劇団Camelot

猫のキャラクター(劇団Camelot)を案内人に、世界の伝説や神話、様々な歴史などを、分かりやすく玄人向けではなく簡略化されているのに深く、表現していきたいと思います。

【『 47都道府県 歴史的偉人めぐり 』】

はじめに



「47都道府県の歴史的偉人めぐり」などとやってしまうと、なにかと難しい話にもなってくる。


現在の都道府県で「××様が○○県の偉人」とかやってしまうと、青森の津軽と南部、愛知の尾張と三河、山形の米沢と最上などなど、完全無害な選択は出来ない。


さらに京都なんて、一人を選べるのか???と思う。
さすがに別枠になるかもしれない。


あとは、出生地と活躍した土地が違う場合も迷うところではある。

領地という概念を持つ大名については、基本的に出生地よりも最も強い権力を振るった土地かなと思うし、逆に桂小五郎は絶対に山口だと感じる。

書きながら、山口も一人を選ぶの難しいと思った。



いろいろ悩むところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!



「上洛」という言葉を「京都へ向かう」や「天皇に会いに」などに言い換えるレベルの柔らかい書き方をしていきます。



日本地図











6.四国 (徳島県・香川県・愛媛県・高知県)


7.九州・沖縄 (福岡県・佐賀県・長崎県・熊本県・大分県・宮崎県・鹿児島県・沖縄県)


北海道・東北 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



伊達政宗は出身は山形なのでは?という意見もあるかとは思いますが、この「47都道府県 歴史的偉人めぐり」では、領地という概念を持つ大名は出生地よりも、まず権力基盤を確定させた土地、次に最も権力を発揮した土地を優先させるつもりです。


岩手は藤原氏なのでは?と至極もっともな意見もあるかとは思いますが、だいぶ昔に高橋克彦の「火怨」を読んでからアテルイのファンなので…。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!














関東 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



関東は他の地方に比べると古い時代の人物が多くなるのが特徴です。
その理由は鎌倉幕府が誕生する以前の日本というのは京都一極集中の支配体制だったからです。

そうした古代から中世において、京都の影響から脱して関東に独立性も求めた人達がいました。

鎌倉幕府以降の関東は、鎌倉北条氏や小田原北条氏(鎌倉北条氏の流れではない)、そして徳川家と京都からの独立性の高い気風を保ち、派手な英雄を必要としなくなっていきました。


徳川家康に関しては、出生地の愛知、浜松城を築いた静岡、という意見もあるかとは思いますが、この「47都道府県 歴史的偉人めぐり」では、領地という概念を持つ大名は出生地よりも、まず権力基盤を確定させた土地、次に最も権力を発揮した土地を優先させるつもりです。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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中部 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



中部地方は戦国大名の先駆けといわれる北条早雲が勢力基盤を築いた駿河・伊豆、戦国時代の代名詞といえる織田信長の尾張と、戦国武将が名を連ねやすい歴史背景があります。


中部地方で最も悩んだのが静岡です。
静岡県の人からすると徳川家康という思いもあるでしょうが、徳川家康は出生地は愛知で、なによりこの「47都道府県 歴史的偉人めぐり」では権力基盤を確定させた土地、最も権力を発揮した土地を優先してます。


となると、足利家との縁深く長らく駿河を支配し、最も天下人に近いと言われていた今川義元であるべきですし、当時いかに今川家が強大な存在であったかをしっかり掘り下げるのも良かったのですが、どうしても織田信長に喰われた脇役感がいなめませんでした。


そこで、北条早雲は小田原北条氏の礎を築き戦国大名の幕を開け、歴史的意義が深いながらも、神奈川はどうしても源頼朝にせざるをえないので、駿河・伊豆が勢力基盤であったことから静岡を北条早雲にしました。




いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


Think Globally,Act Locally!














近畿 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



近畿地方は明治時代になるまで、ずっと日本の中心であり続けた京都があるだけに、総じて言ってしまうとこの地域が日本の歴史のようなものかもしれません。


この近畿地方で最も悩んだのは、もちろん京都です。

とにかく候補が多過ぎて多過ぎて、一方で織田信長・豊臣秀吉・徳川家康くらいの突き抜けかたをしている人物もおらず、一人に絞るのは相当に無理がありました。

なので、京都に関しては特例として複数名を取り上げることにしました。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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・三重県 「藤堂 高虎」       (案内人・パーシヴァル)








・京都府 「平清盛」        (案内人・ユーサー)

中国 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)



中国地方では岡山を宇喜多秀家か宮本武蔵かで迷いました。


武蔵の出生地は諸説あり、史実としては「五輪書」に記されている播磨国(兵庫県南西部)で生まれたというのが有力です。

しかし、伝説の域とも思える武蔵のエピソードは400年に渡って語り継がれ、この先の未来でもそれは続くのだから、伝説も込み込みで、あの宮本武蔵といえるのではないか、むしろ伝説を度外視した武蔵を宮本武蔵といえるのであろうかと思います。

そこで、物語として美作国(岡山県東北部)を出生地とすることが多く、また街のアピールも強いことから岡山を宮本武蔵といたしました。


個人的に石田三成が好きなので「関ヶ原の戦い」でその三成に味方した宇喜多秀家を岡山で取り上げたかったのですが…。


中国地方というのは、日本の中心であった畿内から天下統一を目指して九州を目指すうえでも、九州の戦力を畿内に移動させるうえでも、通過することになる日本史を考えるうえで重要な拠点でした。



いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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四国 (47都道府県 歴史的偉人めぐり)


ここまで取り上げてきた各地の偉人は、軍事や政治で活躍した人物ばかりでしたが、今回の四国では香川県から科学者や文化人として名を馳せた平賀源内を選びました。


その他、徳島県から三好長慶、高知県から坂本龍馬と、選びやすい地域ではありました。

海賊として名を馳せた藤原純友もまた魅力的な人物です。


いろいろ迷うところはありますが、これを機に、ご当地の偉人を知って敬愛して、地元を愛し日本を愛してくれる人がいたら良いなと思います。


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シャクシャイン (北海道)

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シャクシャインはシベチャリ川下流東岸(現在の新ひだか町静内地区)を拠点としていたアイヌ民族集団メナシクルの首長であった。
 
新ひだか町静内

メナシクルは、シベチャリ川上流西岸のハエ(現在の日高町門別地区)を拠点としていたアイヌ民族集団シュムクルとシブチャリ地方の漁猟権をめぐる争いが続いており、メナシクルの先代首長・カモクタインはシュムクルの首長・オニビシとの抗争で殺害され、メナシクルの副首長であったシャクシャインが首長となる。
 
日高町

1668年4月、今度はシャクシャインがオニビシを殺害。




もともとアイヌ民族は松前城下や津軽・南部方面まで交易舟を出して和人製品である鉄製品・漆器・米・木綿などと、獣皮・鮭・鷹羽・昆布などの交易を比較的自由にしていた。


しかし17世紀以降、幕府により対アイヌ交易権は松前藩が独占することとなり、津軽や南部などの東北諸藩がアイヌ交易に参入できなくなったため、アイヌ民族は対和人交易の相手が松前藩のみとなってしまう。


アイヌ民族は取引相手が限定され、松前藩以外の選択肢がないので、交換レートはアイヌ民族に不利なものへとなり、シャクシャインの戦い前夜の1665年には、従来の「米30kg=干鮭100本」から「米10.5kg=干鮭100本」と変化し、アイヌ民族にとって極めて不利益なものとなった。


レートが不利になったことにより、アイヌ民族はそれまで以上の干鮭、熊皮、鷹羽などの天然資源を確保する必要に迫られ、これがシャクシャインとオニビシの縄張り争いの要因の一つともなる。



現代に例えると、富裕層に富が集中するシステムに目が向かないように、庶民間に勤労者と社会保障受給者を分断させるのと同じように、大くくりな同胞・同族・同階級に対立構造を作る戦略は古い時代から支配層の常套手段であった。



一方で、アイヌが交易に応じなかった場合、子供を人質に取るなどと脅して、不利になった交換レートよりもさらに安値で強引に取引することが横行し、大名の鷹狩用の鷹や砂金を掘るために蝦夷地内陸部を切り開いたり、松前藩船による鮭の大量捕獲が、アイヌ民族の生活を脅かし、アイヌ民族の和人への不満も高まっていく。

松前城

シャクシャインにオニビシを殺されたシュムクルは松前藩に武器の提供を希望するが拒否され、その使者が帰路に疱瘡で死亡してしまい、この死亡が松前藩による毒殺であるという風説が広がると、アイヌ民族の松前藩および和人に対する敵対感情が沸点に達し、対立していたメナシクルとシュムクルが一つにまとまるキッカケとなった。

1シャクシャイン

シャクシャインは蝦夷地全域のアイヌ民族へ松前藩への戦いを呼びかけ、多くのアイヌ民族がそれに呼応し、1669年6月21日、イシカリ(石狩地方)を除く東は釧路のシラヌカ(現在の白糠町)から西は天塩のマシケ(現在の増毛町)周辺において一斉蜂起が発生。



アイヌ一斉蜂起の報を受けた松前藩は、クンヌイ(現在の長万部町国縫)に出陣してシャクシャイン軍に備えると同時に、幕府へ援軍や武器・兵糧の支援を求めた。


幕府は松前藩の求めに応じ、弘前・津軽氏、盛岡・南部氏、秋田・佐竹氏へ出兵準備を命じ、松前藩主・松前矩広の大叔父にあたる旗本の松前泰広を指揮官として派遣する。




シャクシャイン軍は松前を目指し進軍し、7月末にはクンヌイに到達して松前軍との戦闘が始まり、戦闘は8月上旬頃まで続くが、鉄砲主体の松前軍に対して弓矢主体のシャクシャイン軍は劣勢となり、クンヌイからの後退を余儀なくされた。

長万部町国縫

シブチャリに退いたシャクシャインが徹底抗戦の姿勢をみせたため、松前藩は戦いの長期化によって交易が途絶えることなどを危惧して、シャクシャインに和睦を申し出る。


11月16日、シャクシャインがこの和睦に応じてピポク(現在の新冠町)の松前藩陣営に出向くと、和睦の酒宴で謀殺された。

翌17日、シャクシャインの本拠地であるシブチャリが陥落。


指導者を失ったアイヌ軍の勢力は急速に衰え、戦いは終息に向かった。


翌1670年、松前軍はヨイチ(現在の余市郡余市町)に出陣してアイヌ民族から賠償品を取るなど、各地のアイヌ民族から松前藩への恭順の確認をし、戦後処理のための出兵は1672年まで続く。
 
2シャクシャイン

その後、松前藩は蜂起に参加しなかったアイヌ民族に対しても服従を誓わせ、松前藩のアイヌに対する経済的・政治的支配は強化された。


その結果、アイヌ有力首長によって強い自立性をもっていたアイヌ民族の地域統一的な政治結合も解体されていき、松前藩にとってアイヌ民族は交易相手から強制労働者へと変わっていく。



松浦武四郎の『知床日誌』には「女は最早十六七にもなり、夫を持べき時に至ればクナシリ島へ遣られ、諸国より入来る漁者、船方の為に身を自由に取扱はれ、男子は娶る比に成らば遣られて昼夜の別なく責遣はれ、其年盛を百里外の離島にて過す事故、終に生涯無妻にて暮す者多く」と記されている。



シャクシャインTシャツ
シャクシャイン (劇団Camelot)
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津軽 為信 (青森)

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1567
年、為信は大浦城主・大浦為則(為信の伯父にあたる)の養子となり大浦氏を継いで大浦城主となる。大浦氏は、北は下北半島から南は北上川中央部に及ぶ広大な領地を支配する南部一族に属していた。

 

 

 

為信が、同じ南部一族の石川高信(後の南部宗家当主・南部信直の父)を攻めることを家臣達に提案すると、兵力が不十分だと猛反対を受け、為信は「戦は兵の数ではなく、将たる者の戦略しだいだ。」と返す。

 

 

為信は自領内の堀越城(高信の石川城から2キロほどに位置する)の修復作業と称して、大工と称した数百人の兵が、土や石と称した食料や武器を運搬し、戦闘の準備を着々と進め、とりあえずの修復作業を終えると、高信の家臣を招いてもてなした。
 

石川城
 
 

157155日の夜、為信はわずか80騎ほどの兵を率いて、すっかり油断した高信の石川城(弘前市石川町)に奇襲をかけ攻略する。



以後、為信は、1576年に大光寺城を攻め滝本重行を、1578年に浪岡城を攻め北畠顕村を攻略し、南部一族での存在感を増していった。

 

 


 

1582年、南部氏最盛期を築いた南部晴政が没すると南部家内は後継者問題で顕著になる。

 

晴政のあとを継いだ晴継がすぐに13歳で急死し、南部宗家当主は石川信直(為信が倒した石川高信の子)と九戸実親(くのへ さねちか)で争われた。

 

為信は九戸実親を支持するが、南部宗家は石川信直が相続してしまい、為信は本家筋に反旗を翻す討伐対象の勢力とされる。

 


しかし、南部領内には外敵侵入が度々あり、また九戸氏が反乱することを警戒しなければならず、南部信直(石川信直)は大規模な為信討伐軍を率いることができなかった。

 

津軽 (2)
 

そのため、南部家からの独立意識を強める為信は、1585年に油川城・横内城(いずれも現在の青森市)さらに田舎館城を攻略し、1588年に飯詰高楯城(現在の五所川原市)を攻略して、津軽地方の統一を果たす。

 

津軽為信2

為信は、石田三成を介して、鷹を献上するなど豊臣秀吉への接近を計り、1590年、秀吉の小田原(北条氏)征伐の知らせが届くと、すぐさま18名の重臣を連れて駆け付け、秀吉より津軽領45000石を承認する朱印状を手に入れ、独立した大名として認知されることに成功した。


 

一方、南部家も前田利家を頼って秀吉への接近を計っていたが、期待していた成果は出せずに終わる。

 

 

 

 

為信は近衛家(藤原氏の流れをくむ有力な公家)に金品や米などの贈物をしたうえで、近衛尚通(このえ ひさみち)が奥州遊歴をした際にできた私生児が為信の祖父・大浦政信であるという伝承を主張した。

 

 

その頃、近衛前久(近衛尚通の孫で元関白)は財政難であったため、為信を猶子(準養子のようなもの)にして近衛家紋の牡丹にちなむ杏葉牡丹の使用を許す。

 
 

為信は、形式上は藤原氏の流れであるというお墨付きを得て、この頃から姓を大浦から津軽に改める。

 

関ヶ原の戦い
 

1600年、関ヶ原の戦いでは周囲がすべて東軍という状況であったため、為信は三男・信枚(のぶひら)と共に東軍として参加した。


一方で、嫡男・信建
(のぶたけ)は大坂城で豊臣秀頼に仕えており、真田氏らと同様に津軽氏は、両軍生き残り策を考えた可能性がある。

 

 

こうした意図が見え隠れしたためか、戦後の論功行賞では上野・勢多郡大館村など6か村2000石の加増に留まった。

 

津軽為信1
 

1607年、嫡男・信建が京都で病に倒れた際、為信は自身も病を陥っていたが見舞いに向かうも、到着前に信建が病死し、その2ヵ月後に為信も京都で死去する。

 

 

津軽家の跡取りとして確実視されていた嫡男・信建と、為信自身が相次いで死去したため、家督は三男・信枚が継いだ。

 

弘前城
 

為信が着手して信枚が完成させた弘前城には、一度も開かれることがなかった社があり、明治になってその扉が開けられると、中には豊臣秀吉の木像が入っていた。

 

為信は、徳川幕府に処分される危険を冒しても、津軽家を大名にしてくれた秀吉を城内に祀っていた。

 

 

また、津軽家と豊臣家の仲介役が石田三成だったため、関ヶ原の戦いで西軍が壊滅すると、三成の次男・重成を保護したり、三成の三女・辰姫を息子の信枚の妻に迎えており、義理堅い人物であったことが分かる。

 

 

 

一方で、南部宗家に対して謀反した人物と語られることも多く、「土民、童幼、婦女といえども津軽を仇敵視する」ことが南部家の気風となり、その確執は江戸時代に入っても尾を引いた。



津軽為信Tシャツ
津軽為信 (劇団Camelot)
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アテルイ (岩手)

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かつて、大和朝廷から続く中央政権から見て、現在の関東地方と東北地方といった日本列島の東方に住む人々を異端視・異族視して蝦夷
(えみし)と呼んだ。

 

 

古代の蝦夷は、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指す。

 

 

そのため、次第に影響力を増大させていく大和朝廷により、征服・吸収され、中央政権の征服地域が広がるにつれ、蝦夷と呼ばれる人々や地理的範囲は北へ北へと変化する。

 

 

中世以後の蝦夷(えぞ)はアイヌ民族を指すのが主流であるが、近年の研究で、蝦夷(えみし)と蝦夷(えぞ)の連動性は薄いことが分かっている。

 

桓武天皇
  
桓武天皇

今から約1200年以上前、桓武天皇の時代になると、朝廷は東方にさらなる支配地域を求め、本格的な蝦夷(えみし)征討が開始される。

 

軍事遠征の準備が整った788年、征東将軍・紀古佐美(きのこさみ)に、蝦夷の本拠地である胆沢遠征の命令が下された。

 

 

朝廷軍は多賀城を出発し、789年、紀古佐美は胆沢の入り口にあたる北上川支流の衣川を渡ると、軍を二手に分けて北上川の両岸から、アテルイの拠点である巣伏村(現在の奥州市水沢区)を目指して進軍する。

 

衣川

北上川左岸を進む朝廷軍4000はアテルイ軍300と遭遇、朝廷軍が逃げるアテルイ軍を深追いして巣伏村に至ると、そこにアテルイ軍800が加わって反撃に転じ、さらに朝廷軍の背後からアテルイ軍400が現れた。

 

右岸を進んでいた朝廷軍が迅速に合流できなかったため、左岸を進んでいた朝廷軍は完全に挟みうちにあう。


北上川
 
 

戦闘とは囲い込みや挟みうちの状態をいかに作るかが勝負である。

 

 

100人の集団を20人が円形に囲んでいる状態を想像してみて欲しい。この100人と20人の戦いは圧倒的に20人側が有利になる。100人側の中心部は戦闘に参加できないため、ものの数にはならず、戦闘が展開される円周部の数的優位は20人側にある。20人側は二人で一人を攻撃しながらその囲いをジリジリと狭めていくことが出来る。

 

 

この例に近づけるための様々な駆け引きがなされるのが戦闘であり、軍事の天才と呼ばれた名将達は、アレクサンドロス大王しかりユリウス・カエサルしかり韓信しかり、この駆け引きを制するセンスが抜群であった。

 

巣伏の戦いの跡碑
 

アテルイ軍の挟みうちにあった朝廷軍は崩壊し、丈部善理(はせつかべのぜんり)ら将校を含む戦死者25人、矢にあたる者245人、川で溺死する者1036人、裸身で泳ぎ来る者1257人という大敗北を喫する。

 

この敗戦で、紀古佐美(きのこさみ)を征東将軍とした朝廷の胆沢遠征は失敗に終わった。

 

 

 

 

朝廷は直ちに次の胆沢遠征の準備をはじめ、征夷大将軍に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)、副将軍に坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が任命される。

 

794年、この第2回の胆沢遠征では朝廷軍10万がアテルイ軍に圧倒し、蝦夷勢力は胆沢の地から一掃された。

 

 

 

ここまでの戦いでアテルイ側は多くの兵士を失い、加えて西岸一帯の荒廃から食糧難となり、もはや蝦夷勢力には抵抗する力は無くなる。

 

坂上田村麻呂
  坂上田村麻呂

しかし、
796年、朝廷は弱った蝦夷勢力にトドメを刺すべく、前回の余韻も冷めやまぬうちに坂上田村麻呂を征夷大将軍にし、801年、前回の半分以下に縮小された約4万の軍勢で第3回の胆沢遠征を開始。

 

この遠征は胆沢に止まらず、遠く閉伊地方(岩手県閉伊郡)にまで侵攻し、いったん帰京した田村麻呂は朝廷から蝦夷をほぼ完全に制したという評価を与えられた。

 

 

 

802年、田村麻呂は確保した地域に浪人4,000人を移して胆沢城の建設を開始。

 

 

アテルイ側は立て続けに大軍に侵攻され、戦力が風前の灯となったところで、巨大な胆沢城を目にし、もはや万策尽きたことを受け止める。
 

胆沢城
 

アテルイ、モレ(アテルイに次ぐ蝦夷の代表)が蝦夷の戦士500余人を率いて、胆沢城造営中の田村麻呂に投降し、アテルイらは平安京へと連行された。

 

 

 

田村麻呂は、この先の蝦夷を安定させるにはアテルイらの協力が必要であると主張し、2人の命を救うよう提言するが、京都の貴族達は「野性獣心、反復して定まりなし」と国家に抵抗した蛮族に甘い顔をする方が蝦夷の支配が安定しないと主張する。

 

 

旧暦813日、河内国椙山(現在の現在の大阪府枚方市)にてアテルイとモレは処刑された。

 

京都清水寺(アテルイ・モレ)
 

アテルイについての史料は、蝦夷に文字資料がないため、敵である朝廷側の資料『続日本紀』での「巣伏の戦い」についての紀古佐美の詳細報告と『日本紀略』でのアテルイの降伏に関する記述の二つのみであるため、人物像などは全く分かっていない。

 

 

黄金が見つかったがゆえに朝廷への恭順を求められた蝦夷であるが、もともとは朝廷から辺境と蔑まされていたがゆえに平和に暮らせていた。

 

 

アテルイ達は、蝦夷が異境に生息する人に似た獣ではなく、家族と仲間と故郷を愛する人間であるがゆえに勝ち目のない抵抗を続けたことを、失われた平和と引き換えに、少なくとも田村麻呂には伝えたのではないだろうか。

 

 


アテルイTシャツ
アテルイ (劇団Camelot)
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伊達 政宗 (宮城)

伊達政宗700x1000


1567
年、伊達氏第16代当主・伊達輝宗とその正室である最上義守の娘・義姫(最上義光の妹)の間に生まれる。

 

幼少時に患った疱瘡(天然痘)により右目を失明し、隻眼となったことから後世独眼竜と呼ばれた。

 

1579年、伊達政宗が13歳の時、三春城(現在の福島県田村郡三春町)主・田村清顕の娘、当時12歳の愛姫を正室に迎える。

 

 

1581年、隣接する戦国大名・相馬氏との合戦で初陣を飾り、1584年、父・輝宗の隠居にともない家督を相続し、伊達家第17代当主となった。

 

伊達政宗2

1585年、政宗は大内定綱の小手森城へ兵を進め、近隣諸国への見せしめのために城中の者を皆殺しにする。


 

定綱と姻戚関係にあり政宗の攻撃を受けていた二本松義継は降伏を申し出たが、政宗はそれを受け入れず二本松付近のわずかな土地を除いた所領を没収し、大名としての地位を維持できない状況にまで追い込もうとした。


 

政宗を深く恨んだ義継は、宮森城に居た政宗の父・輝宗を拉致して二本松城へ連れ去ろうとするが、途中の粟の巣(二本松市平石高田)で政宗に追いつかれる。

 
 

政宗は鉄砲を放って、なんと輝宗もろとも一人も残さず射殺した。

 

粟の巣

政宗はこの時すでに、東北を統一し、より広く豊かな領土を求めて関東へと進出する野心をハッキリと抱いていたが、そこに天下統一を目前にしていた関白・豊臣秀吉が立ちはだかる。

 

 

秀吉は自らの権威を誇示するべく、大名同士の派手な争いを禁じる「惣無事令」を発令した。

 

 

しかし、政宗は秀吉の命令を無視して、大崎氏、最上氏、などと戦争を繰り返し、1589年、会津の蘆名義広を磐梯山麓の摺上原(福島県磐梯町・猪苗代町)で撃破し、敗れた義広は黒川城を放棄して実家の佐竹家に逃れ、戦国大名としての蘆名氏が滅亡する。

 

 

政宗は領土を急速に拡大していき、現在の福島県の中通り地方と会津地方、及び山形県の南部、宮城県の南部を領し、114万石を支配する東北最大の大名となっていく。

 

摺上原

この頃、秀吉に従わない大名は東北の政宗と関東の北条氏直だけであった。

 

1590年、秀吉は全国の大名に北条討伐の号令をかけ、政宗にも参陣要求がされるが、当初、政宗はこれを無視。

 

 

しかし、秀吉が20万の軍勢で小田原城を包囲すると、秀吉の強大さを知った政宗はその軍門に下ることを決め、遅れて小田原城を目指すが、秀吉は命令に従わない政宗を殺そうとしているという噂が入ってくる。

 

 

政宗は切腹の時に用いる白装束姿で秀吉の前に現れ、この死を覚悟したパフォーマンス色の濃い振る舞いが、派手好きの秀吉の気を変え、秀吉は政宗の遅参を許した。

 

 

 

小田原城が落城し、秀吉の天下統一がほぼ達成されると、政宗は秀吉を会津・黒川城に迎え、そこで衝撃的な処分を受ける。

 

 

その内容は会津・石背(いわせ)・安積(あさか)3郡を取り上げられるというもので、さらにその後、政宗は伊達家の故郷・伊達郡を含む6郡を取り上げられ、領地はほぼ現在の宮城県にあたる地に移され、伊達家は114万石から58万石に減る。

 

 

1591年、政宗は米沢城から新しい本拠である岩出山城へと移り、そこで一面に広がる荒れ地を目にすることとなった。

 

岩出山城
 
 

1593年、秀吉の最初の朝鮮出兵(文禄の役)に政宗は従軍する。

 

この時、政宗が伊達家の部隊にあつらえさせた戦装束は絢爛豪華なもので、他の軍勢が通過する際に静かに見守っていた京都の住民が、伊達家の軍装の見事さに歓声を上げるほどで、これ以来、派手な装いを好み着こなす人を伊達者(だてもの)と表現するようになった。

 

 

政宗は、秀吉に仕える身となった以上、秀吉のもとでの出世を目指すが、1598年、秀吉が死去する。

 

 

 

 

秀吉の死後、秀吉への忠義を果たそうとする石田三成と徳川家康が対立を深めていった。

 

 

1600年、家康は3万の兵を会津に率いて、上杉景勝討伐に向かうと、その隙に三成は大阪で挙兵し、景勝と三成は家康を挟みうちにしようとする。

 

 

そこで、家康は政宗に景勝を攻撃して会津に釘付けにするように命じた。

 

この時、家康は、その恩賞として、伊達家の旧領649万石を与える約束する。

 

 

政宗は家康の要請に応じて景勝を攻めるが、一方で別の思惑も存在していた。

 

伊達政宗1
 

家康に味方する南部氏領内で発生した一揆を支援するために、政宗は南部領に4,000の兵を侵攻させ、あわよくばその領地を奪おうとする。

 

 

家康と三成の戦いは長引き、再び群雄が割拠する世が訪れると、政宗は予想していた。

 

 

ところが、両軍あわせて16万が激突した天下分け目の「関ヶ原の戦い」は、たった一日で決着し、家康が天下を制する。

 

 

政宗が景勝を攻めたことによって、家康は三成との戦いに集中できたため、政宗は約束の恩賞を与えられ100万石の領土を手にすることを期待していたが、南部氏領内での一揆に加勢したことを口実に家康は恩賞の約束を破った。

 

 

1603年、徳川家康は征夷大将軍になり、江戸幕府が成立し、以後、諸大名は幕府から領地を委ねられる時代が訪れる。

 

この江戸幕府における政宗の領地は仙台を中心に62万石に定められた。

 

 

戦国大名として天下の覇者となる夢が消滅した政宗は、絶望するどころか逆に、仙台を1000年に渡る豊かな国にし、平和的に100万石の領土を作ることを目指すようになる。

 

仙台城

1601年、仙台城、仙台城下町の建設を始め、伊達政宗を藩祖とする仙台藩が誕生した。

 

 

仙台藩の北上川流域は湿地が多く耕作できない土地が広がっていたので、西に広がる湿地帯の水はけを良くして新田を開発するため、政宗は北上川の流れを変える壮大な大事業に乗り出す。

 

 

5年に渡る工事の末、北上川は約3㎞東を流れることになり、西側の広大な平地が耕作可能な土地に生まれ変わり、政宗は減税を約束に農民達にその土地で水田開発させていった。

 

北上川
 

1614年、政宗は、江戸幕府が豊臣家を滅ぼした「大坂の陣」には1万の兵で参加するが、すでに恩賞に対する期待を抱かなくなっていた。

 

 

 

世情が落ち着いてからは、政宗はさらに領国の開発に力を入れ、かつて毛利輝元に仕えていた土木工事の専門家・川村孫兵衛重吉(かわむらまごべえしげよし)を登用し、農地を安定させるため大雨時の洪水対策などを進める。

 

川村孫兵衛重吉 (2)
  
川村孫兵衛重吉 

 

こうして、有り余るほどに生産されるようになった米は、江戸に送って売りさばかれるようになり、やがて江戸に入ってくる米の3分の2は仙台藩の米といわれるようになっていく。

 

 

 

江戸に米を送り始めて16年の後、1636年、政宗は70歳で世を去った。

 

 

 

江戸時代の中頃には、仙台藩の実質的な石高は100万石を超えるようになる。

 

 

秀吉に領地を取り上げられ、家康に約束を破られ、ついえたはずの100万石の夢は、政宗の死後80年を経て平和的に達成された。

 

 


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佐竹 義宣 (秋田)

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1570
年、佐竹義宣(さたけよしのぶ)が太田城(現在の茨城県常陸太田市)で生まれた頃、父の義重は、那須氏を攻めていたが、那須氏当主・那須資胤の娘を義宣の妻に迎えること等を条件に和睦する。

 

義宣は3歳であった。

 

 

15861590年の間に、義宣は、父・義重の隠居によって家督を相続し、佐竹氏19代当主となる。

 

太田城
 

この頃の佐竹氏は、小田原・北条氏と和議を結んで常陸国(現在の茨城)から南方の安全をはかっていたが、北方では義宣の弟・蘆名義広(あしなよしひろ)が城主となっていた黒川城は、伊達政宗に陥落させられ、南奥州の基盤を失っていた。

 

 

佐竹氏は伊達氏と対立しながら、豊臣秀吉、石田三成、上杉景勝と親交を結び、1589年、秀吉から北条征伐への出陣命令を受ける。

 

 

 

義宣は伊達政宗(義宣にとって母方の従兄にあたる)と対峙している最中であったため、直ちに命令に従うことはできなかったが、1590年、宇都宮国綱ら与力大名(より大きな大名に加勢として附属した武将)を含めた1万の軍勢を率いて北条氏の本拠地・小田原へ向かった。

 

 

義宣は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、秀吉のもとを訪れると臣下の礼をとり、石田三成の指揮下で忍城(現在の埼玉県行田市)を攻めた。

 

忍城
 

北条征伐の後、伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館、南郷)について、義宣は秀吉から所領支配権を認められる。

 

 

また、本領である常陸国(結城氏領を除く)および下野国の一部は「佐竹氏50.2:与力家来49.8」の割合での所領支配となるが、秀吉に服従せずに独立を認められなかった勢力も佐竹氏の配下として編入されたため、家臣化が不十分で領主権力は貧弱であった。

 

 

 

以後、義宣は常陸国全域に支配を及ぼすため、1590年、北条征伐に参陣しなかった江戸重通(えどしげみち)の水戸城を攻め落とし、そのまま南下し、大掾清幹(だいじょうきよもと)の常陸府中城(石岡城)を攻めて大掾氏を滅亡させ、常陸国全域の領主権力の強化に成功し、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将といわれる。

 

水戸城
 

1595年、太閤検地(豊臣秀吉が日本全土で行なった田畑の収穫量調査)を経て、義宣は54万石の支配を認める朱印状を秀吉から受けた。

 

 

 

1598年に秀吉が死去すると、秀吉への忠義を果たそうとする石田三成と徳川家康が対立を深めていく。

 

 

 

1600年、徳川家康より義宣は、上杉景勝の討伐を命じられるが、この時期の佐竹氏は東軍につくとも西軍につくともいえない状態でいた。

 

佐竹義宣1
 

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、家康が天下を手中にすると、義宣は伏見にいる家康のもとへ向かい、途中、神奈川で会った秀忠(家康の子で後の2代目将軍)に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康に謝罪および家名存続の懇願をする。

 

 

 

1602年、義宣は、出羽国秋田郡に国替え(転封)の命令を家康から受けた。

 

これは54万石から20万石への減転封である。

 

 

その理由は家康への恭順をハッキリさせなかったことに加え、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざけるためであった。

 

土崎湊城
 

義宣は秋田の土崎湊城に入城すると、角館城、横手城、大館城などを拠点に内政を行い、仙北地方で起こった一揆を平定して領内の安定をはかる。

 

 

後に土崎湊城に代わって本城となる久保田城の築城は1603年から始まった。

 

 

久保田藩の初代藩主となった義宣は、家柄や旧例にとらわれず能力本位で仕事を任せ、浪人あがりから家老となった渋江政光などは農業生産と藩財政の安定に貢献する。

 

そうした成果から、江戸中期の久保田藩の実高は45万石にも上った。

 

 

しかし、こうしたことは譜代(数代にわたって主家に仕えた家臣)の老臣の反感を買い、川井忠遠らが義宣の暗殺を企てることに繋がる。

 

久保田城
 

 

1614年、徳川方として参陣した「大坂冬の陣」で義宣は上杉景勝とともに、今福の戦いで、木村重成などの軍勢を撤退させ、これが戦況に大きな影響を与えたので、幕府における佐竹軍の評価は高まり「大阪冬の陣」で幕府から感状を受けたわずか12名のうち5名が佐竹家中の者であった。


大阪冬の陣


義宣の妻は、正室・正洞院
(那須資胤の娘)、後室・大寿院(多賀谷重経の娘)、側室・岩瀬御台(蘆名盛興の娘)など数人いたが、跡取りとなる男子がいなかったため、紆余曲折ありながら亀田藩主であった岩城吉隆(義宣の甥)が久保田藩の第2代藩主となる。

 

 

 

1633年、義宣は江戸神田屋敷にて64歳で死去した。

 

 


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上杉 鷹山 (山形)

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1751
年、日向高鍋藩主・秋月種美の次男として高鍋藩江戸藩邸で生まれる。

 

鷹山の父は能力主義の登用を進め、兄は日本初の子ども手当を実施するなど、秋月家には名君を生みだす気風が存在していた。

 

鷹山の教育係だった細井平洲は「民をみる時に、怪我人をみるように、飢えている人をみたら自分が飢えているように思えないなら殿様になってはいけない。」と鷹山に教え込む。
 

高鍋城
 

1760年、米沢藩主・上杉重定の養子となって米沢藩邸に移る。

 

しかし、これは弱小藩の次男坊が名門上杉家の当主となるサクセスストーリーとはいかなかった。

 

 

上杉家の祖先である上杉謙信は越後(現在の新潟県)を中心に120万石を支配した戦国時代屈指の英雄であったが、謙信の死後、上杉家の領地は豊臣秀吉によって東北に移される。

 

関ヶ原の戦いでは敗れた西軍に味方したため、江戸時代になると領地は30万石に大きく削減され、その後さらに3代藩主・綱勝が世継ぎを決めずに急死したため、お家断絶の危機(江戸時代の大名家は世継ぎを幕府に伝えなくてはならなかった)にさらされた。

 

幕府の温情でお家断絶は免れたものの、領地はついに15万石にまで減らされる。

 

米沢
 

しかし、領地が減っても、上杉家へ仕えることを誇りとする会津120万石時代の家臣5,000人は離れず、同じ規模の他藩の3倍の家臣を抱え (今でいうと公務員が多すぎる状態)、人件費だけでも藩財政に深刻な負担を与え、過剰な公務員を支えているようなものである農村は疲弊していた。

 

 

米沢藩は慢性的な赤字で、1771年の米沢藩は収入3万両に対して支出7万両(うち4万両が借金返済分)となっている。

 


 

そんな有様の中で、1767年、鷹山は17歳で上杉家の家督を継ぎ、米沢藩の第9代藩主の座に就く。

 

 

鷹山はまず藩主自ら倹約に努め、生活費はそれまでの7分の1に切り詰めた。

 

しかし、鷹山の義理の父である先代・重定は名家の誇りを重んずるゆえ、豪奢な生活を改めようとはせず、領民救済は幕府に委ね、お家返上を本気で考えるほど政治に投げやりであり、鷹山は倹約の難しさを悟る。

 
 

竹俣当綱
  竹俣当綱

鷹山は、産業に明るい竹俣当綱
(たけまたまさつな)と、財政に明るい莅戸善政(のぞきよしまさ)という二人の家臣を抜擢し、先代任命の家老らと厳しく対立した。

 
莅戸善政
  
莅戸善政 

 

倹約だけでは財政再建はとても出来ないため、鷹山は米の生産を上げるため、武士にも田畑を耕させ、鷹山自らも鍬を握るが、こうした改革は、名門上杉家の伝統を汚すとして旧臣達の反発を大きく買う。

 

 

藁科立沢は鷹山から仕事ぶりが不真面目であると減俸された不満から、同じように不満を持つ重臣7名を集め、1773年、鷹山に改革中止を訴えた(七家騒動)


 

当時の常識から考えると、武士を田畑に入らせる鷹山に圧倒的な非があり、苦しい状況になった鷹山が場を立ち去ろうとする。

 
 

すると、一人が鷹山の裾を引っ張って引き止めようとする事態となり、これは主君に対する態度としては、武家社会では万死に値する極めて無礼な行為だったため、鷹山は厳しい処分を下す口実を得ることになった。

 
 

その結果、鷹山は、2人を切腹、5人を隠居、首謀者である藁科立沢は斬首という厳しい処分を下し、保守派の勢力を強硬に排除する。

 

七家騒動
 

保守派の抵抗を乗り切った鷹山は、竹俣当綱を中心に本格的な財政再建に乗り出す。

 

漆の木100万本を藩全体に植林し、そこからロウソクを作り始めるが、その頃、ハゼの実から作る低価格高品質なハゼロウが市場に出回り始め、米沢のロウソクは悪ロウとまで呼ばれ、市場から淘汰される。

 


 

1782年、上杉家では謙信の命日には酒を飲んではいけない決まりがあったが、竹俣当綱は命日の朝まで飲み明かすという失態を演じた。

 

 

改革の中心となった竹俣当綱は権力に奢るようになっており、公費の乱用、度を越した接待、派閥的な人事などのスキャンダルが明るみになり、鷹山のもとには竹俣当綱への批判が次々と舞い込む。それにともなって藩内は改革への不満が渦巻いた。

 

鷹山は竹俣当綱を隠居させ禁固刑にする。

 

その半年後、莅戸善政が隠居を願い出た。

 

こうして、鷹山は腹心二人を失う。

 

 

 

 

1783年、信州の浅間山が大噴火し、噴煙は関東から東北に広がり、日照が遮られて米の収穫は激減し、東北地方の農村を中心に推定約2万人の餓死者が出る「天明の大飢饉」となり、米沢藩は11万石の被害を出す。


天明の大飢饉
 

その大損害の5ヶ月後、今度は贅を尽くした先代・重定の御殿が焼失し、重定は財政難にも関わらず新しい御殿の建設に着手する。

 

 

鷹山の改革は挫折し、鷹山は35歳で藩主の座を退くことになった。

 


 

 

新たな藩主の座には、先代・重定の実子(鷹山が養子となった後に生まれた)である治広が就き、鷹山は自身の養子でもある治広に「国家と人民のために君主を立てるのであって、君主のために国家や人民があるのではない。」と想いを託すが、その願いもむなしく、新しい藩主の儀式などの出費で財政はさらに悪化。

 

 

藩はこれに対して家臣の給料33%削減で対応する。

 

その結果、生活に困った家臣の中には年貢徴収の際に不正をする者が現れるようになり、農民達から余分に年貢を徴収して差額を懐に入れるといったことが横行した。

 

 

こうした重税に耐えかねた農民達は、田畑を捨てて米沢藩から逃げていき、13万人だった人口は9万人まで減り、需要が減った城下町では商品が売れなくなり、商人が藩に納める税金は激減する。

 

 

この惨状に胸を痛めていた鷹山は、再び改革の舵取りに乗り出す決意を固めていく。
 

上杉鷹山1

1790年、鷹山はそれまで上層部しか把握していなかった財政状況を、初めて藩士に対して公開し、さらに武士だけでなく農民や町人からも財政再建のためのアイディアを募った。

 

 

それにより、政治への不信感は払拭されていき、身分に関係なく採用された優れた意見の中には、かつて鷹山が処分した改革反対派の息子によるアイディアもあり、これが大きな転機となる。

 

 

それは、蚕のエサとなる桑の苗木を無料配布し、藩全体に桑の木の栽培方法や蚕の飼育方法を周知し、藩をあげて士農工商みなで養蚕に取り組むというものであった。

 

桑の木
 

こうして地元で生産された生糸を、さらに下級武士の妻や子ども達に機織りを学ばせて誕生したのが、米沢織である。

 

 

それは、もともと米沢藩が輸出していた麻糸の一種「からむし」が、大和に行くと「奈良さらし」へと付加価値を付けて高価なものに変わっている流れを、今度は原料を提供するだけではなくヒット商品に変えるところまで米沢藩でやるというものであった。

 

米沢織

鷹山は最初の改革では、倹約(痛み)の後の希望を示していなかったが、二度目は経済を理解させることによって、生産品に対する希望と誇りを持たせることに成功する。

 

 

米沢織は藩士の生活を支える産業へと発展していき、こうした中で超ヒット商品「透綾」が開発され、開発した下級武士は3万両もの資産を誇る大金持ちとなった。

 

 

 

二度目の改革で鷹山は、倹約ではなく、攻めの経営で一人のリストラも出さずに、20万両(現在の価値で換算すると約100億円)におよぶ借金を抱えていた藩財政は立ち直り、72歳で鷹山が死去した翌年、米沢藩は借金をほとんど返済し終える。

 

上杉鷹山2
 

二度目の改革から33年目であった。



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保科 正之 (福島)

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1611
年、正之は江戸の神田白銀町で生まれる。

 

母・お静は徳川第2代将軍・徳川秀忠の乳母・大姥局の侍女であった。

 

 

下級女中を妾にする場合はしかるべき家の養女として出自を整えるのが常識であったが、正之はそれがなされずに生まれたうえ、秀忠の正室・お江は嫉妬深く側室を認めない女性であったため、お江を恐れた秀忠は正之を認知しなかったので、正之は生涯、父親と対面することなく終わる。

 

徳川秀忠
  
徳川秀忠
 

こうした事情もあり、幼い正之はお江に見つかれば命の危険もあった。

 

 

そんな正之を保護したのは武田信玄の娘・見性院で、見性院は正之の存在を知ったお江から再三の引き渡し要求があっても毅然と断り続けて、養育にあたる。

 

 

7歳になった正之は、見性院の縁で旧武田氏家臣の高遠藩(現在の長野県伊那市)主・保科正光に託され、高遠城で正之は母と生活した。

 

 

高遠は石高わずか3万石の弱小藩であったが、ここで正之が後に名君となる人格が形成される。

 

この頃、正之が教育係の家臣と農家を回っていた時「馬を農家に入れてはいけない。馬が穀物や野菜を食べてしまったら、農民の心はつかめない。」と教えられた。

 

 

1631年、正之は養父・保科正光の跡を継ぎ、21歳で高遠藩3万石の藩主となる。

 

長野県伊那市

高遠藩主となった正之が、3代将軍・徳川家光と謁見するために江戸城に行った際、正之は大名衆の末席に座るが、正之が家光の弟であることは噂になっていたため、大名達は正之に上座を勧めるが、正之は「自分は小さな藩の藩主で若輩者ですから。」と末席から動かなかった。

 

家光は正之のこの態度に好感を抱く。

 

 

家光が正之という弟の存在を知ったのは、家光が身分を隠して目黒に5人ほどの供を連れて成就院という寺で休憩していた時、そこの僧侶から「肥後守殿(正之のこと)は今の将軍家の弟君である。」と聞かされたからと言われている。

 

 

家光に気に入られた正之は、家光が朝廷へ向かう際のお伴や秀忠の墓所造営などの仕事を任され、1636年には石高7倍増という異例の大出世となる山形藩20万石に転封された。

 

徳川家光
   
徳川家光


1637
年、原城(長崎県南島原市南有馬町乙)で迫害を受けたキリシタンや農民が武装蜂起した一揆軍3万を幕府が12万の軍勢で殲滅する。

 

この「島原の乱」の大きな原因は、領主の過酷な年貢の取り立てや圧政であったため、島原藩主・松倉勝家と唐津藩主・寺沢堅高はお家断絶の処分となった。

 

原城
 

正之はこの出来事から、反乱が起きるのは政治の責任であると認識し、善政へ邁進するようになる。

 

 

 

 

1643年、会津藩23万石へさらなる出世を遂げた正之が初めてお国入りした頃、会津は、前藩主・加藤明成の過酷な年貢の取り立てと「寛永の大飢饉」によって国土は荒廃し切っていた。

 

 

正之が藩全体の正確な石高を調査すると、前藩主は実際の取れ高よりも多く年貢を徴収する不正をしていたことが分かったため、正之は年貢を低く修正して減税する。

 

 

前藩主・加藤明成は百姓一揆が起きたら全村なで斬りにすると豪語する決断力あるリーダーであったため、農民達には自分の身は自分で守らなければならないという意識が強かったため、隠していた水田が少なくなかった。

 

 

しかし、正之の減税に感動した農民達は隠していた水田を自主的に申告し、その結果、税収は逆にプラスとなる。

 

会津

減税によって税収を増やした正之は、藩が米を備蓄して凶作や飢饉に備える「社倉制度」を実施し、7000俵からスタートした社倉は10年後には23000俵、幕末には10万俵と拡充し続け、会津藩では度重なる飢饉でも餓死者を一人も出さなかった。

 

 

さらに、年を取って働けなくなった老人は一家のお荷物とされたこの時代、会津では長生きは良いこととして、90歳以上の老人には「養老扶持」として掛け金なしの生涯年金が支給されるようになる。

 

 

1889年にドイツ帝国のビスマルクによる「年金保険」が年金制度のさきがけとされているが、正之はその226年前の1663年に「養老扶持」を開始していた。

 

 

こうして、「社倉制度」や「養老扶持」で、将来不安が減少した会津の領民の消費は活性化し、経済を発展させることになる。

 

 

また、領民に限らず旅人も対象にした医療の無料化によって、多くの行商人が集まり、これも会津の経済を発展させた。

 

会津若松城2
 

1651年、家光は死の間際に正之を枕頭に呼び寄せ「家綱を頼むぞ。」と言い残す。

 

父に認知されなかった正之にとって、時の将軍である兄からの信頼はなによりもの存在肯定であった。

 

これに感銘した正之は、11歳で4代将軍となった家綱と幕府のために尽くし、1668年には「会津家訓十五箇条」を定め、その第一条は「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。」で、以降、会津藩の藩主・藩士はこれを忠実に守る。

 

 

しかし、幕末には、この遺訓を守ることによって、会津藩は過酷な運命を辿ることになった。

 

明暦の大火

1657年、本郷丸山の本妙寺より出火した「明暦の大火」は、その火の手が江戸城にまで迫って来る。

 

 

幕閣達は将軍・家綱をどこに避難させるかで議論し、それぞれの別荘や屋敷に迎えようとするが、正之は「本丸に火が廻ったら西の丸に移れば良い。西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣を立てれば良い。城外へ将軍を動かすなどもってのほかだ。」と進言した。

 

 

リーダーが軽々しく動けば人心が動揺すると考えた正之は、将軍を江戸城に留めることで災害本部を明確にし、徳川家はどんな時も江戸の町を統治するのだという事を人々に示す。

 

 

また、将軍が避難先を選べば、選ばれた家臣と選ばれなかった家臣とが、後々門閥闘争を起こす可能性もあり、将軍個人を逃がすという意味では決してベストとはいえないこの正之の判断は、本物の危機回避であり、一石二鳥の戦略であった。

 

浅草御蔵
 

火の手はさらに浅草御蔵(江戸最大の米蔵)に迫る。

 

火消し達がことごとく出払っている状況で、正之は「米蔵の米、取り放題」という奇策を打ち出す。

 

これは米経済のこの時代では、国家の金庫を解放して現金掴み取りの大判振る舞いをするようなものであった。

 

飲まず食わずの被災者達は、食料欲しさに道々で必死に火を消しながら米蔵を目指したため、被災者が消防隊として働き、焼失するはずだった米が救援物資になるという、まさに一石二鳥の結果となる。

 


 

10万人もの死傷者を出し、焦土と化した江戸の町を、正之は火事に強い町へ作り変えるべく復興に乗り出す。
 

上野広小路
 

まず、建物から建物へ火が移りにくい町にするため、幹線道路を拡大し、上野広小路はこの時に作られた。

 

次に、当時は敵の侵入を防ぐため隅田川に橋を架けることは制限されていたが、多くの人が墨田川に飛び込み溺死したため、正之は軍事より市民の安全を優先して両国橋を建設する。

これは江戸が隅田川を越えて発展するキッカケにもなった。

 

両国橋
 

焼失した江戸城天守閣の再建は中止し、そのための費用や資材は復興に回される。

 

 

復興には16万両という国庫が空になるほどの資金が投入されたため、多くの反対意見ももあったが、正之は「こういう時に使うために貯めてきたのだ。こういう時に使わないのであれば、最初から貯めなければ良い。」と、反対の声を一蹴した。

 

 

こうして、大災害を教訓に民の安全を第一にしたことで、交通・経済を活性化させ、江戸は世界に例を見ない100万都市へと発展した。

 

 

 

江戸幕府は、幕府権力の絶対優位を確立するために、3代将軍・家光までに131の大名家が厳罰化された「大名改易」で取り潰され、職にあぶれた大量の浪人が不満分子となり、それが社会不安となる。

 

 

力で抑える政治に限界を感じていた正之は、江戸時代という世界的にも珍しい300年間も戦争のない太平の世を印象付ける政策を打ち出していく。

 

保科正之2
 

「末期養子(まつごようし)の禁の緩和」

後継ぎのいない大名家を取り潰して徳川の権力を盤石にするために、それまで後継ぎのいない大名が死の間際に養子を迎え、お家の存続をはかる末期養子を幕府は禁じていたが、正之は末期養子を認めることで、諸藩に幕府の共存共栄の意思を示す。

 

 

「大名証人制の廃止」

幕府は、大名の家族や家臣を人質として差し出させ、謀反を起こさせないようにしていたが、これを廃止して、信用による和平路線へと前進する。

 

 

「殉死の禁止」

殉死は、主君が死んだ後、家臣が後を追って切腹することで、主君への忠義を示すものである。

正之は、これからの時代は、忠義を示すのは藩や幕府などの政治体制であるべきだと考えていたため、殉死を禁止することによって、個人を崇拝する独裁的な気風に対して意識改革をもたらした。

 

保科正之1

1669年、正之は嫡男の正経に家督を譲って隠居し、1672年に江戸三田の藩邸で死去した。

 

 

正之は幕府より松平姓(徳川家と祖先を同じくする家臣の姓)を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通し、第3代・正容になってようやく松平姓と葵の紋(徳川一門の家紋)が使用されるようになる。

 

 


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平 将門 (茨城)

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将門の生年は
903年頃とされているが正確な生年は不詳である。

 

将門の父・平良将(たいらのよしまさ)は下総国佐倉(現千葉県佐倉市)が領地と伝えられ、佐倉市には将門町という地名が残っている。

 

 

 

将門は桓武天皇の5世で、父・良将は鎮守府将軍(武門の栄誉職)であったが、156歳の頃に平安京に出てから12年程の在京期間で、大きな役職を得ることはなく東国へと戻る。


平将門5

父・良将の死後、良将の遺領は伯父の平国香(たいらのくにか)や平良兼(たいらのよしかね)に勝手に分割された。

 

そんな折に、源護(みなもとのまもる)と領地争いをしていた平真樹(たいらのまき)から将門は協力を求められる。

 

源護は将門の伯父らと姻戚関係にあったため、平真樹が源護に敗れてしまうのは将門にとって都合が悪かった。

 

 

935年、将門は源護の子・源扶(みなもとのたすく)らに常陸国真壁郡野本(現在の筑西市)で襲撃されるが、返り討ちにすると、源護の本拠を焼き討ちし、その際、伯父の平国香(たいらのくにか)を焼死させる。


筑西市
 

平良正(たいらのよしまさ)は軍勢を集め鬼怒川沿い(現在の茨城県八千代町)に陣を構えて将門と対峙するが、この平良正も将門に撃破され、平良正は平良兼に救いを求めた。

 

平良兼は、平国香の子・平貞盛(たいらのさだもり)を誘って軍勢を集め、936年、将門を攻めるが敗れる。

 

八千代町
 

その後、紆余曲折ありながらも、将門は一族での争いを制し、鉄の体を持つ東国一の猛将として、その名声は関東一円に鳴り響いた。

 

 


 

この頃、東国は朝廷の完全な支配下におかれ、民衆は重税や労役に苦しみ、さらに、朝廷から派遣された役人(国司)の横暴が際立つようになる。

 

国司達はただでさえ厳しい税のさらに2倍も余分に取り立て、農民達は働けど働けど飢えていた。

 

そんな東国の農民の苦しみなどかえりみず、都では集められた税で、貴族達は贅沢三昧の暮らしを送っていた。

 

 

将門は、東国の人々を国司から守るため、国司や朝廷から自立する術を探すようになる。


 

将門は根拠地とした現在の茨城県岩井市で、農民達と原野を開墾して農地を増やし、砂鉄から鉄製の農具を作って農作業の効率は上げ、収穫を増やしていく。

 

こうして失意の人に希望を与え、余力ない人を助けて元気づける将門の人柄を慕って、土地を捨てた人々が集まり出した。

 

 

さらに将門は、鉄製の武器と、東国から産出される豊富な馬を利用して軍馬の育成に力を入れ、軍事力を強化する。

 

こうした中で、それ以前の刀は刀身が真っ直ぐであった(正面から敵を突きやすい)が、馬上から敵を斬りつけやすい刀身の反った刀が開発した。

 

これが最初の日本刀といわれている。

 

茨城県岩井市
 
 

939年、常陸国の国司に反抗し、朝廷が管理する蔵を襲って米を民衆に分け与えたため、国司に追われていた藤原玄明(ふじわらのはるあき)が一族郎党を引き連れ将門もとにやってきた。

 
 

将門は藤原玄明をかばい常陸国の国司からの引渡し要求を拒否したため、常陸国は3000の兵をもって将門に宣戦布告する。

 

 

最先端の騎馬軍に作り上げられている将門軍1000は、3倍の敵を軽々と撃破し、圧勝した将門は常陸国の国司を捕え、国司に託された朝廷の権限を象徴する「国印」と「倉の鍵」を奪う。

 

これは将門が朝廷から常陸国を奪い取ったことを意味した。

 

 

将門はこのまま東国全ての「国印」と「倉の鍵」を奪い、国司を都に送り返し、民を味方につけ、東国を自らの手で治めることを決意する。


平将門2
 

常陸国を落とした将門軍は破竹の勢いで兵を進めると、行く先々で朝廷の圧政に苦しんでいた民衆が合流していき、現在の栃木県に相当する下野国(しもつけのくに)から、現在の群馬県に相当する上野国(こうずけのくに)へと、次々に「国印」と「倉の鍵」を奪っては、国司を都に送り返していき、将門は東国の事実上の支配者となっていく。

 

 

 

ある時、京都の朝廷から東国の独立を目指していた将門のもとに、八幡大菩薩(民衆の絶大な信仰を集めていた)の使いの巫女が現れ「八幡大菩薩は平将門に天皇の位を授ける。」と伝えた。

東国中の民衆は歓喜し、その声を後ろ盾に、将門は新皇に即位すると、東国は朝廷の圧政を脱した独立国へとなる。


八幡大菩薩
 
そして、将門は即位の儀式に、菅原道真の霊魂を登場させる演出をした。

 

その昔、道真は朝廷によって都を追放され、無念の死を遂げると、都では天変地異が次々に起こり、道真を追放した大臣達が変死し、御所に落ちた雷で天皇が死ぬということまで起こり、これら全て菅原道真の祟りとされ、都は恐怖によって混乱する。

 

 

将門による菅原道真の霊魂を登場させる演出は、東国の人々に朝廷の圧政から解放された印象を高めるとともに、朝廷の将門に対する恐怖感を与えることにつながった。

 

菅原道真
 

将門の反乱が京都にもたらされると、朝廷は大混乱となる。

 

国を支配できるのは、そのことを神から託された天皇だけであり、それを地方の豪族に過ぎない将門が名乗るなど、古代以来の支配体制を揺るがす大事変であった。

 

朝廷は、九州から北関東まで全国の寺社を総動員して、を呪い殺すための祈祷を命じる。

 

 

それに対して将門は「昔から武芸に優れた者が天下を治める例は多くの歴史書に見られ、この将門に日本の半分を領有する天運がないとはいえない。」という内容の書状を朝廷に送った。

 

 

朝廷による将門を呪い殺すための祈祷は全く効き目がなく、朝廷の兵力では将門を鎮圧することは不可能であったため、朝廷はその存亡をかけて、それまでの常識を覆す通達を全国に発する。

 

 

その前代未聞の内容は「もし将門を殺せば、身分を問わず貴族にする。」という約束であった。

 

 

これは活躍次第では誰でも貴族になれるという事であり、貴族社会というものが血統によって定められた特権であるという絶対条件を、特例とはいえ覆した前例となる危険なものであった。

 

平貞盛
  
平貞盛
 

この異例の通達は、大きなチャンスとして受け止められ、まず、東国での勢力争いで将門に敗れて以来、将門に強い恨みを持っていた常陸国の豪族・平貞盛が、さらに、貴族になることに強い憧れを持っていた下野国の豪族・藤原秀郷が朝廷のもとに馳せ参じる。

 

藤原秀郷
  
藤原秀郷
 

一方、東国に平和で豊かな新しい国を造ろうと励んでいた将門は、そんな朝廷の動きをつかんでいなかったため、940年、一年の収穫を左右する田起こしの春が訪れると、それまで共に戦ってきた兵を村に帰す。

しかし、この民への思いやりが裏目に出る。

 

 

将門が兵を解いた事を嗅ぎつけた平貞盛と藤原秀郷が4000の兵を集めているという報告が、将門のもとに入った。

 

将門のもとには1000人足らずの兵しか残っていなかったが、将門は時間が経てばますます不利になると判断して出撃する。

 

 

長きに渡り朝廷の圧政に苦しんできた東国を独立させるために将門は民と共に立ち上がったが、今、同じ東国の平貞盛と藤原秀郷が、私欲がために故郷を裏切り、東国を再び朝廷に売り渡そうとしていた。


平将門a
 

将門は自ら陣頭に立って奮戦し、おおいに敵をたじろがせるが、徐々に数に劣る将門軍は押され、ついには退却を余儀なくされる。

 

 

この敗戦により追い詰められた将門は、地の利のある本拠地に敵を誘い込み起死回生の大勝負をしかけようとするが、平貞盛と藤原秀郷はその策には乗らず、自分達の勝利の勢いを民衆に呼びかけて更に兵を集めた。

 

 

将門は各地を転々としながら、反撃に向けて兵を集めようとするが、敗色濃厚なため思うような成果は出せず、そうして、わずか手勢400で将門は、平貞盛と藤原秀郷が率いる2900の軍勢と最後の決戦の時を迎えることになる。

 

平将門6
 

940214日の午後3時、将門は7倍の軍勢に決戦を挑む。

 

吹き荒れる北風は将門軍にとって追い風であったため、将門軍は矢の撃ち合いを優位に展開し、一度は敵を退却させるほどとなる。

 

しかし、急に風向きが変わり南風になると、反撃に転じた敵軍の矢が将門の額に命中し、あえなく討死した。

 

 

この一連の「将門の乱」は、ほぼ同時期に瀬戸内海で藤原純友(ふじわらのすみとも)が起こした乱とあわせて「承平天慶の乱」と呼ばれている。

 

 

 

その後、将門を討った平貞盛と藤原秀郷は約束通り憧れの貴族となった。

 

 

討ち取られた将門の首は平安京へ運ばれ京の町で晒されるが、将門の首はカラカラと笑ったあと、故郷である東国まで飛び去ったという。
 

平将門3
 

さて、朝廷が将門を倒すために武士が貴族となる道を開いたことは、やがて貴族政権の弱点となり、武士政権時代を作ることになっていく。

 

 

将門を討ち取って貴族となった平貞盛の子孫は、武士の世を確立したあの平清盛である。

 

 

 
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宇都宮 公綱 (栃木)

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1302
年、宇都宮貞綱の子として生まれ、宇都宮氏第9代当主となる公綱を理解するためには、若干なり時代背景を知る必要がある。

 

 

 

鎌倉時代に皇統は持明院統(後深草天皇の系統(北朝))と大覚寺統(亀山天皇の系統(南朝))の二つに分裂(共に後嵯峨天皇から派生)し、両統による皇位争奪は、鎌倉幕府が仲裁していた。

 

 

1318年に大覚寺統から即位した後醍醐天皇は、源頼朝を創設者とし途中から北条氏が実権を握っていった武家政権である鎌倉幕府の打倒を目指すが失敗し、醍醐天皇は幕府方に捕えられ、隠岐島へ流される。

 

御醍醐天皇
  
醍醐天皇
 

幕府は後醍醐天皇に代わって、大覚寺統の光厳天皇を即位させた。

 

 

後醍醐天皇の反鎌倉幕府に加担した楠木正成(くすのきまさしげ)らは、後醍醐天皇が隠岐島へ流されてからも倒幕運動を継続する。

 

 

 

楠木正成らの倒幕運動が活発化してくると、1333年、幕府はその鎮圧のために東国から軍勢を送るようになった。

 

1333年、北条高時の命を受けて、公綱もこれに参加する。

 

北条高時
  
北条高時
 
 

鎌倉時代の宇都宮家は、関東が基盤である幕府にとって有力な軍事勢力で、地域での紛争が収まらない時は幕府軍として関東から出陣し、戦功をあげてきた。

 

宇都宮二荒山神社

弘安の役(モンゴル帝国による二度目の襲来)の際には、第8代当主の宇都宮貞綱(公綱の父)6万騎を率いる総大将となっている。

 

弘安の役
 

 


 

四天王寺の合戦で楠木軍が5000騎の大軍で六波羅探題(幕府が朝廷の動きを監視するための出先機関)を撃破すると、公綱は楠木軍と戦うよう命じられて四天王寺へと向う。

 

四天王寺1

公綱の出陣を知った楠木軍は、公綱の率いる軍勢がわずか500騎ほどであることから楽観視をするが、当の楠木正成は、自分達の大軍に負けてなお送られてくる小勢は決死の覚悟であると判断し、味方に「合戦の勝負は必ずしも軍勢の大小ではなく、大敵を見てはあざむき、小勢を見ては恐れよ。宇都宮は坂東一の弓矢取りなり。良将は戦はずして勝つ。」と言って、四天王寺を退くという判断をした。


楠木正成
  
楠木正成
 

そのため、宇都宮軍が四天王寺へ攻めかかると、楠木軍は兵を退いており、両者の衝突はなく終わる。

 


楠木軍が退いたことで、幕府方は宇都宮軍の行動を「さすがは宇都宮!」と賞賛して勝利を喜んだ。

 


 

しかし、楠木正成は45日経つと、和泉や摂津の野伏5000人ほどを集めて四天王寺周辺に篝火(かがりび)をたかせる。

 

 

この動きで宇都宮軍は大軍が攻めてくるかと緊張が走るが、一向に攻めてくる様子はなかった。

 

 

そこで宇都宮軍の精鋭部隊である紀清両党(きせいりょうとう)から「我々は先日、敵を追い散らしたから、面目は立ったはず。」という声が高まると、宇都宮軍は京都へと戻る。

 

 

宇都宮軍が四天王寺を後にすると、それに入れ替わるようにして、翌日、楠木軍が再び四天王寺を占領した。

 

四天王寺2
 

結局、宇都宮軍と楠木軍は一戦もせず、引き分けに終わるのだが、両者共に味方に甚大な被害を出さず、また、その名声に傷を付けなかったことは、智謀深い良将の判断として評価されている。

 

 

 

さて、当時、勢いに乗る楠木軍であれば、強引な戦術でも公綱を破ることができたはずであるが、それをしなかったのは味方の被害を抑えるためだけではなく、倒幕後の天皇の世を確実に実現するためには、東の有力御家人達を味方に引き込む必要性を感じていたからかもしれない。

 

 

実際、幕府軍の中核的な存在だった公綱は最終的に南朝方として戦うことになっていく。


千早城
 
それ以後も、公綱は千早城攻めなどに参戦し、倒幕軍と戦いを続けるが、幕府軍であったはずの足利尊氏が京都で寝返り、鎌倉でも新田義貞の攻撃により北条高時が滅ぼされ、鎌倉幕府は滅亡した。

 

 

鎌倉幕府滅亡後に、公綱は後醍醐天皇に降伏する。

 

足利尊氏
  
足利尊氏
 

その後、足利尊氏が後醍醐天皇から離反すると、公綱は尊氏軍と戦うが敗れて降伏し、一時的に尊氏の家臣となるが、尊氏が新田義貞に大敗を喫して九州に逃れると、公綱は再び天皇のもとに帰参した。

 

北畠顕家
  
北畠顕家
 

そこから北畠顕家(きたばたけあきいえ)のもとで各地を転戦し、東国における南朝側の中心勢力の一人として後村上天皇からも厚い信任を受ける。

 

 

1356年、55歳で死去。
 

宇都宮公綱1
 

公綱は楠木正成を恐れさせたほどの武勇を持つ反面、和歌にも優れた才能があり「新続古今和歌集」には公綱の作品が修められている。

 

 

 
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新田 義貞 (群馬)

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新田氏本宗家の
7代当主・新田朝氏(にったともうじ)の嫡男として生まれた。

 

義貞は戦死した際に3740歳であったといわれ、生年については1300年前後と考えられている。

 

義貞の育った上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)は、気象の変化が激しく、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土で、義貞はそのような風土の中で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていった。

 

 

1318年、父・朝氏が死亡したことにより、義貞が新田氏本宗家の家督を継承し、第8代当主となる。

 

 

新田氏は源義国(源義家の四男)の長男・新田義重に始まり、もともと広大な領地を有していたが、新田氏とは同祖の足利氏(源義国の次男・源義康から始まった)と比べると、鎌倉幕府を掌握していた北条家に冷遇され、義貞の代の新田氏はその領地も縮小していた。

 

源義国 

  源義国

1331
年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒する計画を立てるが、その計画が鎌倉幕府にもれ失敗し、幕府軍に捕えられた後醍醐天皇は隠岐島に流される。

 

 

幕府に従って千早城(大阪府南河内郡)に立てこもっていた楠木正成(後醍醐天皇側)への攻撃に義貞は加わっていたが、病気を理由に無断で新田荘(現在の群馬県太田市および桐生市・伊勢崎市・みどり市・埼玉県深谷市の一部にあった荘園)に帰還した。

 

その後、楠木正成の討伐のために膨大な軍資金が必要であった幕府は、資金調達のために重税を集め出していたが、義貞はその徴税の使いを殺害した。

 

 

間もなく幕府が報復として新田討伐の軍勢を差し向けるという情報が入ると、義貞の弟・脇屋義助の主張によって幕府と積極的に対立する方針をかためる。

 

八幡荘
 

義貞はわずか150騎で挙兵すると、長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所(現在の群馬県安中市)に攻め入って壊滅させ、八幡荘(現在の群馬県高崎市・安中市にあった荘園)で体勢を整えた。

 

 

そこに利根川を越えて越後国・信濃国・甲斐国の新田一族や、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの氏族が合流し、7,000の大軍に膨れ上がった義貞軍が鎌倉を目指すこととなる。

 

 

さらに、利根川を渡って武蔵国に入る際、足利尊氏の嫡男・千寿王(せんじゅおう)と久米川付近で合流した。

 

千寿王が率いていたのはわずか200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、その軍勢の規模は約20万といわれている。

 

小手指原
 

新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)に達し、桜田貞国を総大将とする幕府軍と衝突した。

 

 

両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなく激戦となり、義貞軍は入間川まで幕府軍は久米川まで撤退して軍勢を立て直すこととなる。

 

 

翌朝、義貞軍が久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けて戦闘が再開された後、幕府軍は分倍河原まで退却することになった。

 

 

分倍河原に布陣する幕府軍に北条泰家を大将とする10万騎が加わるが、それを知らずにいた義貞軍は突撃を敢行して返り討ちにあう。

 

 

堀兼まで敗走した義貞は、退却も検討していたが、そこへ北条氏と親しいはずの大多和義勝が6000騎を率いて義貞に加勢すると、義貞軍は分倍河原へと奇襲を仕掛け、多摩川を渡り、霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家に大勝利を収める。

 

新田義貞(分倍河原)
 

勢いに乗った義貞は一気に鎌倉まで攻め上がり、幕府軍は敗戦に次ぐ敗戦により鎌倉の防備を固め、どの方面にも援軍がすぐ駆けつけられるよう、鎌倉中に兵を配置した。

 

 

鎌倉は攻撃しにくい地形であるため、義貞は海岸ぞいから攻めることを考えたが、潮が満ちていて鎌倉まで行けなかったが、「太平記」では義貞が稲村ヶ崎の海岸で黄金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応してみるみる潮が引き、鎌倉へと続く砂浜が広がる奇蹟が起こり、義貞軍は鎌倉に突入できたといわれている。

 

新田義貞5

いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、由比ヶ浜における激戦の後、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させた。

 

 

1333年、北条高時らが自害し、鎌倉幕府は滅亡する。

 

 

義貞が鎌倉を陥落させるも、武士達の評価は、後醍醐天皇の誘いを受けて天皇方につくと鎌倉陥落に先んじて京都を制圧した足利尊氏の方が高く、武士達は新田よりも足利へと接近していき、義貞と足利尊氏の対立が深まっていった。

 

新田義貞6
 
1334年、後醍醐天皇が貴族や寺院の利益を考えた天皇中心の政治(建武の新政)を始め、これによって武士の不満が高まることになる。

後々、足利尊氏はその不満をまとめ上げていく。

 

 

1335年、信濃国で北条氏残党が北条高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領した(中先代の乱)

 

 

足利尊氏は後醍醐天皇の命令を受ける前に北条時行の討伐に向かい、鎌倉に本拠を置くと、武功のあった者への褒美として新田一族の所領を分け与える。

 

さらに、足利尊氏は朝廷の帰京命令に従わず「義貞と公家達が自分を陥れようとしている」と主張して鎌倉に留まった。

 

 

後醍醐天皇は、義貞に「錦の御旗」を贈って足利尊氏の討伐を命じる。

 

 

義貞は事実上の官軍(天皇および朝廷に属する軍)総大将となるものの、形式上の総大将である尊良親王(後醍醐天皇の子)の周辺には口うるさいだけの公家達がおり、加えて同時に進軍した北畠顕家は義貞よりも官位が上で指図できる立場でなかった。

 

 

そのため指揮系統が混乱して上手く連携が取れず、足利側に兵をまとめて出撃するだけの余裕を与えてしまう。

 

 

新田軍は迎撃してくる足利軍に三河国矢作(愛知県岡崎市)、駿河国(静岡県静岡市駿河区)で勝利するが、箱根で大敗を喫し、伊豆から西へと逃れる。

 

 

その途中、義貞は天竜川に橋を駆けて渡った後、部下の「追撃してくる足利軍がこの橋を渡れない様、橋を切り落すべきである。」という提案に対して、「敵の追撃に対する焦燥からあわてて橋を切り落して逃げたと思われては末代までの恥である。」と返答して、橋を切り落とさず、また、義貞は部下達に先に橋を渡らせ、自らは一番最後に橋を渡った。

 

天竜川
 

義貞は帰京するも、義貞を追撃する足利軍は破竹の勢いで京都まで攻め上がり、義貞らは敗北し、京都は足利軍に占領されることとなる。

 

 

しかし、奥州より上ってきた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が京都へ到着すると形勢は逆転していき、義貞が楠木正成、北畠顕家らと共に、京都へ総攻撃を仕掛けると、京都の奪還に成功した。

 

一方で、尊氏をはじめとする足利軍の主要な武将の首を挙げることはできず、敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れ、九州へと落ち延びる。

 

 

 

義貞は足利尊氏を追撃し、その途上で足利側の赤松則村(あかまつのりむら)の拠点である播磨を攻めた。

 

 

しかし、新田軍は赤松則村の白旗城をなかなか陥落させることが出来ず、50日近くも時間を浪費すると、着実に九州で戦力を増強した足利尊氏が30万人ともいわれる軍勢で海上・陸上の二手に分かれて再び京都を目指す。

 

 

新田軍は進撃してきた足利軍に福山城(岡山県総社市)で敗れ、義貞はさらに進撃を続ける足利軍を楠木正成と共に和田岬で迎撃する(湊川の合戦)が、海と陸からはさみ討ちにされて敗れる。

 

楠木正成は自害し、義貞は敗走することとなった。

 

福山城
 

京都を占領した足利尊氏が後醍醐帝との和平工作に着手すると、後醍醐帝もこれに応じるが、この和平交渉は義貞には知らされず、義貞は事実上、天皇から切り捨てられる形となる。

 

事情を知った義貞の部下である堀口貞満(ほりぐち さだみつ)は「なぜ義貞の多年の功を忘れ、大逆無道の尊氏に心を移されるのか。」と目に涙を浮ながら後醍醐帝の無節操を非難した。

 

 

それから間もなく、義貞が3000騎で駆けつけ、後醍醐帝を包囲すると、後醍醐帝は新田一族の功をねぎらい「和議を結んだのは計略であり、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐため。」と取り繕う。


後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

義貞は妥協案として、後醍醐帝の子である恒良親王と尊良親王の臣下として北陸に行かせて欲しいと提言する。

 

 

1336年、義貞は両親王らとともに北陸道を進み、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)へ到着した。

 

 

この年は通年に増して寒さが厳しい年であったことが分かっており、降雪にはまだ早い時期でありながら、金ヶ崎城まで落ち延びる義貞一行は、途中猛吹雪に襲われ、多くの凍死者を出す。

 

 

義貞が金ヶ崎城に入城後まもなく足利軍の攻撃を受ける。

 

金ヶ崎城
 

足利軍は6万の大軍で金ヶ崎を攻め、海上にも水軍を派遣して四方から包囲して総攻撃を仕掛けるが、戦いの序盤は義貞が優位に展開する。

 

 

しかし、金ヶ崎城の食料は日に日に尽きてゆき、城中は飢餓に襲われ、馬を殺して食糧にしたり、死人の肉すら食べるという凄惨な状況へと追い詰められていった。

 

 

1337年になると斯波高経(しばたかつね)率いる足利軍の攻撃はより激しさを増し、新田軍は城内から出撃し、足利軍の背後にいる杣山城の脇屋義助(義貞の弟)らと連携して足利軍をはさみ討ちにしようとするが、風雪の激しさから同時に攻撃することができず、金ヶ崎城はついに陥落する。

 

 

落城に際して、新田義顕(義貞の長男)は戦死、尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となった。

 

義貞は難を逃れて、ここを生き延びる。


新田義貞の最後

1338年、義貞の率いる50騎は、黒丸城(福井県福井市黒丸町)から出撃してきた斯波軍300と燈明寺畷(とうみょうじなわて)で遭遇し、乱戦の末、義貞は水田に誘導されて身動きが取れなくなってしまう。

 

そこに矢の乱射を受け、義貞は落馬し、起き上がったところに眉間に矢が命中する。

 

致命傷を負った義貞は観念し、自害した。

 

 


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熊谷 直実 (埼玉)

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熊谷直実
(くまがいなおざね)は、武蔵国大里郡熊谷郷(現在の埼玉県熊谷市)の出身で、幼名を弓矢丸といい、その名のとおり弓の名手であった。

 

直実は2歳の時に父を失ったため、母方の伯父の久下直光(くげなおみつ)に育てられる。

 

 

 

1156年、朝廷が皇位継承問題などで分裂したことで、後白河天皇側の源義朝・平清盛らと崇徳上皇側の源為義・平忠正らが武力衝突(保元の乱)した。

 

16歳の直実は、後白河天皇側の源義朝の指揮下でこの戦いに参加して活躍する。

 

保元の乱
 
1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した(平治の乱)ため、直実は源義朝の長男・源義平の指揮下で働くが、戦いは平氏が勝利し、平家はここから20年間の全盛期を迎えた。

 

平治の乱
 

その後、直実が29歳の時、伯父・久下直光の代理人として、京都で街の警備にあたる大番役を務める。

 

ある時、京都で相撲大会があり、直実は10人以上を投げ飛ばし、それを観ていた(たいらのとももり)に気に入られて仕えることになった。

 
平知盛
  


直実が独断で平知盛に仕えたため、怒った伯父・久下直光は直実の領地の一部を没収し、この遺恨が後々大きな分岐点のもとになる。

 


 

 

1180年、平清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が34歳で挙兵し、平氏軍と石橋山(神奈川県小田原市)で戦うが、平氏軍の大庭景親に大敗を喫し、敗走した源頼朝は山中に逃げ込み、わずかな部下と共に洞穴(しとどの窟)に身を隠す。

 

 

この時、大庭景親に従って「石橋山の戦い」に参加していた直実は、梶原景時と共に、源頼朝が隠れている洞穴を発見するが、洞穴から二羽の鳩が飛び立つと「人は見当たらず」と、源頼朝を見逃し、以後、直実が源頼朝の御家人となったため、熊谷氏の家紋は二羽の鳩が描かれるようになったといわれている。

 

熊谷氏
 

態勢を立て直した源頼朝は、源氏に従わない常陸国の佐竹秀義を討つべく金砂城(現在の茨城県常陸太田市)を攻めた。

 

 

直実はこの戦いに一族郎党を引き連れて出陣し、抜群の武功を挙げると、源頼朝は「直実は日本一の剛の者だ。」と褒め称え、直実に熊谷郷の支配権を与える。

 

 

源頼朝に木曾義仲が敗れた「宇治川の戦い」で、義仲軍は頼朝軍の京都進入を阻むため、宇治川にかかる橋の橋板を外したので、橋げたのみが残っている状態となるが、源頼朝の弟・源義経の指揮下でこの戦いに参戦していた44歳の直実は、16歳の息子・直家と共に橋げたを足場にして敵陣に向かっていき、敵からの攻撃に対してはお互いをかばいながら、勇猛果敢に先陣をきっていった。


宇治川の戦い

1184年、平氏一門の多くが討たれ、源平の形勢が大きく源氏に傾いた「一ノ谷の戦い」で、直実は、正面から攻める源範頼の主力部隊ではなく、源義経の奇襲部隊に所属する。

 

直実は息子・直家と共に一番乗りで平氏軍に突入するも、直家が矢に射抜かれ深手を負う。

 

息子の負傷により、一層に手柄を欲した直実が海岸を走っていくと、形勢不利とみて逃げ出す平氏軍の船と、それに乗ろうとする武者を見つけた。

 

直実はその武者を大声で呼び止めると、手にしていた扇を振りながら一騎打ちを挑む。


熊谷直実2

武者は振り向くと「おう!」と返事をすると勇敢にも直実に応じた。

 

 

直実が武者を馬から落として組み伏せると、武者は我が子・直家と歳の変わらぬ若者であったため、若武者を見逃してやりたくなって直実が名前をたずねると、若武者は「首を取って人に見せれば名は分かる。良かったな。私は良い手柄になるぞ。」そう威風堂々と答える。

 

平敦盛
  
平敦盛

直実は若武者の振る舞いに感動し、さらに今日の戦いで息子が負傷しただけで自分の心は痛んでいるのに、この若者が討ち取られれば、その父親はいかに悲しむだろうと考え、すでに今日の戦は源氏の勝ちが決しており、この少年一人を討ったところで戦の結果が変わるわけでもないと思い、ますます見逃すことを心に決めた。

 

しかし、その刹那、背後に味方の武者50騎ほどが迫っていることに気付く。

 

 

直実は、その若武者の首を涙ながらに斬り落とす。

 

 

これが「平家物語」の名場面「泣く泣く首をぞかいてんげる(掻き斬る。回転蹴るではない。)」である。

 

 

 

直実は首を落とした若武者が腰のあたりに、錦の袋におさめた笛をさしているのに気が付くと、朝に平氏軍から聴こえてきた音色を思い出し、何万人といる源氏軍には戦争の最中に音楽を奏するような教養と風雅を備えた者は一人もいないと思い、ますます胸がしめつけられるのであった。

 

 

その後、若武者は平家の頭領である平清盛の甥・平敦盛(たいらのあつもり)と判明し、そして、あの笛は、笛の名手として知られた平敦盛の祖父(忠盛)が鳥羽上皇から贈られたものであることがわかる。

 

 

平敦盛を討って以降、直実から勇ましい雰囲気は失せていき、直実の苦悩は日に日に深まっていった。

 

熊谷直実4

その後「壇ノ浦の戦い」で平氏は滅亡し、勝った源氏の頭領である源頼朝が征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府が成立する。

 

 

 

 

1192年、直実は過去の経緯から不仲だった伯父・久下直光との領地をめぐる争いが続いており、ついに源頼朝の面前で、両者の口頭弁論が行われることになる。

 

 

久下直光は孤児となった幼少期の直実を庇護し、そのため直実を自らの配下と捉え、それを前提として本来は久下氏の支配下にあった熊谷郷を直実に預けていた。

 

その後、直実は平氏との戦いを通じて自らの力で、源頼朝より熊谷郷の支配権を認められる。しかし、久下直光からするとそれは直実に熊谷郷を奪われたという感覚であった。

 

 

武勇には優れていても口下手な直実は、頼朝の質問に上手く答えることが出来ず、自らの正当性を理論立って展開できない憤りから「もはや自分の敗訴は決まっているも同然だ。この上は何を申し上げても無駄なこと。」と怒鳴ると、刀を抜いて髻を切り、源頼朝はあっけにとられる。

 

 

そして、直実は源頼朝に止められるのも聴かず、出家することを決意した。

 

 

1193年頃、直実は、当時、京都に浄土宗を開いた法然という僧の弟子となり「法力房蓮生(ほうりきぼうれんせい)」という名を与えられる。

 

法然
  
法然
 

直実は多くの寺院を建立した。

 

1193年、法然が生まれた美作国久米南条稲岡庄(現在の岡山県久米郡久米南町)に誕生寺を建立。

 

1195年、東海道藤枝宿(現在の静岡県藤枝市)に熊谷山蓮生寺を建立。

 

1197年、直実が関東に帰郷する際、法然の姿を拝したいと願うと、法然は自作の木像を与え、その木像を安置した法然寺(京都府京都市右京区嵯峨天竜寺立石町)を建立。

 

1198年、法然が初めて「念仏」の教えを説いた地である粟生(京都府長岡京市)に西山浄土宗総本山光明寺の基礎となる念仏三昧堂を建立。

 

 

 

1204年、64歳となった直実は、阿弥陀仏の前で、早く仏となって、再び生まれ変わり、多くの人を救う誓いを立てる(上品上生の往生)

 

そして、1206年、直実は武蔵村岡(現在の熊谷市)に往生の日を告げる高札を立て、1207年に実際に往生し、その場所が埼玉県熊谷市仲町にある熊谷寺(ゆうこくじ)となった。

 

熊谷寺
 

直実の遺骨は遺言により、西山浄土宗総本山光明寺の念仏三昧堂に安置され、また、高野山には直実と敦盛の墓が並んである。

 

 

法然は直実を「坂東の阿弥陀仏」と称えた。

 

 


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千葉 常胤 (千葉)

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千葉氏は、桓武天皇の曾孫・高望王
(たかもちおう)の末子・平良文(たいらのよしふみ)を祖とし、平良文は「平将門の乱」前後に下総国相馬郡(現在の柏市、我孫子市、茨城県北相馬郡など)を獲得し、以後この地を中心に活躍するようになる。

 

 

平良文から5代下がった平常兼(たいらのつねかね)の息子・千葉常重(ちばつねしげ)は平安時代後期の1126年に現在の千葉県千葉市中央区亥鼻付近に本拠を移して武士団を形成し、これが、千葉の都市としての始まりとなった。

 

大椎城
 

後の世に千葉氏中興の祖とされる千葉常胤(ちばつねたね)は、千葉常重の子として大椎城(現在の千葉県千葉市緑区大椎町)で生まれる。

 

 

1135年、18歳で家督を相続し、亥鼻の居城や相馬郷(現在の柏市、我孫子市周辺)の領土を受け継ぐ。

 

千葉常胤1
 
 

常胤が家督を継いだ翌年、下総国の国司(朝廷の役人)・藤原親通(ふじわらのちかみち)が税金の滞納を理由に父・千葉常重を逮捕・監禁し、相馬郷と立花郷(現在の千葉県香取市、千葉県香取郡東庄町)の権利を要求する。

 

1143年、源義朝(源頼朝の父)がこの問題に介入し、相馬郡の権利を奪った。

 

 

こうした事態に対して常胤は一旦、相馬御厨と立花郷を譲ることに同意し、後に滞納分を返済すると相馬郡の郡司(国司の下)に任命され、相馬郷の権利を回復させていく。

 

 

また、源義朝に対しては、主従関係を結ぶことで、土地の支配権を確保した。
 

相馬御厨
 

そのため常胤は、1156年、朝廷が皇位継承問題などで分裂したことで、後白河天皇側の源義朝・平清盛らと崇徳上皇側の源為義・平忠正らが武力衝突した「保元の乱」に源義朝の指揮下で出陣する。

 

保元の乱
 

しかし、1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した「平治の乱」で、源義朝が平清盛に敗れると、常胤が約20年かけて回復させていった所領は没収され、常胤は相馬御厨と橘庄の権利を全て失う。

 
 

藤原親通(平氏側)とむすび、所領没収のキッカケを作った常陸国の佐竹義宗と、常胤に確執が生まれる。

 

平治の乱
 

この頃「平治の乱」で敗れた源義朝の大叔父にあたる源義隆の生後50日余りの子・源頼隆が、常胤のもとに流されてくると、常胤は厳しい平氏の監視下にありながら、この子を密かに源氏の子として庇護し大切に育てた。

 

 

 

1180年、平清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が34歳で挙兵し、石橋山(神奈川県小田原市)で平氏に敗れ、安房国に逃れてくると、頼朝は直ちに常胤に使者を送って加勢を求めた。

 

 

常胤はすぐ源頼朝に従うことを決意し、一族300騎を率いて救援に向かう。

 

 

この時に源氏の子として育ててきた源頼隆を伴い、源頼朝から源氏の孤児を育ててきたことを深く感謝される。

 

房総
 

常胤がすぐに源氏軍へ参陣した背景には、源頼朝の父・源義朝との関係だけでなく、領地問題でもめた藤原親通・佐竹義宗が平氏側の立場であることも大きかった。

 

実際に、この後、佐竹氏討伐を進言して相馬御厨の支配を奪還する。

 

 

また、平氏に討たれた息子・日胤の仇をとるのが目的の一つでもあった。

 

千葉常胤4
 

その後、常胤は一貫して頼朝を支え、相模国鎌倉を本拠とすることを進言するなど、筆頭御家人として鎌倉幕府の創設に重要な役割を果たす。

 

 

 

安房国で再挙した源頼朝に東国武士が参集して大軍へと膨れ上がり、は鎌倉に入った後、駿河国富士川(現在の静岡県富士市)で平氏軍と衝突し(富士川の戦い)勝利すると、平氏打倒に焦る源頼朝はこのまま平氏を追撃して京都に進入することを望むが、常胤はそれに反対して東国を固めるように進言する。


 

実際に、源頼朝がここで一度地盤を固めたことが、確実に平氏を追い詰めることにつながった。

 

富士川の戦い
 

1184年、常胤は源範頼軍に属して、木曾義仲の追討、「一の谷の戦い」に参加、その後、豊後国(現在の大分県の大部分)に渡り軍功を上げる。

 

 

1185年に「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡すると、源頼朝が征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府が成立した。

 

 

1190年、奥州藤原氏を滅亡させた「奥州合戦」で、常胤は東海道方面の大将に任じられて活躍し、奥州各地に所領を得る。

 

 

源頼朝は常胤を父のように慕い、正月には必ず常胤の屋敷で新年を祝うほど厚い信頼を寄せていた。


千葉常胤
 

1201年、82歳で死去。

 

 

 

常胤は息子たちとともに源平合戦や奥州合戦に参加し、その功績によって失った相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2か国をはじめ、東北地方から九州地方まで全国20数カ所といわれる広大な所領を獲得し、千葉氏は鎌倉幕府の中でも屈指の御家人に成長する。

 

 

獲得した所領は、千葉六党と呼ばれる常胤の6人の息子達が、それぞれ所領を分割して引き継ぎ、それぞれが本拠とした所領の地名を名乗り、分家を繰り返しながら、全国各地に広がっていった。

 

 

 
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徳川 家康 (東京)

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1542年、室町時代末期の三河国岡崎(現在の愛知県岡崎市)で誕生した。

 

父は岡崎城主・松平広忠、母は広忠の正室・於大の方。

 

 

松平氏は弱小な一地方豪族であった。

 

家康の祖父・松平清康が家臣に暗殺され、跡目を奪おうとした一門衆により・家康の父・松平広忠は命を狙われ、伊勢に逃れる。


 

その後、帰国して松平家を相続した広忠は従属していた有力な守護大名・今川氏に誠意を示すため、家康を人質として差し出すことになった。

 

 

しかし、今川氏へ送られる途中で家康は誘拐され、今川氏と対立する織田氏の人質となり、そのまま織田氏の元で数年を過ごすが、織田氏と今川氏の交渉の結果、あらためて今川氏へ送られる。

 

 

こうして家康は8歳から12年間、人質として生殺与奪権を握られる恥辱と恐怖のなかで忍従の日々を過ごした。この間に家康は正室・瀬名(築山殿)を娶る。

 

今川義元
   
今川義元
 

1560年、ついに転機が訪れた。

 

「桶狭間の戦い」で今川義元が、織田信長に討ち取られる。

 

 

家康は今川氏の混乱に乗じて岡崎城へ戻ると、松平家の惣領として三河の地の統治を開始した。

 

名を元康から家康(今川義元の「元」をとった)に改め、信長と同盟を結んで(清洲同盟)背後を固めると、領地を遠江(現在の静岡県西部地方)まで広げる。

 

 

1570年、家康は遠江に堅固な浜松城(静岡県浜松市中区)を築き、ここを本拠とした。

 

今川氏の人質となってから21年、家康は三河と遠江を領地とする。


浜松城
 

そんな家康を脅かす巨大な影が忍び寄っていた。

 

 

武田信玄は、甲斐、信濃、駿河など合わせて100万石を領し「人は城、人は石垣、人は掘」の言葉通り、類稀な人望で数多の戦いを勝利してきた戦国一の知略と武勇を誇る名将である。


 

信玄は足利義昭と連携し、当時、畿内を制していた織田信長を攻撃する予定であったが、信玄が京都へ向かう途上には、信長の同盟者・家康が邪魔な小石のように存在していた。

 

信玄は小手調べに家康の領土を荒らし始める。

 

すぐに兵を出そうとする家康に対して、信長は、家康が信玄にかなうわけがないので「遠江を渡して、三河へ戻るのが良い。」と「待った」をかけた。

 

織田信長
  
織田信長

やっとの思いで手に入れた領地を手放したくない家康は「浜松城を捨てるほどならば、刀を踏み折って、武士をやめる。」と信長の忠告を無視する。

 

 

一方で、信玄は強引に攻め込もうとはせず、時間をかけて家康側の武将達の切り崩しにかかった。

 

信玄が家康の配下の武将達に領地を約束する書状を送って、自分の味方につくように誘いかけと、武将達は若輩の家康を見捨てて離反が相次ぎ、3年が過ぎる頃には家康の領土の2割が信玄に奪われ、戦力差はひらく一方となる。

 

 

1572年、武田軍25000が信濃と遠江の国境を越え、家康の領地に侵入。

 

浜松城に緊張が走った。

 

信玄は家康の領土内の城を次々に攻め、只来城、天方城、飯田城、各和城がわずか2日で陥落し、浜松城の目と鼻の先である二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町)に迫る。


武田信玄
  
武田信玄
 

二俣城が陥落すると浜松城は裸同然となるが、家康の兵力はわずか8000で信玄の3分の1でしかなく、頼みの綱は同盟者・信長の援軍であった。

 

 

しかし、この時、古い室町幕府に対して新たな政治体制を確立しようとする信長に対して、将軍・足利義昭をはじめ信長に反対する大名や宗教勢力が次々に挙兵し、信長は四面楚歌となる。

 

 

かつてないほどの窮地に立たされ、合戦にあけくれる信長は、家康をフォローしきる余裕がなかった。

 

 

二俣城が取り囲まれてから2カ月、浜松城にようやく信長の援軍が到着するが、その数はわずか3000で家康の軍勢と合わせても武田軍の半分にも満たず、家康は愕然とする。

 

 

家康が手をこまねくうちに最後の砦である二俣城は陥落し、それまで静観していた家康方の武将が次々と信玄に寝返った。

 

二俣城

もはや信玄と戦って勝つ可能性はほとんどなかったが、家康は自分の領土が踏みにじられているのに、おめおめと合戦をせずにいられるか、と意を決して出陣する。

 

 

 

決戦の場となった浜松城の西に広がる三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)は、周囲が崖で逃げることが出来ない台地で、木が一本もなく広大で、騎馬軍団にこの上なく適した戦場であった。

 

 

信玄は時間をかけて家康の領土の地形を調べ尽くし、武田軍の主力である騎馬軍団の能力を発揮できる三方ヶ原で決戦することをあらかじめ予定し、家康をこの場所におびき出す。

 

 

 

武田軍は浜松城の目の前をなぜか通過し、家康軍に背を見せて去って行く、家康軍が武田軍をおそるおそる追走すると、武田軍は行軍速度を変えずに三方ヶ原に到着し、そこで陣を展開することなく台地を下ろうとした。

 

 

台地を下る道は、崖で道幅が狭く、急転回は不可能な場所であったため、家康はこのチャンスをものにすれば、いかに大軍といえど、背後から取り囲んで、少しずつ殲滅することが出来ると判断して一斉攻撃を命じる。

 

 

そうして、家康軍11000が三方ヶ原に通じる坂を登り終えると、音もなく隊列を組む武田軍が待ち受けていた。

 

 

信玄は防御力の高い浜松城を攻めるのではなく、一人でも損害少なく圧勝できる条件に家康をおびきだすことに成功する。
 

三方ヶ原の戦い
 

家康軍は総崩れとなり、家康の本陣は武田軍に取り囲まれ、家康は討ち死にを覚悟するが、一人の家臣が身代わりとなって敵を引きつけ、家康は急死に一生を得た。

 

家康はわずかな護衛に守られながら浜松城に逃げ帰る。

 

 

ところが、その後、武田信玄が突然に病死したため、武田軍は浜松城を攻めて来なかった。

 

 

家康は「三方ヶ原の戦い」での屈辱と恐怖を噛みしめることを忘れないように、絵師に三方ヶ原で怯えていた自分の姿を描かせる。

 

徳川家康1

10年後、織田信長によって武田家が滅亡させられると、家康は武田家の家臣をそっくり召し抱えた。

 

あの強かった信玄のやり方を知るには、信玄をよく知る家臣達を自分のものにしてしまうのが手っ取り早いと考えたのである。

 

 

 

1575年、武田氏の後継者となった武田勝頼よりが15000を率いて三河に侵攻する(長篠の戦い)が、この時は織田信長との連合軍38000で撃破した。

  

長篠の戦い
 

1582年「本能寺の変」において信長が明智光秀に討たれると、空白地帯となっていた甲斐国・信濃国をめぐって、周辺大名らが争う(天正壬午の乱)

 

 

結果として、上杉景勝は北部4郡の支配を維持、北条氏直は上野南部を獲得、真田昌幸が信濃国小県郡および上野国吾妻郡・同国利根郡を支配して独立勢力化、家康は上杉領・真田領を除く信濃と甲斐全域を手に入れた。

 

 

 

家康は5国を領有する大大名となり、織田氏の勢力を継承して天下人になりつつある豊臣秀吉との対立が深まり「小牧・長久手の戦い」で対峙する。

 

小牧山
 

1584年、秀吉軍8万に対して、家康軍は2万は小牧山に立てこもって持久戦に持ち込む。

 

両軍が砦の修築や土塁の構築を行ったため、双方共に手が出せなくなり、戦況は先に動いた方が負ける様相となっていたが、この我慢比べを制したのは家康であった。

 

しびれを切らした秀吉軍の一角が動くと、家康はすかさず奇襲を敢行し、秀吉軍を散々に打ち破る。

 

秀吉は態勢を立て直すと、しばらくにらみ合いあいを続けた後、引き上げた。

 

日の出の勢いの秀吉に兵力で劣りながら、一歩も退かずに戦った家康の名が天下に轟く。

 

長久手の戦い
 

秀吉は自らの権威を誇示するべく、大名同士の派手な争いを禁じる「惣無事令」を発令し、諸大名に大阪に来て自分への服従を示すように通達する。

 

 

これに従うことは、秀吉の命令なしに戦争しないことを約束することになるので、もっと領地をと野心を抱く大名は、この命令を拒もうとした。

 

 

秀吉としては、自分に次ぐ実力を持つ家康を呼び出せるかは今後の威厳を左右する重要な課題であったため、なりふりかまわない懐柔策に出る。

 

 

秀吉はこの時すでに44歳であった妹・旭姫との縁談を家康にもちかけ、家康もこの事実上の人質を断る理由はなかった。

 

 

さらに秀吉の母(後の大政所)が旭姫を訪ねに来て、そのまま家康の人質となったため、家康が秀吉の身内二人を人質として抱えながら大阪に出向かないでいると、天下の世論が家康に不利となって秀吉に家康征伐の大義名分を与えかねない状況になる。

 

 

1586年、家康は仕方なしに大阪城へ向かう。

 

 

明日は面会という日の夜、秀吉は突然に家康のもとを訪ね「明日は他の武将の手前、秀吉の顔を立てて欲しい。」と平身低頭たのみ込む。

 

 

あくる日、家康が約束通り臣従の礼を取ると、秀吉は昨晩の態度が嘘のように高圧的な雰囲気で、居並ぶ諸大名に家康が自分の家臣である印象を与え、公式の場で上下関係を明確にさせる秀吉の狙い通りとなった。

 

その見事な演出に、家康はもはや秀吉には逆らえないと覚悟する。

 

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

中国・四国の大名を従え、家康を政治力で抑えつけた秀吉は、1587年には九州を平定、1590年には関東の北条氏政の攻撃に乗り出した。

 

 

家康は北条攻めの先鋒を任され、家康が架けた橋を渡って進軍する秀吉軍21万は、小田原城を取り囲み、悠然と攻略する構えをみせる。

 

 

ここで、家康は秀吉に「北条が滅びるのはもはや時間の問題。そこで、家康殿には三河を離れて、北条が治めていた関東8カ国を与えようと思うのだが。」と持ち掛けられた。

 

 

先祖伝来の三河を捨てて関東に行けとは、あまりに無理な要求であり、家康の家臣は口々に反対するが、家康は意外にも家臣達の反対を押し切り、2週間後には秀吉の命令通り、江戸へと向かう。

 

 

所領200万石の秀吉が自分よりも石高が上回る関東8カ国250万石の条件を出しているのに、それを断れば、どんな難癖をつけて攻め滅ぼそうとするか分からないと家康は判断した。

 

 

さらに秀吉は、新しい居城は小田原ではなく江戸に築くことを勧める。

 

そうして、江戸の地を目にした家康は、町は小さく一面の湿地帯で使える土地はわずかしかない有様に愕然した。

 

 

秀吉は手強い家康を少しでも大阪から遠ざけたいという思いと、家康が先鋒を務めて滅ぼした北条氏の関東で、土地の反感を買って、領国経営に失敗してくれたらという期待を抱く。

 

 

1590年、江戸城下町の建設を開始、山を切り崩して土地をならし、その山の土を埋め立てに使い、一石二鳥ともいえる方法で工事は進める。

 

江戸城

家康は、海につながる運河が交わり経済の中心地として繁栄する秀吉が作った大阪の町を、町づくりのお手本に地帯に水路を作り、江戸の町の原型を造っていった。

 

 

政治体制においては、土地の石高を調べる検地を秀吉が推し進める方法ではなく、北条氏がやってきた方法を踏襲して農民との摩擦が起こらないようにし、さらに北条氏の家臣をそのまま召し抱え、古代より朝廷の権威に従わずに独立を保とうとする関東の気風を尊重し、家康の関東支配は順調に進み、秀吉のあては大きく外れる。

 

徳川家康3
 

1598年、秀吉が死去すると時代はたちまち激動に向かう。

 

 

この時、秀吉の息子・秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられたが、秀吉亡きあとの覇権を狙い独裁的な態度を示す家康と、それを阻止しようとする豊臣家の重臣・石田三成の対立が激しくなる。

 

 

家康は反抗的な態度を取る上杉景勝を討伐すべく会津へと出陣。

 

この時、家康が引き連れていたのは秀吉子飼いの武将であった福島正則、池田輝政、山内一豊、細川忠興らであった。

 

 

一方、石田三成は毛利・宇喜多など西日本の武将に家康征伐を呼び掛け、豊臣秀頼を担ぎ上げて挙兵する。

 

 

こうして、家康は逆賊となって大阪は反家康で染まり、家康の周りには豊臣に忠誠を誓う武将ばかりという絶望的な状況となった。

 

 

家康が上杉討伐に連れていた武将達は親豊臣である一方で、石田三成との関係が上手くいっていなかったため、家康はそれを切り口に「家康vs三成」を「徳川vs豊臣」ではなく「豊臣家臣団の内部抗争」にすり替えていく。


石田三成
  
石田三成
 

秀吉は生前、家康が反旗をひるがえして大阪に攻めてきた時に備え、関東と関西の間の東海道上に有力武将を配していた。

 

 

家康が対石田三成の説得をしている武将達は、秀吉の構想では反旗をひるがえした家康の侵攻を阻止する役であったが、結果は逆に出る。

 

 

武将達が最終的に家康を選んだ背景には、三成との対立の他に、資産の差(家康250万石、三成19万石)が大きく、恩賞を目的に戦う武将達にとって、家康の資産はいざという時の担保の役目を果たすため無報酬で終わるリスクが低かった。

 

 

家康は上杉討伐に引き連れていた秀吉子飼いの武将達を味方につける事に成功し、東軍(家康側)は東海道を西進し清州城に集結し、岐阜城を落とすが、江戸城から出陣した家康の息子・秀忠が率いる徳川主力部隊36000が上田城で真田昌幸に苦戦し合流予定が崩れる。

 

 

一方、西軍(三成側)は伏見城、大垣城を制圧し東進する。

 

 

こうして、西軍82000と東軍74000が関ヶ原で対峙した。

 

 

1600年、家康は主力部隊が到着せず、西軍に数で劣り、しかも味方はもともと秀吉の子飼いばかり、さらに西軍に包囲されているという不利な布陣で、戦いにのぞむ事になる。

 

 

しかしながら「関ヶ原の戦い」は、西軍に裏切りが続出(家康が事前に画策していた)し、家康の覇権が定まった。

 

関ヶ原の戦い
 

1603年、家康は後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命され、江戸城に幕府を開き、その支配の正当性を確立させ、その権威のもとで、全国の大名に江戸城と江戸の市街地の造成を命じる。

 

 

1605年、家康は将軍となって2年後、自ら将軍職を辞して、三男・徳川秀忠へ征夷大将軍職を譲り、将軍職が徳川家の世襲であることを諸大名に示した。

 

 

この頃、豊臣家は権力を失いながらも、父・秀吉が関白(天皇を補佐する公家の最高職)まで登りつめた豊臣秀頼は権威までは失っておらず、どこかでまた神輿として担がれる可能性を持っていたため、家康は方広寺(京都府京都市東山区)の鐘の「国家安康」の文が、家康の名を分けて呪っていると難癖をつける。

 

 

こうして16141615年にかけての「大坂の陣」で豊臣氏を滅ぼした。

 

 

その後、元号を平和の始まりを意味する「元和」に改元し、安定政権の基礎を固める「一国一城令」「武家諸法度」「禁中並公家諸法度」などを発布し、家康の願い通り、徳川幕府は世界的にもマレな約300年もの長期に渡って戦争のない世を築きあげる。

 

日光東照宮
 

1616年、74歳で駿府城(静岡県静岡市葵区)にて死去する。

 

 

その亡骸は駿府の久能山に葬られ、1年後に下野国日光(現在の栃木県日光市)に改葬された。

 



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源 頼朝 (神奈川)

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清和天皇を祖とし、河内国(主に現在の大阪府東部
)を本拠地として源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の流れを汲む源義朝の三男として、頼朝は1174年、尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)の藤原季範の別邸(現在の誓願寺)で生まれる。

 

 

遡る(さかのぼる)こと1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した「平治の乱」で、源氏の頭領・源義朝は関東の武士団に挙兵を呼び掛けるが、自らの所領を守ることにしか関心のない関東武士は源義朝の動員要請を拒否した。

 

 

保身に走って賢明な判断をしたつもりの関東武士は、ここから全盛期を迎える平氏の世で辛酸を舐めることになる。

 

 

兵力が不足した源義朝は、平清盛に敗北して命を落とし、源氏は没落した。
 

源義朝
  
源義朝
 

この時、源義朝の嫡男・頼朝は囚われの身となり、死刑が当然視されていたが、平清盛は池禅尼(平清盛の継母)の嘆願もあり、頼朝を殺さずに伊豆への流罪とする。

 

 

1160年、頼朝は蛭ヶ小島(現在の韮山)に流され、当初は平氏の権威を恐れた人々の冷たい目が注がれ、その境遇は厳しいものであった。

 

 

頼朝に対する監視の目は相当に厳しかったが、行動の自由はかなり認められていたようで、やがて伊豆の豪族・伊東祐親の娘と恋に落ち、男の子も生まれる。

しかし、それを知った伊東氏は、平氏に睨まれることを恐れて激怒した。二人の仲は強引に引き裂かれ、3歳になった男の子は松川の奥の淵に沈めて殺される。

 

 

源氏没落後に、朝廷で権力を握った平氏は、全国22カ国で平氏一門が国司(役人)を務めるようになり、伊豆の豪族たちも平氏に取り入ることで領地を保っていた。

 

 

ところが、1177年、頼朝は北条政子と結婚する。

政子の父・北条時政も頼朝との結婚には大反対であったが、政子の情熱と強い意思におされてしぶしぶ承諾した。

 

源頼朝6
 

一方で「平氏にあらずんば 人にあらず」の言葉に現れている通り、京都での平氏の栄光は頂点に達し、1179年、平清盛は権力をより強固にするため、後白河法皇を幽閉し、反対派の貴族を一掃し、孫にあたる安徳天皇を即位させ、平清盛の権勢はもはや誰にも止められないかに思えた。

 

 

1180年、ついに平氏の横暴への不満が爆発し、後白河法皇の子・以仁王は決起(以仁王の乱)し、以仁王は平氏打倒を命じる書状を諸国に散らばった源氏の末裔達に発する。

 

それは伊豆の頼朝にも届き、さらにその2ヶ月後、平氏が以仁王の書状を受け取った源氏を追討する計画を立てているとの続報が届く。

 

 

自分の命が狙われていると知った頼朝は、否が応でも決起せざるを得なくなり、関東各地の豪族に書状を送って協力を要請するが、その返事のほとんどが「あなたが平氏にたてつくなど、富士山と背比べをするようなものだ。」というもので、頼朝のもとにはわずか40騎余りしか集まらなかった。

 

蛭ヶ小島
 

頼朝は伊豆国の目代(役人の代理人)・平兼隆を襲撃するが、その6日後、石橋山(現在の神奈川県小田原市)に陣を構えたとたん、瞬く間に平氏軍3000に取り囲まれ、完膚無きまでに叩き潰された頼朝はわずかな兵を従えて箱根の山中に落ち延びる。

 

石橋山


数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、真鶴岬
(神奈川県真鶴町)から船で安房国へ脱出した。

 

 

一方、平清盛は20年前に命を助けた頼朝が反旗をひるがえしたことに激怒し、平氏のエースと目されていた孫の平維盛(たいらのこれもり)24歳を総大将に頼朝追討軍を組織する。

 

平維盛
  
平維盛
 

頼朝の父・源義朝は関東の武士を味方に出来ず平氏に敗れたため、頼朝は関東の武士を味方にするために、現状に不満を持つ人々に目をつけた。

 

 

関東では平氏に取り入った一部の武士が勢力を拡大する一方で、多くの武士が先祖伝来の領地や地位を脅かされており、頼朝はそうした豪族達に「以仁王は東国各地の土地の支配権は全て頼朝に任せると言っている。」という書状を送る。

 

 

実際の以仁王から頼朝への書状には、そんなことは一言も書かれておらず、書状の内容は頼朝の捏造であったが、このハッタリが功を奏す。

 

 

頼朝のもとに、まず安房国(現在の千葉県南部)の豪族・安西氏一族が合流、さらに下総国(主に現在の千葉県北部)の千葉氏が一族300騎で合流し、頼朝は軍勢を集めながら房総半島を北上していった。

 

 

上総国(千葉県中部)の大豪族・上総広常(かずさひろつね)は平氏との関係が悪化し、その地位と所領が危うくなっていたが、未知数の頼朝を担ぎ上げて平氏を敵に回す決心もつかず、事と次第によってはその場で頼朝の首を刎ねるつもりで、2万騎を従えて頼朝に合流する。

 

 

上総広常は2万の大軍を背景に威圧的な態度で頼朝に挨拶するが、頼朝は合流が遅れた上総広常を一喝し、その迫力に気圧された上総広常は「頼朝は大将軍なり」と服従することを決断。

 

上総広常
   
上総広常
 

北上して下総国を抜けた頼朝軍は、武蔵国(主に現在の東京都・埼玉県)との国境である隅田川にさしかかるが、当時の隅田川はまるで海のようだと言われるほど水量が多く、隅田川の交通を支配していた秩父平氏の協力なしに進軍することは不可能であった。

 

秩父平氏は「平治の乱」で源氏が没落した後、平氏と結びついて勢力を伸ばした一族である。

 

 

しかし、この頃から100年前、秩父平氏は頼朝から4代前の源義家に従って、奥羽鎮圧に参加しており、秩父平氏はこの時に朝廷から恩賞をもらえなかったが、源義家は私財を投じて報いたため、源義家は理想の頭領として脈々と語り継がれていた。

 

 

頼朝が源氏のシンボルである白旗を隅田川の岸に70本並べると、遠い記憶を呼び覚ますこの呼びかけに秩父平氏は「平氏は今の主、頼朝は四代相伝の君なり。」と応え、頼朝は平氏に不満を持つ者だけではなく満足している者をも味方につけることに成功する。

 

 

頼朝は隅田川を渡り、白旗は武蔵国中の噂となって頼朝軍は10万へと膨れ上がり、相模国に進んで源氏に縁の深い鎌倉へと辿り着く。

 

源頼朝2
 

その頃、平維盛は駿河国(現在の静岡県中部)に進み、頼朝軍が予想外の膨張をする一方で、平維盛は駆武者(国家の正式な徴兵)で兵を集めようとするが、人々はなんの見返りもない徴兵を逃れようとし、平氏軍は3万程度にしかならなかった。

 

 

 

頼朝は、平氏軍が東に進むほど少しずつとはいえ軍勢が増えるので、素早く出陣し、出来るだけ西で決戦しようと考える。

また、相模の大庭氏や常陸の佐竹氏といった平氏勢力に背後を襲われる可能性を考えた。

 

そこで頼朝は、足柄山で背後を守れる富士川の手前に陣を張る事を決める。

 

 

たった2ヶ月で20万の大軍に膨れ上がった頼朝軍は、箱根を越え富士川(現在の富士市)に至ると、対岸には平氏軍3万が頼朝軍の大軍勢に震え上がりながら陣取っていた。

 

 

平維盛は川を挟んで睨み合い、そのまま引き分けに持ち込めないかと考えるが、その夜、頼朝軍の一部隊が平氏軍の背後に回ろうと川を密かに渡ろうとすると、水鳥の大群が一斉に飛び立ち、極度の緊張状態にあった平氏軍はパニック状態に陥って我先にと逃げ出す。


富士川
 

戦わずにして勝利した頼朝はこの機に乗じて一気に京都へと攻め込むことを望んだが、千葉常胤らの意見を聞き入れ、鎌倉で勢力を固めることを選び、駿河、遠江、相模、伊豆など戦で得た土地を従った武士達に分け与えた。

 

 

遠い未来の大きな報酬よりも、例え小さくとも早い段階で手に入る報酬に、人間は期待と希望と信頼が芽生えるのである。

 

 

頼朝は打倒平氏にはやる気持ちを抑え、この段階での戦果を褒美として振る舞ったことによって、関東武士の大きな信頼を勝ち得ることに成功し、こうして作られた主従関係は源平合戦のみならず、後の鎌倉幕府確立の礎ともなった。

 

 

 

「富士川の戦い」を終えた頃、頼朝の弟・源義経が、頼朝の陣へと駆け付ける。

 

義経は父・源義朝が命を落としたあと、京都の鞍馬寺で育ち、その後、奥州藤原氏に身を寄せていたが、兄・頼朝の挙兵を知ると胸をトキメかせながら馳せ参じてきた。

 

兄弟二人はこれまでの境遇を語っては涙し、平氏打倒の悲願を誓いあう。

 

源義経
  
源義経
 

その頃、京都では、頼朝・義経の兄弟とは従兄弟にあたる木曾義仲(きそよしなか)が、平氏の大軍を破って西国に追い払い、平氏の狼藉によって荒廃した京都の治安回復を期待されていた。

 

ところが、木曾義仲の大軍が京都に居座り、食糧事情が悪化し、さらに皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。

 

1183年、朝廷は頼朝に木曾義仲の追討を命じた。

 

 

頼朝は、義経ともう一人の弟・源範頼(みなもとののりより)を木曾義仲の追討軍として派遣。

 

義経と範頼は木曾義仲の陣を次々に突破して京都に迫るが、京都を目前とする宇治川の橋は騎馬武者が川を渡れないように外されていた。

 

 

川は雪解け水が流れ、相当な激流であったが、義経は怖れることなく流れに馬を乗り入れ、一気に川を渡る。

 

 

時間稼ぎが出来ると踏んでいた木曾義仲は、想定外の早さで京都に侵入してきた義経に対応できずに壊滅状態となり、その後、落ち延びる途中で命を落とす。


宇治川の戦い
 

木曾義仲を破ったのも束の間、平氏が大軍を率いて一の谷に現れた。

 

平氏軍は傾斜のきつい山と海に挟まれた一の谷で強固な陣を敷いていたので、源氏軍は二手に分かれて谷の両側から挟み討ちにすることを決める。

 

ところが、義経は突然に2万の部下を取り残し、わずか70騎を引き連れて一の谷の崖の頂上を目指すという単独行動に出た。

 

そして、下ることは到底不可能に思える最大傾斜60°の崖を猛スピードで下ると、崖側が完全無防備になっていた平氏軍に突撃し、虚をつかれた平氏軍は大混乱に陥れられ、源氏軍が大勝利をおさめる。

 

 

しかし、関東の武士をまとめることを第一とする頼朝は、2万の軍勢を置き去りにし、手柄を独り占めするような行動は他の武将との和を乱す行為とし、再三に渡る大勝利の功労者である義経に恩賞を与えなかった。

 

一ノ谷の戦い

さらに、義経は後白河法皇より京都の警察権を握る「検非違使(けびいし)」を任じられると、官位をもらえば源氏の名があがるはずだと思い、二つ返事でそれを受け取る。

 

 

朝廷の権威を利用して権勢を誇った宿敵・平氏とは異なる関東に根差した新しい独自の権力を模索していた頼朝は、自分と義経のビジョンの違い、そして、後白河法皇の兄弟仲を離間させるための作戦に気付かない義経の政治観のなさにあきれ、義経を平氏追討軍から外した。

 

 

ところが、義経を欠いたまま平氏との戦闘を開始した源氏軍は苦戦を重ね、兵糧が欠乏し、騎馬も足りなくなり、戦場を引き上げて国に帰ろうと言いだす者も現れ出し、背に腹は代えられなくなった頼朝は義経の起用を決断。

 

 

この頃、平氏は瀬戸内海の屋島を根拠地としていたため、源氏軍は船で屋島に攻め込もうとするが、出港予定日に嵐が起こり、源氏軍は行く手を阻まれる。

 

義経は出港延期を主張する源氏軍を置き去りにし、わずか150騎の手勢を船に乗せて暴風の中を強行出港、またも独断で単独行動に走った。

 

 

屋島に到着した義経は、船を平氏軍の陣から遠く離れた海岸に付け、平氏軍の背後から忍び寄ると、大軍が押し寄せてきたかのように演出するため浜辺に火を放つ。

 

 

嵐で油断していた平氏軍は、突然の大軍らしき敵の襲来に驚き、慌てふためいて船に乗って逃亡し、義経はわずか150騎で平氏の大軍を海へと追い払ってしまった。


屋島

平氏軍は屋島から壇ノ浦に逃亡する。

 

 

屋島の戦いから一月後、義経が率いる源氏軍は、船戦が得意な平氏軍に対して、敵の舵取りを狙うという戦法を取り、動きを封じられた平氏軍は壊滅した。

 

この「壇ノ浦の戦い」で源氏が勝利したことにより平家は滅亡する。

 

壇ノ浦の戦い
 

勝利の歓喜とは裏腹に戦場から「義経は勝手にふるまい、統率を乱し、関東武士の恨みを買っている。」という報告が頼朝に届く。

 

 

このままでは関東武士をまとめ上げることは困難になると判断した頼朝は、捕虜を輸送して鎌倉の近くまで戻ってきていた義経に対して「鎌倉に入ってはならない。」と告げる。

 

 

鎌倉とは目と鼻の先の腰越で、鎌倉入りの許可を待つ義経は「あらぬ告げ口に対し、私の言い分もお聞きにならないで鎌倉に入れてもらえず、私の気持ちはお伝えできず、これでは兄弟の意味もないと同じです。私が朝廷から高い位をいただいたのは、源氏の名誉でこそあれ、私の野心を示すものではあるはずがありません。どうか賢明な判断をお願いします。」といった内容の手紙を頼朝に書く。

 

 

頼朝は返事を出さず、義経は2週間待って返事が来ないことを悟ると、わずかな伴を連れて京都へと戻る。

 

腰越
 

京都で義経は、兄・頼朝からはもらうことが出来なかった平氏討伐の恩賞として、後白河法皇から伊予守(現在の愛媛県の長官)に任じられた。

 

 

一方、頼朝は義経が京都で謀反を企んでいるとの噂をから義経の身辺を探る密偵を放つ。

 

命を狙われていると察した義経が、朝廷に頼朝追討を願い出ると、後白河法皇はこれを許可した。

 

 

ところが、朝廷から自分を追討する命令が出されたことを知った頼朝は、5年ぶりに鎌倉を出て京都を目指す。


朝廷や公家はその噂だけで慌てふためき、頼朝を恐れた後白河法皇は、今度は頼朝による義経追討を承認する。

 

 

頼朝の大軍に対して、義経に味方しようとする者は皆無に等しく、義経は京都を逃げ去った。

 

 

頼朝はこの機に乗じて朝廷に迫り「守護(警察権)・地頭(年貢の徴収権)」という新しい役人を全国に置くことを認めさせ、関東の武士達をその職に就けて朝廷の影響力を弱めることに成功する。

 

源頼朝

1189年、頼朝は逃亡した義経をかくまった奥州藤原氏を攻撃。

 

頼朝の圧力に屈した藤原泰衡(ふじわらのやすひら)によって義経は自害に追いやられた。

 

その後、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし、全国の軍事支配を達成する。

 

 

1192年、頼朝は征夷大将軍となり、名実ともに武家政権としての鎌倉幕府を成立させ、以後700年近くに渡って続く武士の時代の幕を開けた。

 

 

1199年、51歳で死去。

 

 

 

多くの物語では、義経が悲劇のヒーローとして扱われ、頼朝は冷徹な兄として描かれることが多いが、頼朝の義経討伐は、関東の武士団への配慮だけではなく、義経が無意識に所属した旧体制に対する「NO!」でもあり、平氏とは異なる新たな武士の世を切り開くうえで避けては通れないものであった。

 
佐奈田与一1
  佐奈田与一

また、頼朝は石橋山を訪れては、ここで戦死した佐奈田与一を思い出して大粒の涙を流していたという。

 

 


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上杉 謙信 (新潟)

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1530
年、越後守護代・長尾為景の四男(または次男、三男とも)として春日山城に生まれる。

母は越後栖吉城主・長尾房景の娘・虎御前。

 

春日山城

現在では日本有数の米所である新潟も戦国時代は湿地帯が広がり耕地は限られ、そのわずかな耕地を巡って越後国の豪族達は激しい争いを繰り返していた。

 

 

謙信は城下の林泉寺に入門し、住職の天室光育の教えを受けたとされ、19歳の時に病弱な兄から家督を譲られると、国内の平定に乗り出し、電撃かつ正確無比の攻撃、カリスマ性あふれる抜群の統率力、ずば抜けた軍事の才で連戦連勝を重ねる。

 

上杉謙信4

 
一方で、幼い頃から仏教の教えに接していた謙信は、果てしない争いに辟易としていた。

謙信は心の救いを求めて、高野山金剛峯寺、比叡山延暦寺、京の大徳寺など諸国の寺を訪ね、24歳の時、仏に帰依する証として、五つの戒律を与えられる。

 

そうして、謙信は人をむやみに殺すことを禁じる「殺生戒」から、殺生をしないで国を治めることを考えた。

 

耕地に恵まれない越後国に富をもたらすために謙信は、まだ木綿が普及していなかったこの時代に肌着や夏服の素材として珍重されていた青苧(あおそ)という植物繊維の生産を奨励する。

 

さらに謙信は、柏崎や直江津などの港を整備して流通ルートを確立し、自ら京の都でセールスを敢行し、製品の販売に力を尽くす。

 

 

商業の発達によって人々の生活は格段に潤い、国内の争いはなくなっていき、戦争をせずに国を治めるという謙信の夢は実現するかに思われた。

 

青苧
 

しかし、その豊かな越後は甲斐の武田信玄に執拗に狙われることとなる。

 

1541年に武田氏の家督を継いだ信玄は信濃攻略に乗り出し、およそ12年で信玄の領土は越後との国境付近まで広がり、信濃で信玄の領土になっていなかったのは川中島の一帯だけとなった。
 

武田信玄
  
武田信玄
 

謙信は、信玄に攻められた信濃の豪族からの救援要請に応えて川中島に出陣する。

 

「第一次川中島合戦」1553年若くして自ら戦の先頭に立ち連戦連勝を重ねてきた軍事の天才である謙信は武田軍を圧倒し、さらに武田軍を追って次々に武田領内の城を落とし、信玄の川中島侵攻を防ぎ切った謙信は越後へと引き返していった。

 

 

 

1554年、信玄は利害の一致した今川・北条との三国同盟を成立させ自領の背後を固めると、再び川中島への侵攻を計画する。

 

 

この時、信玄は越後から川中島に至る街道のすぐ近くにある旭山城に目を付け、この地域に力を持つ善光寺の栗田鶴寿(くりたかくじゅ)を味方につけた。

 

 

「第二次川中島合戦」1555年、謙信が川中島に進軍するために犀川を渡ろうとすると、武田側についた旭山城が謙信を側面からけん制し、そのまま進軍すると上杉軍は武田軍本隊と旭山城に挟み討ちにあう状況となる。

 

 

謙信は犀川の北の岸辺で足止めを余儀なくされ、両軍は犀川を挟んでにらみ合いを続け、対峙すること200日、両軍共に限界が近づくと、信玄は川中島を元の領主に返すことを条件に謙信へ停戦を呼び掛け、この停戦交渉を受け入れた謙信は越後へと引き返す。

 

 

しかし2年後、雪で謙信が出兵できないタイミングを見計らうと、信玄は協定を無視して川中島に侵攻し、信濃の豪族達は滅亡に追いやられ、神社仏閣は破壊され、民衆の悲しみの声は絶えず、謙信は約束を破った信玄に激怒する。

 

 

「第三次川中島合戦」1557年、謙信は川中島へと出陣すると、川中島からさらに奥へ進撃するが、武田軍は決戦を避けて遠くから監視するということを繰り返した。

 

 

正面から戦おうとしない信玄に謙信は苛立ちを募らせながらも、これ以上敵中に深追いして信玄の術中にはまる危険性を察知し、越後へと帰っていく。

 

川中島
 

「第三次川中島合戦」から2年後の1559年に謙信は京都へ行き、権力を失いつつあった室町幕府の将軍・足利義輝と面会する。

 

 

室町幕府は、戦に勝っても領土を増やそうとせず義を重んじる謙信に大きな期待を寄せ、関東を統率する室町幕府の要職「関東管領」に任じ、関東の秩序回復という大義名分を得た謙信は、関東各地に遠征するが、そのいずれもが他の領主や幕府から出陣を求められたもので、それらの戦いによって謙信自身は領地をほとんど増やさなかった。

 

 

 

そんな折に、武田信玄と同盟を結んでいた今川義元が桶狭間で織田信長に討ち取られ、武田・今川・北条の三国同盟に大きな混乱と動揺が生じる。

 

 

謙信はこの三国同盟の動揺を逃さず、北条氏が支配する関東平野への侵攻を始め、わずか7カ月で北条氏の拠点・小田原城まで進撃した。


上杉謙信1
 

北条氏の小田原城が落ちると、今川氏は義元の死によって混乱の中にあり、武田の領地は三方向から謙信に包囲されるという状況になるため、信玄は焦りをつのらせ、1561年、信玄は越後を目指して甲府を出陣し、川中島の南に築いた海津城に拠点を構える。

 

 

これを知った謙信は、すぐに関東平定を中止し、素早く川中島に到着すると、そのまま武田軍の目の前で千曲川を渡り、武田軍の拠点・海津城の間近にある妻女山に陣を張った。

 

 

両者が陣を張ってから15日、信玄は闇に乗じて上杉軍の立て篭もる妻女山の背後へと別働隊12000を出撃させる。

 

 

信玄とった作戦は、兵を二つに分け、別働隊が上杉軍を背後から奇襲し、上杉軍が山から下りたところを本隊で迎え討ち、最終的に挟み討ちにするという「きつつき戦法」と呼ばれるものであった。

 

妻女山
 

しかし、謙信は前日の夕刻に武田軍の動きを察知して、この作戦を見抜く。

 

謙信はすぐさま下山の準備をするように指令を下し、上杉軍は武田別働隊に背後をつかれる前に下山の行軍を開始する。

 

上杉軍は、全ての馬に薪を噛ませて鳴かないようにし、兵は一切声を出さないように厳命され、上杉軍13000は一糸乱れね見事な沈黙の行軍で密かに千曲川を渡り、闇の中で千曲川の北・八幡原に布陣した。

 

 

一方で武田軍本隊は、濃い霧がたちこめていた早朝の川中島で、別動隊に妻女山から追い落とされ慌てて下山する上杉軍を待ち構える。

 

しかし、やがて夜が明け霧がはれていくと、信玄はすでに布陣して攻撃態勢万全で立ちはだかる上杉軍の姿を目にすることとなった。


第四次川中島の戦い
 

上杉軍が怒涛の攻撃を開始すると、予期せぬ事態に遭遇して動揺した武田軍は劣勢となり、武田軍の防御は次々に破られ、乱戦の最中、武田軍の本陣は手薄となる。

 

 

武田側の資料「甲陽軍鑑」では「白手拭で頭を包み、放生月毛に跨がり、名刀、小豆長光を振り上げた騎馬武者が床几(しょうぎ)に座る信玄に三太刀にわたり斬りつけ、信玄は床几から立ち上がると軍配をもってこれを受け、騎馬武者の馬が槍で刺されると、騎馬武者はその場を立ち去った。」と記され、上杉謙信が武田信玄に自ら斬りかかったという伝説が生まれた。

 

上杉謙信・武田信玄
 

武田軍が上杉軍の猛攻を耐え凌ぐこと4時間、武田軍別働隊がようやく千曲川を渡り八幡原へ到着し、武田軍の怒涛の反撃が始まると戦況は一転、武田軍優勢となって、上杉軍は撤退する。

両軍あわせて死傷者27000を出した激戦「第四次川中島の合戦」に終止符がうたれた。

 

 

 

1564年「第五次川中島の合戦」と呼ばれるこの時は、謙信と信玄は川中島で遭遇するも共に戦うことなく撤退。

 

 

その後、越後への侵攻を断念してその矛先を南へと向けた信玄が、今川氏との戦いで海路を断たれて塩(人間は塩分が不足すると死亡するうえ、この時代は入手が簡単ではなく貴重であった。)が手に入らなくなると、信玄のもとに謙信から大量の塩が届けられ、この故事から「敵に塩を送る」という言葉が生まれた。

 

 

 

 

宿敵・武田信玄との戦いが落ち着いた1569年、京都にいた織田信長の使者が謙信のもとを訪れ「謙信公の武威の誉れは挙げればきりがありません。この信長が手堅く申し付けて将軍家の御所を経営し、お守りいたします。」という書状が届く。

 

 

信長は国境を接する武田信玄を当面の敵としていたため、謙信とは友好関係を持ちたい思惑があった。

 

 

謙信は信長の室町幕府を守るという言葉を信じ、1572年、上杉謙信と織田信長は同盟を結ぶ。

 

 

しかし、1573年、武田信玄が死去した直後、信長は将軍・足利義昭を京都から追放し、約240続いた室町幕府が滅亡し、さらに信長は勢いそのまま、近江の浅井氏と越前の朝倉氏を滅ぼし、その勢力を拡大した。


織田信長
  
織田信長
 

しかし、信長は軍事の天才である謙信とは敵対しないように根回しをする。

 

信長は南蛮渡来のビロードのマントなど珍しい品々の贈り物攻勢を仕掛けた。

1574年には、現在国宝となっている「洛中洛外図屏風」を贈る。

その「洛中洛外図屏風」は、将軍クラスしか乗ることが許されない黒い輿に乗る謙信が描かれており、一緒に京を治めましょうというメッセージと受け止められるものだった。

 

 

 

ところが1575年「長篠の戦い」にて新兵器である鉄砲を駆使して武田軍を撃破した信長は、戦争への自信を深め、越中にいた謙信の重臣である村上氏に離反を促し、さらに常陸の佐竹氏、下野の小山氏などと友好関係を結ぼうとする。

 

 

これらを知った謙信のもとに、京都を追われた足利義昭の使者が訪れ「幕府再興のために信長を討ち、急ぎ上洛して欲しい。」と懇願され、同盟をないがしろにされ信長への怒り爆発寸前の謙信は、それに応じて信長討伐を決意した。

 

 

 

一方、信長も謙信の上洛を阻止するため1576年、琵琶湖の東岸に安土城の築城を開始し、謙信と対決する準備を整える。

 

 

謙信は、堅固な要塞を構えて信長と敵対していた大阪石山本願寺と西国の実力者・毛利氏と同盟を結び、上杉・西山本願寺・足利義昭・毛利氏という反織田包囲網を成立させた。

 

 

謙信は「たとえ信長、億万の軍衆を列ね、山を抜く勢いあるといえども、予が獅奮の矛先に向かいては叶うべからず。」と西に向けて出陣する。


上杉謙信5
 

謙信は途中で越中を平定し、さらに能登に進出すると畠山氏の七尾城(現在の石川県七尾市古城町)を囲んだ。

 

七尾は日本海航路の中心であったため、ここを押さえると船を使って越後から大量の兵糧を運べるため、謙信としてはぜひともとりたい拠点であった。

 

 

謙信は、火あぶりや釜茹でなどで数万人が虐殺され信長から徹底的な弾圧を受けていた加賀一向一揆の勢力と手を結び、難攻不落といわれた七尾城を落として能登を勢力下におく。

 

七尾城
 

謙信の動きを知った信長は焦り、柴田勝家、前田利家、羽柴秀吉からなる4万の主力部隊を七尾城に差し向ける。

 

 

上杉軍は槍や騎馬が主体で大量に鉄砲を揃えた織田軍に装備が劣るため、謙信は鉄砲対策として、合戦を標的が見えない夜に持ち込むことを考え、上杉軍は合言葉の周知訓練を徹底し、暗闇でも統率がとれるようにした。

 

 

織田軍4万が手取川を越えたところに陣を張るのを確認した謙信は、数日来雨が続いた夜に、37000の軍勢を突撃させ、一糸乱れぬ攻撃を仕掛ける。

 

 

突然の奇襲に混乱した織田軍は、雨で火薬がしめり夜で相手が見えず鉄砲が威力を発揮しなかった。

さらにパニック状態となった織田軍は、手取川を渡って退却しようとするが、川は雨で濁流と化し、多くの溺死者を出す。

 

 

織田軍の惨敗は「上杉におうては織田も手取川。はねる謙信、逃ぐる信長。」と言われて瞬く間に評判となり、謙信も「戦ってみると信長は案外弱い。」という印象を持った。


手取川
 

評判以上の謙信の強さを知った信長は「謙信公ご上洛の際には、この信長が扇一本を腰に差し都へご案内いたしましょう。信長は西国、謙信公は東国を治めることにしてはいかがでしょう。」という究極に媚びへつらった書状を送るが、もはや謙信は信長を信じることはなく、1578年、謙信は6万の兵を動員して信長討伐の予定を立てる。

 

 

ところが、信長はこの絶体絶命の危機を思わぬ形で脱出した。

 

 

謙信は春日山城内の厠で倒れると、そのまま意識は戻らず、49歳で生涯を閉じ、死因は状況から脳卒中と考えられている。

 

 

上杉軍は謙信の死によって、信長討伐の上洛を中止し、さらに信長包囲網も謙信という求心力を失って崩壊した。

 

毘沙門天
 

こうして、毘沙門天の化身となって戦国乱世に終止符をうつという謙信の夢は叶わずに終わる。



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佐々 成政 (富山)

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成政は、尾張国春日井郡比良城
(現在の名古屋市西区)を拠点にしていた佐々成宗の子で兄達が相次いで戦死したため、1560年に家督を継ぎ、比良城主となる。

 

比良城

織田信長に仕え、大将の馬の周囲に付き添って護衛や伝令をする「馬廻」から戦功を重ねて頭角を表していく。

 

 

1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、斎藤龍興の軍6000を織田軍1500が味方を三手に分け挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、成政は敵将・稲葉又右衛門(稲葉一鉄の叔父)を池田恒興と共に討ち取る大功を立てた。


森部の戦い
 

1567年、武芸に秀でた馬廻からさらに選抜された豪のエリートが信長直属の使番を務める「黒母衣衆」に抜擢される。

 

 

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で織田・徳川連合軍が浅井・朝倉連合軍に勝利する「姉川の戦い」に先立つ「八相山の退口」で成政は、簗田広正・中条家忠らと共に少数の馬廻衆を率いて殿軍(後退する部隊の中で最後尾の箇所を担当する)に参加し、鉄砲隊を用いて大活躍した。

 

 

1574年、伊勢長島(現在の三重県桑名市、伊勢国と尾張国の境界付近)を中心とした地域で本願寺門徒らが蜂起し、織田信長と激しい合戦が起こった「長島一向一揆」との戦いで長男・松千代丸を失う。

 

長島一向一揆

1575年、三河国長篠城(現在の愛知県新城市長篠)をめぐって、織田・徳川連合軍38000が武田勝頼の軍勢15000と戦った「長篠の戦い」では、前田利家・野々村正成・福富秀勝・塙直政と共に、この戦いの語り草ともなっている鉄砲隊を率いた。

 

 

 

 

1575年、織田信長は越前国制圧後、成政・前田利家・不破光治の3(府中三人衆)に越前府中10石を与え、成政は小丸城(福井県越前市)を築いて居城とし、北陸方面の軍団長となった柴田勝家を支えた。

 

府中三人衆は柴田勝家を支えながらも、半ば独立した遊撃軍的存在で、石山合戦や播磨国平定、荒木村重征伐などに従軍する。

 

 

 

1578年、軍事の天才・上杉謙信が能登に侵入し、織田信長にとって最大の危機が迫った際には、成政は柴田勝家らと共に加賀に侵攻したが、七尾城(石川県七尾市古城町)が上杉謙信に落とされると撤退した。

 

 

1580年、親上杉氏政策を維持しようとした父と対立し、京都に上って織田信長に仕えた神保長住をサポートして、一向一揆および上杉氏に対する最前線であった越中国の平定に尽力し、この頃に成政は、立山の雪解け水により常願寺川が氾濫して大洪水を引き起こすことを防ぐため、馬瀬口に「佐々堤」と呼ばれる堤防を築造して水害を減少させる。


佐々堤
 

1581年、神保長住が失脚したことにより、長政は富山城を居城とする一国守護となって、富山城の大規模な改修をおこなう。

 

 

成政は新規の家臣を召抱える際、最初に提示したよりも多くのサラリーを与える事から、気前の良い殿様だという事で仕官を望む者が絶えなかった。

 

また、この仕官の際の面接においても、家柄や血筋ではなく実績や武勇を重視し、その話を聞くのが大好きであったといわれている。

 

富山城
 

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、成政が拠点としていた北陸方面は、上杉軍の最後の拠点である魚津城を3ヶ月の攻囲の末に攻略した(魚津城の戦い)ばかりであったため、成政は上杉軍の反撃への防戦で身動きが取れなかった。

 

 

 

豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)は対峙していた毛利氏と和睦し、いち早く畿内に戻り(中国大返し)、明智光秀を討ち果たす手柄をたてる。

 

そのため、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化し、成政は柴田勝家の側についた。

 

柴田勝家
  
柴田勝家
 

1583年、近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)で豊臣秀吉と柴田勝家が戦った「賤ヶ岳の戦い」では、成政は上杉氏への備えのため越中を動けなかったため、叔父の佐々平左衛門が率いる兵600を援軍として出すことが出来ずに終わる。

 

 

「賤ヶ岳の戦い」に勝利した豊臣秀吉は、織田信長が築き上げた権力と体制の正統な継承者となることを決定づける。

 

成政は剃髪して秀吉に降伏し、娘を人質に出すことで、越中一国を安堵された。

 

 

こうした経緯から、富山県呉東地区では「賤ヶ岳の戦い」で上司である柴田勝家を裏切った前田利家とは対称的に最後まで忠節を尽くし、治水工事などの善政を布いた成政の人気が高い。

 

 

 

豊臣秀吉が織田信雄(織田信長の次男)・徳川家康と尾張北部の小牧城、犬山城、楽田城を中心に戦った「小牧・長久手の戦い」では、成政は当初は豊臣秀吉の側につく姿勢をみせていたものの最終的には織田信雄・徳川家康の側につき、豊臣秀吉の側に立った前田利家の末森城を攻撃する(末森城の戦い)

 

末森城の戦い
 

この頃の成政は、越後国の上杉景勝とも敵対していたため、二正面作戦を強いられ、その戦いは厳しいものであった。

 

 

ところがそんな成政の苦労とは裏腹に、豊臣秀吉と織田信雄の間で和議が成立し、徳川家康が停戦すると、このままでは立場が危うくなる成政は厳冬の飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと向かい、徳川家康に再挙を促す。

 

この決死の行動と懇願は「さらさら越え」と呼ばれ、伝説化している。
 

佐々成政1
 

しかし、徳川家康の説得には失敗し、織田信雄や滝川一益からも快い返事は得られなかったため、1585年、富山城は豊臣秀吉によって10万の大軍で包囲され、成政は降伏した(富山の役)

 

 

成政は一命は助けられたものの、越中東部の新川郡を除く全ての領土を没収され、妻子と共に大坂に移住させられ、政治や軍事の相談役である「御伽衆」として豊臣秀吉に仕える。

 

 

 

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」で功をあげた成政は、1587年、肥後一国を与えられるという復活劇を成し遂げた。

 

佐々成政
 

しかしながら、早急に改革に乗り出した成政は肥後国人の反発を受け(肥後国人一揆)、これを自力で鎮めることができず、その失政の責任から摂津国尼崎法園寺にて切腹。

 

 

成政は正確な生年が不詳であるが、没年は51歳くらいとされている。

 

 

 

成政には早百合という美しい側室がいたとされ、早百合が懐妊した際に「早百合の子どもは成政様の子ではない。」と言う噂が流れた。

 

成政は烈火の如く怒り、有無を言わさず早百合を神通川の川沿い(富山県富山市磯部町)で殺し、さらに早百合の一族18人全ての首をはね、獄門に磔にする。

 

また、早百合は「立山に黒百合の花が咲いたら佐々家は滅亡する。」と呪いの言葉を残したため、佐々瑞雄(成政の甥)は母から「わが家では、絶対ユリ科の花は活けてはいけません。」と言われていたという。

 

早百合が殺された神通川の辺りでは、風雨の夜、女の首と鬼火が出るといわれた。

 

富山県富山市磯部町

この話以外にも、勝者である豊臣秀吉や前田利家に悪評を創作され、評判を貶めるための数多の真偽不明な逸話が残され、成政はとかく過小評価を受けがちであるが、その豊臣秀吉や前田利家ですら軍事指揮官としての力量ばかりは認めざるをえず、多くの賞賛の記録が残っている。

 

 

 
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前田 利家 (石川)

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1538年、尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)で、その地を支配していた荒子前田家の当主・前田利春の四男として生まれる。

青年時代の利家は、武将の身辺に仕えて諸々の雑用を請け負う「小姓」として織田信長に仕えた。


1552年、元服前の利家は、尾張下四郡を支配する清洲城主・織田信友(清洲織田氏)と織田信長の間に起こった「萱津の戦い」に初陣し、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、織田信長は「肝に毛が生えておるわ」と賞賛する。

前田利家2

1556年、織田信長とその弟・織田信勝による織田家の家督争い「稲生の戦い」では、宮井勘兵衛に右目下を矢で射抜かれながらも利家は「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井勘兵衛本人を討ち取る功を立て、信長は大いに喜んで「利家はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞し、利家は矢を抜くことなく戦後に手柄を確認する「首実検」にも参加した。


日頃から短気で喧嘩早く、戦場での活躍が目立ち、三間半柄(約6m30cm)というとても長く派手な槍を手にしていた利家は、1558年、尾張上四郡を支配していた岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争い「浮野の戦い」にも参加して功を挙げ、この頃から「槍の又左」の異名で称えられるようになる。


また、この戦いの後、武芸に秀でた者達からさらに選抜された豪のエリートが織田信長直属の使番を務める「赤母衣衆」の筆頭に抜擢された。

さらにこの年、従妹のまつ(芳春院)を妻に迎える。

前田利家3

1559年、信長のお気に入りの同朋衆(雑務や芸能に従事する人)拾阿弥とモメて、利家は拾阿弥を斬殺し、出仕停止処分を受けて浪人暮らしとなった。



1560年、織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」に、利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず無断で参加し、計三つの首を挙げる功を立てるも復帰は許されずに終わる。


1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、1500の兵を三手に分け、斎藤龍興の軍6000を挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、利家はまたしても無断で参戦し、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛という怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げると、ようやく復帰を許された。


利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、1569年に織田信長が兄・利久に代わって利家が前田家の家督を継ぐように命じる。

森部の戦い

1570年、浅井氏・朝倉氏との「金ヶ崎の戦い」では、戦国史上有名な織田信長の撤退の警護を利家が担当し、続く「姉川の戦い」では浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げ、織田信長に「今にはじまらず比類なき槍」と褒めたたえられた。


石山本願寺との間に起こった「春日井堤の戦い」で、織田軍は敗走することになるが、利家は一人で踏みとどまって敵を倒し、味方の退却を助けるという働きをみせる。


その後、利家は「一乗谷城の戦い」「長島一向一揆」「長篠の戦い」などの戦で、佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政らと共に織田軍の快進撃を語るうえで欠かすことの出来ない鉄砲奉行として参戦した。

春日井堤の戦い

1575年、織田信長は越前国制圧後、利家・佐々成政・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中10万石を与え、利家は佐々成政らと共に柴田勝家を支えながら上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事する一方で、織田信長の命により「有岡城の戦い」や「三木合戦」といった戦いにも参加する。


1581年、織田信長より能登一国を与えられ、利家は七尾城主となって23万石を領有する大名になり、その翌年、港湾部の町から離れた七尾城を廃城し、港を臨む小丸山城を築城。

小丸山城

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、利家は柴田勝家に従って上杉軍最後の拠点であった魚津城を攻略中だったため、豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)が明智光秀を討ち果たした「山崎の戦い」に加わることができなかった。


そして、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化すると、利家は柴田勝家の側につきながらも豊臣秀吉との関係にも大いに悩んだ。


そんな折に、柴田勝家の命を受け、利家が金森長近・不破勝光と共に山城宝積寺城(現在の京都府大山崎町)にいた豊臣秀吉に一時的な和議の交渉を行った際、利家は豊臣秀吉に逆に懐柔され、1583年の「賤ヶ岳の戦い」で5000ほどの兵を率いて柴田軍として布陣するも、突然に撤退し、豊臣秀吉の勝利を決定づけることになった。


敗北して北ノ庄城へ向かう途中の柴田勝家は、越前府中城(現在の福井県武生市)にこもる利家のもとを立ち寄り、これまでの労をねぎらって湯漬けを所望したという。

北ノ庄城

その後、利家は使者の勧告に従って豊臣秀吉に降伏し、柴田勝家のいる北ノ庄城攻めの先鋒となると、戦後、領土の保障および加賀国のうち二郡を加増されて、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城(後の金沢城)へと移した。

金沢城

1584年、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した「小牧・長久手の戦い」では、佐々成政が徳川家康らに呼応して加賀国・能登国に侵攻したが、利家は「末森城の戦い」で佐々成政を撃破した。


その佐々成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は上杉景勝と連絡をとって越中国境に進出させたり、佐々成政の部将となっている越中国衆・菊池武勝に誘いの手を伸ばす。


そうして、利家が先導役を果たし豊臣秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと、佐々成政は降伏し、利家の嫡子・前田利長が越中国4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。


その後、越前国の国主である丹羽長秀が没すると、利家は豊臣政権下における諸大名の窓口としての機能を求められるようになる。

前田利家4

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」では、利家は8,000の兵で畿内を守備し、嫡子・前田利長は九州まで従軍した。


豊臣秀吉が天皇の代わりに政治を行う「関白」に任官して豊臣姓を賜ると、利家は筑前守・左近衛権少将に任官し、1590年には朝廷組織最高機関での官職「参議」に任じられる。



北条氏制圧のための「小田原征伐」では、利家は北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸と共に上野国に入って松井田城をはじめ諸城を次々と攻略し、さらに武蔵国に入ると鉢形城・八王子城を落とした。

松井田城

1591年、国内を統一した豊臣秀吉は「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」のために名護屋城(現在の佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町)の築城を開始、1592年、利家は諸将に先んじて京都を出陣して名護屋に向かった。


豊臣秀吉が母・大政所危篤の報を得て、急ぎ大阪に戻り、約3ヶ月間名護屋を留守すると、その間、徳川家康と利家が豊臣秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行い、これが後の五大老の原型となる。


1593年、朝鮮(李氏朝鮮)の宗主国・明(1368~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)との講和が進み、明の使者が名護屋に着くと、徳川家康と利家の邸宅がその宿舎とされた。


豊臣秀吉が待望の男子である秀頼誕生の報で大坂に戻ると、利家も金沢に帰り、この時にまつの侍女・千代との間に、後の第三代加賀藩主・前田利常となる猿千代が生まれる。

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉

1598年頃になると利家は健康の衰えを見せ始めるようになり、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した「醍醐の花見」に妻のまつと陪席すると、嫡子・利長に家督を譲った。


利家は隠居することを望んでいたが、「五大老・五奉行」の制度を定めた豊臣秀吉より大老の一人に命じられ、それから間もなく、豊臣秀吉は利家らに嫡子・秀頼の将来を繰り返し頼み没する。


この時、秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられ、豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城(現在の京都市伏見区桃山町周辺)に、利家が秀頼に付き従って大坂城に入り、利家は大坂城の実質的な主となった。

前田利家1

しかし、徳川家康は豊臣秀吉亡き後の覇権を狙い独裁的な態度を示すようになり、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と婚姻政策を進め、利家はこれに激しく反発する。


利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に「関ヶ原の戦い」で家康の側につくことになる細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方し、豊臣秀吉亡き後の実質的な実力者が利家であることは動かし難い事実であった。


利家と対立することを不利と悟った徳川家康は、向島(現在の近鉄向島駅付近)へ退去すること等で和解する。


この直後、利家の病状が悪化し、徳川家康が見舞いのため利家邸を訪問した際、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたという。


利家が大阪の自邸で病死(60歳)すると、徳川家康により加賀征伐が検討されるが、利家の跡を継いだ利長が母・芳春院(まつ)を人質に出す条件を受け入れ、加賀征伐は撤回された。
 
芳春院(まつ)
  
芳春院(まつ)

その後、前田家は政争を上手く立ち回り、明治の世まで加賀藩主として生き残る。



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朝倉 義景 (福井)

朝倉義景700x1000

  

1533年、越前国の朝倉氏第10代当主・朝倉孝景の長男として生まれ、この時、父・朝倉孝景は40歳で唯一の実子であった。

 

生母は若狭武田氏一族の広徳院(光徳院)といわれいる。

 

義景の幼少期に関しては不明な点が多く、守役や乳母に関しては一切が不明で、伝わる逸話もほとんど無い。

 

一乗谷城
 

1548年、父が死去したため家督を相続して朝倉氏第11代当主となるが、当初は若年のため1555年までは一族の名将・朝倉宗滴に政務・軍事を補佐されていた。

 

 

朝倉宗滴の死後もしばらくは深刻な政治情勢に巻き込まれることが無かったため、越前国は周辺諸国に比べて安定・平和・栄華を極め、この当時の越前国を訪れた者は「義景の殿は聖人君子の道を行ない、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と讃えている。

 

 

 

1552年、室町幕府の第13代将軍・足利義輝より「義」の字を与えられ「義景」と改名し、左衛門督(鎌倉時代以降は朝廷の機能としては有名無実化していたが、源頼家なども歴任し、官職のなかでも武家に好まれた。)にも任官。

 

こうしたことは、父・朝倉孝景の時代に室町幕府での地位を高めたことに加え、衰退する室町幕府にとっては守旧的な朝倉家の力を必要として優遇された。

 

家紋朝倉義景
 

1565年、将軍・足利義輝が松永久秀らによって暗殺されると、義景は足利義輝の家臣であった和田惟政・細川藤孝・米田求政らと連絡を取り合い、足利義輝の弟・足利義昭が幽閉先の奈良を脱出して近江国に移るように画策する。

 

 

その後、若狭武田家を頼っていた足利義昭が越前国に身を寄せると、義景はその来訪を歓迎した。

 

 

 

1567年、朝倉家の家臣・堀江景忠が、朝倉家と長年の対立が深刻化していた加賀一向一揆と通じて謀反を企てたため、義景は加賀国から来襲した杉浦玄任率いる一揆軍と交戦しつつ、堀江家に攻撃をしかける。

 

堀江景忠は必死に抗戦をするが、結局、加賀国を経て能登国へと没落した。

 

一方で、加賀一向一揆とは足利義昭の仲介により和解が成立する。

 

加賀一向一揆
 

足利義昭は上杉謙信など諸大名に上洛(広義においては京都に入ることを意味するが、狭義では室町時代末期に足利幕府の将軍を保護することを意味した。)を促す書状を送ったが、それらの大名家は隣国との政治情勢などから出兵は難しかった。

 

 

足利義昭は義景にも上洛戦を求め、義景の館を訪問したり、さらに義景に限らず朝倉一門衆とも関係を深める。

 

 

京都に自らが軍勢を連れて上洛し、室町将軍の保護者となる事は、権威をもたらし、政治的影響力を高める事となるが、義景は嫡男・阿君丸が急死して悲しみにくれていたことなどもあり、足利義昭が望む上洛には冷淡であった。

 

 

義景がここでもし上洛していれば、天下を狙える可能性すらあったが、こうした決断力の鈍さが後々大きく運命を左右する。

 

結局、足利義昭は美濃国を支配下におき勢いに乗る織田信長を頼るため越前国から去った。

 

足利義昭
  
足利義昭
 

1568年、若狭守護・武田氏の内紛に対して、義景は当主である武田元明の保護という名目で介入し、若狭を支配下に置くが、武田家臣の粟屋勝久や熊谷氏などは義景に従属することを拒否して頑強に抵抗する。

 

 

 

この頃、足利義昭を将軍にした織田信長は、織田領である美濃と京都の間に突き出た位置関係となる越前国を治める義景を服属させる必要があったため、足利義昭の命令として2度にわたって義景に上洛を命じるが、義景は織田家に従うことを嫌い、さらに上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安から拒否した。

 

 

 

しかし義景の上洛拒否は、反意があるという言い掛かりから越前出兵への口実を織田信長に与え、1570年、織田信長・徳川家康の連合軍が侵攻を開始、天筒山城・金ヶ崎城(共に福井県敦賀市)が織田軍の攻勢の前に落城する。

 

 

ところが織田信長と同盟関係にあった浅井長政は、越前侵攻を不服として織田信長を裏切って急襲したため、前に朝倉軍、背後に浅井軍という絶体絶命の窮地に陥った織田信長は京都に撤退。

 

浅井長政
  
浅井長政
 

このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の最後尾部隊を率いた豊臣秀吉(この時は木下秀吉)の抵抗に阻まれ、織田信長をはじめとする有力武将を取り逃がし、再挙の機会を与えることになった。

 


 

1570年、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川(滋賀県長浜市)で激突した「姉川の戦い」で、朝倉軍は徳川軍と衝突したが徳川四天王と名高い榊原康政に側面を突かれて敗北し、織田信長は浅井方の支城の多くを落とし、朝倉・浅井連合軍は非常に不利な立場に陥る。

 

姉川の戦い
 

織田信長が三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えた三好氏の一族・重臣だった三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3)および石山本願寺討伐のために摂津国に出兵している隙に、義景は浅井軍と共同して織田領の近江坂本(現在の滋賀県大津市)に侵攻し、織田信長の弟・織田信治と重臣・森可成を敗死に追い込んだ。

 

 

織田信長が軍を近江に引き返してくると、朝倉・浅井軍は比叡山延暦寺に立て籠もって織田軍と対峙し、小競り合いや合戦があるものの、足利義昭・二条晴良らの和睦の調停に応じて、両軍は講和することとなる。

 

この講和の際、織田信長は義景に対して「天下は朝倉殿持ち給え。我は二度と望みなし」という書状を送っており、強敵として警戒していた。

 

織田信長
  
織田信長
 

織田信長が本願寺と交戦状態に入る(野田城・福島城の戦い)と、将軍・足利義昭は甲斐国の武田氏をはじめ近江国の浅井氏、そして越前国の義景らと織田信長包囲網を構築。

 

義景は、こうして織田信長包囲網の一角を担った本願寺の顕如の子・教如と娘の婚約を成立させる。

 

 

義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが敗退し、この後、織田信長は前年に朝倉氏に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちし、延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。

 

比叡山延暦寺
 

1572年、甲斐国の武田信玄が遠江・三河方面へ侵攻し、徳川軍が次々と城を奪われる。

 

それに対して織田信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で攻勢をかけるが、虎御前山砦(滋賀県長浜市中野町)の豊臣秀吉(この当時は羽柴秀吉)に阻まれた。

 

 

義景が部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退すると、武田信玄はそれに対して激しい非難を込めた文章を送りつける。

 

義景が再三の出兵要請に二の足を踏む間に、同盟者であった武田信玄が陣中で病死し、武田軍が甲斐へと引き揚げたため、織田信長は主力軍を朝倉家に向けることが可能となった。

  

朝倉義景1
 

1573年、織田信長が3万の大軍を率いて近江に侵攻すると、義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとするが、決断力の弱さから数々の好機を逸してきた義景は家臣の信頼を失いつつあり、朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが出陣命令を拒否。

 

 

このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣するも、大嶽砦(滋賀県長浜市小谷丁野町)が織田信長の暴風雨を利用した電撃的な奇襲を受けて大敗する。

 

 

さらに丁野山砦(滋賀県長浜市小谷丁野町)が陥落すると、義景は浅井長政と連携を取り合うことが不可能となり、越前への撤兵を決断した。

 

しかし、撤退する朝倉軍は織田信長の追撃を受ける。

 

織田信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂(福井県敦賀市刀根)において壊滅的な被害を受けた。

 
刀根坂
 

義景自身は命からがら疋壇城(福井県敦賀市疋田)に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延ら有力武将の多くが戦死。

 

 

義景はさらに疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、その間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。


疋壇城
 

さらに、朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半が逃走してしまい、義景の出陣命令に対して朝倉景鏡(あさくらかげあきら)以外は出陣して来なかった。

 

 

 

義景は一乗谷を放棄し、越前大野の東雲寺に逃れ、平泉寺(福井県勝山市)の僧兵に援軍を要請するが、すでに織田信長に懐柔されていた平泉寺は逆に東雲寺を襲ったため、義景は賢松寺(福井県大野市泉町)に逃れる。

賢松寺


一方、柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込んだ織田軍は、手当たり次第に居館や神社仏閣などを放火し、その猛火は三日三晩続き、朝倉家
100年の栄華は灰燼と帰した。

 

 

 

義景は従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていたが、その朝倉景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃すると、ついに観念した義景は自害を遂げ、39歳で生涯を閉じる。

 

 

義景の首は織田信長の家臣・長谷川宗仁によって、京都で獄門に曝され、血族の多くも織田信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害され、朝倉氏は滅亡した。

 

丹羽長秀
  
丹羽長秀
 

義景は朝倉氏代々の功績を受け継ぎ、一乗谷に京都から多数の文化人を招き、一大文化圏を築き上げ、個人としても戦よりも文芸に凝り、歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道など多くの芸事を好んだ。

 

 

1581年に越前国へ布教に赴いたルイス・フロイスは、越前のことを「日本において最も高貴で主要な国のひとつであり、五畿内よりも洗練された言語が完全な形で保たれていた」と記している。


 


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武田 信玄 (山梨)

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1521
年、躑躅ヶ崎館(甲斐国山梨郡古府中)を拠点とする甲斐の守護大名・武田家の嫡男として誕生する。

 

武田家の治める甲斐国は狭い盆地ごとに諸豪族が独自の勢力を築き、家臣達の武田家への忠誠心も薄く、信玄の父・信虎は隣国との領土争いに明け暮れ、また、家臣達をまとめるために逆らう者は容赦しない態度でのぞみ、国は貧しく、人々は信虎を怖れて反感を抱いていた。

 

躑躅ヶ崎館

信玄は16歳で初陣を飾ると、わずかな手勢で夜襲をかけ、見事に城を落とし、一番の手柄をあげた優れた知略は家臣達の評判となる一方で「一切、夜昼のわきまえもなく乱鳥の狂。」と言われるほど道楽三昧の日々を送る。

 

 

1541年、家臣達は信玄の父・信虎を国外に追放し、21歳の信玄を新たな国主へとまつりあげた。

 

 

しかし、信玄は国主になっても相変わらず遊び続け、間もなく、これを好機とみた勢力に攻め込まれ、領土の一部を奪われてしまう。

 

 

このままでは自分達の生活が危うくなると危機感をおぼえた家臣達は、新たな領土を求めて内紛に揺れる信濃の諏訪氏を攻め、家臣達は当主のためというよりも自分のためにと奮戦し、わずか11日で勝利を収める。


要害山城
 

信玄はこの戦の後、絶世の美女と謳われた諏訪氏の娘・諏訪御料人(すわごりょうにん)に熱をあげるが「もし二人の間に男子が生まれて諏訪の地を治めることになれば、せっかく手にした領地を失う」と考えた家臣達はいっせいに反対した。

 

 

その時、新参の家臣・山本勘助は「もし男子が生まれれば、諏訪家の旧臣達はお家再興に望みをかけ、奉公に励むでしょう。」と機転を利かせた言葉で信玄に味方した。

 

 

この頃、信玄は「頼まずよ、人の心のつれなさを、恨むるほどに夜も更けにけり。」と嘆いているように、家臣達の横暴な振る舞いが目立ち、勝手に関所を設けて領民から密かに通行税を徴収する者までいた。

 

武田信玄
 
そんな状態を打開するために、信玄は26カ条におよぶ「甲州法度」を作成し、その条文の最後は「自分も決まり事を破ったら相応の処分を受ける。」という言葉で締めくくられていたが、家臣達はいっこうに従わず、自らの領内に「甲州法度」を一切停止するとふれ回る者も現れる。

 

 

信玄が家臣達を掌握できずにいる中で、隣国信濃の有力豪族・村上氏との間に武力衝突が起こり、家臣達は功を焦って信玄の命令を無視して我先にと敵陣深くに切り込んで暴走し、武田軍は兵の一割を失う大損害を受け、戦は完敗に終わった。

 

 

 

信玄が、浪人として諸国を巡り各地の大名の統治方法を目の当たりにしてきた山本勘助に、家臣の統率術を尋ねると「戦を続けて領土を獲得なさいませ。その土地を全て家臣に与えれば、大将を大事にするはずです。」と、山本勘助は答える。


山本勘助
  
山本勘助
 

1551年、隣国の村上氏が度重なる戦で疲弊していると聞いた信玄は、密偵を派遣して敵の一部を武田側に寝返らせ、そのうえで村上氏に奇襲をかけ、瞬く間に勝利を収めた。

 

新たな領土を獲得した信玄は、即座に家臣に分け与え、これにより信玄を主君として積極的に敬う家臣が現れはじめ、信玄はその後も隣国・信濃に攻め続け、信濃の7割を支配するようになる。

 

武田信玄2
 

しかし、領土を広げ、獲得した領地を惜しみなく恩賞に使い、家臣達の求心力を高めるには、戦を繰り返さなくてはならず、そしてそれには軍備や戦術以上に戦争で重要な食料の増産が不可欠であったが、山がちな甲斐国は水田が少なかった。

 

 

米の生産をあげるには新田開発をしなければならないが、甲府盆地を流れる河川は甲斐を取り囲む山々から流れ出るため、雪解けの時期は水量が多く、流れも急で、ひとたび大雨が降れば大洪水を引き起こし、田畑や人家に大きな被害を与える。

 

 

信玄の父・信虎の時代、公共事業は各々の豪族が自分の領内だけで行っていたが、信玄は武田家主導のもとで甲斐全体の治水を計画し、総延長50㎞、川の上流から下流まで甲斐全体を広い視野で見据えた合理的な治水工事を、甲斐の豪族や家臣をあげて取り組む。

 

 

当時、甲府盆地を東西に流れる御勅使川(みだいがわ)は何本にも枝分かれし、南北を流れる釜無川と6カ所で交わり、この交差地点で水かさが増えて洪水が起きていた。

 

 

そこで信玄は、御勅使川の枝分かれを2本にまとめて釜無川との合流地点を減らし、さらに合流地点を人里離れた地域になるようにコントロールしたため、洪水被害が少なくなり、この治水事業によって耕地は3倍へと増える。

 

釜無川
 

こうして甲斐国の結束を改善する信玄の前に、若くして越後を統一し、周辺の大名から戦の神・毘沙門天の化身と怖れられていた上杉謙信が大きな壁として立ちはだかっていた。

 

 

 

そこで信玄は嫡男に今川家から嫁をもらい、北条家には娘を嫁がせ、今川・北条・武田の三国で軍事同盟を成立させ、背後を固めて上杉謙信と領土を接する信濃に兵を集中し、1553年の「第一次川中島合戦」を皮切りに計5度の川中島での戦いを演じることになっていく。

 

一騎討ち
 

戦の手柄に対して評価・賞賛するために発給する「感状」は、戦後、館に戻って作成されるのが常であったが、信玄はその日のうちにその場で発行して家臣に渡した。

 

さらに黄金や陣羽織や刀といった褒美も、信玄は常に戦場に持参し、戦功のあった者へその日のうちに与え、こうした気遣いによって家臣達はよく働くようになり、信玄は強敵・上杉謙信と互角に渡り合う。

 

 

ところが「永禄の大飢饉」によって農作物は壊滅、税を納められなくなった農民は逃亡、家臣達の収入は途絶えるという危機が信玄を襲うと、謙信はこの好機を見逃さず「第四次川中島の戦い」が始まる。

 

 

1561年、謙信率いる上杉軍は川中島を見渡せる妻女山に陣取り、その知らせを受けた信玄は慌てて海津城(長野県長野市松代町松代)に入るが、山の上に陣取った謙信から完全に動きを掌握されてしまう。


海津城

追い詰められた信玄は山本勘助の策に頼って、兵を二つに分け、別働隊が上杉軍を背後から奇襲し、上杉軍が山から下りたところを本隊で迎え討ち、最終的に挟み討ちにする「きつつき戦法」をとるが、これは謙信に見破られ、上杉軍は密かに山から降りていた。

 

 

作戦が空振りした武田軍は上杉軍の猛攻を受け、激戦の中、山本勘助も戦死し、上杉軍が武田軍の本陣まで押し寄せ、信玄絶体絶命かと思われた時、間一髪で妻女山に向かっていた武田軍の別働隊が戻ってくる。

 

この時、信玄の目に映ったのは、自分の命にかえても主君を守ろうとする家臣達の姿であった。

 

数々の戦を経ることによって育まれていった家臣達との結束がここで発揮され、攻勢に転じた武田軍は上杉軍を撤退させる。

 

第四次川中島の戦い
 

信玄は家臣団に戦の褒美として、現在の価値にして約150万円にもなる黄金を与えていた。

 

甲斐国には20以上の金山があったが、そのほとんどが武田氏以外の各豪族の領内にあり、もともと甲斐国の黄金は武田氏の収入にはなっていなかったのである。

 

 

黄金を採掘していた金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる高度な技術者集団は、豪族に従属せず独立した生活をしていたため、豪族から身を守ることが大きな負担となっていた。

 

 

信玄は金山衆の安全を保証し、安全を保障されて作業に専念することが出来た金山衆の黄金産出量は増え、信玄はその見返りに産出した黄金の4割を受け取ったのである。

 

 

強引に金山衆を配下に置こうとするのではなく、利害が一致する契約によって、信玄は結果的に黄金産出の効率を上げ、手にした豊富な黄金で日本最初の金貨である甲州金を発行した。

 

甲州金
 
 

一方で、これまで天下に最も近いと言われていた駿河の今川義元が織田信長に討たれるなど甲斐を取り巻く勢力図は大きく変わり始める。

 

動揺する今川家をこの機に乗じて討ち滅ぼせば、京都への道が開け、天下取りが現実味を帯びてくると信玄は考えた。

 

 

信玄の嫡男・武田義信は同盟関係にある今川家から嫁をもらっていたが、信玄は今川攻めを決意していたので、義信に妻と離縁するように命じるが、義信はそれを拒否し今川攻めにも真っ向から異をとなえる。

 

 

この今川攻めを巡って、信玄に賛成する者と、義信について反対する者とに分かれて対立し、強い結束を見せるようになった家臣達に大きな波紋が広がった。

 

 

やがて、義信が反対派の家臣達と信玄の追放を企てているという報告が入ると、信玄は義信を幽閉し、さらに80人あまりの義信派の家臣を処刑・追放に処し、残った家臣達に血判で忠誠を誓わせた「血の起請文」を提出させる。

 

 

しかし、それでも家臣達の対立は収まらず、信玄は悩み続けた末、争いの根は元から断たなければならないと判断し、1567年、嫡男・義信を自害に追い込み、さらに義信の法名に謀反人の印である「謀」の字を加えて未来永劫反逆者の汚名を着せた。

 
武田義信が幽閉された東光寺
 

信玄が示した強い覚悟は再び家臣達の結束を取り戻していく。

 

 

1568年、信玄は駿河への侵攻を開始し、甲斐と駿河の国境にある深沢城(静岡県御殿場市)を包囲した際、この城攻めに多くの金山衆を同行させている。

 

金山衆は黄金採掘で坑道を切り開く技術を活かして、深沢城の地下にトンネルを掘り、城内の井戸に穴を空けて籠城の生命線となる水を深沢城から絶やしたり、城壁を陥没させて崩すなど大きな戦果をあげた。

 

 

わずか半月で深沢城を落とした信玄は、瞬く間に駿河の東半分を手中にし、東海道への進出を果たす。こうして武田の領土は100万石を超え、戦国時代有数の大国へとのし上がった。

 

深沢城
 

織田信長に警戒心を抱いていた将軍・足利義昭は、信玄の活躍を耳にすると密書で織田信長の討伐を要請する。

 

家督を継いで31年、家臣団の結束に心を砕き、我が子までを手にかけた信玄は、堂々と京都まで侵攻する大義名分を得て、ついに天下取りの道が見えてきた。

 

1572年、信玄は「我、存命のうちに天下を取り、京に旗を立つ。」そう言うと、過去最大となる25000の兵を率い、京都を目指して出陣する。

 

 

 

信玄の行く手を待ち受けるのは急速に領土を拡大していた織田信長・徳川家康の連合軍であったため、信玄はまず三河・遠江を支配する徳川家康を倒してから西へ進むことを考え、徳川家康のいる浜松城(静岡県浜松市中区)付近まで兵を進めた。

 

ところが、数で劣る徳川家康は城から兵を全く出さず、いつ終わるとも知れない籠城戦の構えを見せる。

 

 

武田軍はここで無理に城攻めを行えば無駄に兵を失う危険があったが、しかし、徳川家康を無視して西に兵を進めれば背後を取られて織田信長と挟み討ちにされるため、信玄はどうしても徳川家康を叩かなくてはならなかった。

 

 

戦う前にすでにかつてない窮地に立たされていた信玄は大胆な行動に出る。

 

三方ヶ原の戦い

信玄は突如、三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)の台地へと軍勢の進路を変え、徳川軍に背を向けると、そのまま三方ヶ原の台地を横断して逃げ場のない細く狭い一本道を下りはじめた。

 

 

武田軍が不利な環境で無防備な体勢になりかけている知らせを受けた徳川家康は、これを千載一遇のチャンスと見て11000の兵を城から出撃させ、猛然と武田軍の背後へと迫る。

 

 

一方で武田軍は、信玄の号令のもとで一斉に進行方向をそれまでの逆にとり、下りてきた坂を一気に駆け上がると、再び三方ヶ原の台地へ登り、一糸乱れぬ動きで陣形を整えた。

 

 

浜松城の西に広がる三方ヶ原は、周囲が崖で逃げることが出来ず、木が一本もなく広大で、この騎馬軍団に適した台地で、信玄は正面への攻撃に力を発揮する「魚鱗の陣」で待ち構える。

 

 

これを成し得たのは、信玄が自らの人生を懸けて作り上げた武田軍の結束力であった。

 

 

全軍一致となった武田軍は有利なシチュエーションで、あたかも猛虎が羊の群れに突撃したが如く、まんまとおびき出された徳川軍へと猛攻を加え、なす術のない徳川軍は壊滅し、わずか2時間で戦いは武田軍の圧勝に終わる。

 

 

 

この戦いで完膚無きまでに打ち負かされた徳川家康は、この時に感じた死の恐怖を生涯の教訓にし、また、武田家滅亡後、強かった信玄のやり方を知るために積極的に武田の遺臣を保護して召し抱え、そのことは徳川家康の大きな躍進の礎となった。

 

徳川家康
  
徳川家康
 

「三方ヶ原の戦い」に圧勝した信玄は、京都へ、そして天下を目指すはずであったが、1573年、陣中で重い病にかかり志半ば、51歳でこの世を去る。

 

 

信玄は「3年間は自分の死を隠し、国の守りを堅めよ。そして、いつの日か、武田の旗を瀬田(京への入り口)に立てよ。」という遺言を残す。

 

 

信玄の死後、後継者の武田勝頼は「長篠の戦い」で織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、急速に衰えていった武田家は、信玄の死後わずか10年で滅亡する。

 

武田勝頼
  
武田勝頼
 

その生涯を家臣の統率に心血を注いだ信玄は、最後まで家臣への配慮を忘れず、子ども達にもその心得を家訓として残した。

 

「家臣が病の際には、たとえ手間がかかっても見舞うこと。」

「離反した場合でも、覚悟を直す者については過去を咎めず、再び召し抱えること。」

「家臣の身を喉の渇きのように思い、潤し続けること。」

 

 

 
武田信玄Tシャツ
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木曾 義仲 (長野)

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義仲の父・源義賢は河内源氏一門で東宮帯刀先生を務め、武蔵国の最大勢力である秩父重隆の娘を娶るが義仲の生母は遊女と伝えられており、また、出生地に関しては武蔵国の大蔵館(現在の埼玉県比企郡嵐山町)といわれている。

 

 

源義賢が源氏一族の権力争いで源義平(義仲の従兄にあたり源頼朝の兄)に討たれると、当時2歳の義仲も源義平によって殺害の命が出ていたが、幼い子供に刃を向けることをためらった畠山重能が斎藤実盛に義仲の身柄を預け、密かに信濃国木曾谷(現在の長野県木曽郡木曽町)へ逃がされた。

 

そこで義仲は後に側近となる樋口兼光・今井兼平・巴御前の三兄妹と共に育てられる。


樋口兼光
  
 樋口兼光

 今井兼平

   今井兼平

1巴御前
  
巴御前  

 

義仲の子ども時代は、天皇・平氏・源氏が三つ巴の権力争いをくり広げ、平清盛を筆頭とする平氏が政治権力を手にして全盛期を築いていく。

 

 

1180年、平清盛のために皇位継承争いに敗れた後白河法皇の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が平氏討伐の令旨を全国へ発すると、27歳になっていた義仲はこれに応じて小県郡依田城にて挙兵する。

 

 

1181年、平氏側の城助職(じょうすけもと)6万の大軍で越後国から横田河原(長野市)に攻め込んで来ると、義仲は兵の一部に平氏の紅旗を掲げさせ敵背後に回り込ませて、挟み討ちにするという騙まし討ちにより、わずか2000の兵で勝利し、そのまま越後から北陸道へと進み、同じ源氏一門である源頼朝や武田信光(甲斐源氏)の勢力が浸透していない北陸へと勢力を広げた。

 

横田河原の戦い
 

1183年、源頼朝と敵対して敗れた志田義広(源為義の三男で義仲の叔父にあたる)と、同じく源頼朝から追い払われた源行家(源為義の十男で義仲の叔父にあたる)が義仲を頼り、この2人の叔父を庇護した事で義仲と源頼朝との関係が悪化する。

 

 

両者は武力衝突寸前となるが、平氏追討を前に源氏同士で争うわけにはいかず、義仲の息子・源義高を人質として鎌倉に送る事で和議が成立した。

 

 

 

一方、平氏はエース平維盛(平清盛の孫)と平知度(平清盛の七男)が率いる10万の大軍が、難攻不落といわれた燧ヶ城を落とし、加賀国で井上範方を撃破し、越中へと向かって来る。

 

 

ここで平氏軍は、平知度が率いる3万が志雄山、平維盛が率いる7万が倶利伽羅山へと二手に分かれた。


平維盛
  
平維盛
 

義仲は地元で5万の兵を集めると、倶利伽羅山に陣を張り、平氏軍を谷から落とすことを考える。

加賀と越中の境にある倶利伽羅山は高く、道は細く、谷は深い。

 

 

義仲軍は500頭ほどの牛の角に松明をスタンバイして夜が更けるのを待ち、平氏軍が眠りに就いた深夜に奇襲をかけ、太鼓を打ち、法螺貝を吹き、鏑矢を放ち、叫びながら角に松明を燃やした牛を平氏軍の陣に追い入れ、それらは山びこで響き渡った。

 

 

真夜中の大騒音、地鳴りと共に押し寄せる炎の数々、平氏軍は大パニックに陥り、太刀一つに3人が群がり弓一つを4人が掴み、暗闇で方向も分からず、18000もの兵が谷から転落する。

 

一夜明け、倶利伽羅山の劣勢の知らせを聞き、志雄山から駆け付けた平知度は戦況を打開できず自害に追い込まれた。

 

倶利伽羅峠の戦い
 

「倶利伽羅峠の戦い」に勝利した義仲軍は破竹の勢いで京都を目指し、また、源行家が伊賀方面から進攻し、京都の防衛を断念した平氏は安徳天皇(後白河法皇の孫で、母は平清盛の娘)とその異母弟・守貞親王を連れて西国へ逃れる。

 

 

この時、平氏は後白河法皇も連れていくつもりであったが、後白河法皇は比叡山に身を隠してやりすごし、間もなく義仲が平氏に入れ替わって京都へと入った。

 

 

義仲軍は官軍として迎い入れられ、平氏追討の勲功から義仲は「伊予守」となる。

 


 

後白河法皇は平氏に安徳天皇と神器の返還を求めたが、交渉は失敗に終わったため、京都に残っている高倉上皇(安徳天皇の父)の二人の皇子(惟明親王・尊成親王)のいずれかを天皇にすることを決めた。

 

 

しかし、義仲はこの際に「平氏の悪政がなければ本来は以仁王が天皇になっていたはずなので、その子である北陸宮を即位させるべき。」と申し立てる。

 

 

皇族・貴族にあらざる武士が皇位継承問題に介入することは極めて不快感を買う行為であったが、山村で育った義仲は、半ば貴族化した平氏一門や幼少期を京都で過ごした源頼朝とは違い、宮中の政治・文化・歴史への知識が全くなかった。

 

 

これにより義仲は後白河法皇との関係が悪化し、京都において粗野な田舎者と疎まれるようになる。

 

 

さらに「養和の飢饉」で食糧事情が極端に悪化していた京都に、遠征で疲れ切った武士達の大軍が居座ったために、食糧事情はますます悪化し、都や周辺での略奪行為が横行したため、義仲は平氏の狼藉によって荒廃した京都の治安回復を期待されていたが、大きくその期待を裏切ることになった。


養和の飢饉
 

しかし京中守護軍は源行家や安田義定、近江源氏・美濃源氏・摂津源氏などの混成軍であり、その中で義仲がもっとも有力だっただけで全体の統制が出来る状態になく、義仲は批判に対して開き直った態度をとり、半ばヤケになっている様子が伺える。

 

 

 

たまりかねた後白河法皇は義仲を呼び出し、立場の悪化を懸念した義仲は、西国で再起の力を蓄えている平氏の討伐に向かって挽回を目指す。

 

 

播磨国へと出陣した義仲は「水島の戦い」で平氏軍に惨敗し、さらに有力武将の矢田義清を失い、苦戦を続けていた。

 

 

そんな義仲の耳に、源頼朝の弟(源義経・源範頼)が大将軍となり大軍を率いて京都に向かっているという情報が飛び込み、驚いた義仲は平氏軍との戦いを切り上げて少数の軍勢で京都へと引き返す。

 

 

 

源義経・源範頼の率いる鎌倉軍が京都へと向かっているのは、後白河法皇と源頼朝が通じていたからなので、義仲は後白河法皇に激烈な抗議をし、逆に源頼朝追討の命令を下すように要求する。

 

義仲の敵はすでに平氏ではなく源頼朝に変わっていた。

 

 

とはいえ、義仲の指揮下にあった京中守護軍は瓦解状態で旗色は極めて悪く、鎌倉軍の京都到着が間近との報に力を得た後白河法皇は義仲軍と対抗できる戦力の増強を図るようになる。

 

 

後白河法皇は延暦寺や園城寺の協力をとりつけ、さらに義仲陣営の摂津源氏・美濃源氏などを味方に引き入れ、圧倒的優位に立ったと判断すると義仲に対して最後通牒を行う。

 

 

その内容は「直ちに平氏追討のため西へ向かえ。源頼朝と戦うなら朝廷の命を得ようとせず私闘としてやれ。京都に居座るなら謀反とする。」というこの上なく容赦ないものであった。

 

この非情さには、朝廷側に立場する九条兼実ですら義仲を擁護するが、後白河法皇は義仲への武力攻撃の決意を固める。


後白河法皇
  
後白河法皇  

 

焦った義仲は後白河法皇の御所を襲撃し、後白河法皇を捕えると五条東洞院の摂政邸に幽閉し、復権を目論む前関白の松殿基房(まつどのもとふさ)の子・松殿師家(まつどのもろいえ)を内大臣・摂政とする傀儡政権を樹立した。

 

また、義仲と手を結んだ松殿基房は、娘である絶世の美女・藤原伊子を義仲に嫁がせている。

 

新たな摂政となった松殿師家によって義仲は、源頼朝追討に対して形式的に官軍(天皇の軍)の体裁を整えて、征東大将軍に任命させた。

 

木曾義仲3 (2)
 

鎌倉軍が目前に迫ると、義仲は京都の防備を固めるが、京都での人望を完全に失っていた義仲には兵が集まらず「宇治川の戦い」に惨敗して、鎌倉軍が京都に進入すると人質として捕えていた後白河法皇も奪われる。

 

木曾義仲1
 

 「宇治川の戦い」に敗れて京都をあとにする義仲軍わずか7騎の中に一人の女性がいた。

 

女性は樋口兼光・今井兼平の妹で幼少より義仲と共に育った巴御前で「平家物語」では「色白く髪長く、容顔まことに優れた美人で、強弓精兵、一人当千の兵者(つわもの)」と記されている。

 

この時、巴御前は左右から襲いかかってきた2人の武者を両脇に挟みこんで絞め、2人は頭がもげて死んだという。

 

 

義仲は一緒にいたがる巴御前に「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのは恥ずかしい。」と言って説得すると、巴御前は「最後の奉公でございます。」と言い残し、怪力と名高い敵将・御田八郎師重を馬から引き落として首を切った。

 

 

その後、巴御前は鎧・甲を脱ぎ捨てて泣く泣く落ち延びると、出家して尼となり91歳まで生きたとされている。

 

3巴御前
  
巴御前
  

琵琶湖湖畔の粟津浜(滋賀県大津市)に追い詰められた義仲は今井兼平と二人だけとなり、義仲は雑兵に討ち取られては猛将の恥と自害できる場所を求め、今井兼平は義仲の名誉を守るために押し寄せる鎌倉軍に単騎立ちはだかった。

 

 

しかし、義仲の馬が田んぼに足をとられて身動きがとれなくなると、義仲に矢が命中する。

 

1184年、挙兵から4年、征東大将軍にまでなった木曾義仲が没した。

 

それを確認した今井兼平は、刀を口にくわえると馬から落ち、自害して義仲のあとを追う。

 

粟津の戦い
 

義仲のもう一人の幼馴染み樋口兼光は、これから間もなく京都で処刑された。

 

 

義仲が戦死したとき嫡子・源義高は、源頼朝の娘・大姫の婿として鎌倉にいたが、逃亡を図って討たれたため義仲の血は絶えたとされるが、戦国大名の木曾氏は義仲の子孫を自称している。

 

 

 

義仲は、時代を制して最高権力者となった源頼朝と対立したため「逆賊」として評価され続けたが、平氏全盛の世に反旗をひるがえして新しい時代を拓いた一人であり、北陸方面を制圧して京都から平氏を追い出すなど「源氏の世」の功労者であることは間違いない。

 

 


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斎藤 道三 (岐阜)

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「美濃のマムシ」の異名を持ち、下克上によって戦国大名に成り上がったとされる斎藤道三の人物像は「美濃国諸旧記」などにより形成されていったが、
1960年代に始まった「岐阜県史」の整理の過程で発見された「六角承禎書写」によって、その人物像は転換する。

 

 

これにより、それまで道三一代のものと見られていた「国盗り物語」は、松波庄五郎(まつなみしょうごろう 別名・長井新左衛門尉)と道三の二代にわたるもので、これまで道三の生涯とされていた前半部分は、道三の父・松波庄五郎の事績であった可能性が非常に高くなった。

 

 

松浪家は先祖代々北面武士を務めていたが、松波庄五郎は事情にあって山城国西岡(現在の京都府乙訓郡)に住んでおり、11歳の春に京都妙覚寺で出家の儀式を受けて法蓮房という名の僧侶となる。

 

京都妙覚寺

その後、学友の日護房が美濃国厚見郡今泉の常在寺の住職となったのをキッカケに松波庄五郎は俗人に戻って、油問屋の奈良屋又兵衛の娘を娶った。

 

 

松波庄五郎は「油を注ぐときに漏斗を使わず、一文銭の穴に通してみせます。油がこぼれたらお代は頂きません」といったパフォーマンスが評判をよび、油売りの行商として成功する。

 

 

ところがある日、油を買った土岐家の矢野という武士から「あなたの油売りの技は素晴らしいが、所詮商人の技だろう。この力を武芸に注げば立派な武士になれるだろうが、惜しいことだ。」と言われたのをキッカケに商売をやめ、槍と鉄砲の稽古をして武芸の達人になったという。

 

 

その後、武士になりたいと思った松波庄五郎は学友だった日護房の縁故を頼って美濃守護土岐氏小守護代(守護の下に置かれた役職)の長井長弘の家臣となることに成功する。

 

 

松波庄五郎はその武芸と才覚で次第に頭角を現わし、土岐守護・土岐政房の次男である土岐頼芸の信頼を得るに至った。

 

そして、頼芸が兄・頼武との家督相続に敗れると、松波庄五郎は密かに策を講じて頼武を越前へ追いやり、頼芸が土岐守護に就くことに大きく貢献する。

 

 

頼芸の信頼をますます得た松波庄五郎は、同じく頼芸の信任を得ていた長井長弘を除去するため殺害した。

 

斎藤道三2

ここまでは近年の研究では道三の父・松波庄五郎である可能性が高いとされ、公卿三条西実隆の日記では1533年頃に松波庄五郎が死去したとされているので、この頃に道三は父から家督を継ぎ、ここから先が道三の事績である可能性が高い。

 

 

 

1535年、道三は頼芸とともに頼武の嫡男・土岐頼純と激突し、これに朝倉氏と六角氏が加担したことにより、戦火は美濃全土へと広がる。

 

 

 

1538年、美濃守護代の斎藤利良が病死すると、道三はその家名を継いで斎藤姓を名乗り、1539年に居城である稲葉山城(後の岐阜城)の大改築を行なった。

 

稲葉山城
 

1541年、道三による土岐頼満(頼芸の弟)の毒殺を機に、頼芸と道三との対立抗争が始まり、1542年、道三は頼芸の大桑城(岐阜県山県市)を攻め、父の代から懇意であった頼芸とその子・頼次を尾張へ追放し、事実上の美濃国主に登りつめる。

 

 

こうした隙あらば寝首をかく道三のスタイルは好感度は低く「主君や婿を殺すような荒業は身の破滅を招く。昔で言えば尾張の長田忠致、今なら美濃の斎藤山城守利政であろう。」という落首(主に世相を風刺した詩を記した立て札)が作成さるなどした。

 

 

尾張に追放された頼芸は織田信秀(織田信長の父)の後援を得ると、同じく道三に追放され朝倉孝景の庇護を受けていた頼純と連携し、美濃での土岐氏復活を掲げ、朝倉氏・織田氏の援助を得ると美濃へ侵攻した。

 

 

頼芸・頼純の土岐氏による美濃侵攻によって、頼芸は揖斐北方城(岐阜県揖斐郡揖斐川町北方)に入り、頼純は革手城(岐阜県岐阜市正法寺町)に復帰する。

 

揖斐北方城
 

1547年、織田信秀が大規模な稲葉山城攻めを仕掛けた「加納口の戦い」では、頼純・朝倉孝景・織田信秀あわせて25千の軍勢が道三の戦術の前に5000人の戦死者を出す大損害を受け、織田軍は壊滅寸前となり、織田信秀合は67人を連れただけで逃げ帰った。

 
加納口の戦い
 

さらにこの年、土岐頼純が病死。

 

 

道三は織田信秀と和睦すると、1548年、娘の帰蝶(濃姫)を織田信秀の嫡子・織田信長に嫁がせた。

 

 

この和睦を好機に道三は、これまで織田家の後援を受けて道三に反逆していた相羽城主・長屋景興や揖斐城主・揖斐光親らを滅ぼし、1552年、さらに揖斐北方城に留まっていた土岐頼芸を再び尾張へ追放し、美濃を完全に平定する。

 

 

道三は娘・帰蝶を織田信長に嫁がせた後、正徳寺(現在の愛知県一宮市冨田)で会見した。

 

その際、織田信長が多数の鉄砲を護衛に装備させ、さらに正装で訪れたことに大変驚き、織田信長が尾張のバカ息子という評判とは裏腹の才覚に道三は気付き、家臣の猪子兵助に対して「我が子たちは織田信長の家臣になるだろう。」と言う。

 

聖徳寺
 

1554年、道三は家督を嫡男の斎藤義龍へ譲り、常在寺で剃髪して出家すると「道三」と号し、鷺山城(岐阜県岐阜市)に隠居した。

 

斎藤道三1

しかし、道三は義龍よりもその弟である孫四郎や喜平次らを偏愛し、ついに義龍への家督相続の取り消しを考え始め、道三と義龍の不仲が深刻化すると、1555年、義龍は弟達を殺害し、道三に対して挙兵する。

 

 

1556年、道三と義龍の親子対決となった「長良川の戦い」は、義龍軍17500に対して、道三は美濃国盗りの経緯から旧土岐家家臣団などの反感を買っていたため2,500しか集まらなかった。

 
斎藤義龍
  
斎藤義龍
 

戦いは、義龍軍の長屋甚右衛門が一騎討ちを挑むと、道三軍から柴田角内がそれに応じ、両者の一騎討ちに柴田角内が勝利し、勝負が決すると両軍とも全軍突撃となる。

 

 

道三軍は序盤こそ戦いを優勢に進めるも、圧倒的な兵力差をくつがえすことは出来ず、ついに道三の目の前まで義龍軍が押し寄せ、道三は戦死した。

 

 

道三の娘婿にあたる織田信長は、道三への援軍を派遣していたが、この合戦に間に合わず、道三の救出はかなわずに終わる。

 

長良川の戦い
 

道三は戦死する直前に、織田信長に対して美濃を譲り渡すという遺言書を渡していた。

 

また、道三は「長良川の戦い」における義龍の采配の見事さを目にして、これまで義龍を「無能」と評したことを後悔したといわれている。

 

 

道三の首は、義龍側についた旧臣の手で手厚く葬られた。

 

 


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北条 早雲 (静岡)

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長らく早雲の出自は不明で、講談などの影響で伊勢の素浪人として描かれることが多かったが、近年の研究で備中国荏原荘
(現在の岡山県井原市)の領主・伊勢盛定の子というものが定説化している。

 

 

伊勢氏は武家の名門である平氏の流れを汲み、代々、武家の礼儀作法を司った由緒ある家柄で、京都の伊勢氏本家では歴代足利将軍の嫡男を預かって礼儀作法を教えるならわしがあり、伊勢氏は室町幕府に影響力のある家であった。

 

 

備中伊勢氏は分家とはいえ、早雲も伊勢一族として高い教養を身につけていたことが考えられる。

 

 

30代の頃の早雲は、室町幕府8代将軍・足利義政の弟・足利義視(あしかがよしみ)に仕えていた。

 

足利義視
   
足利義視
 

1467年、畠山家の家督争いなどに端を発した「応仁の乱」は、細川氏と山名氏の戦いに発展すると全国から守護(幕府が治安維持などのために設置した地方官)が兵を率いて東軍と西軍に分かれ、主要な戦場となった京都は市街戦が繰り広げられ灰燼と化し、民衆に多大な犠牲を強いるものとなる。

 

 

民衆に多くの犠牲を生んだ最大の要因は、銭で雇われ敵軍への放火や撹乱を主な任務とした「足軽」の存在が大きかった。

足軽は戦場下においてしばしばコントロール不能の暴徒と化し、戦には直接関係のない寺社や民家に押し入って略奪、放火、人さらいも珍しくなく、さらに天災や飢饉も民衆を苦しめ、都の辻々のいたるところに難民があふれる。

 

 

 

早雲の主君・足利義視は東軍の総大将を務め、餓死者があふれる京の都で民衆の苦しみを知りながらも兄である将軍・足利義政の機嫌を取るため戦に明け暮れた。

 

しかし、その足利義視は兄・足利義政に謀反の疑いをかけられると東軍から西軍に寝返って戦い続けることになる。

 

 

30代後半の頃、早雲は5年あまり仕えた足利義視のもとを去った。

 

「応仁の乱」を身近に体験したことは、後々の早雲の思想に大きな影響を与えることになる。

 

応仁の乱
 

その後、早雲は一時的に妹の嫁ぎ先であった駿河に行くが、再び京都に戻ると40代で僧となって修行三昧の日々を送った。

 

 

しかし、50歳を過ぎた頃、早雲は修行を止めて「申次衆」という将軍へ諸国からの陳情を取り次ぐ役職で幕府の仕事に復帰する。

 

 

俗世に見切りをつけて仏門に入った早雲が、なにを思って再び幕府の仕事をし出したのかは憶測の域を出ないが、申次衆は各地の守護と接するため地方の情報が入ってくるため、この後の駿河国での出来事はここで得た情報が大きく影響したことは間違いない。


駿河国
 

1487年、申次衆を辞した早雲は駿河(現在の静岡県北東部・中部)へと向う。

 

代々、駿河国を治める室町幕府の名門・今川家は、早雲がつかんだ情報では深刻なお家騒動にあり、その今川家の代理として駿河国を支配していた小鹿範満(おしかのりみつ)には全く人望がなかった。

 

 

早雲はわずか半年で小鹿範満に不満を持つ駿河の領主達をまとめると、電光石火の奇襲で館を襲撃し、まったくの不意をつかれた小鹿範満は成す術なく殺害される。

 

 

事前に敵の情報を集めて周到に準備を整え、一瞬の勝機を活かした奇襲で相手を打ち破る戦い方は、この先も早雲の常套手段となっていく。

 

 

室町幕府の名門・今川家の代理として駿河国を支配していた小鹿範満を殺害することは、幕府勢力に挑戦状を叩きつける行為であり、この出来事によって早雲は初めて歴史の表舞台に姿を現す。

 

人生50年といわれたこの時代であるが、この時の早雲はすでに56歳となっていた。

 

北条早雲3
 

駿河国の東の端にある興国寺城(静岡県沼津市)を手に入れた早雲は、関東における将軍の代理人として駿河の隣国・伊豆に居を構える足利政知に睨みを利かせる。

 

 

この時代の城はその多くが館のような造りにとどまっていたが、興国寺城は100メートルを超える空堀や土塁を備え、さらに東海道から興国寺城までは馬が足をとられて進軍もままならない広大な沼地が広がる天然の要害であり、その東海道の様子は城からよく見えた。

 

興国寺城
 

1493年、2年前に足利政知が病死して一族に深刻な跡目争いが起きていることをつかんだ早雲は、わずかな手勢と共に興国寺城を出撃すると伊豆の足利館に夜襲をかけ、女・子どもを含めた1000人以上を皆殺しにし、その首を城の塀にぶら下げる。

 

 

庶民の暮らしに背を向けてお家騒動を繰り返し、幕府の権威を振りかざすばかりの足利一族に、早雲はこのような厳しい態度でのぞむ一方で、自らの軍を厳しく律して民衆への略奪行為は一切禁じていた。

 

さらにこの頃、伊豆では1000人以上の死者が出る疫病が大流行していたが、早雲は率いていた兵に村人達の看病をさせるなどしている。

 

 

60歳となっていた早雲は「生かすべき者を生かし、殺すべき者を殺す。それが政治というものである。」という自らの言葉そのままの戦いで伊豆国を手に入れた。

 

北条早雲1

一国の主となった早雲は、伊豆を足がかりに箱根を越えて、東海道と相模湾の交通の要衝である小田原の獲得を目指す。

 

 

早雲は、自分が国中の盲人を捕えて海に沈めるという噂を流し、これを聞いて慌てて他国へと逃げる盲人達の中に多くのスパイを紛らせ、小田原城の情報を集め、その結果、小田原城は物理的な守りは堅いが城主・大森藤頼は若く隙がある人物であることに目をつける。

 

 

 

早雲は「敵がもし攻めてきたら、私は他ならぬあなたに後詰を頼もうと思っている。だから、もし、あなたが出陣する時は、後詰を私に務めさせてくれないだろうか。」という甘い言葉を連ねた書状を大森藤頼に送り、さらに珍品を繰り返し贈って油断を誘った。

 

 

秋の鹿狩りの季節、早雲は「鹿狩りをしていたら獲物が小田原の方に逃げてしまった。大変、申し訳ないが、伊豆側に鹿を追い返すために、小田原城の裏側に勢子(狩猟の際に野生動物を射手のいる方向に追い込んだりする役割の人)を入れさせて頂けないだろうか。」という書状を大森藤頼に送る。

 

 

早雲を信用し切っていた大森藤頼がなんの疑いもなく承諾すると、早雲はすぐさま勢子に扮した数百人の精鋭部隊を小田原城の裏手に差し向けた。

 

 

夜、別の一隊が小田原城下に火をかけると、それを合図に城の裏手に侵入していた精鋭部隊が城に乱入し、不意の襲撃を受けた小田原城内は「敵は何万騎あらんか」と大混乱に陥り、早雲は小田原城を難なく攻め落とす。

 

小田原城
 

小田原城は後に小田原北条氏の本城となるが、早雲自身は終生、伊豆韮山城を居城とした。

 

伊豆韮山城
 

小田原城を奪取して相模国の西半分を勢力下に治めた早雲を、山内上杉家と扇谷上杉家が手を結んで(もともとは敵対していた)攻撃すると、早雲は権現山城(横浜市神奈川区)を落とされ、さらに平安時代から続いた豪族・相模三浦氏の当主・三浦義同(みうらよしあつ)に住吉要害(神奈川県平塚市山下)を攻略され、小田原城まで迫られる。

 

手痛い敗北を喫した早雲はこれを和睦で辛うじて切り抜けた。

 

 

 

 

1506年、早雲は相模で検地(田畑の収穫量を調査)を初めて実施し、上杉氏の圧迫に耐えながら自らの領国統治に力を注ぐ。

 

 

早雲は検地によって税収の安定化を図って財政の基礎を作ると、商工業の発展のために城下町を整備して商人達が自由に商いを出来るように便宜し、無理な負担を領民に強いることなく現金収入を整えると、民衆が最も望む年貢の引き下げに着手した。

 

 

従来、五公五民(収穫の5割が年貢で残り5割が農民の取り分)だった年貢を四公六民に引き下げ、さらに年貢を多く取り過ぎた場合は、農民が早雲に直接訴えることを認める。

 

 

こうした早雲の善政は「我らが国も新九郎殿(早雲のこと)の国にならばや」と他国から羨まれるほどとなった。

 

 

旧勢力打倒のためには残酷とも思える戦いをする早雲だが、領民からは父のように慕われる存在で、早雲が敗れて古い政治に逆戻りになることを危惧する民衆の中から進んで戦争への協力を申し出る者も少なくなく、早雲はこうした民衆あがりの兵を足軽に組み入れて大きな戦力としていく。

 

 

戦場ではわずかな食事を兵士と分け合い、一樽の酒があればそれを薄めて皆で飲んだという逸話のある早雲は、足軽や雑兵の心をつかむ人間的な魅力があった。


北条早雲2
 

地盤を固めた早雲は、1512年、扇谷上杉家に属していた三浦氏の岡崎城(神奈川県平塚市岡崎)を攻略し、三浦義同を敗走させ、さらに早雲が住吉城(神奈川県逗子市小坪)を落とすと、三浦義同は息子・三浦義意の守る三崎城(神奈川県三浦市)に逃げ込んだ。

 

 

早雲が鎌倉に入って相模国の支配権をほぼ掌握すると、上杉朝良(扇谷上杉家)の甥・上杉朝興(うえすぎともおき)が三浦氏の救援に駆けつけるが、早雲はこれを撃破する。

 

 

三浦義同は、鎌倉に玉縄城を築いた早雲をしばしば攻撃し、扇谷上杉家も救援の兵を送るが、早雲はそれらをことごとく撃退した。


玉縄城
 

1516年、早雲は玉縄城を攻撃する上杉朝興を打ち破ると、三浦父子(義同・義意)の籠る三崎城に大軍で攻め込み、激戦の末に三浦氏を滅ぼす。

 

 

三浦半島南西部の油壺湾の名前の由来は、この時の戦いで、三浦父子をはじめとする将兵が討死すると残った者達が油壺湾へ投身し、湾一面が血汐で染まり、まるで油を流したような状態になったためである。

 

油壺
 

85歳で相模国を完全支配した早雲は、その2年後、室町幕府に対する独立宣言を発した。

 

 

関東の地を室町幕府の支配から独立させた早雲は、領国支配の強化を積極的に進めた最初期の大名であり、この早雲の出現によって世は実力がものをいう戦国時代に突入したことが、早雲が戦国大名の先駆けといわれる由縁である。

 

 

 

早雲は伊豆・相模の二カ国の大名となっても幕府からの位を受けずに無位無官を通し、1518年に家督を嫡男・北条氏綱に譲ると、翌1519年に死去した。

 

 

 

早雲の後を継いだ北条氏綱の代から北条氏を称し(関東を支配するうえで馴染みある鎌倉北条氏にあやかった)、領国は武蔵国まで拡大し、以後、勢力を伸ばし、5(早雲・氏綱・氏康・氏政・氏直)に渡って関東に覇を唱えた。

 

 


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織田 信長 (愛知)

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1534
年、現在の愛知県の一部である尾張国を治める小さな大名であった織田信秀の三男として誕生する。

 

信長は大名の後継ぎとは思えない奇抜な格好をし、人々の理解を越えた常識では考えられない振る舞いをするので「大うつけ(あほう、バカ息子)」と呼ばれていた。

 

1551年、信長は18歳で織田家の家督を継ぎ尾張国の領主となる。

 
清州城

この時、信長にとって最大の脅威は、隣国駿河を拠点とし、加えて遠江・三河の三国を持ち70万石を治める大大名・今川義元であった。

 

文武両道に優れる今川義元は東海一の弓取りと称えられ、弱体化した室町幕府を助け、天下に号令できる人材である。



その今川義元は尾張への侵攻を目論んでおり、織田軍の10倍ともいわれていた今川軍を怖れ、織田側の武将達は次々と今川側に寝返っていき、織田家の国境を守る二つの城は労せず今川家の手に落ちた。

 
今川義元
  
今川義元
 

こうしてそれまで味方だった武将が今川側についた結果、織田側の内情は敵に知られることとなるため、いざ戦争になった時に極めて不利となる。

 

 

そこで信長は寝返った武将達がこれまでに書いた手紙や書状を出来る限りかき集め、その筆跡を真似て、今川側の内情を信長に知らせるかのような内容の偽の手紙を作成すると、それが今川側の手に渡るようにした。

 

つまり、織田側を裏切った武将達が実は信長と通じていると、今川義元が勘違いすることを狙ったのである。

 

この信長の作戦は見事に当たり、今川義元は織田側から寝返ってきた武将達を疑って切腹させてしまう。

 

 

1560年、今川義元は一気に織田家を攻め滅ぼそうと25000の兵を率いて駿河を発つが、一方で迎え討つ織田軍の兵力は4000程度であった。

 

 

今川軍がこの戦いの前線基地となる沓掛城(くつかけじょう)に入ると、今川義元は主だった家臣を集めて、夜のうちに織田軍の砦に近い大高城に移動して翌朝すぐに織田軍の砦を襲うことを決める。

 

しかし、この予定は織田側の密偵によって全て信長に筒抜けとなっていた。

 
沓掛城
 

一方、同じように織田軍も作戦会議を開いていたが、なかなか意見はまとまらず、信長は「もう夜もふけた。みな帰れ。」と結論が出ないまま会議を終了させる。

 

正面衝突では勝ち目のないこの戦いで、信長は今川義元の首ただ一つに狙いを絞ることを、この時すでに決めていたが、今川側に作戦が漏れるのを警戒していた。

 

 

 

今川軍は予定通り大高城に移動して早朝に織田軍の砦への攻撃を開始、織田軍の砦に配備された兵は今川軍の大兵力にたちまち呑み込まれていく。

 

順調かつ優勢な戦局から今川軍の意識は攻撃に偏っていき、今川義元のいる本隊が徐々に手薄になりつつあった。

 
大高城
 

今川軍が砦への攻撃を開始した知らせを聞いた信長は「敦盛(…人間50年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を受け滅せぬもののあるべきか…)」という舞を踊る。

 

 

踊り終えた信長がわずか5騎を従えて清州城をとび出すと、織田軍は自分達の動きを悟られないように、いくつかの集団に分かれて時間をおき次々に出発し、善照寺砦に集合した。