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1530年、大友氏20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後国(大分県の大部分)に生まれる。

 

宗麟の育成に携わる傅役(もりやく)は重臣・入田親誠が務めた。

 
豊後国

 

父・大友義鑑は宗麟の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策し、入田親誠と共に宗麟の家督相続権を失わせることを企み、1550年に宗麟を強制的に湯治に行かせ、その間に宗麟派の粛清を計画するが、それを察知した宗麟派の重臣が謀反を起こし、塩市丸とその母を殺害し大友義鑑も負傷後に死去する「二階崩れの変」が起こる。

 

こうして宗麟が大友氏21代当主となり、同時に入田親誠ら反宗麟派は粛清された。


大友宗麟4
 

1551年、周防国(山口県東南半分)の大内義隆が家臣・陶隆房(すえたかふさ)の謀反により自害すると、宗麟は陶隆房の申し出を受けて弟の晴英(大内義長)を大内氏の新当主として送り込む。

 

これにより室町時代を通した大内氏との対立に終止符が打たれ、さらに北九州の大内氏に服属する国人(中央権力を背景にした守護などではなく、在地を支配する領主や豪族で地名を苗字に名乗る者が多い)が大友氏にも服属することになり、宗麟は周防方面にも影響力を確保し、特に博多を確保したことは多大な利益となった。

 

 

宗麟の叔父・菊池義武は「二階崩れの変」をきっかけに豊後国内が内乱に陥ると予測し、肥後南部・筑後南部の国人衆と連合して肥後(熊本県)全土の制圧を目指して反乱したが、直ちに国内の混乱を収めた宗麟は菊池義武を一族から縁切りにすることを表明して大軍を派遣し、島原に落ち延びた菊池義武はその後に自害し、菊池氏を滅亡させた宗麟は肥後国も確保する。

 

府内城
 
しかし、宗麟がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教布教を許可したことが大友家臣団の宗教対立に結び付き、1553年に一萬田鑑相(いちまだあきすけ)1556年には小原鑑元(おばらあきもと)が謀反を起こすなど、宗麟の治世は当初から苦難の多いものであった。

 

また、この頃に宗麟は本拠地を府内城(大分県大分市)から丹生島城(大分県臼杵市)に移している。

 

フランシスコ・ザビエル
   
フランシスコ・ザビエル

1557年、宗麟の弟・大内義長が毛利元就に攻め込まれて自害し、大内氏が滅亡すると大友氏は周防方面への影響力を失い、毛利元就が北九州に進出してくると、毛利氏との対立を決意した宗麟は、毛利元就と通じていた筑前国(福岡県西部)の秋月文種を滅ぼすなどして北九州における旧大内領を確保することに成功した。

 

 

室町幕府第13代将軍・足利義輝に鉄砲や火薬調合書を献上するなど将軍家との関係を強化し、多大な献金運動をした宗麟は、1559年に豊前・筑前の守護(鎌倉幕府・室町幕府が置いた軍事指揮官・行政官)、さらに九州探題(室町幕府の軍事的出先機関)を任され、1560年には左衛門督(鎌倉時代以降、朝廷の機能としては有名無実化していったが武家に好まれた官職)に任官する。

 

 

宗麟は九州における最大版図を築き上げ、さらにそれを裏付ける権威を獲得し、名実共に大友氏の全盛期を創出した。

 

足利義輝
  
足利義輝
 

しかし、周防・長門(山口県西半分)を平定するために宗麟と和睦していた毛利元就は、平定に成功すると今度は貿易都市の博多を支配下におくべく、宗麟の支配する豊前・筑前への侵攻を図り、15541561年までに豊前門司城で起こった宗麟と毛利元就との数度の合戦「門司城の戦い」で敗れた宗麟は出家して休庵宗麟と号す。

 
門司城の戦い

 

出家してからも宗麟は足利将軍家には多大な援助を続け、1563年には足利義輝の相伴衆(将軍が宴席や他家訪問で外出する際に随従する)に任ぜられ、足利義輝の調停で宗麟は毛利氏と和睦し、北九州の権益を確保する。

 

ところが、毛利氏は山陰の尼子氏を滅ぼすと、再び北九州へ触手を伸ばすようになり、この和睦は破られ、九州へ侵攻した毛利氏は、宗麟側の国人らを味方に引き入れ、怒涛の攻撃を開始することになった。

 

1567年、豊前国や筑前国で毛利元就と内通した宗麟側の国人が蜂起すると、なんとこれに宗麟が大切に育てた重臣・高橋鑑種も加わるという事態になったが、宗麟は立花道雪らに命じてこれを平定させる。

 

 

宗麟は毛利氏との戦闘の中で宣教師に「自分はキリスト教を保護する者であり毛利氏はキリスト教を弾圧する者である。これを打ち破る為に大友氏には良質の硝石を、毛利氏には硝石を輸入させないように」との手紙を出し、鉄砲に用いる火薬の原料である硝石の輸入を要請した。

 

毛利元就
   
毛利元就

1569年、宗麟は肥前国で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するために自ら軍勢を率いるが、そこへ毛利元就が筑前国に侵攻してきたため、慌てて撤退し、立花山城(福岡県の立花山山頂)の帰属を巡る「多々良浜の戦い」で毛利軍に打撃を与える。

 

さらに宗麟の軍師と言われる吉岡長増の策で、毛利氏に滅ぼされた大内氏の遺臣がくすぶっている山口へ大内輝弘を送り込んで毛利氏の後方撹乱を狙う。

 

大内輝弘は大内氏の復活を狙って、大友水軍に護衛され豊後国から周防国へと向い、それを知った大内氏の遺臣はこぞって大内輝弘の軍に加わり、その勢力は一気に増し、大内輝弘は陶峠を経て山口へ侵攻。

九州攻略の指揮を執っていた毛利元就は、後方を脅かされていることを知ると、九州からの撤退を指示した。

 

多々良浜の戦い
 

1570年、宗麟が弟・大友親貞に3000の兵で総攻撃命令を下し、再度、龍造寺氏を討伐するために肥前国に侵攻した「今山の戦い」は、小競り合いを繰り返しながら数ヶ月が推移する。

 

龍造寺側には援軍の見込みはなく落城は必至の状況であったが、総攻撃の前日の夜に大友親貞が勝利の前祝いとして酒宴を開いて軍の士気を緩め、それを知った龍造寺側が鉄砲を撃ちかけて奇襲し「寝返った者が出た」と虚報を流すと、大友軍は大混乱に陥って同士討ちを始め、2000人に及ぶ犠牲と共に大友親貞が討ち取られた。

 

この大敗北によって、宗麟は龍造寺隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなり、龍造寺氏の勢力の膨張を防ぐことが出来なくなる。

 

龍造寺隆信
   
龍造寺隆信

1576年、宗麟は家督を長男・大友義統に譲った。

その後、宗麟は宣教師のフランシスコ・カブラルから洗礼を受け、正式にキリスト教徒となって洗礼名を「ドン・フランシスコ」と名乗る。

 
大友義統

  大友義統 


この頃、織田信長によって京都から追放されていた室町幕府将軍・足利義昭は、毛利氏が京都にのぼらないのは宗麟が背後を脅かしているからだと考え、島津氏をはじめ龍造寺氏や長宗我部氏らに大友氏を攻めさせようと外交工作を行う。

 

 

1577年、宗麟と同様に九州制覇を狙う薩摩国の島津義久が日向国(宮崎県)に侵攻を開始し、1578年に「耳川の戦い」で大友軍と島津軍が激突すると、当初は大友軍が兵力の差で押していたが、大友軍は追撃により陣形が長く伸びきり、そこを島津軍が突くと戦況は一転し、大友軍は敗走する。

 

大友軍はこの敗走で急流の耳川を渡りきれずに溺死したり、そこを島津軍に攻撃されるなどして3000人近い戦死者を出し多くの重臣を失った。

 

 

「耳川の戦い」の後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は侵食されていき、さらに家督を譲った大友義統との対立も起こり、大友氏は衰退の一途をたどっていく。

 
耳川の戦い

 

この苦境に対して宗麟は、本州で大勢力となった織田信長に接近し、織田信長の毛利攻めに協力することなどを約束に島津氏との和睦を斡旋してもらうことになっていてが「本能寺の変」で織田信長が死去すると、島津氏との和睦は立ち消えとなった。

 

 

「今山の戦い」で宗麟を破った龍造寺氏は、宗麟が「耳川の戦い」で島津義久に大敗して大きく衰退すると、それに乗じて大友領を侵食し、九州は島津氏と龍造寺氏の二強が争う時代となる。

 

 

1584年、龍造寺隆信が島津義久の弟・島津家久に敗北した「沖田畷の戦い」で戦死すると、宗麟は立花道雪に命じて筑後侵攻を行い、筑後国の大半を奪回するも、1585年に立花道雪が病死すると、これを好機と見た島津義久は大友氏の家臣・高橋紹運が籠る岩屋城を攻撃した。

 

この「岩屋城の戦い」で高橋紹運・立花宗茂父子は奮戦し、島津軍の侵攻を遅らせるも岩屋城は落城する。

 

立花宗茂
  
立花宗茂
 

もはや大友氏単独で島津軍には対抗出来なくなった1586年、宗麟は織田信長亡き後の天下統一を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見し、豊臣傘下になることと引き換えに軍事的支援を懇願した。

 

 

しかし、島津義久はその後も大友領へ侵攻し「戸次川の戦い」では大友氏救援に駆けつけた豊臣軍先発隊を壊滅させ、さらに大友氏の本拠地である豊後府内を攻略する。

 

この時、臼杵城(大分県臼杵市)に籠城していた宗麟はその大きな破壊力から「国崩し」と名付けられた大砲フランキ砲を使って臼杵城を守った。


臼杵城

 

1587年、大友氏が島津義久により滅亡寸前にまで追い詰められるのと時を同じくして、豊臣秀長の率いる豊臣軍10万が九州に到着し、さらに遅れて豊臣秀吉自身が率いる10万の兵も到着すると、九州平定を目指す豊臣軍は各地で島津軍を撃破していく。

 

 

宗麟はこの戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久が豊臣秀吉の九州征伐に対して降伏する直前に、57歳で病死(チフスが有力とされている)した。

 

 

豊臣秀吉は九州平定後、宗麟の長男・大友義統に豊後一国を安堵する。

 

大友宗麟2
 

宗麟の死の直後、葬儀はキリスト教式で行われ墓は自邸に設けられたが、後に大友義統が改めて仏式の葬儀を行い墓地も仏式のものに改めた。

津久見市内にある現在の墓所は1977年に大分市長・上田保が新たにキリスト教式の墓として従来の場所から移したものである。

 



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