劇団Camelot

猫のキャラクター(劇団Camelot)を案内人に、世界の伝説や神話、様々な歴史などを、分かりやすく玄人向けではなく簡略化されているのに深く、表現していきたいと思います。

【『 アレクサンドロス大王 』】

知っておきたいアレクサンドロス大王に入る前に


もしも、アレクサンドロス大王が存在しなかったなら、我々の住む世界は今とは大きく異なっていた可能性がある。


なぜなら、アレクサンドロス大王がギリシア世界からアジアに持ち込んだものには、文化的な価値観や感性そして美意識といったものも含まれていたからである。



それは今でも我々の心の中にハッキリと自覚できる形で残っている。


例えば、我々アジア人には、かつてアジア人の特徴を色濃く持った独自の美人の基準があった。

ところが、アジアにおいてその美人の基準は大きく変わり、白人の特徴に近い容姿が美人とされるようになっていった。

そして、その感覚は現在のアジア人に深く深く根付いている。

アレクサンドロス大王が存在していなかったら、この感覚がそこまで深いものにならなかった可能性は十分にある。


そして、我々が親や教師から受けた影響の中に、これ以上に揺るぎない感覚はあるだろうか?


我々人類にとってアレクサンドロス大王は、親以上に親であり、教師以上に教師なのである。


良し悪しは別にして、アレクサンドロス大王の東方遠征は、それだけの影響を2000年以上に渡って与えるような事だったのである。




さて、アレクサンドロス大王の時代にはギリシアという一つの国は存在していない。

ギリシア世界という概念の中に、アテナイ、スパルタ、テーバイなどの都市国家がギリシア世界の中に存在していた。

マケドニアはそんなギリシア世界の中に存在する国家であった。



ギリシア世界に住む人々は、ギリシア人としての誇りを強く持っていたが、一方でこの時代の世界の最先端はペルシアであった。


アケメネス朝ペルシア帝国は、現在のイランを中心に、東は現在のトルコやエジプト、西は現在のパキスタンのあたりに及ぶ、広大な地域を支配下においていた。


ギリシアはかつてのように世界の中心ではなくペルシアが文明や経済の中心となっていた。




そして、この時代のギリシア世界にとって、東はペルシア帝国の先にインドがあって、その先はギリシア神話に登場する世界の果てオケアノスであると信じられていた。


コロンブスがアメリカ大陸に上陸する1800年ほど前のこの時代、世界の中心からインドまでが世界の全てであった。


そして、コペルニクスの地動説が唱えられ、人類に地球が丸い可能性が提示されたのは、コロンブスよりもさらに後の時代である。


アレクサンドロス大王の時代の人々は、世界の果てオケアノスは、天まで届く高い壁があったり、海水が永遠の奈落に落ちる滝があったり、そういうイメージを持っていた。



アレクサンドロス大王は、今から2000年以上前の紀元前336年に、ギリシア世界を代表して、その文化を世界の果てオケアノスまで広げようとしたのである。


イッソスの戦い


そんなアレクサンドロス大王とその部下6人の計7人を通して、アレクサンドロス大王の足跡とその後継者争いを表現します。



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アレクサンドロス3世 (人類史上屈指の大物にして神々の子)

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紀元前356年7月20日、アルゲアス朝マケドニアの王ピリッポス2世と母オリュンピアスの子として、後に後世の人類が畏敬の念を込めたアレクサンドロス大王と呼ぶアレクサンドロス3世が生まれる。


ピリッポス2世はギリシア神話の英雄ヘーラクレースを祖とする家系とされていて、アレクサンドロス3世はそのことを強く意識しながら猛々しい生涯を送っていく。



アレクサンドロス3世が10代の頃に、高名な学者アリストテレスが教師として招かれ、アレクサンドロス3世は同世代の学友と共にギリシア人として高潔に生きることを学ぶ。


そして、この頃に共に学んだ仲間には親友ヘファイスティオンなど、王になってからのアレクサンドロス3世を支える者達がいた。



ピリッポス2世のもとで急速に影響力を強めたマケドニアを脅威に感じたアテナイとテーバイが同盟を組む、そして紀元前338年、カイロネイア(現 ギリシャ共和国中央ギリシャ地方リヴァディア市)でマケドニア軍とアテナイ・テーバイ軍が戦う。


アレクサンドロス3世は一軍の将として父ピリッポス2世に従い、初陣でありながらもマケドニアの勝利に大きく貢献する。



しかし、父ピリッポス2世が暗殺されると、アレクサンドロス3世は弱冠20歳でマケドニア王を継承することとなった。

アレクサンドロス3世3

ピリッポス2世の死の混乱に乗じてテーバイが反乱を起こすが、アレクサンドロス3世は、それを制圧して再びギリシア世界の覇権を握ると、次は世界の覇権を握るべくペルシアを目指す。



ギリシア世界こそが唯一絶対に素晴らしい。
ペルシアの圧倒的な繁栄と拡大は人類的な間違いである。
それがアレクサンドロス3世の動かぬ信念だった。


この世界を、野蛮なペルシアの支配から解き放ち、栄光あるギリシア文明を広めるのだと、アレクサンドロス3世は強い意志を持っていた。




紀元前334年、ペルシアに侵入したマケドニア軍38000が、ペルシア連合軍40000とアナトリア地方(現 トルコ領内)のグラニコス川(現 ビガ川)で対峙する。


「グラニコス川の戦い」と呼ばれるこの戦闘では、マケドニア軍の主力である長さ5.5m重さ6kgにもなる槍を抱えた長槍部隊が川に阻まれ機能しなかった。


アレクサンドロス3世は、意を決して自らが先頭になって突撃する。

人目をひかないわけにはいかない派手で煌びやかな装飾と一際輝く鎧を身にまとったアレクサンドロス3世は、敵将ミトリダテスを自身の投げ槍で仕留めるのであった。
 
グラニコス川の戦い

この時のアレクサンドロス3世の闘神のごとく鮮やかかつ勇猛な姿は、味方将兵からの尊敬と憧憬を集めた。そして、その噂は広がり、その後の数多の戦いにも大きな影響を及ぼした。


それは偶然の結果論ではなく、アレクサンドロス3世の意図したものであった。
一瞬の勇敢さにさえ人心を操作する企みが含まれている大王の資質をアレクサンドロス3世は備えていた。


アレクサンドロス3世は初めてのペルシアとの戦いで、自身が尊敬してやまないギリシア神話の英雄アキレウスの生まれかわりであることを確信する。




続いて紀元前333年、イッソス(現 トルコ・イスケンデルン)で、アケメネス朝ペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いるペルシア軍12万と衝突する。


マケドニア軍は4万足らずと数で劣りながらも、強いカリスマ性をおびたアレクサンドロス3世に率いられ、ペルシア軍は5万人ともいわれる戦死者を出す大敗を喫した。

イッソスの戦い

この「イッソスの戦い」でアレクサンドロス3世は、ダイレイオス3世の母・妻・娘などを捕虜にした。


ペルシア軍が戦場に女性などの非戦闘員を同行させていたのは、マケドニア軍をなめていたからであった。

戦争はスポーツと違ってどんな相手にも全力というわけにはいかない。
 

準備する戦力によって食費も移動コストも大きくなるのが戦争である。

大国がほどよい戦力で小さな敵を迎え撃つのも重要なことなのである。


地図の広さで戦うわけではないが、広大な領土を持つペルシア帝国が侵入してくる敵にいちいち王が出陣するわけにはいかない。
マケドニアとペルシアでは、その国力と文明の発展度があまりにも違った。


ダレイオス3世が「所詮マケドニア」と思っていたことは不自然ではなく、むしろ良い政治的認識であるはずだった。


しかし、歴史が大きく動く時というのは、それまでの正解が不正解になるのかもしれない。


アレクサンドロス3世は、この時の捕虜の中にいた絶世の美女バルシネを愛人にし、そのバルシネは後にアレクサンドロス3世の子へーラクレースを産むことになる。




アレクサンドロス3世は、軍事の天才ぶりをいかんなく発揮しながら、さらにペルシアの支配下にあったエジプトを征服する。


エジプトで将兵達に充分な休養を与えると、アレクサンドロス3世はペルシアの奥深くを目指して遠征を再開する。




紀元前331年、「イッソスの戦い」でマケドニア軍の脅威を身を持って知ったダレイオス3世は、諸説あるが15万ともいわれる大軍を準備した(100万を超えるという伝承もあるが、それは現実的ではなく、むしろそれだけ総力を挙げたという解釈が妥当である)。


マケドニア軍47000は、チグリス川上流のガウガメラで、このダレイオス3世率いるペルシアの大軍と衝突する。


アレクサンドロス3世のカリスマ性に、ペルシア軍兵士は恐れおののき、マケドニア軍兵士の士気は高かった。しかし、勝敗を分けたのは、そういった精神的な勢いだけではなく、実際にマケドニア軍はとても強かった。

ガウガメラの戦い

マケドニア軍兵士は当時では珍しい職業軍人が主軸になっていた。


軍人というのは非生産な存在であるため、生産性が低い時代において生活を保障して日々訓練をさせるというのは困難であった。


そのため、職業軍人を主軸においたマケドニア軍は、命令系統が安定し、戦術遂行速度が格段に速かった。

「ガウガメラの戦い」といわれるこの戦いでは、アレクサンドロス3世の柔軟かつ斬新な指揮が注目を集めているが、それを可能にしたのは日々訓練された兵士達の連携能力の高さにあった。


結果、アレクサンドロス3世は圧倒的な戦力差をものともせずペルシア軍に圧勝した。



一方、総力を駆使した「ガウガメラの戦い」に大敗したペルシア帝国は風前の灯火となった。



ペルシア帝国の中枢に侵入したマケドニア軍は、バビロン(現 イラク・バグダッド)やスーサ(現 イラン南西部フーゼスターン)やペルセポリス(現 イラン・ファールス)といった大都市で略奪の限りを尽くす。


こうした行為は、ペルシア戦争時(この時代の100年ほど前)に、ペルシアがギリシア世界の誇りであるアテナイのアクロポリスを焼き払ったことへの怨念であった。


栄光あるギリシア世界に傷をつけた野蛮なペルシアに神の鉄槌を振り落とす。

それは、ヘーラクレースの血を引き、アキレウスの生まれかわりであるアレクサンドロス3世にとって悲願であった。

アレクサンドロス3世7

しかしながら、アレクサンドロス3世は、ペルシアの文明の高さを目の当たりにして、徐々に心境に変化が出始める。

さらに、これだけの大帝国を治め、民衆からも慕われていたダレイオス3世という人物に尊敬の念を抱くようになっていった。


そんな折に、逃亡中のダレイオス3世が配下のベッソスに暗殺されたことを知る。

アレクサンドロス3世は、ベッソスを残酷に処刑し、ダレイオス3世を丁重に埋葬した。




その後、アレクサンドロス3世は、広大なペルシア帝国を完全制覇すべく、紀元前329年から紀元前327年までに、バクトリア(ヒンドゥークシュ山脈とアムダリヤ川の間に位置)やソグディアナ(現 ウズベキスタン領内)を平定する。

しかし、過酷なゲリラ戦であったため、マケドニア兵士の士気はこの頃から低下していくようになる。


そして、最後に征服したペルシア帝国の地バクトリアで、後にアレクサンドロス3世の子アレクサンドロス4世を産むロクサネを妻に迎えた。



ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロス3世は次にインドを目指す。

そして、その先には世界の果てオケアノスがある。

オケアノスに到着することはアレクサンドロス3世の夢であった。


ヒュダスペス河畔の戦い

紀元前326年、インダス川を渡ってインドに侵攻すると、マケドニア軍約40000はヒュダスペス川(現 ジェーラム川)にて、現代のパンジャーブ地方一帯の領主パウラヴァ族の首長であったポロス率いる約34000と衝突。

両軍合わせて2万人ほどの戦死者をうむ厳しい戦闘をマケドニア軍は勝利する。


オケアノスを目指すアレクサンドロス3世は、さらなる進軍を目指ししていたが、その先に待ち構えるインド軍が20万を超える大軍と6千頭もの象を用意しているという情報が入る。

さらにこの「ヒュダスペス河畔の戦い」の損害が大きく、兵士達の望郷の念が強くなったため、アレクサンドロス3世は引き返すことを決断する。


夢半ばでインドを後にすると、ゲドロシア砂漠(現 パキスタン・バローチスターン州)を通って、紀元前324年、スーサに帰還した。



ペルシアの文明の高さに尊敬の念が強くなっていたアレクサンドロス3世は、ペルシアをギリシア世界の色で支配するのではなく、ギリシアとペルシアの融合を考えるようになっていた。


その一環として、マケドニアの兵士と現地のペルシア人女性との合同結婚式をおこなった。

この時、アレクサンドロス3世は、ダイレイオス3世の娘スタテイラ2世を二人目の妻に迎える。
 
スーサ合同結婚式

同時に、親友ヘファイスティオンを帝国宰相に任命するが、ヘファイスティオンはそれから間もなく病死してしまう。


ギリシア神話の英雄アキレウスは、親友パトロクロスをトロイヤ戦争で殺したヘクトルを生きたまま馬車で引きまわして全身ズタボロにして殺した。

自身をアキレウスの生まれかわりと信じていたアレクサンドロス3世は、幼い頃から、ヘファイスティオンに「オマエはパトロクロスだ。」と言っては、互いの友情をかみしめあっていた。


ヘファイスティオンを失ったアレクサンドロス3世の悲しみは深く、これを機にその行動は精彩さと冷静さを欠いたものが増えていく。

アレクサンドロス3世11

バビロンに帰還したアレクサンドロス3世は、さらにギリシアとペルシアの融合を進めるため、ペルシア風礼式や行政制度を取り入れ、代官に現地有力者を任命した。


このアレクサンドロス3世の行動は、マケドニア人達の目には、ギリシアをないがしろにしたペルシア化と映り、多くの反感をかった。


アレクサンドロス3世は、ここからアラビア遠征を計画していたが、10日間高熱にうなされた末、紀元前323年6月10日に死去した。



昏睡状態のアレクサンドロス3世が印綬の指輪をペルディッカスに託したことから、ペルディッカスがアレクサンドロス3世死後の主導権を握ることになる。


アレクサンドロス大王は超がつくほど短期間のうちにアケメネス朝ペルシアを打倒し、広大な領土を自らの帝国の支配下に置くが、その死後、残された帝国の継承者を巡って有力諸将による勢力争い(ディアドコイ戦争)が起こった。



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王妃スタテイラ2世 (大王が憧れたペルシア帝国王女)

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スタテイラ2世は、アケメネス朝ペルシア帝国の最後の王ダレイオス3世とスタテイラ1世の娘である。



紀元前333年「イッソスの戦い」で、マケドニア軍を侮っていた父ダレイオス3世は、負けるはずのない戦闘を見物させるつもりで非戦闘員を同行させていた。


しかし、ペルシア軍がマケドニア軍に敗走すると、ペルシア軍に同行していたスタテイラ2世は、母、祖母ら家族と共に陣中に取り残され、マケドニア軍に捕らえられた。



その後、インドまで遠征していたアレクサンドロス3世率いるマケドニア軍がスーサに帰還すると、ペルシアの文明の高さへの心酔が強くなっていたアレクサンドロス3世は、マケドニアの兵士と現地のペルシア人女性との合同結婚式をおこなった。


この時に、敵ながらダレイオス3世に対する尊敬の念を強めていたアレクサンドロス3世は、その娘であるスタテイラ2世を妃に迎えた。

スタテイラ2世の妹ドリュペティスは、アレクサンドロス3世の親友ヘファイスティオンの妻となった。



しかし翌紀元前323年にアレクサンドロス3世が死去すると、アレクサンドロス3世の最初の妃であるロクサネがアレクサンドロス4世を産む。

ロクサネは、スタテイラ2世がアレクサンドロス3世の子どもを宿していた場合、息子であるアレクサンドロス4世の障害になるため、スタテイラ2世を妹ドリュペティスともども殺害した。



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ヘファイスティオン (大王の唯一の友人)

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ヘファイスティオンは少年時代からアレクサンドロス3世の親友であった。
共にアリストテレスから学問を学び、格闘訓練においてはアレクサンドロス3世よりも優秀であった。


アレクサンドロス3世が弱冠20歳でマケドニアの王に即位するとヘファイスティオンは側近護衛官を任される。



ギリシア神話の英雄アキレウスは、親友パトロクロスをトロイヤ戦争で殺したヘクトルを生きたまま馬車で引きまわして全身ズタボロにして殺した。

自身をアキレウスの生まれかわりと信じていたアレクサンドロス3世は、幼い頃から、ヘファイスティオンに「オマエはパトロクロスだ。」と言っては、互いの友情をかみしめあっていた。


東方遠征が開始され、記念に立ち寄ったトロイの遺跡では、アレクサンドロス3世がアキレウスの墓に花冠を捧げ、ヘファイスティオンはパトロクロスの墓に花冠を捧げた。

アキレウス


マケドニア軍は、ペルシア帝国の支配地域であるアナトリア地方(現 トルコ領)に侵入し、「グラニコス川の戦い」をアレクサンドロス3世の鮮やかな活躍で勝利すると、勢いそのまま「イッソスの戦い」ではペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いる軍勢を粉砕した。


ペルシア帝国の中枢に侵攻したマケドニア軍が、次の目標をペルシアの支配地域であるエジプトに定めると、ヘファイスティオンは征服したフェニキア(現 レバノン)を平定し、マケドニア軍のエジプト侵攻が順調に進むようにと活躍した。



エジプト征服後の紀元前331年、アケメネス朝ペルシア帝国の滅亡が決定的となる「ガウガメラの戦い」では、ヘファイスティオンは騎兵将校の一員として奮戦し、激戦のなかで腕を槍で貫かれる重傷を負う。

ガウガメラの戦い


マケドニア軍は、広大なペルシア帝国を完全制覇すべく、バクトリア(ヒンドゥークシュ山脈とアムダリヤ川の間に位置)やソグディアナ(現 ウズベキスタン)を平定し、ついにインドを目指すことになる。



インドの先には世界の果てオケアノスがある。

この時代のギリシア人にとって、ギリシア神話は、神話ではなくアイデンティティ溢れる歴史そのものである。

ギリシア神話に登場する世界の果てオケアノスに到達することは、ギリシア世界の盟主となったアキレウスの生まれかわりアレクサンドロス3世の悲願であった。

そして、アレクサンドロス3世の悲願は、パトロクロスの生まれかわりであるヘファイスティオンの悲願でもあった。



ヘファイスティオンはマケドニア軍本隊から先行して別働隊を率い、本隊のインダス川の渡河の準備を整えた。


この後もヘファイスティオンは別働隊を任されては、シンド南部のパタラ砦を制圧するなどの活躍を見せるが、長旅とゲリラ戦に消耗したマケドニア軍兵士達の疲労を訴える声が強くなったため、インドを引き返すことになる。



ゲドロシア砂漠(現 パキスタン・バローチスターン州)を通って、紀元前324年にスーサに帰還すると、アレクサンドロス3世によるギリシアとペルシアの融和政策のもとで、マケドニア兵と現地ペルシア女性との合同結婚式がおこなわれる。

ヘファイスティオンは、アレクサンドロス3世が妃に迎えたスタテイラ2世の妹であるドリュペティス(ダレイオス3世の娘)と結婚した。


同時にヘファイスティオンは、アレクサンドロス帝国宰相に相当する地位を与えられた。


アレクサンドロス3世の父ピリッポス2世の頃から使える重臣も多い中で、年若いヘファイスティオンに重い地位を与えるには、しかるべきタイミングを必要としていた。


また、アレクサンドロス3世死後の後継者争いで活躍する幕僚エウメネスや、アレクサンドロス3世の母オリュンピアスの信頼が厚かった将軍クラテロスと、ヘファイスティオンは不仲であった。

ヘファイスティオンは王の親友でありながら孤立した難しい立場だった。

ヘファイスティオン1

しかし、それから間もなくヘファイスティオンはエクバタナ(現 イラン・ハマダーン州)で突如病に倒れ病死する。


ヘファイスティオンの死により激しい悲しみに支配されたアレクサンドロス3世は、ヘファイスティオンを診た医師を処刑し、壁を叩き床を蹴り自殺を試みて暴れ、3日間ひきこもって食事も摂らず衣服も着替えなかった。



この時代、身分の高い男にとって、女性はただ美しく性欲を満たし子どもを産めばよい存在であった。

当時の女性は教育機会の少なさゆえに、身分の高い男との知能レベルは大きく違い、さらに征服地で迎えた妻ならば言葉が通じないことも珍しくはなかった。


そのため、王にとって女性は妻でさえ心の友にはなりえなかった。


そして、王にとって、出世を画策してすり寄る部下は、どれだけ任務上の信頼が厚くとも部下以上の存在にはなりえない。


アレクサンドロス3世にとって、心の通わせることの出来る人間はヘファイスティオンただ一人であった。


ヘファイスティオンの死は、人類史に多大な影響を与えるアレクサンドロス3世の偉業の、終わりの始まりとなった。



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ペルディッカス (猛獣も恐れた豪傑)

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アレクサンドロス3世の父ピリッポス2世の治世で、マケドニアはギリシア世界の盟主となっていた。

しかし、ピリッポス2世が暗殺され、弱冠20歳のアレクサンドロス3世が若き王になると、その機に乗じてテーバイが反乱を起こした。


テーバイの攻撃は激しいもので、マケドニアは一時撤退を余儀なくされる状況となる。

そこで活躍したのがペルディッカスであった。


ペルディッカスはアレクサンドロス3世の命令を待たずに、防御の弱かった敵の防柵に攻撃をかけ、テーバイ市内への突入に成功し、これをキッカケにテーバイは陥落することになった。



ペルディッカスは有能かつ豪胆で、アレクサンドロス3世の信頼が特に厚い人物であった。

ペルディッカスの豪胆さを表す逸話として、ペルディッカスがライオンの巣になってる洞窟に入っていくと、驚いたライオンが仔を連れて出ていったというものがある。

ペルディッカスには猛獣ですら危険を感じるオーラが漂っていた。




マケドニア軍は、ペルシア帝国の支配地域であるアナトリア地方(現 トルコ領)に侵入し、「グラニコス川の戦い」をアレクサンドロス3世の鮮やかな活躍で勝利すると、勢いそのまま「イッソスの戦い」ではペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いる軍勢を粉砕した。

グラニコス川の戦い

ペルシア帝国の中枢に侵攻したマケドニア軍は、次の目標をペルシアの支配地域であるエジプトに定め、エジプト征服後の紀元前331年には「ガウガメラの戦い」で3倍以上の圧倒的な戦力差をものともせず、アケメネス朝ペルシア帝国の滅亡は決定的となる。



ペルディッカスはこうしたペルシア侵攻後の主要な戦闘で重装歩兵部隊を指揮し続けた。
特に「ガウガメラの戦い」では瀕死の重傷を負うほどに勇猛果敢に奮戦した。

ガウガメラの戦い


マケドニア軍がインドを目指すことになると、ペルディッカスはヘファイスティオンと同様に、別働隊を率いてマケドニア軍本隊の進軍ルートにある拠点という拠点を武力制圧および降伏勧告をして支配下においていった。



アレクサンドロス3世にとって最後の主要な一戦となる「ヒュダスペス河畔の戦い」を経た紀元前325年、町に立て籠るマッロイ人への攻撃にマケドニア軍は苦戦する。

アレクサンドロス3世は軍勢を二手に分け、その片方の指揮をペルディッカスに任せた。
戦場におけるペルディッカスはNO.2として重用されていた。



しかし、ゲリラ戦に消耗したマケドニア軍は、インドを引き返すことになり、紀元前324年にスーサに帰還した。

アレクサンドロス3世の親友ヘファイスティオンが病死すると、ペルディッカスはヘファイスティオンの遺体を託されバビロンで葬儀を上げた。





そして、病気で倒れたアレクサンドロス3世は臨終の際に、王の証でもある印綬の指輪をペルディッカスに渡した。

アレクサンドロス3世7
  
アレクサンドロス3世

これにより、ペルディッカスはアレクサンドロス3世の後継者として主導権を握り、まだ生まれぬ王妃ロクサネの子(アレクサンドロス4世)の暫定的な後見人として、帝国の実質的なトップとなる。


アレクサンドロス大王の死後、当初はこのようにその一族を担ぐ動きがあったが、担がれた者や担がれる可能性のある者はことごとく殺され、徐々に後継者争いは純粋な勢力争いとなっていく。



その後、ペルディッカスはアレクサンドロス3世の異母兄弟アリダイオスを推すメレアグロスを殺害し、エウメネスと共にカッパトギアの王アリアラテス1世を倒し、自らの発言力と存在感を高めていった。



一方、東方遠征の際にマケドニア本国の留守を任されていた老臣アンティパトロスは、アレクサンドロス3世の死に乗じて反乱を起こしたアテナイ・アイトリア・テッサリアを鎮圧し、ギリシア世界での存在感を増していた。


ペルディッカス

ペルディッカスは自らの立場を安定させるため、アンティパトロスの娘ニカイアと婚約をする。


しかし、アレクサンドロス3世の妹クレオパトラ(念のために有名なクレオパトラではない)との縁談を、ペルディッカスに取り入ろうとするアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが持ちかける。


ペルディッカスは、アンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄して、アレクサンドロス3世の妹クレオパトラと結婚しようとした。



激怒したアンティパトロスは、プトレマイオスやアンティゴノスといった有力諸将を味方につけ、ペルディッカスへの対立姿勢を明確にした。


ペルディッカスの側には、カッパトギア太守エウネメスなどが味方した。


そうした折に、ペルディッカスがバビロンからマケドニア本国へ移送中だったアレクサンドロス大王の遺体をプトレマイオスが奪い、そのままエジプトのアレクサンドリアに埋葬する(ただ、現在にいたるまで遺体は発見されていない)。


アレクサンドロス大王の遺体を埋葬するという行為は後継者をアピールする行為であり、埋葬された場所は神聖化する。

後継者を主張するペルディッカスにとって、プトレマイオスの行為は看過できるものではなかった。



ペルディッカスは局地戦の指揮をエウメネスに一任し、自らはプトレマイオスを討つべくエジプトへと向う。


しかし、ナイル川渡河に失敗すると、ペルディッカスの統率能力に不安を感じたセレウコスらの部下によって暗殺された。


それは、猛獣すら恐れる豪傑が、女が原因で失墜した瞬間でもあった。




ペルディッカスの死により、老臣アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、バビロン太守であったアンティゴノスが全軍総司令官となり、ペルディッカスを殺したセレウコスはバビロン太守となった。


アレクサンドロス帝国の後継者争いは続いていく。


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アンティパトロス (抜群の政治感覚を備えた老臣)

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アンティパトロスはアレクサンドロス3世の父ピリッポス2世のもとでは、ギリシア諸国との外交や行政面で働いていた。


ピリッポス2世が戦闘でマケドニアを留守にする際は、アンティパトロスが代わりに国を仕切り、時には祭事ですらアンティパトロスがピリッポス2世の代理を務めた。



紀元前336年にピリッポス2世が暗殺され、その息子アレクサンドロス3世は弱冠20歳で王位に就くと、マケドニアは全世界の覇権を握らんと東方遠征に乗り出す。


この時、すでに60歳を過ぎていた老臣アンティパトロスは、マケドニア本国の統治を任される。



マケドニアに残ったアンティパトロスの日々は決して穏やかなものではなかった。


アレクサンドロス3世の留守を狙って、紀元前332年にトラキアのメムノンが、紀元前331年にスパルタの王アギス3世が反乱を起こした。


アンティパトロスは戦力を分散させて二つの勢力と戦い続けることを避けるため、トラキアのメムノンは許し、スパルタのアギス3世とは徹底的に戦って反乱を鎮圧する。


アンティパトロスは老獪にアレクサンドロス3世のいないマケドニアを守り続けた。

アンティパトロス

もともとは、アレクサンドロス3世はアンティパトロスの息子だという噂が流れるほどに、アンティパトロスとアレクサンドロス3世の母オリュンピアスの関係は良好であった。

しかし、アレクサンドロス3世の東方遠征中に、アンティパトロスとオリュンピアスの関係は悪化し、二人はアレクサンドロス3世へお互いを中傷する手紙を書き送るようになる。




紀元前323年6月10日、アレクサンドロス3世が死去する。


アレクサンドロス3世の死後、帝国の実権を握ったペルディッカスによって、アンティパトロスはこれまでの実績もありマケドニア本国およびギリシア世界の管理運営を認められる。


紀元前322年にアレクサンドロス3世の死に乗じてアテナイ・アイトリア・テッサリアが反乱を起こすが、アンティパトロスは老獪にこれらを鎮圧し、その存在感を示した。



その後、ペルディッカスがアンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄する。

原因は、アンティパトロスと不仲になったアレクサンドロス3世の母オリュンピアスが、ペルディッカスに取り入るために自分の娘(アレクサンドロス3世の妹)とペルディッカスを結婚させたためである。


娘に恥をかかされたアンティパトロスは激怒し、ペルディッカスと対立することになる。

ヘラクレア遺跡


アンティパトロスは、プトレマイオスやアンティゴノスといった有力諸将を味方につけた。


しかし、ペルディッカスはプトレマイオスを討つために向かったエジプトで、セレウコスらの部下に暗殺される。



ペルディッカスの死により、帝国の領土と地位の再分配がなされ、アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、バビロン太守であったアンティゴノスが全軍総司令官となり、ペルディッカスを殺したセレウコスはバビロン太守になった。



アンティパトロスの持ち前のバランス感覚と政治力により、後継者争いはここでしばしの落ち着きをみせる。


しかし、すでに老齢であったアンティパトロスは病を患うと、老将ポリュペルコンを自身の後継者として地位を譲り、死去する。



アンティパトロスの息子カッサンドロスは、この人事に納得せず、アンティゴノスと組んでポリュペルコンと対立することになる。



見事な国家管理運営の能力と老獪な政治力を持ったアンティパトロスであったが、最後の最後に人事を誤ってしまった。



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アンティゴノス1世 (アンティゴノス朝マケドニア王)

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紀元前336年にピリッポス2世が暗殺され、その息子アレクサンドロス3世は弱冠20歳で王位に就くと、マケドニアは全世界の覇権を握らんと東方遠征に乗り出す。


マケドニア軍は、ペルシア帝国の支配地域であるアナトリア地方(現 トルコ領)に侵入し、「グラニコス川の戦い」をアレクサンドロス3世の鮮やかな活躍で勝利すると、勢いそのまま「イッソスの戦い」ではペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いる軍勢を粉砕した。



この「グラニコス川の戦い」の後、マケドニア軍はさらにペルシアの中枢へと進軍していくが、アンティゴノスはフリュギア太守としてアナトリア地方に残され、後方の守備および支配地域の安定を任される。

この時、40代後半であったアンティゴノスは若い王にとって、責任ある仕事を任せやすい存在であった。



フリュギア太守となったアンティゴノスは、アレクサンドロス3世の去ったアナトリア地方を取り戻そうとするペルシア勢力の攻撃を3度受けたが、全て退けた。


さらに、ペルシア帝国の支配下になかった好戦的な先住民のいるリュカオニア(現 トルコ・トロス山脈の北側)を征服し、後方活動ながらもアレクサンドロス帝国の版図を広げる。

アナトリア地方



紀元前323年にアレクサンドロス3世がバビロン(現 イラク・バグダッド)で死去すると、有力諸将の会議の結果、アンティゴノスはバビロン太守として大都市を統治することになる。


また、その会議でアンティゴノスの親友エウメネスは、この時点でまだアレクサンドロス帝国の支配下になかったカッパトギアを征服し、そのままカッパトギア太守になることが決められた。


アンティゴノスは、エウメネスからカッパトギア侵攻の援軍を求められるが、エウメネスが後々自分に近い拠点で勢力を伸ばすことを敬遠し、援軍の要請を断った。


結局、エウメネスに協力したのは、帝国の実質的トップのペルディッカスであった。


この時、友情にヒビの入ったアンティゴノスとエウメネスは、その後、敵同士として相対することになる。



間もなくして、ペルディッカスに娘との婚約を破棄されたNO.2格アンティパトロスが、ペルディッカスと対立することになる。

アンティゴノスはプトレマイオスらと共にアンティパトロスの側につく。

一方、かつての友カッパトギア太守エウメネスはペルディッカスの側についた。



しかし、ペルディッカスはアンティパトロス派プトレマイオスを討つために向かったエジプトで、セレウコスらの部下に暗殺される。



ペルディッカスの死により、帝国の領土と地位の再分配がなされ、アンティパトロスが帝国摂政としてトップに座り、アンティゴノスが全軍総司令官に任命された。

アンティゴノス1


アンティゴノスはペルディッカス派の追討を任され、かつての友人エウメネスが太守を務めるカッパトギアを攻め、エウメネスの弟アルタケスを自害に追い込み、エウメネスをカッパトギアから逃走させた。



時を同じくして、帝国トップであるアンティパトロスが死去し、その後継者に老将ポリュペルコンが指名されていた。

アンティパトロスの息子カッサンドロスは、この人事に納得せず、ポリュペルコンと対立する。



アンティゴノスはカッサンドロスの側についたため、ポリュペルコンの支援を受けて勢力を回復させようとするエウメネスを再び攻撃することになる。


紀元前316年「ガビエネの戦い」に勝利し、かつての友エウメネスを捕えたアンティゴノスは、エウメネスを味方にしようと思ったが、部下の猛烈な反対により断念せざるを得なかった。

アンティゴノスがエウメネスをいつまでも処刑できずにいたため、アンティゴノスの部下は業を煮やしてエウメネスを殺害した。


アンティゴノスはエウメネスの死を心から悲しみ、盛大な葬儀を挙げる。

 


アンティゴノスはここまで、ペルディッカスやポリュペルコンの側についた諸将を次々に倒しては、その勢力を吸収し続けたため、その勢力は残った有力諸将の中でも頭一つ抜けたものになっていた。


勢力の拡大とともに、アンティゴノスは自らがアレクサンドロス帝国を掌握する野心を強めていく。 




アンティゴノスとバビロン太守セレウコスは、ポリュペルコンとカッサンドロスの対立では共にカッサンドロスの側について協力関係にあった。

しかし、エウメネスが死ぬと、アンティゴノスは若く勢いのあるセレウコスを警戒するようになる。

バビロン

紀元前315年、アンティゴノスがセレウコスの領土を奪い、セレウコスはエジプト太守プトレマイオスを頼ることになる。


アンティゴノスはさらにカッサンドロスの勢力下にあるギリシア世界に遠征する。



アンティゴノスはアナトリア半島全土およびシリアからイラン高原に至る広大な地域を手中にしており、その勢力は後継者争いをする有力諸将随一で、その力の大きさに野心を焚きつけられたアンティゴノスは、アレクサンドロス帝国全体の再統一を強引に目指していく。
 
ヘラクレア遺跡

紀元前306年、アンティゴノス朝を開き、王位に就く。


紀元前302年、アンティゴノスはギリシア世界の盟主となり、故国マケドニアを掌握する後継者として立場を固める。



一方、拡大する一方であるアンティゴノスの勢力に、警戒心を高めたプトレマイオス、セレウコス、カッサンドロス、リュシマコスといった有力諸将は、反アンティゴノス同盟を結ぶ。



紀元前301年、アンティゴノスとセレウコス・リュシマコス連合軍がイプソス(現 トルコ中西部)で対決する。

この後継者争い(ディアドコイ戦争)で最大規模となった「イプソスの戦い」で、アンティゴノスはセレウコスの用意した象の大群に苦しみ完敗し、自身も戦死した。



最大勢力であったアンティゴノスが死んだことにより、アレクサンドロス帝国の勢力図は、細分化複雑化が増すことになる。



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セレウコス1世 (セレウコス朝シリア王)

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セレウコスはマケドニア王国の貴族アンティオコスの息子であるが、アレクサンドロス3世が東方遠征を開始した時点で20歳前であり、大軍を指揮する立場にはなかった。


伝承が残るような活躍はマケドニア軍がインドに侵攻して以降になる。


紀元前326年、アレクサンドロス3世にとって最後の戦いとなる「ヒュダスペス河畔の戦い」では、近衛歩兵部隊の指揮官を務めるようになっていた。



紀元前324年に、ギリシアとペルシアの融合を考えるようになったアレクサンドロス3世の政治政策として、スーサ(現 イラン南西部フーゼスターン)でマケドニア兵士と現地ペルシア人女性の合同結婚式がおこなわれた。


この時、セレウコスはソグディアナ(現 ウズベキスタン領内)の有力者スピタメネスの娘アパメーと結婚する。


多くのマケドニア兵士は、率直な感想としては意味不明に外人と結婚させられた感覚であったため、この時の彼らの結婚相手は性処理にしか使われなかった。


そんな中で、セレウコスは生涯アパメーと連れ添う。

セレウコスが妻を通してペルシアを理解したことが、後々、支配地域の住民に高い支持を受けることにつながる。

スーサ合同結婚式


紀元前323年6月10日、アレクサンドロス3世が死去する。


この時点で、セレウコスは、帝国の事実上のトップにいたペルディッカスの部下であった。


そのペルディッカスが、帝国のNO.2格アンティパトロスの娘との婚約を破棄すると、ペルディッカスとアンティパトロスは対立関係となる。



紀元前321年、セレウコスはペルディッカスに従い、アンティパトロス派のプトレマイオスを攻めるためにエジプトへ行く。

そこで、なんと、セレウコスは、ナイル川の渡河に苦労するペルディッカスの統率能力を不安に感じて暗殺する。


自身の勢力拠点を持っていなかったセレウコスに、いつ頃から政治的野心が芽生えていたのかは分からないが、この頃から政治的野心が行動に出始める。


ペルディッカスの死により、アンティパトロスが帝国の事実上のトップになり、セレウコスはバビロン太守の地位を獲得する。

大都市バビロンの太守となり、セレウコスは後継者候補の一人に躍り出た。

バビロン


紀元前319年、老齢であったアンティパトロスが死去すると、アンティゴノスが破竹の勢いで勢力を拡大していった。


アンティゴノスとセレウコスは、アンティパトロスの死後、協力関係を続けたが、徐々にアンティゴノスは若く勢いのあるセレウコスを警戒するようになる。


紀元前315年、セレウコスはアンティゴノスにバビロンを奪われ、エジプト太守プトレマイオスに庇護を求めた。


そして、今度はセレウコスがプトレマイオスの協力を得て、「ガザの戦い」でアンティゴノスの息子デメトリオスからバビロンを奪還する。



バビロンを奪回したセレウコスは、この時、プトレマイオスから譲り受けた僅かな兵しか率いていなかった。

しかし、セレウコスが以前にバビロン太守として善政をしいていたので、バビロンの住民はセレウコスを歓迎し、セレウコスによるバビロンの再興に協力的であった。


セレウコスがバビロンの住民から高い支持を得ていた背景には、妻アパメーを通してペルシア人への理解が深かったことが大きく影響していた。

セレウコス1

アンティゴノスがアンティゴノス朝を開き王となると、プトレマイオスとセレウコスもそれに対抗して王朝を開いた。

バビロン太守に返り咲いたセレウコスも後継者としての野心を膨らませていた。

この時点ではやや不安定な立場ながらも、アレクサンドロス大王終焉の地であるバビロンを拠点に王位に就くことで後継者としての意味合いをだした。




アンティゴノスに対抗するうえで、背後の安定を考えたセレウコスは、かつてアレクサンドロス大王が侵攻したインドへ後継者として遠征すると、その頃インドで成立したばかりのマウリヤ朝の王チャンドラグプタが率いる大軍と遭遇する。


そこでセレウコスは、チャンドラグプタにインドに近いセレウコスの支配地域を譲り、さらに娘をチャンドラグプタの息子に嫁がせた。


その見返りにセレウコスはチャンドラグプタから500頭の象を譲り受ける。

チャンドラグプタ
  
チャンドラグプタ

その後、セレウコス、プトレマイオス、カッサンドロス、リュシマコスは、アレクサンドロス帝国の統一を強攻に進めようとする最大勢力アンティゴノスに対抗するために同盟を組んだ。




紀元前301年、セレウコスはリュシマコスと共に、イプソス(現 トルコ中西部)でアンティゴノスとの決戦に挑む。

セレウコスがチャンドラグプタから譲り受けた象の大群は、凄まじい威力を発揮し、この後継者争い(ディアドコイ戦争)で最大規模となった戦いに圧勝する。


そして、この「イプソスの戦い」でアンティゴノスは戦死した。



セレウコスは、旧ペルシア支配地域の多くを領土にし、ハッキリと最大勢力となると、ここまでずっと共闘関係にあったプトレマイオスとの対立が色濃くなっていく。



セレウコスは勢力争いと同時に、内政にも積極的に取り組み、シリアのオロンテス河畔(現在のトルコ・アンタキア)にセレウコス朝の首都としてアンティオキアをはじめ、セレウキア、ラオディケイア、アパメイアなどの都市建設を進めた。

セレウコス2

紀元前282年、セレウコスは「コルぺディオンの戦い」でプトレマイオスに味方するリュシマコスを敗死させ、さらに故国マケドニアに勢力を拡大しようと遠征する。


しかし、この遠征に同行していたプトレマイオスの息子ケラウノスは、父プトレマイオスからエジプトを追放され、さらに弟が後継者として目されていたため、自力でマケドニア王になる野心を抱いていた。

セレウコスは、このケラウノスに暗殺され、故国を手中にすることは出来ずに終わった。



セレウコスの死後、セレウコス朝シリアはゆっくりと、しかし確実に衰退していく。

 

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プトレマイオス1世 (絶世の美女クレオパトラ7世につながる系譜)

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プトレマイオスはマケドニア王国の貴族ラゴスの子で、早い段階から側近騎兵隊将校として、ラオメドン、ネアルコらと共にアレクサンドロス3世からの厚遇を受けていた。


東方遠征では将軍として重要なポジションを任され続ける。


紀元前330年以降は側近護衛官となっており、アレクサンドロス3世の親友ヘファイスティオンや豪傑ペルディッカスと共に王からの信頼が特に厚い重臣であった。




紀元前323年にアレクサンドロス3世がバビロン(現 イラク・バグダッド)で死去すると、有力諸将の会議の結果、プトレマイオスは肥沃な土地エジプトの太守となる。


この時点での帝国のトップであるペルディッカスが、アンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄すると、ペルディッカス派とアンティパトロス派に分裂する。


プトレマイオスはアンティゴノスらと共にアンティパトロスに味方した。

アレクサンドリア

そうした折に、ペルディッカスがバビロンからマケドニア本国へ移送中だったアレクサンドロス大王の遺体をプトレマイオスは奪い、そのままエジプトのアレクサンドリアに埋葬する(ただ、現在にいたるまで遺体は発見されていない)。


アレクサンドロス大王の遺体を埋葬するという行為は後継者をアピールする行為であり、さらにエジプトはかつてアレクサンドロス大王が王(ファラオ)として民衆に受け入れられた意義深い土地である。

プトレマイオスに後継者としての強い野心がハッキリとあることが伺われる行動であった。



しかし、紀元前321年、プトレマイオスを討伐しに来たはずのペルディッカスが、ナイル川の渡河に失敗すると部下のセレウコスらに暗殺された。

プトレマイオスにとって最大のピンチになりかけていた事態が幸運にも回避される。




ペルディッカスの死により、プトレマイオスが支持したアンティパトロスが帝国のトップになるが、紀元前319年、老齢であったアンティパトロスが死去すると、アンティゴノスが破竹の勢いで勢力を拡大していった。


圧倒的な勢力となったアンティゴノスは、帝国の完全掌握を目指し、バビロンを治めるセレウコス討伐に力を注ぎ始めた。

サラミスの海戦

プトレマイオスは、アンティゴノスの意識がセレウコスのシリア方面に向いている隙に、エジプトから地中海を経てギリシア世界に勢力を伸ばそうとする。

しかし、紀元前306年「サラミス海戦」でアンティゴノスの息子デメトリオスが、プトレマイオスの艦隊を大敗させ、それを阻止する。




アンティゴノスがアンティゴノス朝を開き王となると、プトレマイオスとセレウコスもそれに対抗して王朝を開いた。


アレクサンドロス大王の遺体が埋葬されており、肥沃な大地が広がるエジプトを背景に、プトレマイオスも後継者としての野心を隠さなかった。

プトレマイオス1

さらに、プトレマイオス、セレウコス、カッサンドロス、リュシマコスは、アレクサンドロス帝国の統一を強攻に進めようとする最大勢力アンティゴノスに対抗するために同盟を組んだ。


紀元前301年に「イプソスの戦い」でセレウコス・リュシマコスの連合軍はアンティゴノスに勝利して戦死させる。


セレウコスは、旧ペルシア支配地域の多くを領土にし、ハッキリと最大勢力となると、ここまでずっと共闘関係にあったプトレマイオスとの対立が色濃くなる。


紀元前282年、セレウコスは「コルぺディオンの戦い」でプトレマイオスに味方するリュシマコスを敗死させ、さらに故国マケドニアを勢力下におさめようと遠征する。


しかし、この遠征にプトレマイオスの息子ケラウノスが同行していた。

息子ケラウノスは、プトレマイオスからエジプトを追放され、さらにプトレマイオスがエジプトの王位をケラウノスの弟に継がせる意思をハッキリさせていたため、ケラウノスは自力でマケドニア王になる野心を抱き、遠征道中にセレウコスを暗殺した。




紀元前288年、プトレマイオス朝エジプトは、プトレマイオスの後妻ベレニケ1世が産んだ息子プトレマイオス2世が後継者となると、その後300年近い繁栄を築く。
 
アレクサンドリア

そして、このプトレマイオス朝の最期の女王となるのが、絶世の美女として知られるあのクレオパトラ7世である。


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