「47都道府県の歴史的偉人めぐり」などとやってしまうと、なにかと難しい話にもなってくる。
6.四国 (徳島県・香川県・愛媛県・高知県)
1567年、為信は大浦城主・大浦為則(為信の伯父にあたる)の養子となり大浦氏を継いで大浦城主となる。大浦氏は、北は下北半島から南は北上川中央部に及ぶ広大な領地を支配する南部一族に属していた。
為信が、同じ南部一族の石川高信(後の南部宗家当主・南部信直の父)を攻めることを家臣達に提案すると、兵力が不十分だと猛反対を受け、為信は「戦は兵の数ではなく、将たる者の戦略しだいだ。」と返す。
為信は自領内の堀越城(高信の石川城から2キロほどに位置する)の修復作業と称して、大工と称した数百人の兵が、土や石と称した食料や武器を運搬し、戦闘の準備を着々と進め、とりあえずの修復作業を終えると、高信の家臣を招いてもてなした。
1571年5月5日の夜、為信はわずか80騎ほどの兵を率いて、すっかり油断した高信の石川城(弘前市石川町)に奇襲をかけ攻略する。
以後、為信は、1576年に大光寺城を攻め滝本重行を、1578年に浪岡城を攻め北畠顕村を攻略し、南部一族での存在感を増していった。
1582年、南部氏最盛期を築いた南部晴政が没すると南部家内は後継者問題で顕著になる。
晴政のあとを継いだ晴継がすぐに13歳で急死し、南部宗家当主は石川信直(為信が倒した石川高信の子)と九戸実親(くのへ さねちか)で争われた。
為信は九戸実親を支持するが、南部宗家は石川信直が相続してしまい、為信は本家筋に反旗を翻す討伐対象の勢力とされる。
しかし、南部領内には外敵侵入が度々あり、また九戸氏が反乱することを警戒しなければならず、南部信直(石川信直)は大規模な為信討伐軍を率いることができなかった。
そのため、南部家からの独立意識を強める為信は、1585年に油川城・横内城(いずれも現在の青森市)さらに田舎館城を攻略し、1588年に飯詰高楯城(現在の五所川原市)を攻略して、津軽地方の統一を果たす。
為信は、石田三成を介して、鷹を献上するなど豊臣秀吉への接近を計り、1590年、秀吉の小田原(北条氏)征伐の知らせが届くと、すぐさま18名の重臣を連れて駆け付け、秀吉より津軽領4万5000石を承認する朱印状を手に入れ、独立した大名として認知されることに成功した。
一方、南部家も前田利家を頼って秀吉への接近を計っていたが、期待していた成果は出せずに終わる。
為信は近衛家(藤原氏の流れをくむ有力な公家)に金品や米などの贈物をしたうえで、近衛尚通(このえ ひさみち)が奥州遊歴をした際にできた私生児が為信の祖父・大浦政信であるという伝承を主張した。
その頃、近衛前久(近衛尚通の孫で元関白)は財政難であったため、為信を猶子(準養子のようなもの)にして近衛家紋の牡丹にちなむ杏葉牡丹の使用を許す。
為信は、形式上は藤原氏の流れであるというお墨付きを得て、この頃から姓を大浦から津軽に改める。
1600年、関ヶ原の戦いでは周囲がすべて東軍という状況であったため、為信は三男・信枚(のぶひら)と共に東軍として参加した。
一方で、嫡男・信建(のぶたけ)は大坂城で豊臣秀頼に仕えており、真田氏らと同様に津軽氏は、両軍生き残り策を考えた可能性がある。
こうした意図が見え隠れしたためか、戦後の論功行賞では上野・勢多郡大館村など6か村2000石の加増に留まった。
1607年、嫡男・信建が京都で病に倒れた際、為信は自身も病を陥っていたが見舞いに向かうも、到着前に信建が病死し、その2ヵ月後に為信も京都で死去する。
津軽家の跡取りとして確実視されていた嫡男・信建と、為信自身が相次いで死去したため、家督は三男・信枚が継いだ。
為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、一度も開かれることがなかった社があり、明治になってその扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。
為信は、徳川幕府に処分される危険を冒しても、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていた。
また、津軽家と豊臣家の仲介役が石田三成だったため、関ヶ原の戦いで西軍が壊滅すると、三成の次男・重成を保護したり、三成の三女・辰姫を息子の信枚の妻に迎えており、義理堅い人物であったことが分かる。
一方で、南部宗家に対して謀反した人物と語られることも多く、「土民、童幼、婦女といえども津軽を仇敵視する」ことが南部家の気風となり、その確執は江戸時代に入っても尾を引いた。