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【『 47都道府県 歴史的偉人めぐり 』】

はじめに



「47都道府県の歴史的偉人めぐり」などとやってしまうと、なにかと難しい話にもなってくる。


現在の都道府県で「××様が○○県の偉人」とかやってしまうと、青森の津軽と南部、愛知の尾張と三河、山形の米沢と最上などなど、完全無害な選択は出来ない。


さらに京都なんて、一人を選べるのか???と思う。
さすがに別枠になるかもしれない。


あとは、出生地と活躍した土地が違う場合も迷うところではある。

領地という概念を持つ大名については、基本的に出生地よりも最も強い権力を振るった土地かなと思うし、逆に桂小五郎は絶対に山口だと感じる。

書きながら、山口も一人を選ぶの難しいと思った。



いろいろ悩むところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!



「上洛」という言葉を「京都へ向かう」や「天皇に会いに」などに言い換えるレベルの柔らかい書き方をしていきます。



日本地図











6.四国 (徳島県・香川県・愛媛県・高知県)




北海道・東北 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



伊達政宗は出身は山形なのでは?という意見もあるかとは思いますが、この「47都道府県 歴史的偉人めぐり」では、領地という概念を持つ大名は出生地よりも、まず権力基盤を確定させた土地、次に最も権力を発揮した土地を優先させるつもりです。


岩手は藤原氏なのでは?と至極もっともな意見もあるかとは思いますが、だいぶ昔に高橋克彦の「火怨」を読んでからアテルイのファンなので…。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!

















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関東 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



関東は他の地方に比べると古い時代の人物が多くなるのが特徴です。
その理由は鎌倉幕府が誕生する以前の日本というのは京都一極集中の支配体制だったからです。

そうした古代から中世において、京都の影響から脱して関東に独立性も求めた人達がいました。

鎌倉幕府以降の関東は、鎌倉北条氏や小田原北条氏(鎌倉北条氏の流れではない)、そして徳川家と京都からの独立性の高い気風を保ち、派手な英雄を必要としなくなっていきました。


徳川家康に関しては、出生地の愛知、浜松城を築いた静岡、という意見もあるかとは思いますが、この「47都道府県 歴史的偉人めぐり」では、領地という概念を持つ大名は出生地よりも、まず権力基盤を確定させた土地、次に最も権力を発揮した土地を優先させるつもりです。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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中部 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



中部地方は戦国大名の先駆けといわれる北条早雲が勢力基盤を築いた駿河・伊豆、戦国時代の代名詞といえる織田信長の尾張と、戦国武将が名を連ねやすい歴史背景があります。


中部地方で最も悩んだのが静岡です。
静岡県の人からすると徳川家康という思いもあるでしょうが、徳川家康は出生地は愛知で、なによりこの「47都道府県 歴史的偉人めぐり」では権力基盤を確定させた土地、最も権力を発揮した土地を優先してます。


となると、足利家との縁深く長らく駿河を支配し、最も天下人に近いと言われていた今川義元であるべきですし、当時いかに今川家が強大な存在であったかをしっかり掘り下げるのも良かったのですが、どうしても織田信長に喰われた脇役感がいなめませんでした。


そこで、北条早雲は小田原北条氏の礎を築き戦国大名の幕を開け、歴史的意義が深いながらも、神奈川はどうしても源頼朝にせざるをえないので、駿河・伊豆が勢力基盤であったことから静岡を北条早雲にしました。




いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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近畿 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



近畿地方は明治時代になるまで、ずっと日本の中心であり続けた京都があるだけに、総じて言ってしまうとこの地域が日本の歴史のようなものかもしれません。


この近畿地方で最も悩んだのは、もちろん京都です。

とにかく候補が多過ぎて多過ぎて、一方で織田信長・豊臣秀吉・徳川家康くらいの突き抜けかたをしている人物もおらず、一人に絞るのは相当に無理がありました。

なので、京都に関しては特例として複数名を取り上げることにしました。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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・三重県 「藤堂 高虎」       (案内人・パーシヴァル)








・京都府 「平清盛」        (案内人・ユーサー)

中国 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



中国地方では岡山を宇喜多秀家か宮本武蔵かで迷いました。


武蔵の出生地は諸説あり、史実としては「五輪書」に記されている播磨国(兵庫県南西部)で生まれたというのが有力です。

しかし、伝説の域とも思える武蔵のエピソードは400年に渡って語り継がれ、この先の未来でもそれは続くのだから、伝説も込み込みで、あの宮本武蔵といえるのではないか、むしろ伝説を度外視した武蔵を宮本武蔵といえるのであろうかと思います。

そこで、物語として美作国(岡山県東北部)を出生地とすることが多く、また街のアピールも強いことから岡山を宮本武蔵といたしました。


個人的に石田三成が好きなので「関ヶ原の戦い」でその三成に味方した宇喜多秀家を岡山で取り上げたかったのですが…。


中国地方というのは、日本の中心であった畿内から天下統一を目指して九州を目指すうえでも、九州の戦力を畿内に移動させるうえでも、通過することになる日本史を考えるうえで重要な拠点でした。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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九州・沖縄 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



日本史をさかのぼればさかのぼるほど、その重要度の高くなる九州地方は多くの偉人を輩出しましたが、その中でも特に迷わされるのが鹿児島でした。


鹿児島といえば、どうしても西郷隆盛という結論になりますが、薩摩藩を治めていた島津氏は不思議なくらい有能な当主が登場し、そういう意味ではどんな名門武家にも勝るものでした。


また、九州地方は日本におけるキリスト教伝来の地ともいえ、大村純忠、大友宗麟といったキリシタン大名が登場したのも特徴の一つです。


そして、琉球王国の最後というのは、屈辱の歴史であると共に日本の歴史に完全に組み込まれたということでもあり、その狭間に翻弄された悲劇の王という陰陽を含んだ背景が、この地からの日本の偉人というテーマで重要な意味があると思いました。


いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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四国 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)


ここまで取り上げてきた各地の偉人は、軍事や政治で活躍した人物ばかりでしたが、今回の四国では香川県から科学者や文化人として名を馳せた平賀源内を選びました。


その他、徳島県から三好長慶、高知県から坂本龍馬と、選びやすい地域ではありました。

海賊として名を馳せた藤原純友もまた魅力的な人物です。


いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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シャクシャイン (北海道)

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シャクシャインはシベチャリ川下流東岸(現在の新ひだか町静内地区)を拠点としていたアイヌ民族集団メナシクルの首長であった。
 
新ひだか町静内

メナシクルは、シベチャリ川上流西岸のハエ(現在の日高町門別地区)を拠点としていたアイヌ民族集団シュムクルとシブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いが続いており、メナシクルの先代首長・カモクタインはシュムクルの首長・オニビシとの抗争で殺害され、メナシクルの副首長であったシャクシャインが首長となる。
 
日高町

1668年4月、今度はシャクシャインがオニビシを殺害。




もともとアイヌ民族は松前城下や津軽・南部方面まで交易舟を出して和人製品である鉄製品・漆器・米・木綿などと、獣皮・鮭・鷹羽・昆布などの交易を比較的自由にしていた。


しかし17世紀以降、幕府により対アイヌ交易権は松前藩が独占することとなり、津軽や南部などの東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなったため、アイヌ民族は対和人交易の相手が松前藩のみとなってしまう。


アイヌ民族は取引相手が限定され、松前藩以外の選択肢がないので、交換レートはアイヌ民族に不利なものへとなり、シャクシャインの戦い前夜の1665年には、従来の「米30kg=干鮭100本」から「米10.5kg=干鮭100本」と変化し、アイヌ民族にとって極めて不利益なものとなった。


レートが不利になったことにより、アイヌ民族はそれまで以上の干鮭、熊皮、鷹羽などの天然資源を確保する必要に迫られ、これがシャクシャインとオニビシの縄張り争いの要因の一つともなる。



現代に例えると、富裕層に富が集中するシステムに目が向かないように、庶民間に勤労者と社会保障受給者を分断させるのと同じように、大くくりな同胞・同族・同階級に対立構造を作る戦略は古い時代から支配層の常套手段であった。



一方で、アイヌが交易に応じなかった場合、子供を人質に取るなどと脅して、不利になった交換レートよりもさらに安値で強引に取引することが横行し、大名の鷹狩用の鷹や砂金を掘るために蝦夷地内陸部を切り開いたり、松前藩船による鮭の大量捕獲が、アイヌ民族の生活を脅かし、アイヌ民族の和人への不満も高まっていく。

松前城

シャクシャインにオニビシを殺されたシュムクルは松前藩に武器の提供を希望するが拒否され、その使者が帰路に疱瘡で死亡してしまい、この死亡が松前藩による毒殺であるという風説が広がると、アイヌ民族の松前藩および和人に対する敵対感情が沸点に達し、対立していたメナシクルとシュムクルが一つにまとまるキッカケとなった。

1シャクシャイン

シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ松前藩への戦いを呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応し、1669年6月21日、イシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現在の白糠町)から西は天塩のマシケ(現在の増毛町)周辺において一斉蜂起が発生。



アイヌ一斉蜂起の報を受けた松前藩は、クンヌイ(現在の長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えると同時に、幕府へ援軍や武器・兵糧の支援を求めた。


幕府は松前藩の求めに応じ、弘前・津軽氏、盛岡・南部氏、秋田・佐竹氏へ出兵準備を命じ、松前藩主・松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣する。




シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、7月末にはクンヌイに到達して松前軍との戦闘が始まり、戦闘は8月上旬頃まで続くが、鉄砲主体の松前軍に対して弓矢主体のシャクシャイン軍は劣勢となり、クンヌイからの後退を余儀なくされた。

長万部町国縫

シブチャリに退いたシャクシャインが徹底抗戦の姿勢をみせたため、松前藩は戦いの長期化によって交易が途絶えることなどを危惧して、シャクシャインに和睦を申し出る。


11月16日、シャクシャインがこの和睦に応じてピポク(現在の新冠町)の松前藩陣営に出向くと、和睦の酒宴で謀殺された。

翌17日、シャクシャインの本拠地であるシブチャリが陥落。


指導者を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。


翌1670年、松前軍はヨイチ(現在の余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から松前藩への恭順の確認をし、戦後処理のための出兵は1672年まで続く。
 
2シャクシャイン

その後、松前藩は蜂起に参加しなかったアイヌ民族に対しても服従を誓わせ、松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化された。


その結果、アイヌ有力首長によって強い自立性をもっていたアイヌ民族の地域統一的な政治結合も解体されていき、松前藩にとってアイヌ民族は交易相手から強制労働者へと変わっていく。



松浦武四郎の『知床日誌』には「女は最早十六七にもなり、夫を持べき時に至ればクナシリ島へ遣られ、諸国より入来る漁者、船方の為に身を自由に取扱はれ、男子は娶る比に成らば遣られて昼夜の別なく責遣はれ、其年盛を百里外の離島にて過す事故、終に生涯無妻にて暮す者多く」と記されている。



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津軽 為信 (青森)

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1567
年、為信は大浦城主・大浦為則(為信の伯父にあたる)の養子となり大浦氏を継いで大浦城主となる。大浦氏は、北は下北半島から南は北上川中央部に及ぶ広大な領地を支配する南部一族に属していた。

 

 

 

為信が、同じ南部一族の石川高信(後の南部宗家当主・南部信直の父)を攻めることを家臣達に提案すると、兵力が不十分だと猛反対を受け、為信は「戦は兵の数ではなく、将たる者の戦略しだいだ。」と返す。

 

 

為信は自領内の堀越城(高信の石川城から2キロほどに位置する)の修復作業と称して、大工と称した数百人の兵が、土や石と称した食料や武器を運搬し、戦闘の準備を着々と進め、とりあえずの修復作業を終えると、高信の家臣を招いてもてなした。
 

石川城
 
 

157155日の夜、為信はわずか80騎ほどの兵を率いて、すっかり油断した高信の石川城(弘前市石川町)に奇襲をかけ攻略する。



以後、為信は、1576年に大光寺城を攻め滝本重行を、1578年に浪岡城を攻め北畠顕村を攻略し、南部一族での存在感を増していった。

 

 


 

1582年、南部氏最盛期を築いた南部晴政が没すると南部家内は後継者問題で顕著になる。

 

晴政のあとを継いだ晴継がすぐに13歳で急死し、南部宗家当主は石川信直(為信が倒した石川高信の子)と九戸実親(くのへ さねちか)で争われた。

 

為信は九戸実親を支持するが、南部宗家は石川信直が相続してしまい、為信は本家筋に反旗を翻す討伐対象の勢力とされる。

 


しかし、南部領内には外敵侵入が度々あり、また九戸氏が反乱することを警戒しなければならず、南部信直(石川信直)は大規模な為信討伐軍を率いることができなかった。

 

津軽 (2)
 

そのため、南部家からの独立意識を強める為信は、1585年に油川城・横内城(いずれも現在の青森市)さらに田舎館城を攻略し、1588年に飯詰高楯城(現在の五所川原市)を攻略して、津軽地方の統一を果たす。

 

津軽為信2

為信は、石田三成を介して、鷹を献上するなど豊臣秀吉への接近を計り、1590年、秀吉の小田原(北条氏)征伐の知らせが届くと、すぐさま18名の重臣を連れて駆け付け、秀吉より津軽領45000石を承認する朱印状を手に入れ、独立した大名として認知されることに成功した。


 

一方、南部家も前田利家を頼って秀吉への接近を計っていたが、期待していた成果は出せずに終わる。

 

 

 

 

為信は近衛家(藤原氏の流れをくむ有力な公家)に金品や米などの贈物をしたうえで、近衛尚通(このえ ひさみち)が奥州遊歴をした際にできた私生児が為信の祖父・大浦政信であるという伝承を主張した。

 

 

その頃、近衛前久(近衛尚通の孫で元関白)は財政難であったため、為信を猶子(準養子のようなもの)にして近衛家紋の牡丹にちなむ杏葉牡丹の使用を許す。

 
 

為信は、形式上は藤原氏の流れであるというお墨付きを得て、この頃から姓を大浦から津軽に改める。

 

関ヶ原の戦い
 

1600年、関ヶ原の戦いでは周囲がすべて東軍という状況であったため、為信は三男・信枚(のぶひら)と共に東軍として参加した。


一方で、嫡男・信建
(のぶたけ)は大坂城で豊臣秀頼に仕えており、真田氏らと同様に津軽氏は、両軍生き残り策を考えた可能性がある。

 

 

こうした意図が見え隠れしたためか、戦後の論功行賞では上野・勢多郡大館村など6か村2000石の加増に留まった。

 

津軽為信1
 

1607年、嫡男・信建が京都で病に倒れた際、為信は自身も病を陥っていたが見舞いに向かうも、到着前に信建が病死し、その2ヵ月後に為信も京都で死去する。

 

 

津軽家の跡取りとして確実視されていた嫡男・信建と、為信自身が相次いで死去したため、家督は三男・信枚が継いだ。

 

弘前城
 

為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、一度も開かれることがなかった社があり、明治になってその扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。

 

為信は、徳川幕府に処分される危険を冒しても、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていた。

 

 

また、津軽家と豊臣家の仲介役が石田三成だったため、関ヶ原の戦いで西軍が壊滅すると、三成の次男・重成を保護したり、三成の三女・辰姫を息子の信枚の妻に迎えており、義理堅い人物であったことが分かる。

 

 

 

一方で、南部宗家に対して謀反した人物と語られることも多く、「土民、童幼、婦女といえども津軽を仇敵視する」ことが南部家の気風となり、その確執は江戸時代に入っても尾を引いた。



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