尚寧王700x1000


琉球王朝は、尚氏が15世紀頃に初めて琉球全土を統一して7代続いた第一尚氏と、クーデタで第一尚氏王統を倒した尚円王が1470年に樹立する第二尚氏とに分かれる。


尚円王
  
尚円王
 

その琉球王国第二尚氏王統の第6代国王・尚永王には跡を継ぐ男子がなかったため、尚永王の妹・首里大君加那志の子で小禄御殿4世の尚寧王が、尚永王の長女・阿応理屋恵按司を妃にして王統を継いだ。


首里城2
 

この頃の琉球国は、日本よりも明(1368年~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)寄りの立場であった。

 

それは、明に限らず歴代の中国皇帝は、周辺諸国に爵位や称号を与えて、その関係を維持する政策をとっており、周辺諸国も大国に認められる事によって、自らの王国の正統性を内外に認識させていたからである。

 

第二尚氏の歴代国王はいずれもこの流れの中にあったが、尚寧王が即位した1589年は、九州制覇の野望を進めていた島津氏が豊臣秀吉に屈した時で、そのことは琉球の歴史にとっても大きな転換点となっていく。


豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

そうして、豊臣秀吉が明の征服を目指して朝鮮への出兵を決定すると、島津氏の薩摩藩を通じて琉球国からも兵士を出すようにと要求される。

 

 

しかし、琉球王朝の重臣である三司官の一人の謝名利山(じゃなりざん)などがこの要求に反対し、薩摩藩からの再三の要請は先延ばしにし、1591年、豊臣秀吉が琉球国を薩摩藩の指揮下として琉球国に兵糧米の供出を課したが、尚寧王はそれに従わず、さらに秀吉軍の動向を明に伝えるなど抵抗の姿勢を示した。

 
文禄の役

 

ちなみにこの頃は、明への進貢船の事務職長であった野國総管(のぐにそうかん)が、明からの帰途、サツマイモの苗を鉢植えにして北谷間切野国村(現在の沖縄県中頭郡嘉手納町)に持ち帰り、琉球に根付かせた頃でもある。

 

沖縄県中頭郡嘉手納町

1598年に豊臣秀吉が死去し、1600年の「関ヶ原の戦い」に勝利した徳川家康が政権の座に着くと、薩摩の島津義久を通じて尚寧王に「家康に臣下の礼を尽くしに来るよう」との書状が届く。


島津義久

  島津義久
 

尚寧王がこの徳川家康の要求に積極的に応じる態度をみせず返事に即答しかねていると、1609年、この態度に怒った島津家久は一族の樺山久高(かばやまひさたか)を総大将に3000の兵を預け、100余りの軍船が薩摩の山川港を出帆し、琉球文化圏にあった奄美大島へ上陸して制圧。


奄美大島

 

島津軍はそのまま徳之島、沖永良部島を次々と攻略し、沖縄本島北部の運天港に上陸して今帰仁城(沖縄県国頭郡今帰仁村)を落とすと首里城(沖縄県那覇市首里)へ迫った。

 

徳之島
 
琉球は尚寧王まで7代に渡って平和な日々が続き、さらにこの頃は交易も下火になっていたため、最新式の武器などは持ち合わせていなかったのに対して、ちょっと前まで戦国時代でしのぎを削っていた島津軍は最先端の鉄砲を装備し、尚寧王は次々と死体の山が築き上げられていく様を目の当たりにすることになる。


首里城3
 

この薩摩藩の武力侵攻に為す術がないことを思い知った尚寧王は止む無く降伏を申し入れ、この戦いはわずか11日間の攻防戦となった。

 

薩摩藩は奄美群島を割譲させて直轄地とし、1610年、尚寧王と謝名利山らは薩摩に連行される。

尚寧王はこの時、生まれて初めて首里城を出ることになった。


首里城1

 

そして、薩摩に連行された尚寧王らは、今後の琉球が薩摩の属国として島津の方針に従うように要求され、尚寧王は苦悩の末に受け入れるものの、明に留学経験があって血統的には中国系であった謝名利山は頑なに拒否をしたため鹿児島にて処刑される。

 
謝名利山

 

さらに、尚寧王は島津家久に駿府から江戸へと連行され、駿府で将軍職を退いてなお幕府権力をコントロールしていた徳川家康に、江戸で江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠に引き合わされ、これにて琉球国の幕藩体制に対する従属が成立することになり、以後、琉球国は日本と明の二カ国に従属することになった。

 
徳川家康
  
徳川家康

1611年、薩摩藩の琉球に対する干渉は厳しくなり、琉球支配の枠組みを定めた「掟15条」が発布される。薩摩藩から強制されたこの「掟15条」の内容は、完全に琉球の自治や自立を奪い取るものであった。

 

そして、琉球は按司掟(琉球で各地を治めていた領主)を廃止し、それに代わって薩摩藩が派遣した代官である地頭代を配置することになる。

 

尚寧王1
 
一方、この頃、琉球の産業の基礎を築いた儀間真常(ぎましんじょう)が尚寧王と共に薩摩から帰国する際に、木綿の種を薩摩から持ち帰り、その栽培と木綿織りを始めて琉球絣(りゅうきゅうかすり)の基礎を築いた。

 
琉球絣

 

薩摩藩は、参勤交代の時に異民族の衣装を身にまとう琉球人を従えている構図が優越感になるため、琉球を属国にしつつも形式的には「琉球王国」を存続させたため、この琉球人にとって屈辱的な薩摩藩の意図は、結果的にはいくらかの文化を守ることになる。

 

浦添ようどれ2
 

事実上、琉球最後の王として57歳で死去した尚寧王は、自らを「薩摩の侵攻を許した王」として恥じ入り、歴代王が眠る玉陵(沖縄県那覇市首里金城町)に入ることを拒み、浦添ようどれ(沖縄県浦添市)に葬るように遺言する。




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