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詳しくはカテゴリー「劇団Camelotとは? (総合案内)」をご覧ください。

【『 絶世の美女シリーズ 』】

絶世の美女とは?


絶世の美女として後世に名を連ねる人物は少なくない。

そんな有史以来の人類に登場した絶世の美女の中から、どのような尺度を持って誰を選ぶか考えるのも面白いのではないかと思う。



そのうえで最も重要なことは、主観の問題を超越した存在であることである。

選ぶ以上、主観が1ミリも存在しないことはあり得ない
が、主観が100%であるならば、究極、自分の恋人や妻になってしまう可能性すらある。

それは全く人類史的ではない。
ハッキリとした美女としての知名度は最低限必要である。



その次に重要なのが歴史的な影響力があったことである。

極端な話、有名画家のモデルになった名もなき少女ってわけにはいかない。
絶世の美女というからには100年先にも名前が残っている必要がある。

さらに1000年経っても名前が残るには歴史的な影響のあった人物でないと100年後には忘れられている。



三つ目は、実際に美人であること。

絶世の美女であるからには、当然であるが、基本的に写真がない時代がほとんどである。
しかしながら、近い時代に残された絵画や彫刻はそれなりに信用が出来ると考えている。
そこいらの高校の美術部の生徒ですら人物画をソックリに描くことが出来る。

その時代の一流のアーティストが残した絵画や彫像が似ていないと考える方が無理がある。



三つ目に不随して、美人の基準は時代に左右されない。

時代に左右されると思い込まれているのが一般的であるが、そうではないと考えている。
もちろん現代ですら数年単位で起こるメイクのブームなどは常に存在しているであろうが、基本的な基準は変わっていない。

その根拠がヘレニズム文化である。
ギリシアの女神の彫像を見ると、現代の美人の基準と大きく違っているようには思えない。2000年以上前から、目が大きく、面長で、鼻が高い、そういう特徴は一緒である。

アレクサンドロス大王がギリシアの価値観を拡散して以降は、美人もグローバルスタンダードとなっている。日本ですら飛鳥文化(1400年くらい前)にはその影響が見られる。




こういった基準を持って、次回以降、7人の絶世の美女をピックアップしてみたいと思う。

そして、次回、一人目は文句なしに、クレオパトラ7世である。

クレオパトラ4

クレオパトラ7世は、人類史上屈指の偉人を魅了し、そんな女性は「美女」に決まっているという現実的な見解と、クレオパトラ7世の教養の高さをクローズアップして逆に容姿はそこそこであったというフェミニズムが絡んだ見解とが、常に存在してきた。


しかし、現実的に考えて、クレオパトラ7世の生涯から、容姿がそこそこであったと推測するのは無理がある。ハッキリと人類史上NO.1でないにしても、さらには当時の世界NO.1でもなかったにしても、その生涯を考えると最低でも誰が見ても美人という感じではあったはずである。


容姿はそこそこであったの根拠が、教養が高いのでモテたでは、乱暴すぎる話である。


容姿はそこそこであった説というのは、女性の価値は容姿ではないというフェミニズム的願望が生み出しているように思える。

その価値観には賛成であるが、その価値観のために、歴史を正確に推測することを否定したいとも思わない。



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クレオパトラ7世 (世界史を大きく左右した圧倒的美貌)

クレオパトラ700x1000


後世の人類が絶世の美女クレオパトラと称するクレオパトラ
7世フィロパトルが、王女として生まれたプトレマイオス朝エジプトは、地中海世界屈指の大都市アレクサンドリアを首都におき、ヘレニズム文化の中心として栄えていた。

 

 

プトレマイオス朝は、血族結婚を繰り返し「プトレマイオス」という名の男子と「ベレニケ」「アルシノエ」「クレオパトラ」というの名の女子が、兄妹・姉弟の夫婦で王位を継ぎ、共同統治するのが慣例であったが、共同統治でさえあれば男女に限定はされず母娘での女王二人体制も存在した。

 

 

 

 

紀元前51年、クレオパトラ7世が18歳の時、父の遺言とプトレマイオス朝エジプトの慣例に従い、クレオパトラ7世と弟プトレマイオス13世が結婚して王位に就く。
 

クレオパトラ7?

この頃のプトレマイオス朝エジプトには、相いれない二つの大きな主張が存在していた。

 

一つは、国民への重税につながる強国ローマへの貢納をすべきでないというものである。

例えローマの侵略によって国家が滅ぼされる可能性があっても、ローマには決して屈しないという反ローマ主義。

 

もう一つは、重税に対する国民の不満が出ようとも、ローマの属国に成り下がろうとも侵略されないように立ち回り、プトレマイオス朝エジプトを生き残らせるという親ローマ主義。

 


 

クレオパトラ7世は父の路線を踏襲するようにローマとの関係を重要視していた。

プトレマイオス13世は側近達の介入もあり、ローマへの非服従を強く主張していた。

 

 

 
 

一方で、ローマはローマで、ローマ内の権力闘争が熱を増していっていた。

ローマとの関係を重要視するクレオパトラ7世は、単純に親ローマではなく、ローマのどの勢力どの有力者を支持するかという難しい選択をしなければならなかった。

 

 

紀元前48年、人類史的な重要度特大級のローマ内戦「ファルサスの戦い」にユリウス・カエサルが勝利する。


敗れたグナエウス・ポンペイウスはエジプトへと逃れて来るが、プトレマイオス
13世によって殺害される。


続いてポンペイウスを追ってきたカエサルがエジプト入りする。

 

 
 

その頃、クレオパトラ7世は、プトレマイオス13世によってアレクサンドリアから追放されていた。

 

 
 

クレオパトラ7世はカエサルとの接触を望むものの、プトレマイオス13世派で埋め尽くされている王宮でカエサルに会うのは不可能に思われた。
 

 クレオパトラ6


そこで、クレオパトラ
7世は自らを絨毯に包んで、カエサルのもとへ贈り物として届けさせる。

 

古代エジプトでは、贈り物や賄賂として宝物を絨毯に包んで渡す習慣があった。「プレゼントはワタシ」そんな意味にも解釈できる行為である。

クレオパトラ7世は、なんともエロチックなメッセージと共にカエサルとの接触に成功する。

 

 

クレオパトラ7世の美貌、敵の中枢に単身侵入する豪胆さ、危険な目的にさえ遊び心を持たせるセンス、カエサルはそれら全てに驚愕し一瞬でクレオパトラ7世に魅了された。

 
 

カエサル52歳、クレオパトラ21歳であった。

 

 

 
 

クレオパトラ7世が強国ローマの支配者カエサルの後ろ盾を得たことに焦ったプトレマイオス13世は、もともと反ローマ主義でもあったため、カエサルの率いてきた軍を攻撃する。

 

この「ナイル川の戦い」でプトレマイオス13世は溺死した。

 

 

カエサルは、クレオパトラ7世との恋愛関係やプトレマイオス13世が反ローマ主義であることを抜きにしても、プトレマイオス13世を良くは思っていなかった。

 

政治的主張の違いから敵同士として命の取りあいをすることになっても、ローマ人としてローマを想うポンペイウスに敬意を持っていた。

敗走中を外国人に討ち取られたポンペイウスの無念を想うと同情せずにはいられなかった。

 

 

カエサルの後ろ盾を得たクレオパトラ7世は、もう一人の弟プトレマイオス14世を共同統治者にし、女王に返り咲いた。

 

 

 
 

紀元前47年、クレオパトラ7世は、カエサルの子カエサリオンをもうける。


翌、紀元前
46年、クレオパトラ7世はカエサリオンをつれてローマを訪れ、カエサルの庇護のもと目立たぬ形でローマに滞在していたが、紀元前44年にカエサルが暗殺された。

 

 

クレオパトラ7世は、カエサリオンが嫡子のいないカエサルの後継者となることを望んでいたが、カエサルは遺言書で養子であり大甥(妹の孫)でもあるオクタヴィアヌスを後継者と定めていた。

 

 

プトレマイオス朝エジプトを守ろうとし続けたクレオパトラ7世が、ローマ帝国を創造し続けたカエサルの思考を理解するのは難しかったのかもしれない。


守ろうとする者と、生み出そうとする者には、決定的な違いが存在する。

 
 

クレオパトラ7世は、カエサリオンを連れ急遽エジプトに帰る。

 

 

 

 

さて、ローマはカエサルの死により長い混迷に突入していく。

 

紀元前42年、カエサルを暗殺した一人ブルトゥスらと、カエサルに後継者指名されたオクタヴィアヌスらが「フィリッピの戦い」で決戦する。


クレオパトラ
7世はブルトゥスらを支援するが、勝利したのはオクタヴィアヌスらであった。
 

アントニウスとの出会い

オクタヴィアヌス側のアントニウスは、敵を支援したクレオパトラ7世に出頭を命じた。

 

 

クレオパトラ7世は女神アプロディーテーのように着飾り、香を焚いてムードをつくって、アントニウスのもとへ出頭した。


そうして、瞬く間にアントニウスを魅惑し、危機を乗り越える。

 

 

 

クレオパトラ7世と人生を添い遂げる事を望んだアントニウスは、妻であったオクタヴィアヌスの姉オクタウィアと離婚し、死後はエジプトでの埋葬を希望するなど、クレオパトラへの傾倒にともなってエジプト色が強くなっていく。

 


 

一方、ローマの覇権争いはアントニウスとオクタヴィアヌスによるものとなり、その争いも最終局面に達していた。

 

このオクタヴィアヌスとアントニウスの対立構造は、次第にローマの両派閥による争いというより「ローマ対エジプト」という構図に、アントニウスの振る舞いから矮小視されていった。

 

アクティウムの海戦 


紀元前
31年、アントニウス派およびエジプトの連合軍と、オクタウィアヌス派が、ギリシャ西岸のアクティウムで激突する。

 
 

この「アクティウムの海戦」と呼ばれる天下分け目の決戦には、クレオパトラ7世も自ら主力艦に乗り込んだ。

 
 
 

アントニウス・クレオパトラ連合軍は戦力的には上回っていたものの、両軍が少し交戦したとたんに、クレオパトラの艦隊が突然に戦線を離脱する。

 

 

彼らがどんな人生を歩み、誰を愛し、誰に愛され、そんなことには1ミリの価値もないかのように、男達は獣のように猛り狂って命を奪いあっていた。

 
 

数多の政治的修羅場を乗り越え、数多の殺傷沙汰にも直面してきたクレオパトラ7世であったが、戦場の地獄絵図には怯んでしまった。

 

 
 

さらに、アントニウスも愛するクレオパトラ7世を追って撤退する。

 


指揮官を失った連合軍は、命令系統を失い、烏合の衆と化し、ただただ逃げ惑いながら殺戮されるだけとなった。

 

 

 
 

アレクサンドリアに逃げ着いたアントニウスはクレオパトラ7世死去の誤報を聞いて自殺を図る。


アントニウス自殺未遂の知らせを聞いたクレオパトラ
7世は、瀕死のアントニウスを自分のもとに連れて来させる。

 

アントニウスはクレオパトラ7世の腕の中で息を引き取った。

 

 

 

そして、追ってきたオクタヴィアヌスがアレクサンドリアに到着すると、クレオパトラ7世はアントニウスの後を追うように、コブラに胸を噛ませて自殺した。
 

クレオパトラ最期
 

オクタヴィアヌスは、クレオパトラ7世の「アントニウスと共に葬られたい」との遺言を聞き入れた。


クレオパトラ
7世は、祖国エジプトよりも守りたかった我が子カエサリオンの助命は、女王らしく求めなかった。

 

 

 

オクタヴィアヌスはエジプトを征服し、カエサルの子カエサリオンを無慈悲に殺害した。

 

圧倒的な人気を誇るカエサルの子を生かしておけば、いつ誰が「カエサルの後継者」として担ぎ上げ、再びローマに混乱をきたすか分からない。


それは当然すぎる処刑であった。

 

 

 

紀元前30年、プトレマイオス朝エジプトは滅亡し、エジプトは皇帝直轄地としてローマに編入された。




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楊貴妃 (傾国の美女という汚名を着せられた天女の舞)

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楊貴妃が、絶世の美女として後世に名を残したのは、ただ美しかったからではない。

楊貴妃の美しさが中世の中国に多大な影響を与えたからである。


 

彼女はただ愛されただけである。

 
 

けれど、それで、歴史が変わった。

 

玄宗皇帝1
  玄宗皇帝

楊貴妃に多大な愛を注ぐことになる玄宗皇帝は、
8世紀初頭の唐(現 中国)の第9代皇帝であった。

 

玄宗皇帝は、馬術、弓術などの武術に優れ、さらに書道、音楽、占星術などの学問に長け、特に音楽はさまざまな楽器を巧みに弾きこなし、作曲の才能にも恵まれていた。

 

科学技術の発展にも熱心で、水力を利用した正確な時計や、巨大な鉄製のつり橋を広大な黄河に架けるなど、人民の生活向上に尽力する。

 

極めつけは、儒学の影響から進歩的な人権主義者であり、障害者や貧しい者のための病院を建設した。

 

 

当時の中国の君主は、神官としての職務もあったため、ひどい干ばつに襲われた時に、玄宗皇帝は33晩にわたって、飲まず食わずで天からの水を願って祈ったため、数日で痩せてしまう。

心配する廷臣に「自分は痩せて良い。万民を太らせねば。」とリーダーとしての姿勢を示す。

 

 

中国の歴史上、唐の時代は最も偉大な時代とされ、この世界で唐の皇帝に肩を並べることが出来たのは、ペルシアの大王とローマ帝国の皇帝だけであった。


楊貴妃を愛した男は、そんな偉大なる皇帝である。

 

楊貴妃5


楊貴妃は本名を揚玉環
(ようぎょくかん)といい、719年、蜀(四川省)の下級官吏の楊玄淡の四女として生まれた。

 

楊貴妃は幼いころに両親を失ったため、叔父の家で育てられる。

 
 

その類い稀な美しさは、幼少から知られるところとなり、宮女として後宮に入るや、17才にして玄宗皇帝と武恵妃の子である李瑁(りぼう)の妃として迎えられた。

 
 

後宮には、3千人もの宮女がいたといわれており、並みいる美女の中で楊貴妃に目が止まった事は、楊貴妃の並外れた美しさだけでなく輝くような存在感があったことを物語っている。

 

 

 

一方、玄宗皇帝が56才の時、武恵妃が40才で病死すると、妻を失った悲しみ、50代で独り身になった寂しさ、玄宗皇帝はそういったものから元気を失ってしまった。

 

 

玄宗皇帝が最も信頼していた部下である宦官の高力士から、絶世の美女として楊貴妃の話をしたのをキッカケに、楊貴妃は玄宗皇帝に見初められる。

 

楊貴妃22才であった。


 

その美しさに魅了された玄宗皇帝は、なんと息子の李瑁から楊貴妃を召し上げることにするが、そのまま楊貴妃を自分の愛人にしたのでは、いくらなんでも世間体が良くない。

 

そこで、一時的に楊貴妃を坤道(道教の尼)にして、息子から妻を奪うという構図にワンクッション入れた。

 

 

 

745年、楊貴妃は、後宮の宮女3千人の中で最高位となる「貴妃」の位を玄宗皇帝に与えられ、公に後宮に入る。

 

 

そして、楊貴妃の一族も一同に大出世していき、これが後々、大きな弊害を生むことになる。


 

叔父の楊玄珪、兄の楊銛、従兄の楊錡に高い地位が与えられ、3人の姉も「国夫人」という高い位を授けられて毎月高額の化粧代が支給される。

 
 

極めつけが、飲んだくれで風来坊に過ぎなかった又従兄 (はとこ)の揚国忠は、その後、国家NO.2格である「宰相」にまで登りつめ、宮廷全体を牛耳るほど権力を手にするようになっていく。

 

楊貴妃2

さて、楊貴妃をそばに置くようになった玄宗皇帝はすっかり楊貴妃が生活の全てになっていた。

 
 

楊貴妃からは龍脳(香料の一種)の香りが遠くまで届き、夏の暑い日に楊貴妃が流した汗はよい香りがするほどで、その髪は艶やかで、肌はきめ細かく、体型はほどよく、あらゆる楽器を自在にこなした。

 
 

また、踊りを踊らせれば翔ぶように見事に舞い、その姿はまるで天女のごとく、歌声も天下一品であったと伝えられている。

 

 

玄宗皇帝は作曲もするほどの芸術肌の人間だったので、楊貴妃は趣味嗜好を共有できる親友のような存在でもあった。


 

美人は三日であきるという俗言が示すように、歴史上、多くの権力者は当代一の美女をその生涯で何人も見初めてきたが、玄宗皇帝にとっての楊貴妃はその例には当てはまらない唯一無二の存在であった。

 

 

玄宗皇帝は、楊貴妃が望むことなら何でも叶え、貴重な果物ライチ(茘枝)が大好きだった楊貴妃に、少しでも新鮮なライチを食べさせたいという一心から、玄宗皇帝は何千キロも離れた嶺南から長安(現 西安)まで早馬で運ばせる。

 

砂煙をあげて走り去る早馬を見た人々は、それがまさか楊貴妃個人の嗜好を満たすためだとは夢にも思わず、急ぎの公用だと思っていたほどであった。

 

 

愛する楊貴妃のためなら、どれほど公務が妨げられようとも、玄宗皇帝はおかまいなしになり、国は大きく乱れていった。

 

 

 

 

752年、ついに楊貴妃の又従兄である楊国忠が宰相に登りつめ、楊一族の私欲に満ちた横暴は目に余る激しいものになる。

 

 

そんな折に、もともと楊貴妃に取り入って出世してきた安禄山(あんろくざん)が、楊国忠の地位を脅かす存在になってきたため、楊国忠は安禄山をひどく冷遇する。

 

 

755年、身の危険を感じた安禄山がついに反乱を起こす。

 

安禄山は長年、北方異民族から首都を防衛するためにつくられた節度使という軍隊の長官で、笵陽(北京)方面の軍団を安禄山は自在に操れる立場にあり、そのため、安禄山の起こした反乱は15万人におよぶ大軍であった。                      

 

 


破竹の勢いで進軍してくる反乱軍が、首都長安(西安)になだれ込んでくるのは時間の問題であった。

 
 

恐怖におびえた玄宗皇帝は、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らを引き連れて、蜀(四川省)を目指して長安を脱出する。

 

 

しかし、同行する兵士達は次第に逃走に疲れ、疲れと共に反乱軍への恐怖が増していった。

 

そんな疲れや不安の矛先が、反乱の原因となった揚一族の横暴に向かうようになり、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、楊国忠を強く憎んでいた武将の陳玄礼(ちんげんれい)を筆頭に兵士達は、楊国忠を殺害し、その首を槍で串刺しにして晒した。

 

楊貴妃の姉達も惨たらしい殺され方をする。

 

 

 

そして、楊一族の中で、楊貴妃一人が残された。

 

陳玄礼らは玄宗皇帝に対して、楊貴妃の殺害を要求する。

 

高力士は唐再興のために必要な決断だと玄宗皇帝に必死に懇願した。

 

 

楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい。」と言い残し、首吊り死する。


 

この直後、楊貴妃の好きなライチが献上品として届いたので、玄宗皇帝はこれを見て涙が止まらなかった。
 

楊貴妃1
 

国が乱れたのは楊貴妃のせいではなかった。

ただ、賢明な楊貴妃は、国そのものといっても過言ではない皇帝の愛されながら、国のために自分がなにもしていない事、それを罪と理屈付けることの出来る女性だった。

 

 


やがて、玄宗皇帝は幽閉同然の身となり、楊貴妃の遺体にあった香袋を愛おしそうに手にしながら寂しさに耐える毎日を送った。

また、画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。

 

 

 

 

現在、西安の西60キロほどの所にある馬塊に楊貴妃の墓がある。

 

楊貴妃にあやかろうとする人々が、碑の一部を削って持ち帰るため、半分ほどになっており、また、その墓の土を化粧の時に混ぜて使えば、楊貴妃のように美しくなれるという伝説があり、土を持ち帰っていく者も多い。

 



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ヒュッレム・ハセキ・スルタン (奴隷の立場から皇后へ)

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1506
年頃、ヒュッレム・ハセキ・スルタンは、ロシア南部のウクライナ・ルテニア地方ロハティンで生まれ、父親はギリシア正教会の司教をしていた。

 

ヒュッレムの本名はアレクサンドラ・アナスタシア・リソフスカであったとされている。また、スラヴ系であったので、後にロシアの女という意味のロクセラーナという通称でも呼ばれる。

 
 

生地ルテニアの人々は、細々と農業を行ない、その生活は貧しいものだった。

 

 

1520年頃、ルテニア地方を略奪しに来たクリミア・タタール人に捕えられて、ヒュッレムは奴隷としてイスタンブールへ連れていかれる。

 

slaveヒュッレム・ハセキ・スルタン1

奴隷市場では、様々な地域から連れてこられた女が裸にされセリにかけられた。

その中で、美しいヒュッレムはひと際目立ち高値での取引きがされる。

 
 

買い取ったのはオスマン帝国の大宰相パルガル・イブラヒム・パシャであった。買い取ったのが、ただの金持ちではなく、帝国NO.2格の男であったことが、後にヒュッレムを歴史の表舞台に立たせることになる。

 

 

ヒュッレムはイブラヒムの屋敷で暮らすようになり、宮廷のハレム(日本の大奥のようなもの)で生きるための教育を受けた。

 
 

イブラヒム邸での生活は贅沢なもので、生まれてから貧しい生活しか知らなかったヒュッレムは、その快適な生活を知ったことで上昇志向が強く芽生えていく。

 
 

ヒュッレムは美しい声をしていて、その声は自然と相手を明るく気持ちにする力があったことから「陽気」を意味する「ヒュッレム」という名が、この時期に与えられた。

 

 

ハレムの女たちは奴隷であることが多かった。

 

奴隷と言っても、女たちが奴隷になったいきさつは様々で、中にはヨーロッパの諸侯の一族やベネチア共和国の貴族の家系の者など高貴といえる身分の女もいる。

 
 

皆、海賊船に襲われたり、戦争による侵略を受け捕虜となり、奴隷市場に売られたため、ヒュッレムも奴隷であることは特別でなかった。

しかし、大宰相イブラヒム自身が見つけて買ってきた女ということは決定的に特別であった。

 
 

そのため、ヒュッレムはいきなり個室を与えられる。
 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン1

ハレムに入ったばかりの娘は、アジャミ
(新参者)と呼ばれ、10人ぐらいの相部屋に入れられて下積みをつみ、アジャミからジェリエと呼ばれるようになると、皇帝の選別対象になった。

 

そして、皇帝の目に止まり、一夜を共にすると、そこで個室を与えられ、オダリスク(部屋を持つ者)と呼ばれる。ハレムには、ここまで到達せずに終わる女も少なくない。

 

ハレムでの序列は完全に皇帝の寵愛次第で、さらに一夜ではなく二度三度と相手になって皇帝の寵愛を受けるとギョデス(お気に入り)やイクバル(幸運な者)と呼ばれ、ハレムでの序列はかなりの上位となる。

 
 

そこから皇帝の子供を産んだ女はカドゥン・エフェンディと呼ばれて尊ばれ、広い部屋と専用の召使が与えられて優遇された。

 

そして、皇帝の長男を産んだ女はバシュ・カドゥン・エフェンディ(1夫人)と呼ばれ、皇帝の生母である皇太后に次ぐ地位を得る。

 

 

ヒュッレムがハレムに入った時、この第1夫人の地位にあったのは、第1皇子ムスタファを産んだマヒデヴラン・スルタンであった。

 

 

ヒュッレムはすぐに皇帝スレイマン1世の寵愛を受け、男児も出産し、ライバル達の嫉妬を一身に浴びながら瞬く間に第2夫人となった。
 

スレイマン1世
  スレイマン1

この時点で、ヒュッレムには自分の息子をスレイマン
1世の後継者にするという確かな野心があったと考えられる。

 

 

しかし、その障害である第1皇子ムスタファは後継者として盤石の状態にあった。

  

大宰相イブラヒムはムスタファへの支持を固めており、ムスタファの母マヒデヴランはスレイマン1世の母である皇太后ハフサ・ハトゥンの寵愛を受けていた。

 

 

ところが、1534年に、皇太后ハフサが死去すると大きく展開が動く。

 

後ろ盾を失った第1夫人マヒデヴランがスレイマン1世の機嫌を損ねて宮殿を追われる。

 

さらにスレイマン1世の信頼厚く、そのあまりの有能さがゆえに、大宰相にしてもマレな権限と影響力を誇ったイブラヒムが、過信と増長から自身をスルタン(皇帝・皇后を意味する)と表現したため、スレイマン1世はそれを見過ごすわけにもいかず、イブラヒムは処刑された。

 

 

真相は謎のままであるが、このヒュッレムにとってラッキー過ぎる一連の流れは、裏でヒュッレムが画策した結果だという説が根強く存在する。

 

それを物語るように、ヴェネツィア共和国の大使ベルナルドウ・ナヴァゲラは、ヒュッレムを「性質のよくない、いわばずる賢い女性である。」と述べている。

 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン8

ヒュッレムはスレイマン
1世との間に5人の息子を産むが、実は、オスマン帝国の慣習では一人の女性が皇帝との間に男子を2人以上産むことは許されず、ひとたび男子を産んだ女性は皇帝と夜を共にしなかった。

 

しかし、スレイマン1世はヒュッレムが男子を出産した後もそばに置き続け、果ては正式な妻とする。


オスマン帝国では基本的に皇帝が妻を迎えることはなく、これもまた慣習にならわない異例の寵愛であった。

 

 

スレイマン1世のこのヒュッレムへの寵愛の大きさに対して、イスタンブールの市民は、スレイマン1世は魔法にかかったと揶揄した。

 

 

 

ヒュッレムの望み通り、かつての第1夫人マヒデヴランが宮廷を去ったことにより、一時ヒュッレムの長男メフメトがスレイマン1世の後継者候補の最有力となるが、メフメトが天然痘で病死すると、第1皇子であるムスタファが再び有力候補に浮上する。

 

 

ところが、1553年、ムスタファはイラン遠征中に突然に処刑される。


 

ムスタファは非常に優秀で、オスマン帝国歩兵団(イェニチェリ)から異常な人気を誇っていたため、ムスタファの処刑に不満を持った兵士達が反乱を起こす寸前の事態となった。

 

このムスタファ処刑は、理由という理由が存在しない唐突なものだったので、宮廷内を含む世論は、最も得をするヒュッレムの暗躍を疑う。

 

 
 

スレイマン1世は、世論のバランスを取るために、ヒュッレムの娘婿で大宰相のリュステム・パシャを辞職させて、さらに処刑しようとする。

 

ヒュッレムは娘婿リュステムの助命に奔走し、その甲斐あってリュステムは大宰相の地位を取り戻した。

 

以降、リュステムはヒュッレムの庇護のもとで蓄財に精を出し、財力をもって派閥を形成し、政治力を維持する。

 
 

この事をキッカケに、こういった金と派閥を背景に、皇太后や第1夫人、宦官やハレムの住人達が、権謀術数を巡らせ、オスマン帝国の政治を支配するカドゥンラール・スルタナトゥ(女人天下)と呼ばれる習慣を出来た。

 

 

さらに、ヒュッレムからポーランド国王ジグムント2世へ出した手紙が現存しており、ヒュッレムの存命中、オスマン帝国とポーランドとの間には同盟関係が保たれるなど、ヒュッレムは直接的に外交問題や国政に関与し、皇帝の性を満たして子を産むことだけが役割だったハレムの女の立場や可能性を大きく変えた。

 

 
 

奴隷の立場から皇后にまで登りつめ、以降のオスマン帝国の慣例や政治体制に多大な影響を与えたヒュッレムは、1558418日、我が子の戴冠を確認する前に死去した。
 

ヒュッレム・ハセキ・スルタン2

ヒュッレムの人生は私利私欲が目立つが、メッカからエルサレムまでの公共建造物の多くに携わり、モスクと
2つの学校や噴水と女性用の病院を建築したり、エルサレムに貧窮者の公共給食施設を設けるなどしている。

 

 


 

ヒュッレムの死後、その息子セリム2世とバヤズィトが後継者を争い、怠け者で評判だったセリム2世が勝利し、バヤズィトは処刑された。

 
 

スレイマン1世の死後、皇帝に即位したセリム2世は、国家運営を官僚に任せきりにし、バーブ・ウッサーデ(至福の家)と呼ばれる館で酒と女に浸る幸せな日々を過ごした。

 
 

これを境に、セリム2世以降、オスマン帝国の国家運営は官僚による支配が常態化し、皇帝はほとんどお飾りの存在となっていった。

 



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ベアトリーチェ・チェンチ (父から強姦されたのに死刑となった美少女)

ベアトリーチェ・チェンチ700x1000


1577
26日、ベアトリーチェ・チェンチは名門貴族家に名を連ねていたチェンチ家のフランチェスコ・チェンチの娘として生まれた。

 

家族は他に、兄ジャコモ、父親の2番目の妻ルクレツィアとその息子でまだ幼い弟ベルナルドがいる。

 

 

チェンチ家はローマのレゴラ区のユダヤ人居住区(ゲットー)の端にある中世の要塞跡に建てられたチェンチ宮で暮らしていた。

 

 

ベアトリーチェは7歳の時に、生母エルシリアが亡くなると、修道院の寄宿学校に入り、8年間、穏やかな生活を過ごす。

 


 

父フランチェスコは暴力的気性の持ち主で、金と権力を盾に面と向かって逆らいずらい人々に暴力を振るい、裁判沙汰になることも度々あり、貴族でなければ場合によっては死刑になっていた可能性もあるような人物で、その悪名はローマ市中に知れ渡っていた。

ベアトリーチェ・チェンチ1


ベアトリーチェが15歳前後で家へ戻ってくると、すぐにフランチェスコに処女を奪われる。

 

その頃、フランチェスコの気性の荒さは一層激しくなっていて、それ以来、毎日のようにフランチェスコはベアトリーチェを求め、ベアトリーチェが抵抗すると、全身血だらけになるまで鞭で打たれた。

 

 

フランチェスコの暴力は、妻ルクレツィアや息子達にも向けられていたが、権力欲と支配欲が性衝動とリンクしているがゆえに、ベアトリーチェに対する暴力は特にひどいものとなる。

 
 

フランチェスコは、美少女に成長した娘ベアトリーチェの心身を痛めつけ、支配し、独占することに至高の喜びを感じていた。

 

 
 

ある時、フランチェスコが別の罪で投獄されるが、貴族であったことから恩赦を受け、すぐに釈放されるが、その時、ベアトリーチェは頻繁に受ける虐待を警察当局に訴えるも、なんの対応もされずに終わる。

 

 

フランチェスコは娘が自分を告発したことに気付き、ベアトリーチェと家族をローマから追い出し、所有するローマ郊外リエーティ近郊の村にある「ペトレッラ・デル・サルト要塞」という城に住まわせた。

 

 

フランチェスコの快楽を満たしてきた暴力は、告訴された逆恨みから憎悪も混じるようになり、身の危険を感じたベアトリーチェ達は、もはや父親を殺すしかないと決心し、その計画を練る。

 

ベアトリーチェ7

1598
年、フランチェスコが城に滞在中、ベアトリーチェ達は2人の使用人の助けを借り、父親に毒を盛ったが、フランチェスコはすぐには死なずに反撃してきた。


 

怒りと恐怖が渦巻く現場で、ベアトリーチェ達は錯乱状態になり、フランチェスコを棍棒や金槌などで袋叩きにして撲殺すると、酔った末の事故死に見せ掛けるために父親の死体をバルコニーから突き落とす。

 


 

警察当局はバルコニーから転落して死亡した傷には不自然なため、一家が事故を主張するフランチェスコの死をすぐに疑う。

遺体の埋葬を急ぐ一家に対し、周囲も疑惑を感じ、殺害されたのではないかという噂が広がる。

 

 

フランチェスコの遺体は掘りおこして検死にかけられ、自白を強要する警察からベアトリーチェ、ルクレツィア、ジャコモ、2人の使用人が拷問にかけられるが、拷問は厳しいもので、使用人の一人はその拷問で死んでしまうほどであった。

 

 

検死と拷問の結果、状況証拠も自白も取れ、ベアトリーチェ達は逮捕され、死刑を宣告される。

 


 

殺人の動機を知ったローマ市民が裁判所の決定に抗議したため、処刑はいったん延期されるが、チェンチ家の財産没収を目論むローマ教皇クレメンス8世は、相続人を滅殺するため家族全員の死刑を取り消すことはなかった。

 

斬首2

1599
911日、ベアトリーチェ達はサンタンジェロ城橋に移送された。

 

最初に兄ジャコモは手足を木槌で4隅に打たれ、四つ裂の刑に処される。

続いて義母ルクレツィアが斬首された。

 

そして、二人の最期を見て、22歳のベアトリーチェが公衆の面前で裸同然の格好にされ、斬首される。

 

まだ幼い弟ベルナルドは、財産の相続権を没収され、家族の処刑をしっかりと見せつけられた上で、死刑は免れ刑務所に戻された。

 

 

 

画家グイード・ルーニが処刑を控えたベアトリーチェを描いた「ベアトリーチェの肖像画」で、頭にターバンを巻いているのは、斬首の際に、髪の毛で斧が滑らないようにである。

 

  

ベアトリーチェの遺体はサン・ピエトロ・イン・モントリオ教会に埋葬された。

 

 

その後、毎年、彼女が処刑された日の前夜、ベアトリーチェの幽霊が斬られた自分の首を持ってサンタンジェロ城橋に戻ってくるという噂がたった。

 

それはローマ市民のベアトリーチェを救えなかった事への懺悔という、ある種の人間の正義感がゆえに生まれたものかもしれない。

 



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マリア・テレジア (ヨーロッパ最大勢力を指揮した若き母)

マリア・テレジア

 
 

1717年、オーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世の長女として誕生する。

 

神聖ローマ帝国は、ドイツ地方の都市国家の集合体をさし、それぞれの都市国家は独立した力を持っており、ハプスブルク家の当主はオーストリア大公国の大公位および1273年から神聖ローマ帝国の皇帝位を継承してきた。

 

 

さて、それまでハプスブルク家は男系相続を定めていたが、カール6世の子どもで成人したのはマリア・テレジアと妹マリア・アンナだけであったことから後継者問題が深刻化することになる。

 

マリア・テレジア1
 

マリア・テレジアの結婚相手としてプロイセン王太子フリードリヒ2世との縁組も上がるが、フリードリヒ2世がカトリックに改宗する意思がないことから縁談はまとまらなかった。


そこで、神聖ローマ皇帝レオポルト
1世に仕え、軍司令官として活躍したシャルル5世を父に持つロートリンゲン公( フランスのロレーヌ地方に存在したロートリンゲン公国の君主)レオポルトの息子との縁組が決定される。

 

 

レオポルトの3人の息子は、1723年からハプスブルク家のウィーン宮廷へ留学し、マリア・テレジアは6歳の時に15歳の次男フランツ1世と出会い、成長にともない確かな恋心を抱く。

 

結婚の4日前にマリア・テレジアがフランツ1世にしたためた手紙が現在も残っていて、未来の夫への情熱的な想いが書かれており、1736年、当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚で結ばれた。
 

フランツ1世
  
フランツ1世

 

父カール6世は、マリア・テレジアが相続権を失い、他のハプスブルク家人に相続権が移ることを恐れ、ハプスブルク家領の分割の禁止と長子であれば女子にも相続権があるとする長子相続制「プラグマーティシェ・ザンクチオン(皇帝の勅令)」を出し、領邦各国に認めさせようとする。

 

 

マリア・テレジアはオーストリア大公とまり、神聖ローマの帝位は夫フランツ1世が継承することとなった。

 

  

 

1740年にカール6世が死去すると、マリア・テレジアの家督継承に、領邦国バイエルンが異議を申し立て、ドイツ地域で勢力を増していたプロイセンがバイエルン側から介入して領土へ侵攻し「オーストリア継承戦争」が勃発する。

 

これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとプロイセンのフリードリヒ2世は生涯の宿敵となった。

 

フリードリヒ2世
   
フリードリヒ2
 

この機会にオーストリア・ハプスブルク家の弱体化をねらうブルボン家のフランス王ルイ15世は、同じくブルボン家のスペインと共にプロイセン・バイエルンなどを支援する。

一方、植民地争いでフランス・スペインと対立していたイギリスはオーストリアを支援した。

こうして「オーストリア継承戦争」はヨーロッパ各国が関わる戦争となる。

 

 

 

オーストリアの戦況は不利で、窮地に追い込まれたマリア・テレジアは、ハンガリーに救いを求めた。

 

ハンガリー貴族はこの状況を、オーストリアの支配から脱する好機と考えている可能性が高かったが、マリア・テレジアは3歳の娘マリア・アンナを連れ、捨て身の演説をする。

 

若く美しい幼子を連れた母親の訴えは、ハンガリー貴族と議会の心をつかみ、6万人の出兵その他の支援を取り付けた。

 

 

17427月、イギリスの仲介でオーストリアとプロイセンが一時的に休戦し、フランス・バイエルン連合軍がプラハから撤退する。

 

 

 

1744年、プロイセンが再び侵攻してくるが、フリードリヒ2世の野心があからさまだったため、休戦前とは逆にプロイセンに同調する国はなかったが、軍事の天才フリードリヒ2世のプロイセンにオーストリアは敗れる。

 

 

その結果、マリア・テレジアのハプスブルク家相続と夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位は承認されるが、プロイセン王国が占領していたシュレージエン( ポーランド南西部からチェコ北東部に属する地域)を割譲することになった。

 

マリア・テレジア3
 

マリア・テレジアはフリードリヒ2世への復讐を目指し、オーストリアの軍制と内政の改革に乗り出す。

 

ハプスブルク家にとってフランスは、イタリア戦争、三十年戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争などを通じて抗争を続けてきた宿敵であったが、1749年、御前会議で宰相カウニッツは同盟国をイギリスからフランスへ変更することを提案する。

 

皇帝フランツ1世や重臣達が呆気に取られる中で、マリア・テレジアはこれを支持した。

 

 

1756年、マリア・テレジアは、フランス国王ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人を通じてルイ15世を懐柔し、フリードリヒ2世を嫌悪するロマノフ朝ロシアの女帝エリザヴェータとも交渉をまとめ、「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる反プロイセン包囲網を結成し、プロイセンの孤立に成功する。

 

また、フランスとの関係をより深めるために、マリア・テレジアの生後間もない娘マリー・アントワネットとルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)の政略結婚も内定した。

 

 

 

 

プロイセン包囲網の成立を知ったフリードリヒ2世は愕然とし、1756年、包囲網を打破すべくザクセンに侵攻して先制攻撃をしかけ「七年戦争」が始まる。

 

オーストリア軍はフランス、ロシアの支援を受け、前回とは異なり優勢に戦争を進めた。

 

しかし、ロシアの女帝エリザヴェータが死去すると、その後を継いだピョートル3世がフリードリヒ2世びいきだったため、ロシアが対プロイセン戦線から手を引いたことで、戦況は大変化を遂げる。

 

プロイセンは息を吹き返し、またもやオーストリアは敗戦し、悲願であったシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなった。

 

喪服のマリア・テレジア
 
 

1765818日、夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世が死去する。

 

マリア・テレジアは以後、それまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与え、喪服だけをまとって暮らし、しばしば夫の墓所で祈りを捧げた。

 

 

マリア・テレジアは、多忙な政務をこなしながら、フランツ1世との間に男子5人、女子11人の16人の子供を産み、精力的に子ども達による婚姻政策を推し進めた。

 

そこには、自身の家督相続を巡った混乱の経験から、可能な限り子どもを残しておきたいという想いが伺える。

 

 

オーストリア系ハプスブルク家の男系最後の君主となったマリア・テレジアと、その夫の家名ロートリンゲンを合わせたハプスブルク=ロートリンゲン家は息子ヨーゼフ2世の代から名乗られるようになった。

 

 

1773年、イエズス会(フランシスコ・ザビエルらによって創設さたカトリック教会)を禁止し、それによって職を失った下位聖職者達を教員として採用し、他国に先駆けて小学校の義務教育化を確立させ、国民の知的水準が大きく上昇する。

 

 

 

17801129日、ヨーゼフ2世、四女マリア・クリスティーナ夫妻、独身の娘達に囲まれながら、2週間前の散歩の後に発した高熱がもとでマリア・テレジアは死去した。

 

 

死の直前まで、フランス王妃になった遊び好きな末娘マリー・アントワネットの身を案じ、フランス革命の発生を警告する手紙を送っていたという。



マリー・アントワネット (ブルボン家の罪を背負わされたハプスブルク家公女)

703x999マリー・アントワネット


マリー・アントワネットの容姿について、王妃の御用画家であったルブラン夫人は「顔つきは整っていなかったが、肌は輝かんばかりに透き通り、思い通りの効果を出す絵の具が私にはなかった。」と述べていた。


 

また、教育係であったド・ヴェルモン神父は「もっと整った美しさの容姿を見つけ出すことはできるが、もっとこころよい容姿を見つけ出すことはできない。」と述べた。

 

 

 

1755112日、神聖ローマ皇帝フランツ1世と、ハプスブルク家当主オーストリア大公マリア・テレジアの十一女としてウィーンで誕生する。

 

ダンスやハープやクラヴサンなどの演奏が得意で、シェーンブルン宮殿にて、マリア・テレジアへの御前演奏に招かれた6歳のモーツァルトから7歳だったアントワネットがプロポーズされたというエピソードがある。

 

マリー・アントワネット1A

当時のオーストリアは、プロイセンの脅威から長いこと敵対していたフランスとの同盟関係を深めようとし、その一環として母マリア・テレジアは、自分の娘とフランス国王ルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)との政略結婚を画策する。

 

 

1770516日、アントワネットが14歳の時、ルイ16世との結婚式がヴェルサイユ宮殿にて挙行された。

 

 

結婚すると間もなく、アントワネットは、夫の祖父ルイ15世の寵愛を受けていたデュ・バリー夫人と対立する。

 
 

もともとデュ・バリー夫人と対立していたルイ15世の娘アデライードらに焚きつけられたのがキッカケであった。

さらに娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を受けたアントワネットは、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を汚らわしく思い、不衛生なものを避けるように徹底的に無視し続ける。

 

 

宮廷内はアントワネット派とデュ・バリー夫人派に別れ、アントワネットがいつデュ・バリー夫人に話しかけるかの話題で持ちきりであった。


 

ルイ15世はこの対立に激怒し、アントワネットは仕方なしにデュ・バリー夫人に声をかけることに決めたが、アデライード王女に遮られた。


その後、ハッキリとした和解はないものの、表面的な対立が終結すると、アントワネットはアデライード王女らとは距離を置くようになる。

 

マリー・アントワネット4A
 

アントワネットは浪費家で知られ、ギャンブルにも熱狂していたため、母マリア・テレジアは度々手紙を送って戒めていたが、ほとんど効果は無かった。

 

1774年、ルイ16世の即位によりフランス王妃となった。
 

ルイ16世
  
ルイ16

王妃になったアントワネットは、朝の接見を簡素化したり、ヴェルサイユの習慣や儀式を廃止・緩和させた。

 

アントワネットは、地位によって便器の形が違ったりすることがステイタスであったりすること等が非常に下らなく感じていたが、それらは宮廷内の人々にとって無駄だと知りながらも大切にしてきた習慣であったため、それらを奪ったことで反感を買うことになる。

 

 

アントワネットは地味な夫ルイ16世を見下していたこともあり、スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンと密会を重ね、その関係が宮廷で噂された。


 

そうした中で、アントワネット派に加われなかった貴族達は、こぞってアントワネット派を非難し、宮廷を去ったアデライード王女や宮廷を追われたデュ・バリー夫人の居城にしばしば集まる。

 

こうした誹謗・中傷が、やがて、パリの民衆の憎悪をかき立てることにもつながった。

 

 

1785年、マリー・アントワネットの名を騙った詐欺師集団による「首飾り事件」が発生する。この事件は事実に反し、アントワネットの陰謀によるものだという噂になり、アントワネットを嫌う世論が強まった。

 

ヴェルサイユ行進
 

1789714日、耐えがたい生活苦からフランス民衆の王政への怒りが爆発し、フランス革命が勃発する。

 

パリ広場に集まった7000人の主婦達がヴェルサイユに向かって行進し、国王一家は拘束され、ヴェルサイユ宮殿からパリのテュイルリー宮殿に身柄を移された。


 

しかし、アントワネットは恋仲であったスウェーデン貴族フェルセンの力を借り、フランスを脱走してオーストリアにいる兄レオポルト2世に助けを求めようと計画する。

 

1791620日、計画は実行に移され、国王一家は庶民に化けてパリを脱出した。


 

フェルセンは質素な馬車でルイ16世とアントワネットが別々に行動することを勧めたが、アントワネットは家族全員が乗れる広くて豪奢なベルリン馬車に、銀食器、衣装箪笥、食料品など日用品や酒蔵一つ分のワインが積め込んだため、ただでさえ遅い豪奢なベルリン馬車はさらに遅くなり、逃亡計画を大いに狂わせる。


 

一家は、国境近くのヴァレンヌで身元が発覚し、625日にパリへ連れ戻された。

 

この逃亡未遂は大きな反感を買うことになり、国王一家はタンプル塔に幽閉される。

 

 

 

1793年、革命裁判は夫ルイ16世に死刑判決を下し、ギロチンでの斬首刑とした。

 
 

息子である王位継承者ルイ・シャルルはジャコバン派の靴屋シモンにひきとられ、温室育ちのルイ・シャルルに世間の厳しさを教えようと張り切るシモンの指導は次第にテンションが上がり、暴力と罵倒や脅迫による精神的圧力が増していき、ルイ・シャルルはすっかり臆病になり、かつての快活さは消え去ったという。
 

シャルル・ルイ
  ルイ・シャルル

 

アントワネットは提示された罪状についてほぼ無罪を主張し、裁判は予想以上に難航するが、最終的には死刑判決を受け、17931016日、コンコルド広場においてギロチン送りに処せられることとなった。

 

 

処刑の前日、アントワネットはルイ16世の妹エリザベート宛てに「無実の罪で断頭台に送られるなら恥ずべきものではない」という内容の遺書を書いた。

 

 

処刑日、アントワネットは髪を短く刈り取られ両手を後ろ手に縛られ、肥料に使う糞尿を運ぶ荷車でギロチンへと引き立てられる。

 

 

死刑執行人の足を踏んでしまった際に発した「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった。」と微笑んだのが最期の言葉となった。

 

 

ギロチンが下ろされ処刑された彼女を見た群衆は「共和国万歳!」と歓喜の絶叫をし続けた。

 


 

 

現在では、有名な「パンがなければお菓子を食べればいいじゃない」をはじめアントワネットに対する悪評は誇張した中傷やデマであることが判明している。

 

そもそも、アントワネットは飢饉の際に、宮廷の養育費を削って寄付したり、他の貴族達から寄付金を集めるなどしており、贅沢好きだが貧乏人の命を軽んじていたわけではなかった。

 

 

また、アントワネットがフランスの財政を空にしたというのも誇張で、過去の王達が愛人を多数囲って使った膨大な金と、戦争による巨額の支出で、フランスの財政は先代ルイ15世の時代に既に傾いていた。

 



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デュ・バリー夫人 (娼婦から宮廷夫人となったプリティ・ウーマン)

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本名はマリ=ジャンヌ・ベキュ、1743819日、フランスのシャンパーニュ地方でアンヌ・ベキュの私生児として生まれた。

 

母アンヌ・ベキュは弟を生んで間もなく駆け落ちし、デュ・バリー夫人は叔母に引き取られて育つ。

 

 

7歳の時、再婚した母に引き取られてパリで暮らし始めたデュ・バリー夫人は、金融家の継父からかわいがられて、教育の機会に恵まれ、15歳で修道院での教育を終える。

 

修道院を出て最初に侍女として働いた家では、素行上の問題から解雇された。

 

 

その後、男性遍歴を繰り返し娼婦同然の生活をしながら、日々をどうにか食いつなぎ、1760年にお針子として「ア・ラ・トワレット」という洋裁店で働き始める。
 

デュ・バリー夫人1
 

若くて美しいデュ・バリー夫人は、やがてデュ・バリー子爵に囲われ、貴婦人のような生活と引き換えに、子爵が連れてきた男性とベッドを共にした。

 

 

もともと娼婦同然の生活で、それも貧しさを生き抜いたデュ・バリー夫人にとって、家柄のよい貴族や学者、アカデミー・フランセーズ会員などを相手にして、それ相応の身なりをして洒落た遊びに触れることは、キャリアアップにも等しかった。

 

事実、その世界は大きく広がっていく。

 

 

 

1769年、フランス国王ルイ15世に紹介される。 
 

ルイ15世DB
  
ルイ15

 

ルイ15世は、その5年前に寵愛していた愛人ポンパドゥール夫人を亡くしていた。

デュ・バリー夫人はそのチャンスをものにし、ルイ15世はデュ・バリー夫人の虜になって愛人にすることを決める。

 

 

デュ・バリー夫人は、デュ・バリー子爵の弟と結婚して「マリ・ジャンヌ」から「デュ・バリー夫人」と名を変えると、もろもろ形式的な手続きを終えて、正式にルイ15世の公妾となって社交界にデビューした。

 

 

 

フランス宮廷に入ったデュ・バリー夫人は、その頃オーストリアからフランス王太子ルイ・オーギュスト(後のルイ16)に嫁いできたマリー・アントワネットと犬猿の仲になる。

 

 

マリー・アントワネットは娼婦や愛妾が嫌いな母マリア・テレジアの影響を強く受け、デュ・バリー夫人の出自の悪さや存在を汚らわしく思い、不衛生なものを避けるように徹底的に無視し続けた。

 

 

加えて、かねてからデュ・バリー夫人と対立関係にあったルイ15世の娘であるアデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女らが、宮廷で最も身分の高い婦人マリー・アントワネットを味方につけようと画策したことで、その対立は深くなっていった。

 

 

 

1774年、宮廷内でのデュ・バリー夫人の後ろ盾である国王ルイ15世が天然痘で倒れる。


後ろ盾が病に侵され宮廷内で裸同然となったデュ・バリー夫人は、追放同然に宮廷を追われることになった。

 

 

そのため、一時的に不遇な時間を過ごしたが、宰相ド・モールパ伯爵やモープー大法官などの人脈を使って、パリ郊外のルーヴシエンヌに起居し、落ち着いた時間を取り戻していく。

 

 

その後、ド・ブリサック元帥やシャボ伯爵、イギリス貴族のシーマー伯爵達の愛人になり、再び優雅な日々を送る。

 

デュ・バリー夫人5
 

1789年、フランス革命が勃発すると、愛人であるド・ブリサック元帥が虐殺されたため、デュ・バリー夫人はイギリスへと逃れると、フランスから亡命しようとする同胞を援助した。

 

 

 

しかし、17933月、デュ・バリー夫人は危険を冒して、革命政府に差し押さえられた自分の財産を回収しにフランスに帰国すると、革命派に捕えられてギロチン台へ送られた。

 

 

デュ・バリー夫人が回収しに来た宝石の数々は、私生児として生まれ、娼婦として生き、貴族社会で侮蔑され、それでも多くの男達が自分に夢中になった確かな証である。異国に逃れ、若さを失い、それなだけに奪われたくなかった想い出の数々だった。

 

 

 

死刑執行人のサンソンと知り合いであったデュ・バリー夫人は、泣きわめいて命乞いをする。

同情心に耐えきれなくなったサンソンは、息子に刑の執行を委ね、最終的にはデュ・バリー夫人は処刑された。

 

デュ・バリー連行
 

女流画家のルブラン夫人のフランス革命に関する回顧録では、断頭台で多くの貴族女性が命を落とすたびに、歓喜に沸いた民衆が、泣き叫びながら慈悲を乞うデュ・バリー夫人の姿には直視できず、その死は盛り上がりに欠けるものであったという。

 
 

そのためルブラン夫人は「私が確信したのは、もしこの凄まじい犠牲者達が、あれ程までに誇り高くなかったならば、あんなに敢然と死に立ち向かわなかったならば、処刑の嵐はもっとずっと早く過ぎていたであろう。」と述懐している。

 


 

潔く毅然とした名誉ある死は新たな死を招き続け、情けなく惨めでブザマな死が命の重さを教えた。

 



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