めてきたら、私は他ならぬあなたに後詰を頼もうと思っている。だから、もし、あなたが出陣する時は、後詰を私に務めさせてくれないだろうか。」という甘い言葉を連ねた書状を大森藤頼に送り、さらに珍品を繰り返し贈って油断を誘った。

 

 

秋の鹿狩りの季節、早雲は「鹿狩りをしていたら獲物が小田原の方に逃げてしまった。大変、申し訳ないが、伊豆側に鹿を追い返すために、小田原城の裏側に勢子(狩猟の際に野生動物を射手のいる方向に追い込んだりする役割の人)を入れさせて頂けないだろうか。」という書状を大森藤頼に送る。

 

 

早雲を信用し切っていた大森藤頼がなんの疑いもなく承諾すると、早雲はすぐさま勢子に扮した数百人の精鋭部隊を小田原城の裏手に差し向けた。

 

 

夜、別の一隊が小田原城下に火をかけると、それを合図に城の裏手に侵入していた精鋭部隊が城に乱入し、不意の襲撃を受けた小田原城内は「敵は何万騎あらんか」と大混乱に陥り、早雲は小田原城を難なく攻め落とす。

 

小田原城
 

小田原城は後に小田原北条氏の本城となるが、早雲自身は終生、伊豆韮山城を居城とした。

 

伊豆韮山城
 

小田原城を奪取して相模国の西半分を勢力下に治めた早雲を、山内上杉家と扇谷上杉家が手を結んで(もともとは敵対していた)攻撃すると、早雲は権現山城(横浜市神奈川区)を落とされ、さらに平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の当主・三浦義同(みうらよしあつ)に住吉要害(神奈川県平塚市山下)を攻略され、小田原城まで迫られる。

 

手痛い敗北を喫した早雲はこれを和睦で辛うじて切り抜けた。

 

 

 

 

1506年、早雲は相模で検地(田畑の収穫量を調査)を初めて実施し、上杉氏の圧迫に耐えながら自らの領国統治に力を注ぐ。

 

 

早雲は検地によって税収の安定化を図って財政の基礎を作ると、商工業の発展のために城下町を整備して商人達が自由に商いを出来るように便宜し、無理な負担を領民に強いることなく現金収入を整えると、民衆が最も望む年貢の引き下げに着手した。

 

 

従来、五公五民(収穫の5割が年貢で残り5割が農民の取り分)だった年貢を四公六民に引き下げ、さらに年貢を多く取り過ぎた場合は、農民が早雲に直接訴えることを認める。

 

 

こうした早雲の善政は「我らが国も新九郎殿(早雲のこと)の国にならばや」と他国から羨まれるほどとなった。

 

 

旧勢力打倒のためには残酷とも思える戦いをする早雲だが、領民からは父のように慕われる存在で、早雲が敗れて古い政治に逆戻りになることを危惧する民衆の中から進んで戦争への協力を申し出る者も少なくなく、早雲はこうした民衆あがりの兵を足軽に組み入れて大きな戦力としていく。

 

 

戦場ではわずかな食事を兵士と分け合い、一樽の酒があればそれを薄めて皆で飲んだという逸話のある早雲は、足軽や雑兵の心をつかむ人間的な魅力があった。


北条早雲2
 

地盤を固めた早雲は、1512年、扇谷上杉家に属していた三浦氏の岡崎城(神奈川県平塚市岡崎)を攻略し、三浦義同を敗走させ、さらに早雲が住吉城(神奈川県逗子市小坪)を落とすと、三浦義同は息子・三浦義意の守る三崎城(神奈川県三浦市)に逃げ込んだ。

 

 

早雲が鎌倉に入って相模国の支配権をほぼ掌握すると、上杉朝良(扇谷上杉家)の甥・上杉朝興(うえすぎともおき)が三浦氏の救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破する。

 

 

三浦義同は、鎌倉に玉縄城を築いた早雲をしばしば攻撃し、扇谷上杉家も救援の兵を送るが、早雲はそれらをことごとく撃退した。


玉縄城
 

1516年、早雲は玉縄城を攻撃する上杉朝興を打ち破ると、三浦父子(義同・義意)の籠る三崎城に大軍で攻め込み、激戦の末に三浦氏を滅ぼす。

 

 

三浦半島南西部の油壺湾の名前の由来は、この時の戦いで、三浦父子をはじめとする将兵が討死すると残った者達が油壺湾へ投身し、湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったためである。

 

油壺
 

85歳で相模国を完全支配した早雲は、その2年後、室町幕府に対する独立宣言を発した。

 

 

関東の地を室町幕府の支配から独立させた早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、この早雲の出現によって世は実力がものをいう戦国時代に突入したことが、早雲が戦国大名の先駆けといわれる由縁である。

 

 

 

早雲は伊豆・相模の二カ国の大名となっても幕府からの位を受けずに無位無官を通し、1518年に家督を嫡男・北条氏綱に譲ると、翌1519年に死去した。

 

 

 

早雲の後を継いだ北条氏綱の代から北条氏を称し(関東を支配するうえで馴染みある鎌倉北条氏にあやかった)、領国は武蔵国まで拡大し、以後、勢力を伸ばし、5(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)に渡って関東に覇を唱えた。




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