西郷隆盛700x1000


1828123日、薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場で、御勘定方小頭の西郷九郎隆盛の第1子として生まれる。

西郷家の家格は御小姓与で下から2番目の身分である下級藩士であった。

 

11歳の頃、喧嘩の仲裁に入った際に、刀で右腕内側の神経を斬られてしまい、3日間高熱に浮かされた末に一命は取り留めるものの、刀を握れなくなったので武術を諦めて学問で身を立てることを志す。

 

鹿児島城下加治屋町

1854年、隆盛が藩主・島津斉彬に意見書を出すと、その才覚が認められて共に江戸に赴くが、島津斉彬が亡くなると、隆盛は自らの命を危うくしながらも幕府の大老・井伊直弼と異なる政治的方針を持っていた島津斉彬の意思を継ぐべく国事に奔走する。

 
島津斉彬
  
島津斉彬

しかし、幕府の追及を恐れた薩摩藩は、隆盛と志を同じくする僧・月照を日向国へ追放とし、その道中での切り捨てを決めた。

 

隆盛は月照とともに竜ヶ水沖で身投げをし、月照は死亡し、隆盛は回復に一ヶ月近くかかりながらも自分だけ生き残ることとなる。

 

薩摩藩は隆盛を死んだものとして扱い、幕府の追求を逃れるために隆盛は奄美大島に3年間潜居させられた。


奄美大島
 

その後、隆盛は大久保利通らの助けで藩政に復帰するも、1859年、藩主・島津久光に誤解を受けて徳之島・沖永良部島に流罪となり、この2年間の牢人生活で足を悪くし、感染症にもかかる。

 

 

1862年、薩摩藩主・島津久光の前を横切ったイギリス人が斬り殺される「生麦事件」が起こり、1863年、その報復をしようとするイギリスと薩摩藩の戦争「薩英戦争」が起こると、その解決に大久保利通があたった。

 

この大久保利通の強い勧めもあって、隆盛は藩主・島津久光に赦されて鹿児島に帰り、大役をもって藩政に復帰していく。

 
島津久光

  島津久光 


1864年、長州藩勢力が会津藩主で京都守護職・松平容保らの排除を目指して京都市中で市街戦を繰り広げた「禁門の変」を起こした責任を問い、朝廷が徳川幕府に対して長州追討の勅命を発し、35藩総勢15万人が長州藩主・毛利敬親のいる山口へ向った「第一次長州征討」の戦後処理にあたった頃から、隆盛の考えは徳川幕府を倒すことに転じていった。

 

 

1866年、坂本龍馬の仲介もあって、隆盛は徳川幕府を倒すために薩摩藩と長州藩が同盟を結ぶ「薩長同盟」を長州藩の桂小五郎と成立させる。


桂小五郎
   
桂小五郎

1867年、徳川幕府が政権を朝廷に返上する「大政奉還」の結果、徳川幕府の廃絶と同時に摂政・関白等の廃止と三職(総裁・議定・参与)の設置による天皇中心の新政府を樹立する「王政復古」が宣言された。

 

 

1868年、新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と旧幕府勢力が戦った「戊辰戦争」で、隆盛は天皇を担いで官軍となった新政府軍を参謀として主導し、旧幕府軍の代表・勝海舟と話し合い、江戸城の無血開城を実現させる。

 

隆盛は明治維新の最大の功労者として高い尊敬を受けることとなった。


勝海舟

  勝海舟
 

1869年、藩が支配してきた土地と人民を天皇に返上する「版籍奉還」が行われ、1871年には藩を廃止して県を置き、明治政府が任命した県令が県の政治を行う「廃藩置県」により、日本は中央集権的統一国家を目指すようになる。

 

 

隆盛は薩摩・長州などの兵からなる新政府直属の軍隊を作ることに尽力すると、陸軍元帥に就任し、さらに新政府の中核をなす参議の地位にも就く。

 

西郷隆盛2

しかし、政府の高官達の中には、商人と結託して私腹を肥やすなど、隆盛の意に反する行動をする者が現れた。

 

一方で、徳川幕府を倒すために命をかけながらわずかな恩賞を与えられただけの下級武士達は、維新の後に士族(江戸時代の旧武士階級などから維新後に華族とされなかった者)となり、腐敗した政府に対する批判を強めていく。

 

 

1873年、井上馨、山県有朋ら政府の中心人物達の汚職が表面化し、隆盛は自ら作りだした政府の汚職まみれの姿に失望を感じ「新しい世をこれから作らねばという時に、政府の高官達は屋敷を飾り立て、贅沢な服装をし、蓄財に目がなく、明治維新の正義の戦いは、このような私利私欲の世を生みだすためのものだったのか。天下に対し、戦死者に対し、面目ないことだ。」と嘆いた。

 
山県有朋

  山県有朋
 

この頃、鎖国を続けていた李氏朝鮮(朝鮮民族の最後の王朝で朝鮮半島における最後の統一国家)は、西洋列強のマネをして海外進出を目論む隣国の日本を強く警戒し「日本は無法の国にて西洋をマネて恥じるところがない」と、釜山にあった日本の出先機関への生活物資の搬入を妨げる事件が起こる。

 

 

両国の外交関係は緊張し、日本では李氏朝鮮に兵を送り武力をもって屈服させようという征韓論が高まり、そこには外国に派兵することで士族の不満を外に向けようという目論見も存在した。

 

 

この外交的課題に対して、ヨーロッパを視察して西洋列強の強大さ目の当たりにしてきたばかりの大久保利通は、国内の改革を優先し、国力を養うことが先決と征韓論反対を主張する。

 
大久保利通
  
大久保利通

隆盛が朝鮮で殺されることを覚悟のうえで、自ら使節として朝鮮に赴き、話し合いをすることを提案すると、一旦は天皇の許可を得るが、隆盛の追い落としを謀る参議達によってその決定は覆された。

 

18731023日、隆盛は参議を辞職し、11月に故郷の鹿児島に帰る。

 

西郷隆盛5
 
この時45歳の隆盛は、鹿児島市から約40kmはなれた日当山温泉などの山里を転々としながら、愛犬を連れて兎狩りや猪狩りをしたり、温泉に入ったりして日々を送り「いにしえより名声多く累をなす(名声を得て高い地位に就いてもろくなことはない)」と、今後は故郷で静かに暮らしたいという思いを口にしていた。

 

 

しかし、時代の流れはそんな隆盛の願いを許さず、東京で軍隊や警察に属していた薩摩の士族およそ600人が隆盛を慕って続々と鹿児島に戻ってきたのである。

 

生き場を失った士族達をどうするか解決策を考えた隆盛は、彼らを集めて鹿児島独自の教育をする「私学校」を始め、その授業は山道を走って体を鍛えたり、中国の古典を読んだり、銃や大砲の扱いを習ったり、文武両道に渡り、隆盛が理想と考える教育が行われた。

 

「私学校綱領(学校の校訓のようなもの)」では「天皇を尊び、人民を憐れみいつくしむのが学問のねらいである。一たび国に難儀がおきた時は、一身を顧みず国のためにつくさねばならない。」と謳われている。

 

隆盛は生徒達に近代的な兵器の扱いを教えることで、日本が西洋列強による侵略の危機にさらされた時に、守りの要となる人材を育成しようと考えていた。


私学校
 

また、隆盛は職を失った生徒達が自活できるように、土地の痩せた火山大地を開墾し、40ヘクタールの農場を築くために生徒達と共に土地を耕し、じゃがいも、サツマイモ、大根、麦、などを育て、土地を耕しながら国を守るという隆盛の理想をこの地で具体化しようと考える。

 

 

農場ではしばしば生徒達と共に鍬を取る隆盛の姿が見られ、清潔な隆盛の人柄を慕って「私学校」には続々と士族が集まり、やがて「私学校」の幹部達は鹿児島県の行政に参加することになっていく。

 

鹿児島県政の責任者・大山綱良は、隆盛の思想に共鳴して「私学校」の幹部を各地の区長に任命し、税の徴収などの権限を与える。

 

こうして「私学校」の士族達が事実上、鹿児島の県政を担うようになると、東京の新聞は「鹿児島は中央の意向の届かない独立国家だ。」と報じた。


大山綱良
  
大山綱良
 

そのため、明治政府は隆盛はなにか大きな事をしでかすに違いないと、その動きを強く警戒するようになっていく。

 

 

 

この頃、政府の中心人物である大久保利通は日本の中央集権化を進めるために税制の課題に着手していった。

 

江戸時代の税は、その年の作物の収穫に応じて現物で納められていたため、税収は収穫高に左右される不安定なものであったが、明治政府は税収を安定させるために改めて田畑を測量し、土地の評価額を定め、それに応じて毎年一定の税金を現金で納めさせることにする。

 

この制度によって土地の持ち主と見なされたのは実際に土地を耕す農民となった。

 

しかし、鹿児島は藩主が土地を支配していた他の藩とは異なり、武士一人一人が土地を持ち、自らが田畑を耕したり農民に耕させていたため、明治政府の新しい税制度のもとで土地の所有権が武士から農民に移ると、昔からの所有権を主張する士族と農民の間に紛争が起こるようになる。

 

 

隆盛は士族と農民のもとに足を運び、紛争の間に立って奔走しながら、明治政府の推し進める中央集権化を地方の実態にあわせて実施していく道を探った。

 

日当山温泉

一方で、明治政府は次々と改革を急ぎ、新たな制度を矢継ぎ早に実施し、1876年、武士の誇りである刀を持ち歩くことを禁じる「廃刀令」が出される。

 

さらに、明治政府は士族に与えてきた家禄の支払いを打ち切る「秩禄処分」を発表し、士族達は期限付きの債権を与えられたが、その収入はわずかな利息だけとなった。

 

 

この年の秋、明治政府への不満を持つ士族の「神風連の乱(熊本)」「秋月の乱(福岡)」「萩の乱(山口)」と反乱が相次ぐ。


神風連の乱
秋月の乱
萩の乱

こうした政府への不満は鹿児島でも渦巻き、隆盛が東京に鹿児島県令・大山綱良を派遣し、家禄の取り消しを遅らせるように嘆願させると、大久保利通はこの申し出を受け入れて、鹿児島だけに政府が支給する利息を高く定めるなどの優遇措置をとることを約束した。

 

 

各地で士族達の反乱が相次いでいると聞いた隆盛は、鹿児島城下へ帰る予定を変更し、日当山温泉にこもり続け、自分さえ姿を見せなければ鹿児島の士族達は反乱はするまいと考え「今、鹿児島に帰ると若者達を刺激し、蜂起の旗頭とされる恐れがある。しばらくは自分の挙動は人に見せず、身を潜めていよう。」と手紙に記している。

 

 

しかし、政府が鹿児島の士族の動向を探るために20人以上の密偵を鹿児島に潜入させ、その密偵が「私学校」の生徒達に捕えられると、潜入の目的が隆盛の暗殺であることが発覚した。

 

南大隅町

187710119日、ついに「私学校」の生徒達は行動を起こし、県内各地の施設を襲撃すると政府が差し押さえようとしていた大量の武器弾薬を奪う。

 

 

21日、日当山温泉よりもさらに鹿児島市から離れた現在の南大隅町に身を潜めていた隆盛のもとに生徒達が政府の武器弾薬を奪ったという知らせがもたらされる。

 

隆盛は「しまった」と口にすると「なぜ弾薬など盗んだのか。弾薬に何の用があるのか。」と、目の色を変えて怒った。

 

23日、隆盛が急ぎ鹿児島城下に戻ると「私学校」の幹部は隆盛に反政府運動の旗頭となるように求めるが、隆盛は自宅に引きこもったまま、なんとか生徒達をなだめて事態を収拾する策はないものかと考える。


西郷隆盛4

 

ここまで政府は各地の士族の反乱に対して徹底した弾圧を加えていたため、政府に対して反旗をひるがえしてしまった生徒達が厳罰に処されることは間違いなかったが、ここで生徒達と行動を共にすれば、政府が擁する天皇に歯向かうことになり、朝敵となってしまうことに隆盛は悩んだ。

 

 

26日、この後どういう行動を取るか「私学校」の講堂で隆盛を迎えた会議が開かれる。

 

隆盛の暗殺まで企てた政府に対して堂々と罪を問う兵を挙げるべきであると主張する強硬派と、「私学校」設立の目的は日本を外国の侵略から守ることで内乱を起こすことではなく少人数で上京して政府に詰問すればよいと主張する慎重派に、幹部達の意見は割れた。

 

そこで強硬派の一人が「オマエは死ぬことが怖くて今のような議論をするのか。」と発言すると、薩摩武士にとって死を恐れることを最大の恥とされていたため、慎重派は沈黙し、出兵賛成の合唱が沸き起こり、幹部達は隆盛に出兵承諾を求める。

 

決断を迫られた隆盛は「天皇に反して賊軍となるか」「生徒達を罪人として政府に引き渡すか」「そもそも天皇の名を借りて思うまましようとする政府の役人達が悪いのだ」などと様々な思いを巡らせながら、死を覚悟して政府に抗議しようとする生徒達に対してついに口を開いた。

 

「おはんらがその気ならオイの身体はさしあげ申そう。」

 

西郷隆盛1
 

214日、「私学校」の生徒を中心とする薩摩軍13000は、政府の罪を問い質して維新のやり直しをするという名目で、東京を目指して進軍を開始する。

 

隆盛は、自分の命は生徒達に預けたのだという意思を示すかのように、戦いの指揮を全て部下に委ねて作戦に一切口を出さなかった。


西南戦争(フランスの新聞)

この薩摩軍に対して、政府軍は熊本城に立て篭もって進軍を阻み、さらに援軍を福岡に集結させて南下を始めると、薩摩軍はそれを迎え討つために主力を北へと向け、両軍は熊本市の北にある田原(たばる)坂で激突する。

 

この「田原坂の戦い」は一日で数十万発の弾丸が使われる激戦となり、弾と弾が空中でぶつかって出来る「かちあい弾」が戦場にいくつも残されるほどであった。

 
かちあい弾

 

政府軍が次々と援軍を送り込んで戦力を増強する一方で、薩摩軍は激しい消耗戦で弾薬が乏しくなるも後方からの支援をほとんど受けることが出来ず、白刃をきらめかせての斬り込みで政府軍を攻撃する。


田原坂の戦い

 

そして320日早朝、政府軍が総攻撃を敢行すると薩摩軍は敗走し、この時を境に薩摩軍は敗北を重ねて宮崎県の山中へと追い詰められた。

 

 

挙兵から7カ月の816日、隆盛は初めて自ら命令を下し「降伏するのも死ぬのも自由にするように。」と軍の解散を宣言したが、隆盛を慕ってついて行こうとする者が次々に名乗り出る。

 

義勇兵として薩摩軍に加わっていた九州中津藩の士族・増田宗太郎は、故郷に帰ろうと誘う仲間達に対して「自分は西郷先生に一日接したら一日の愛が生まれた。10日接したら10日の愛が生まれた。もう西郷先生と離れることは出来ない。」と答え、この後、鹿児島で戦死した。


増田宗太郎

  増田宗太郎
 

軍を解散した隆盛は、自分を慕う兵を率いて故郷の鹿児島に帰ると、鹿児島市の中心にある城山に立て篭もる。

 

隆盛達400人は城山の斜面に穴を掘り、鹿児島に集結した政府軍4万人以上からの降り注ぐ砲弾をしのぎながら最期の時を待った。

 

西郷隆盛洞窟

924日午前4時、政府軍がついに城山総攻撃を開始すると、隆盛達は弾丸が飛び交うなか100倍の政府軍に対して最後の突撃を開始すると、2発の銃弾が隆盛を貫く。

 

「もうここらでよか」

それが西郷隆盛49歳、最期の言葉である。

 
西郷隆盛6

西南戦争は政府軍が16000の死傷者を出し、薩摩軍は死傷者15000と大山綱良以下2764人が処刑されることとなった。

 

以後、士族の反乱は途絶え、明治政府は富国強兵のもと強力な中央集権体制を築き上げていく。




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