新撰組に限らず、幕末の志士達の話は、どうしてもこの時代の背景をザッとでも理解していないと、わけが分からなくなる部分がてんこ盛りである。
「新撰組」最盛期のメンバー構成
局長 近藤勇
近藤勇の名前は、宮川勝五郎、嶋崎勝太、大久保大和などの時期も含め、ここでは「近藤」に統一して書きすすめます。
近藤は、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)に比較的裕福な百姓の宮川久次郎と母みよの三男として生まれる。
父の久次郎は様々な英雄伝を近藤に読み聞かせていた。
そんな父の影響で、近藤は忠臣蔵の大石内蔵助を尊敬し、後に新選組の隊服を製作する際に赤穂浪士の装束を真似たといわれている。
また、三国志の関羽に憧れ、それが強い男になりたいと思うキッカケにもなった。
近藤が15歳の頃、父が留守の時、家に強盗が押し入る。
やっつけてやろうと飛びだそうとした兄に近藤は「強盗は入ったばかりの時は気が立っているものです。立ち去る時の方が気が緩むので、そこでやっつけましょう。」と言う。
そして、強盗が立ち去ろうとした時に、近藤は兄と共に飛び出した。
ビックリして盗品を投げ捨てて逃げる強盗を、兄が追いかけようとすると、近藤は「窮鼠猫を噛むということがあります。盗られたものは戻ったので良しとしましょう。」と言う。
このエピソードは、いざという場面での近藤の判断力と人間性の高さを表しており、近藤の剣の師匠である近藤周斎が養子に欲しがるキッカケにもなった。
近藤は、江戸牛込(現在の東京都新宿区)に所在する天然理心流の道場である試衛館に入門し、やがて、道場主である近藤周斎の養子となり、清水徳川家の家臣である松井八十五郎の娘つねと結婚したのち、天然理心流宗家四代目を襲名する。
上昇志向の強い近藤は、天然理心流に対する強い誇りを持ちながら、このまま田舎道場で人生を終えることを想像する度に晴れない気持ちになるのであった。
そんな折に、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集される。
浪士隊募集の話をきいた近藤は、なにかのキッカケになるのではと直感し、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に参加を決めた。
浪士隊募集に、集まった200名余りの浪士たちは将軍の京都訪問に先がけ「浪士組」を成し、中山道を進む。
京都に到着後、この浪士組のキッカケとなった清河八郎という人物が、勤王(天皇に忠義を尽くす)勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとしていたことが発覚する。
協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。
これに対して近藤を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。
近藤達は京都に残留し、壬生村(現在の京都府京都市中京区)の八木源之丞邸やその周辺に分宿する。
その頃、京都守護職を務める会津藩(伝統的に幕府と縁が深い)の藩主・松平容保は、京都の治安維持のための浪士を手配しようとしていた。
近藤達は会津藩にその役目を名乗り出て、結果「壬生浪士組」が結成される。
壬生浪士組はすぐに、近藤派と芹沢派の確執が色濃くなっていく。
この頃、隊の名前はついに「新撰組」となり、さらに新撰組の栄枯盛衰を良くも悪くも左右する局中法度という隊の決まりも作られる。
近藤と土方は、この局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込み、1863年9月、市中で乱暴狼藉を働き新撰組の評判を落とす芹沢鴨を派閥争いも絡んで暗殺した。
こうして芹沢派は完全に一掃され、新撰組は近藤勇主導の隊になる。
1864年正月15日、14代将軍・徳川家茂が京都に到着した。
その頃、新選組は不審者の捕縛、拷問や諜報の結果、京都に潜伏する尊攘派の計画を知る。
その内容は、祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて、徳川びいきの中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜(次期将軍)・松平容保(会津藩主)らを暗殺し、孝明天皇を長州へと誘拐するというものであった。
尊攘派の計画会合が行われる日時を知った新撰組は、1864年6月5日、近藤隊と土方隊に分かれ捜索を開始、22時頃、近藤隊は池田屋で会合中の尊攘派志士を発見する。
近藤隊は、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で20数名の敵に突入し、真夜中の戦闘が始まった。
新撰組で最も剣の腕が立つ沖田が、戦闘中に持病が発症し、吐血しながら倒れ込み、戦線離脱。
藤堂は、頭を守る鉢金をしめ直すところを斬りつけられ、出血で視界がままならず、戦線離脱。
新選組側は一時、近藤と永倉だけで戦うことになるが、土方隊が到着すると勝負は一気に決着に向かう。
尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助という才能豊かな逸材を失い大打撃を受けた。
そのため、専門家の間では、池田屋事件により逸材たちが落命し明治維新が1年遅れたとも、逆に倒幕派を刺激してしまい明治維新が早まったともいわれている。
桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、難を逃れた。
この後世に知れる池田屋事件で、御所焼き討ちの計画を未然に防ぎ、今も残る貴重な文化財を焼失から救い、天皇の誘拐などの阻止に成功した新撰組の名は天下に轟く。
この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。
池田屋事件の後、藤堂の仲介で新撰組に才能豊かな伊東甲子太郎が加わるが、近藤と伊東が時局を論じ合った際に、徳川幕府あっての尊王攘夷という考えを持つ近藤に対して、伊東は孝明天皇の衛士になることを主張したため、近藤は伊東らの分離を警戒する。
近藤の予想通り、伊東は新撰組から分離した御陵衛士を結成した。
伊東ら御陵衛士は、近藤の征長論(長州は征伐するべき)に対し、長州寛容論(長州を征伐する必要はない)を主張。
近藤は国事議論を目的に伊東甲子太郎を呼び出し、大石鍬次郎らに伊東を暗殺させる。
さらに他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、伊東について行った藤堂平助(藤堂は伊東の道場の弟子だった時期があった)も殺害された。
この遺恨が後々、近藤の運命を左右する。
1867年、新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、近藤は三百俵旗本となって、幕府代表者の一員として各要人との交渉を行うほどに出世し、新撰組は最も輝かしい時を迎えるが、同時に時代の波は新撰組の思惑とは逆方向に進み出す。
1867年11月9日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、1868年1月3日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。
こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。
どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868年(明治元年)1月27日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。
江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退した。
近藤らは江戸に引き上げるが、会津において再起を図る計画を主張する永倉新八、原田左之助が隊を離脱。
近藤・土方は隊を再編成し、下総国流山(現在の千葉県流山市)の光明院・流山寺に分宿して長岡七郎兵衛宅を本陣とし、越谷に本陣を置いていた新政府軍の背後を襲う計画を立てる。
しかし、新撰組は武装準備不十分の状態で新政府軍に包囲された。新政府軍はこの時点では武装勢力を不信に思っていただけで、それが新撰組とは気付いていなかった。
新政府軍は薩摩や長州といった新撰組が京都で取り締まった者達が占めているため、新撰組であることが発覚するかしないかで、隊士もろもろの処遇が大きく変わるため、近藤は意を決して、単身、新政府軍に出頭し、自らを「大久保大和」と名乗り、武装組織が新撰組とは無関係であることをアピールする。
ところが、新政府軍の中に、かつて新撰組が暗殺した伊東甲子太郎の御陵衛士であった加納鷲雄、清原清がいた。
彼らによって、新撰組の局長・近藤勇であることが発覚してしまう。
結果、近藤は、板橋刑場で斬首される。
満33歳没。
首は京都の三条河原に晒された。
一方で、近藤が出頭して時間を稼いだことにより、残された隊士はそれぞれの運命に向かっていくことになる。
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土方は、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)で豪農の土方隼人と恵津の間に10人兄弟の末っ子として生まれた。
土方家は多摩の豪農であったが、土方は、生まれる前に父を6歳の時に母を失っていた。
そのため、土方は、次兄の喜六とその妻なかによって養育される。
土方は幼い頃に、武士になったらこの竹で矢を作ると言って竹を植えたりするなど、武士になりたいという思いを幼い頃から抱いていた。
人一倍プライドの高い土方は、武士にペコペコするのが面白くなかったのかもしれない。
豪農として裕福な生活を送るよりも、金はなくとも武士のように威風堂々と生きることの方が、魅力的に思えたのだろう。
ヤンチャな少年期の土方はバラガキ(不良少年)と呼ばれていた。
土方は、17歳の時に松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町の木綿問屋に奉公に上がり、そこで働いていた年上の女性を妊娠させてしまうといった問題を起こして郷里に戻ったという説もある。
後に京都で数多の浮名を流す土方の性分はこの頃から発揮されていたのかもしれない。
土方の姉のぶは、日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、彦五郎は近藤勇との親交厚く、自宅に剣道場を持っていた。
土方は、その道場に指導に来ていた近藤と出会い、天然理心流に入門する。
年齢も1歳違いと、歳近い土方と近藤は、この頃から非常に仲が良かった。
1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、土方は近藤についていく形で、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に京都へ赴く。
幼い頃から武士になりたいと思っていた土方は、京都で武士らしい仕事が出来ることに期待を膨らませていた。
京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派の確執が色濃くなる。
土方にとって新撰組は近藤主導の隊でなくてはならなかった。
それは、近藤がトップになることによって新撰組はより発展していくという確信と共に、人一倍プライドの高い土方には自分が慕う近藤が隊内で芹沢鴨と同列以下であることが気にくわなかったのかもしれない。
土方は後々、新撰組の栄枯盛衰を良くも悪くも左右する局中法度という隊の決まりを絶対化することに尽力し、この局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込み、同じように局中法度を大義名分に芹沢鴨を自らの手で暗殺した。
こうして、新撰組は土方の望み通り近藤勇主導の隊になる。
このように、ここまでも、そしてここからも、近藤が隊外での交渉などで新撰組の権威を高める一方で、新撰組という組織そのものをプロデュースしたのは土方であった。
土方は、局長である近藤の右腕として、剣豪揃いの新撰組で鬼の副長と恐れられる。
新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の際には、近藤隊4名が倒幕派の浪士20名以上を発見して突入、近藤隊突入の知らせを聞いた土方は、現場に急行した後、戦闘に参加させる者と池田屋の周辺を防御する者に分けた。
その理由は、この夜に倒幕派の捜索をしていたのは新撰組だけではなかったからである。
騒ぎを聞きつけ現場に駆けつけてきた会津藩や桑名藩は味方ではあるが、土方は彼らを池田屋の中には入れないようにした。
それは、まだ立場の弱かった新撰組の手柄を横取りされないためである。
命懸けの激しい戦闘の中でも、様々な状況の分析を瞬時にし、最大の利益をつかむ土方らしい機転であった。
土方が池田屋事件の手柄を守っていなければ、新撰組の名声があれほど一気に上がることもなく、破格の恩賞も間違いなくなかったであろう。
土方は最盛期を迎えた新撰組を守るために度を越した非情さを貫く。
試衛館以来の盟友である山南敬助をはじめ、河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎などの幹部も局中法度を破った者は例外なく粛清した。
1867年11月9日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、1868年1月3日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。
こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。
どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868年(明治元年)1月27日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。
この「鳥羽・伏見の戦い」の際には、土方は負傷していた近藤の代わりに新選組の指揮をとった。
そこから、流山で新政府軍に投降した近藤が板橋刑場で斬首されると、土方は島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流し、北へ北へと転戦し、仙台で榎本武揚らと合流すると、蝦夷地(現在の北海道)に渡る。
旧幕府軍が箱館の五稜郭を占領後、土方は、松前城を陥落させ、江差を占領するなどの活躍をした。
その後、五稜郭を本陣に旧幕府は榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」を成立し、土方は大幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねる。
1869年4月9日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。
土方は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦し連戦連勝を重ねるが、土方軍が死守していた二股口とは別の松前口が突破され、敵に逃げ道を塞がれる危険性が出たので、土方軍はやむなく二股口を退却し、五稜郭へ帰還した。
1869年5月11日、新政府軍の箱館総攻撃が開始される。
これによって、京都時代から土方になついていた新撰組の島田魁らが守備していた弁天台場が、新政府軍に包囲され孤立してしまう。
土方はわずかな兵を率いて出陣、箱館一本木関門まで来ると、敗走してくる味方に対して「退く者を斬る!」と一喝し、鬼神のごとく戦うが、銃弾が土方の腹部を貫き落馬する。
側近が駆けつけた時にはもう絶命していたという。
満34歳没。
その6日後、蝦夷共和国は新政府軍に降伏する。
榎本武揚や大鳥圭介は投獄の後に、新しい時代に必要な人材として政府要職に就く。
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剣の腕は、戸賀崎熊太郎に神道無念流剣術を学び、免許皆伝を受け師範代を務めた。
メンバーの一部が桜田門外の変という歴史的な事件を起こす玉造勢という組織に芹沢は参加し、尊王攘夷のために、豪商を周り、資金集めに奔走していたが、乱暴な手段が悪評を呼ぶ。
その恐喝まがいの資金集めがもとで、芹沢は牢獄生活を送ることになる。
釈放された芹沢は、国家国事のために尽くした事が元罪人という結果になった不満、持って生まれた我の強さと上昇志向から、その身を持て余していた。
そんな折に、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集される。
尊王攘夷への思いから罪人にまでなった芹沢は、天皇のいる京都で仕事することに、ガラに似合わず胸が躍った。
芹沢は、玉造勢の頃からの仲間である新見錦をはじめ、平山五郎・平間重助・野口健司などを従えて浪士隊に参加。
京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派の確執が色濃くなる。
数の上では近藤派の方が多かったが、芹沢の持つ存在感と圧倒的な威圧感、それに高圧的な態度が、隊内で芹沢派の意見を強くしていた。
その結果、近藤と芹沢による局長二人体制を望む近藤派の主張を退け、壬生浪士組は芹沢・近藤・新見による局長三人体制および筆頭局長が芹沢という形になる。
壬生浪士組は会津藩の預かりという形になっていたが、当初は給金の支給がほとんどなかった。
そのため芹沢は、大阪の商家などから恐喝まがいの資金集めを、隊のため自分のため率先する。
しかし、このような事は会津藩の評判に関わるので、これに困った会津藩は壬生浪士組に対して正式に手当を支給することになり、芹沢の乱暴狼藉はやり方はとにかく、壬生浪士組の運営を安定させるという結果を出したのは確かであった。
隊でのヒエラルキーはトップに位置し、形はどうあれ結果を出し、生来の我の強さが増長する一方であった芹沢は、1863年6月、道ですれ違った大坂相撲の力士が、道を譲らなかったことに激昂して暴行を加える。
そこに力士の仲間が駆けつけ乱闘になり、力士側に死傷者が出る騒ぎとなった。
当時の常識的な感覚として、侍に道を譲らないことが無礼なのは確かであり、力士側も江戸からやって来た侍をなめていた部分があったことが想像でき、また、奉行所は力士側に非があると判断し、力士側は壬生浪士組に50両を贈り詫びを入れるという結果になっている。
ただ、そういったことが考慮できるものの、やはり、この騒ぎも芹沢の我の強さを表していた。
芹沢の豪胆さを強いリーダーとして頼もしく感じる隊士もいる一方で、壬生浪士組で天下の大仕事をして近藤の出世を願う土方は反感を強めていく。
そんな折に、芹沢は、気に入っていた吉田屋の芸妓である小寅が、芹沢に肌を許さなかったことに立腹し、店を破壊すると主人を脅して、小寅とその付き添いのお鹿を呼びつけると二人を断髪させるなどの恥辱を与える。
芹沢がいては、新撰組の評判は悪くなり大きな仕事ももらえず、近藤を出世させることが出来なくなると考えていた土方は、厳しい隊の規律である局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込んだ。
1863年9月、芹沢は、平山五郎、平間重助と、それぞれのお気に入りの女と共に泥酔するまで飲み、それぞれ女と一緒に眠りにつく。
大雨が降る深夜、芹沢の寝ている部屋に4人の男が押し入り、一緒に寝ていた女のお梅もろとも芹沢はメッタ斬りにされる。
近くで寝ていた芹沢派の平間は逃亡に成功するが、平山は殺害された。
ただ一人、隊に残っていた芹沢派の野口健司は12月に切腹となる。
芹沢暗殺の実行者は諸説あるが、4名によるもので、確実視されているのが土方歳三と沖田総司、ほぼ確実に原田左之助、おそらく山南敬助とされている。
江戸では小野派一刀流の免許皆伝で、後に北辰一刀流の千葉周作の門人となり、また柔術の腕前も高いまさに武人であった。
こうした武の腕を高めようとする山南は、近藤勇の天然理心流に他流試合を挑むが、相対した近藤に敗れ、この時、近藤の剣の腕前や人柄に惹かれた山南は、これ以後、試衛館の門人と行動を共にするようになる。
そして、試衛館には後の新選組中心メンバーとなる土方歳三・沖田総司・永倉新八らが集っていた。
1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、山南は近藤についていく形で、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に京都へ赴く。
京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組へと名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派による駆け引きが色濃くなっていた。
山南は、土方らと共に芹沢暗殺の実行者であったという説が有力視されている。
芹沢暗殺により新撰組が近藤勇主導の組織となると、山南の発言力と活躍も増していった。
インテリで剣の腕も確かな文武両道の山南であったが、剣豪揃いの新撰組においては、主に知性の方が重宝され、新撰組の頭脳として活躍する。
武骨な隊士達にとって山南の剣の腕はストレートな尊敬を集め、山南の豊富な知識は隊士達に大人としての知識欲を刺激し、山南は隊内での人気が非常に高かった。
また、山南は、心優しく温厚な性格から、壬生の女性や子供たちから慕われており、新撰組が過去のものとなった明治のはじめ頃まで、壬生界隈には「親切者は山南」という言葉が使われている。
この頃までの山南は新撰組で充実した日々を送っていたことであろう。
しかし、山南とは剣術の同門である北辰一刀流を学び、熱烈な尊王攘夷論者として高い学識を誇っていた伊東甲子太郎が新選組に入隊すると、新撰組は伊東に敬意を払う形で、山南より上位となる参謀という役職を新設した。
新撰組の頭脳として存在感を持っていた山南にとって、インテリ部門に自分よりも重宝される存在が現れたことにより、徐々に隊内での働き場所を失っていく。
日に日に孤独感を募らせていく山南は「江戸へ行く」と置き手紙を残して行方をくらませる。
隊規の局中法度で脱走は死罪と決まっており、近藤と土方は、隊の規律を示すためにも、すぐに沖田を追っ手として差し向けた。
近藤と土方が沖田一人だけを派遣するという不可解な指示を出した背景については、様々な憶測がされているが、山南と沖田が非常に仲が良かったため、沖田が山南を見逃し、その目撃者が誰もいないという状況を作りたかったのではないかと考えられている。
しかし、山南の本心は、居場所のなくなった新撰組を出たいということよりも、居場所を失い生き甲斐を失ったという事に寄っていた。
山南の脱走は、半ば死を覚悟しての運だめしのような部分があったのかもしれない。
沖田に追いつかれた山南は、そのまま新撰組屯所に戻る。
この時、山南と沖田がどんな言葉を交わし合ったのかは分からない。
しかし、沖田に追いつかれ、運だめしに敗れた時点で、山南は近藤と土方のメンツや、自分のような大幹部でも規則を破れば罰せられるという結果をもって、新撰組そのものの顔を立てる事を、決めたのであろう。
屯所に戻った山南は正式に切腹を命じられる。
永倉は再度の脱走を勧め、手はずを整えようとするが、覚悟を決めていた山南は応じなかった。
死を覚悟していた山南は馴染みにしていた遊女の明里を身受け(当時の遊女は人身売買で店に在籍しているため、その遊女が一生の間に稼ぐであろう金を店に払うことで妾などとして買い取るシステムがあった。)し、自由の身となって故郷に帰れるように計る。
文武両道、武士としての美徳を備え、人間として一つの完成系に達していた山南は、恋に対しても誠実であった。
死にのぞむ山南の姿勢はかくも美しく、その姿に対して近藤は、自身が大好きな忠臣蔵を引き合いに「浅野内匠頭でも、こうは見事にあい果てまい」と賞賛する。
2人の姉がおり、両親とは3歳前後で死別したといわれている。
9歳頃、近藤や土方のいる天然理心流の試衛館の弟子となり、若くというより幼くして試衛館塾頭を務めていた。
日本史上最も人を斬った新撰組という組織において、最も剣の腕がたったと言われる沖田は、日本史上最強の男であったという解釈も出来なくはない。
そんな沖田の強さのルーツは天然理心流にこそあった。
幕末というのは、実戦と剣術の乖離が大きくなって久しいと言われていた時代である。
武士が刀で斬り合うという機会が大きく現象する一方で、武士のたしなみとして剣術の修練は逆に熱心にされていた。
であるが、しかし、修練に使われた竹刀は刀より圧倒的に軽く、この軽い竹刀を巧みにコントロールする技術が発達していく。
幕末の頃はすでに、軽い竹刀を操作しやすいように、現在の剣道と同じように、両手の間隔を開けて竹刀を握ることが一般化している。
日頃こういった練習をしていたので、この時代の武士はいざ実戦の場で刀を手にしても、そのように扱っていた。
ところが、実戦に通用する剣術を第一に考えていた天然理心流では、野球のバットを握るように両手の間隔を開けず、竹刀よりもはるかに重い刀を力強く扱えるような修練がなされていた可能性があり、その根拠として、現存する土方歳三が愛用した和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)が、バットのように握っていた痕跡が残っている。
実際に、江戸時代初期以前、竹刀が作られるようになる前は、刀をバットのように握るのが一般的であった。
このように、沖田の強さの根拠は、新撰組隊士やその敵達の証言だけでなく、具体的な技術的背景からも検証することが出来る。
永倉新八は後年「練習では、土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた。」という証言を残す。
しかし、いくら強くても、親はなく男兄弟のいない、まだまだ幼さの残る沖田にとって、試衛館で共に汗を流す近藤や土方は本当の兄以上の存在であった。
1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、沖田は近藤や土方についていく形で、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人で京都へ赴く。
おそらく、この時、沖田に政治的な志はほとんどなく、近藤や土方と遠足に行くような気分であった。
京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していき、やがて新撰組は近藤勇主導の組織になるが、沖田は新撰組が近藤主導の隊に変わるための数々の内部抗争において暗殺実行者として働く。
その決定打となった芹沢鴨の暗殺にも実行者として加わった。
新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の際には、近藤隊4名の一人として20名以上の敵に突入するが、戦闘中に持病が発症し、吐血しながら倒れ込み、戦線離脱する。
この頃から沖田は、兄貴分と慕う近藤や土方との時間がそう長くはないことを感じ始めていた。
総長の山南敬助が脱走した際には、たった一人で追っ手として向かうことを近藤と土方から命じられる。
沖田は山南が大好きであった。
隊規の局中法度で脱走は死罪である。
近藤や土方は、沖田の人生そのものような試衛館で、子どもの頃から一緒に過ごした兄貴分であるが、剣術の腕は沖田の方が上だった。
一方、山南には沖田にはない知性があり、数々の初めて訪れる土地で、その風土や歴史を解説してくれるなど、山南の知性は若い沖田の好奇心と向上心を存分に刺激した。
沖田は、土方と近藤が山南を見逃すために、自分一人に追いかけさせたのだと察する。
しかし、沖田が近江草津で山南を発見すると、山南は抵抗することなく、沖田の期待を裏切ってアッサリと新撰組の屯所に戻った。
屯所に戻った山南は正式に切腹を命じられ、その介錯は、山南たっての希望により沖田が果たすことになる。
沖田は、凄腕の新撰組一番隊組長としての顔とは裏腹に、いつも冗談を言っている陽気な人物で、暇な時は屯所界隈の子ども達と遊んでいる事が多かった。
山南に並び人当たりが良く、優しく無邪気な沖田は、まるで天使のようだと言われ、そんな沖田にとって、新撰組での人斬りの日々は、激しいストレスになっていたのかもしれない。
ただ、兄のように慕う近藤や土方が、自分の強さを頼りにしてくれることも素直に喜びを感じていた。
もしかしたら、こうした複雑な心理が、その行動を不安定にし、持病の悪化を早めていったのかもしれない。
沖田は、体調の悪化とともに徐々に第一線で活躍することがなくなり、「鳥羽・伏見の戦い」には参加せず、江戸に戻ってからは幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋でかくまわれて療養生活を送る。
近藤が甲陽鎮撫隊として出陣する前に見舞いに来ると、沖田はただただ声を上げて泣き、あの無邪気な姿は見る影もなくなっていた。
近藤が板橋刑場で処刑されてからも、そのことを知らない沖田は「近藤さんはどうされたのでしょうね。お便りは来ませんか?」と寂しがっていたという。
そうして、近藤の死を知らぬまま、近藤の死から2カ月後、持病の労咳(結核)でその生涯を終えた。
8歳頃に岡田利章の神道無念流剣術道場である撃剣館に入門し、18歳で本目録となった永倉は、剣術好きのあまり松前藩を脱藩し剣術修行の日々を送った。
その流れで近藤勇の天然理心流の道場である試衛館に現れると、近藤と意気投合し、試衛館に居着くようになる。
1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、永倉は近藤についていく形で、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人で京都へ赴く。
京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派による駆け引きが色濃くなっていった。
その後、芹沢は暗殺され、新撰組は近藤主導の隊となるが、永倉は芹沢暗殺の相談を土方などから受けていなかった可能性がある。
芹沢暗殺の実行者は4名で、土方歳三、沖田総司、山南敬助、原田左之助という試衛館メンバーであったという説が有力であるが、残る永倉以外の試衛館メンバーは、行動を知らないわけがないリーダーの近藤勇、試衛館では近藤よりも兄弟子になる最年長の井上源三郎、行動の賛否に大きく意見を持っていなそうな藤堂平助であった。
仮に土方らが永倉には相談していなかったとして、考えられる理由は、義と徳を重んじ頑固者である永倉に反対されると話がややこしくなると思われたことや、永倉と芹沢が神道無念流の同門でそれなりに仲が良かったことが考えられる。
永倉の意はとにかく、芹沢がいなくなり近藤勇主導の組織となった新撰組は、その勢いを増していき、永倉は二番組組長や撃剣師範を務めるなど活躍することになっていく。
新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の際には、近藤隊4名の一人として20名以上の敵に突入し、沖田が持病発生で倒れ、藤堂平助が負傷して離脱する中で、永倉は左手親指に深い傷を負いながらも防具がボロボロになり刀が折れるまで戦った。
新撰組が出世して、身分の高くなった近藤の振舞いに変化が出始めると、頑固者で義と徳を重んじる永倉は、度々、近藤や土方と衝突するようになっていく。
しかしながら、沖田の病状が悪化すると、沖田の分まで前線部隊として働くなど、意見は言うものの仕事はしっかりな男であった。
1867年11月9日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、1868年1月3日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。
こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。
どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868年(明治元年)1月27日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。
この「鳥羽・伏見の戦い」の際には、負傷していた近藤の代わりに、土方と共に新選組を指揮して戦った。
江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退する。
この直後、近藤や土方と今後の展望や進路で意見が分かれ、原田左之助らと共に隊を離れた。
近藤らと分かれると、永倉は靖兵隊(靖共隊)を結成し、北関東で新政府軍と抗戦するが戦局は不利で、米沢藩にかくまわれることになる。
米沢藩滞留中に、会津藩の降伏を知ると、永倉はもはや新政府軍に抗う術なしとみて江戸へ帰還した。
その後、永倉の大叔母である長倉勘子(永倉ももとは長倉姓)が12代松前藩主・資廣の側室であった縁もあり、松前藩への帰参が認められるという寛大な処置を受ける。
永倉新八29歳、蝦夷地はまだ戦火のなかにあったが、永倉にとっての新選組に終止符が打たれた。
永倉は、藩医・杉村介庵の娘きねと結婚して杉村家の養子に入ると、北海道に渡るが、その後42年間で北海道と東京で11回転居する。
そして、そのほとんどを剣術の師範として身を立てた。
晩年は映画を好み、孫を連れてよく映画館に通い「近藤、土方は若くして死んでしまったが、自分は命永らえたおかげで、このような文明の不思議を見ることができた。」と生き延びた事を喜んだという。
斎藤は19歳の時に、江戸小石川関口で旗本と口論になり、相手を斬ってしまうと、父と兄に旅支度をさせられ、すぐに京都へと旅立った。
京都に着くと、父の友人が開いていた聖徳太子流剣術道場主に身をかくす。
一方、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護役として募集され浪士隊が江戸から京都にやって来ると、浪士隊は壬生浪士組に名を変え、同日、京都で新たに隊士を募集すると、斎藤を含めた11人が入隊し、京都守護職である会津藩(伝統的に幕府と縁が深い)の藩主である松平容保の預かりとなった。
斎藤と近藤や土方との接点には諸説あるが、この入隊時が出会いというのが有力視されている。
新選組幹部の選出にあたり、斎藤は20歳にして副長助勤に抜擢された。
後の組織再編成の際には三番隊組長となり、沖田や永倉らとともに新選組の撃剣師範を務める。
永倉は弟子に「沖田は猛者の剣、斎藤は無敵の剣」と語ったといわれ、剣の腕はあの沖田に匹敵する強さであった。
斎藤は、土方からの信頼が特に厚く、新撰組内部での粛清役や暗殺役といったダークな仕事を数多く務める。
また、その土方からの信頼の厚さゆえに、スパイとして組織外に派遣されることもあった。
斎藤が謎に包まれている部分が多い人物でもあるのは、記録に残せない影の仕事に関わる機会が多かったたである。
新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の後、藤堂平助の仲介で才能豊かな伊東甲子太郎が新撰組に加わるが、近藤と伊東が時局を論じ合った際に、徳川幕府あっての尊王攘夷という考えを持つ近藤に対して、伊東は孝明天皇の衛士になることを主張したため、近藤は伊東らの分離を警戒した。
近藤の予想通り、伊東は新撰組から分離した御陵衛士を結成すると、斎藤は、土方の指示で、この伊東の御陵衛士に潜入スパイとして参加する。
新選組が伊東ら御陵衛士を暗殺した油小路事件は、斎藤がスパイとしてもたらした情報に基づいて計画・決行がなされた。
1867年11月9日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、1868年1月3日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。
こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。
どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868年(明治元年)1月27日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。
江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退した。
斎藤はいずれの戦いでも最前線で戦うが、銃撃戦がメインの戦闘では大きな活躍を見せることが出来ずに終わる。
近藤が流山で新政府軍に投降して板橋刑場で斬首されたあと、斎藤は、土方歳三らと一旦別れ、隊士の一部を率いて会津へ向う。
斎藤ら新選組は、会津藩の指揮下に入り、白河口の戦いや母成峠の戦いにも参加するが、劣勢に次ぐ劣勢により若松城下に退却する。
この時、大鳥圭介らと共に宇都宮城の戦いに参加するも敗走してきた土方と再開した。
その後、土方は庄内から北へ北へと転戦し北海道まで行くが、斎藤は会津に残留し、会津藩士とともに城外で新政府軍への抵抗を続ける。
会津藩が新政府軍に降伏したあとも、斎藤は頑なに戦い続けるが、新撰組の雇い主であった松平容保の説得に応じて投降した。
新撰組時代の斎藤が、土方から厚い信頼をおかれていたのは、こうした強情で信念が固いながらもリーダーには従順な一面があったことによると推測が出来る。
捕虜となった斎藤は、旧会津藩領の塩川や越後高田で謹慎生活を送った。
謹慎生活を終えた斎藤は五戸に移住し、元会津藩では超がつく名家の篠田家のやそと結婚するが、この結婚生活は3年ほどで終わってしまう。
その原因については、不明であり、単に離縁だったのか死別だったのかも分かっていない。
斎藤にとって二度目の結婚の相手も元会津藩の大目付であった高木小十郎の娘である時尾であった。
この結婚には、元会津藩主・松平容保が上仲人、元会津藩家老の佐川官兵衛と山川浩、倉沢平治右衛門が下仲人を務める。
斎藤と時尾は三人の男の子に恵まれた。
こうした斎藤に対する元会津藩の扱いから、冒頭の出自の定説に疑問視の声が多くなっており、斎藤は実は歴とした会津藩出身の武士だったのではないかとも言われている。
明治7年(1874年)7月、東京に移住し、警視庁に採用され、内務省警視局で警部補に昇任し、西南戦争に参加した。
大砲2門を奪取するなどの大活躍をし、その様子は東京日日新聞に報道され、斎藤は政府から勲七等青色桐葉章と賞金100円を授与される。
その後、警視庁が再設置され、斎藤は麻布警察署詰外勤警部として勤務し、明治25年(1892年)に退職した。
警視庁退職時に、東京高等師範学校校長・高嶺秀夫(元会津藩士)らの推挙で、東京高等師範学校附属東京教育博物館(現在の国立科学博物館)の守衛長となる。
明治32年(1899年)には東京女子高等師範学校に庶務掛兼会計掛として勤務し、明治42年(1909年)に退職した。
そして、大正4年(1915年)9月28日、71歳で胃潰瘍のため東京府東京市本郷区真砂町で死去。永倉新八とほぼ同時期に死去したことになる。
新撰組ではスパイとして働く機会が多かったことから謎の多い人物であったが、長生きしたため、後年はいくらかの証言が残っており、刀での戦闘経験について「どうもこの真剣での斬り合いというものは、敵がこう斬りこんで来たら、それをこう払っておいて、そのすきにこう斬りこんで行くなどという事は出来るものではなく、夢中になって斬り合うのです。」という証言を残した。
日本史上最強という解釈もできる沖田総司に匹敵する強さであった斎藤の証言だけに、これが剣術のシンプルにして極意なのかもしれない。
また、子ども達には「武士たる者は、玄関を出るときは頭から先に出るな、足から出よ、不意に斬りつけられた場合、頭をやられれば致命傷だが、足ならば倒れながらも相手を下から突き上げて殺すことができる。」と説教するのを常としていた。