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1562年、刀鍛冶・加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)で生まれる。

 

1573年、清正の母・伊都が羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の母・大政所と親戚であったことから、11歳の清正は長浜城(滋賀県長浜市公園町)主となったばかりの秀吉の小姓として仕えた。

 

 

1582年、秀吉が水攻めで有名な「備中高松城の戦い」の前哨戦で冠山城(岡山県岡山市)を攻めたとき、清正は城に一番乗りを果たして竹井将監という豪の者を討ち取る。

 

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織田信長亡き後の1583年、秀吉は近江国伊香郡(現在の滋賀県長浜市)付近で織田家家臣団筆頭格の柴田勝家と激突した「賤ヶ岳の戦い」に勝利し、織田信長が築き上げた権力と体制を継承し、天下人の座に大きく近づく。

 

21歳の清正はこの「賤ヶ岳の戦い」で名うての鉄砲大将・戸波隼人を討ち取るという武功を挙げ、秀吉から「比類なき働きなり」と褒め称えられ「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3,000石の所領を与えられる。

 
賤ヶ岳の戦い

1584
年、秀吉は最大のライバル徳川家康と尾張北部の小牧城(愛知県小牧市)、犬山城(愛知県犬山市)、楽田城(愛知県犬山市楽田)を中心に各地で戦った「小牧・長久手の戦い」で、勝ちをはやった隙を徳川家康につかれて撤退を余儀なくされた。

 

この撤退時に、敵に最も近い秀吉軍の最後尾となる殿(しんがり)を任された清正は、自分を育てあげてくれた秀吉のために奮戦し、その役割を見事に果たす。

 

 

その後、秀吉は1585年には四国を平定し、さらに、初めて藤原氏でも五摂家でもない武家の身で、関白(天皇の代わりに政治を行う官職で公家の最高位)にまで登りつめた。

 

小牧山城
 

薩摩の島津氏が九州全土に勢力を拡大し、豊後の大友氏が秀吉に助けを求めたことで、1587年、秀吉は自ら20万の大軍を率いて九州に乗り込んだ「九州の役」で島津氏を九州南部に押し込める。

 

秀吉は「九州の役」の戦後処理で肥後国を佐々成政に与えたが、その後に肥後で一揆が起き、佐々成政は統治失敗の責任をとって切腹した。

 
佐々成政

  佐々成政

秀吉はその後釜に清正を大抜擢し、1588年、知行3000石足らずだった26歳の清正は肥後北半国195,000石の大名となる。

 

清正の領国経営は秀吉ゆずりのキメが細かさで、ある時、農民が川の所有を巡りいさかいを起こすと、清正は自ら現地に赴き、双方の言い分に耳を傾けたうえで、両者に等しく水を分配するために引き水工事を命じた。

 

さらに清正は、一揆に加わった農民達を全て咎めずに赦すことを指示し、戦乱で荒れ果てた土地を蘇らせるために大規模な治水工事を行い、人々の暮らしを潤すように努め、領民の清正人気は瞬く間に広がり、清正は前任者の佐々成政が手を焼いた肥後国を見事に統治する。

 
加藤清正1

 

清正は河川や築城の知識もあり、知略を活かした政治で肥後の統治に成功したのだが、そもそも清正はソロバンが得意で理数系の資質を持っており、清正が秀吉のもとで武断派として活躍した背景には、秀吉のもとには石田三成に代表される非常に計算能力の高い人材が揃っていたため、人材の不足している武断派を自分が担おうとしていった面があった。

 

一方、肥後南半国を与えられたのは、キリシタンでもあり船奉行として水軍を率いていた小西行長である。

 

 小西行長

  小西行長

1590年、秀吉は5100年続いた関東の名門・北条氏を滅ぼし、ついに天下統一を果たすと、ほどなくして秀吉の野望はさらに海外へと向けられた。

 

 

1592年、秀吉は朝鮮半島への出兵を諸大名に命じ「文禄の役」と呼ばれる朝鮮侵略が始まる。

 

この「文禄の役」で、清正は二番隊として1万の兵を率いて釜山に上陸すると、朝鮮半島を北上し、現在の中国との国境付近まで進撃した。


文禄の役

 

当初、この朝鮮侵攻で中国まで攻め込むつもりでいた秀吉は、その方針を朝鮮半島の半分を手に入れることに変更していくが、清正はそのことを知らず、和平工作の主流派であった石田三成や小西行長との確執を深めることになる。

 

1596年、秀吉は現地での混乱を避けるために清正を日本へと呼び戻した。


加藤清正2
 

 「文禄の役」は1593年に休戦するが、1597年に講和交渉が決裂すると朝鮮侵略は「慶長の役」として再開し、1598年に秀吉が死去すると日本軍が撤退して終結する。

 

慶長の役
 
また、秀吉の死により、結果的に失敗に終わった朝鮮侵略の責任転換の矛先は和平工作の主流派であった石田三成や小西行長に向けられ、このことは「関ヶ原の戦い」における石田三成の求心力に影響を及ぼした。

 

 

父親ともいえる秀吉の死に清正は、大恩を今だ返していないのに秀吉が亡くなってしまったと嘆き悲しむ。

 

日本に帰国した清正は秀吉の遺児・豊臣秀頼に尽くすことで秀吉の恩に報いようと胸に誓う。


豊臣秀吉

  豊臣秀吉

その秀頼を盛り立てていく豊臣政権下の武将達は、豊臣秀吉のそばで奉行として活躍していた石田三成と、関東を拠点に当時最大の勢力を誇っていた徳川家康とに分裂していく。

 

この状況に対して清正は、最大の勢力を持ちながらも豊臣秀吉の死後も秀頼に臣下の礼をとり続ける徳川家康の律儀さに深く共感する一方で、朝鮮侵略時に確執を深めた石田三成を支持することには抵抗感があった。

 

 

1600年、石田三成と徳川家康は全国の勢力を二分して、後に天下分け目の決戦と呼ばれる「関ヶ原の戦い」へと向かっていく。

 

九州は石田三成側の勢力が圧倒的に強く、徳川家康側についた清正は九州でそれらの勢力と戦う危険かつ重要な役割を担った。

 

そして徳川家康が「関ヶ原の戦い」に勝利すると、九州でも石田三成側だった大名達が雪崩をうって徳川家康に鞍替えする。

 

石田三成
  
石田三成

歴史的な結果から「関ヶ原の戦い」というのは「家康vs三成」や「徳川vs豊臣」という見方をされがちだが、当時の段階では豊臣政権下での「豊臣家臣団の内部抗争」という認識を多くの武将達が持っていた。

 

 

「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康はこれまでと同じように大阪城に出向いて秀頼に戦勝を報告し、清正は徳川家康が豊臣政権を支えてくれると期待する。


徳川家康

  徳川家康

しかし、そんな清正の期待と安堵も束の間、間もなく徳川家康は不穏な行動をとるようになった。

 

徳川家康は豊臣秀吉を弔うという名目で、盛んに秀頼に神社仏閣を建てさせ、その範囲は日本全国に渡り、その数は近畿地方だけでも50を超え、その費用の工面で豊臣家の経済力を削ぎにかかる。

 

この状況を憂いた清正は、秀頼への資金援助を徳川家康に申し出たが、徳川家康はその申し出をはねつけ、清正は「家康は秀頼様をどうするつもりなのか」と強い不安と警戒心を抱く。

 

加藤清正6
 

「関ヶ原の戦い」から3年後の1603年、徳川家康は豊臣家に取って代わろうとする本性を露骨に現し、後陽成天皇から悲願であった征夷大将軍に任命されると、その権威のもとで江戸に幕府を開き、支配の正当性を確立さた徳川家康は、これを機に大阪城に出向いて秀頼に臣下の礼をとることはなくなった。

 

清正はこれから秀頼をどう守れば良いのかと苦悩を深めていく。

 

 

徳川家康がその本性を隠さなくなると、多くの大名達は大阪城の秀頼に伺候(貴人のそばに奉仕すること/目上の人のご機嫌伺いをすること)することを控えるようになっていき、秀頼達はこの状況に危機感を募らせる。

 

 

さらに徳川家康は秀頼の所領を無断で他の大名に分け与え、およそ200万石あった秀頼の領地はわずか65万石にまで減ってしまった。

 
豊臣秀頼

  豊臣秀頼

一方で清正は秀頼への忠義を変えることはなく、豊臣秀吉の命日には豊臣秀吉を祀った神社への参拝をくり返し、豊臣家への忠誠心を隠すどころか、より露わにする。

 

 

こうした清正の態度に業を煮やした徳川家康が「貴殿が大阪城の秀頼様への挨拶を欠かさぬのはいかがなものか」と重臣に咎めさせると、清正は「私は太閤殿下に肥後の地を拝領した。秀頼様へのご機嫌伺いも以前から行ってきたこと。それを止めるとあらば、武士の本意にあらず。」と答えた。

 

 

清正はもし大阪城が落ちることがあれば、秀頼様を助けて熊本城まで退き、城をよりどころに戦うまでだと決意する。

 
熊本城

 

清正が築いた熊本城は数多くの櫓(やぐら)や堀、高さ20mを超える日本最大級の石垣に守られた要塞で、本丸御殿には秀頼をかくまうための「昭君の間」があり、この部屋には狩野派の絵師達による金箔の豪華な障壁画((ふすま)・衝立(ついたて)などに描いた絵)が描かれ、この部屋を守るために本丸御殿には様々なカラクリが施された。

 
昭君の間

本丸御殿の入り口は地上にはなく、地下の「闇御門」が入り口となって、そこをくぐると一本の狭い地下道を抜けなくてはならず、さらに地下からの階段を上がってもいくつかの部屋を突破しなければ「昭君の間」に着けなくなっており、そして「昭君の間」の隣の部屋には抜け穴も用意されている。

 

 

清正が財を惜しまず築いた熊本城には、どのような困難に陥ろうとも秀頼を守り抜こうという覚悟が込められていた。

 

闇御門
 

1611年、ついに徳川家康は10万の大軍勢を率いて京都に上り、そして、秀頼に大阪から自分のいる二条城に挨拶に来るように求めた。

 

 

清正は、今ここで秀頼が断れば、圧倒的な軍事力を持つ徳川家康に豊臣家は滅ぼされてしまう考え、もはや秀頼を徳川家康に従わさせ、徳川の世で一大名としてでも豊臣家を存続させるしか道は残されていないという結論に至る。

 

清正は大阪城に出向き、秀頼に徳川家康との会見を受け入れるように願い出ると、秀頼の母・淀殿は会見に行けば秀頼が殺されると反対したが、清正が「秀頼様にもしものことがあれば、この命などいりません。」と必死に説得すると、ついに淀殿も折れた。

 

淀殿
  
淀殿

会見当日、清正は徳川家康を刺激しないようにわずかな共を連れて秀頼を守り、10万の軍勢がひしめく京都に向う。

 

秀頼を守るように傍らに寄り添った清正は、懐に短刀を隠し持ち、もしもの時は徳川家康と刺し違える覚悟であった。

 

 

会見の部屋に着くと清正は、従うという姿勢を徳川家康に示すため、秀頼を初めて下座に座らせ、徳川家康の登場を待ちうける。

 

そこに現れた徳川家康が、秀頼に「共に上座に座ろう。」と申し出ると、清正は「この申し出を受けてしまうと秀頼様が家康に従うつもりがないと見なされ、つけいる隙を与えてしまう。」と危惧するが、秀頼はこの申し出を断り、下座のままで徳川家康に拝礼し、ついに豊臣家が徳川家康に従った瞬間となった。

 

加藤清正4
 

無事に会見を乗り切り、豊臣家存亡の危機を回避した清正は、涙ながらに「亡くなられた秀吉様からいただいた大恩、今日、お返しできた。」と語り、安堵とともに秀頼を大阪城に送り届けると、肥後への帰国の途につく。

 

 

しかし、帰国途中の船内で、実はすでに病魔に侵されていた清正は緊張の糸が切れたかのように突如倒れ、そのまま熊本に着くと49歳で死去した。

 

 

 

清正という重しがなくなった徳川家康は1614年、秀頼が徳川家康のすすめで方広寺大仏を再建した際に、鋳造した鐘の銘文中の「国家安康」の字句が「家康」の名を分割していて身を切断することを意味する呪いであると、また「君臣豊楽」の文字が豊臣家の繁栄を祈願していると、言い掛かりをつける「方広寺鐘銘事件」が起こる。

 

方広寺鐘銘事件
 

これはもちろん豊臣氏滅亡をはかる徳川家康の挑発であり、清正の死から4年後の1615年、二度に渡る戦い「大阪の陣」を経て大阪城は陥落、秀頼は自刃して豊臣家は滅亡。

 

 

秀頼を守る最後の砦として清正が築き上げた熊本城はその役目を果たせなかった。



 

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