1533年、肥前日之江城主・有馬晴純の次男として生まれる。
大村純伊から家督を継いだ大村純前には男子がなく、純忠の母は大村純伊の娘であったため、1538年に純忠は大村純前の養子となった。
しかしその後、大村純前は側室との間に実子の又八郎(後の後藤貴明)が誕生するが、有馬氏と大村氏の両家の関係は有馬氏の方が大村氏よりも強かったため、大村氏は有馬氏をはばかって又八郎を後藤氏へ養子に出し、1550年に純忠が家督を継ぎ、大村氏第18代当主となる。
このため、大村家に生まれながら、純忠のために後藤家に養子に出された後藤貴明(又八郎)は、純忠に強い恨みを持ち、終生、敵意を持った。
一方で実子を押しのけて家督を継いだ身である純忠も、アウェイ感の強い状況でプレッシャーを感じながら大村氏の当主を務めることになる。
1561年、松浦隆信が治める平戸港そばの露店で、ポルトガル商人と日本人の争論からポルトガル人殺傷に至った「宮ノ前事件」が起こると、純忠は新たな交易港を探していたポルトガル人に自身の治める横瀬浦(現在の長崎県西海市)の提供を申し出た。
イエズス会宣教師がポルトガル人に対して大きな影響力を持っていることを知っていた純忠は、さらにイエズス会士に対して住居の提供などの便宜をはかり、仏教徒の居住禁止や、貿易目的の商人に10年間税金を免除するなどの優遇を行ったことで横瀬浦はポルトガル商人の寄港地として賑わい、大村氏の財政も大いに改善される。
1563年、宣教師からキリスト教について学んだ純忠は、コスメ・デ・トーレス神父から洗礼を受け、洗礼名バルトロメオとして日本初のキリシタン大名となった。
純忠は領民にもキリスト教信仰を奨励し、その結果、大村領内では最盛期のキリスト教信者は6万人を越え、日本全国のキリスト教信者の約半数が大村領内にいた時期もあった。
純忠のキリスト教への入信は、弱小である自国が後藤貴明という明確な敵や急激に台頭してきた龍造寺隆信に対抗するため、ポルトガル船のもたらす利益や武器が目当てだったという面が強く、西洋の武器を手に入れる為の取引材料として、キリスト教への改宗を拒否した者達が奴隷として海外へ売り渡されたりもしている。
しかし、純忠は信仰心そのものも強く、洗礼を受けた後、正室のおゑんと改めてキリスト教に基づく婚姻を行い、これを機に側室を退け、以後はおゑん以外の女性と関係を持たなかった。
さらに、その信仰心とポルトガル人からの利益があいまって、領内の寺社を破壊し、先祖の墓所も打ち壊し、キリスト教への改宗を拒否した仏僧は追放するなど、仏道や神道に対する深刻な差別や迫害を行い、家臣や領民の反発を招くことになる。
大村氏の家督相続の因縁で純忠に恨みを持つ後藤貴明は、キリスト教に傾倒する純忠に不満を持つ大村家の家臣団と結託して反乱を起こし、焼き払われた横瀬浦が壊滅した。
そのため、純忠は1565年に福田浦を開港し、1570年には当時まだ寒村にすぎなかった長崎をポルトガル人のために新たな寄港地として与え、この長崎は以降良港として大発展していくことになる。
1572年、後藤貴明は平戸城主・松浦隆信、高城城主・西郷純堯の援軍を得て1500の軍勢で、女子供含めて約80名しかいなかった純忠の居城である三城城(現長崎県大村市三城町)を急襲した。
純忠はこのような不利な状況で譜代7名の家臣(大村純盛・朝長純盛・朝長純基・今道純近・宮原純房・藤崎純久・渡辺純綱)を中心に婦女子も石を投げる奮闘で防戦し、富永又助、長岡左近、朝長壱岐らの援軍が三城城に到着すると、後藤貴明らは撤退を余儀なくされ、絶体絶命の中で三城城を守りきり、このエピソードは後年「三城七騎籠」と称されることになる。
1578年、長崎港が龍造寺氏らによって攻撃されると、純忠はポルトガル人の支援によってこれを撃退し、1580年に長崎のみならず茂木の地をイエズス会に教会領として寄進した。
1582年、イエズス会士のアレッサンドロ・ヴァリニャーニと対面した純忠は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが発案した天正遣欧少年使節の派遣を決める。
天正遣欧少年使節はキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の代理人として4名の少年が中心となり、使節団の中には純忠の甥にあたる千々石ミゲルもいた。
天正遣欧使節は1584年にスペインでフェリペ2世に謁見し、1585年には教皇グレゴリウス13世に謁見する。
これによってヨーロッパの人々に日本の存在が知られる様になり、天正遣欧使節が持ち帰ったグーテンベルク印刷機によって日本語書物の活版印刷が初めて行われた。
純忠には洗礼名を持つ4人の息子、喜前(サンチョ)・純宣(リノ)・純直(セバスチャン)・純栄(ルイス)がいたが、龍造寺隆信の圧迫から喜前(サンチョ)を除く3人が人質に取られ、大村氏は龍造寺氏に対してほぼ従属状態となる。
それまで九州で成立していた九州三強(島津氏・龍造寺氏・大友氏)から大友氏が脱落すると、島津氏と龍造寺氏が争う二強時代となり、1584年、肥前島原半島で龍造寺隆信と島津家久・有馬晴信が決戦した「沖田畷の戦い」で、龍造寺氏は総大将の龍造寺隆信を筆頭に多くの重臣が討ち死にして総崩れとなり、佐賀城に向けて撤退した。
「沖田畷の戦い」の結果により、龍造寺氏の傘下にあった勢力は一気に島津氏に寝返り、島津氏の勢力は筑前・筑後まで拡大し、以後、九州は島津氏が最大勢力として君臨するようになる。
龍造寺氏に従属状態であった純忠だが、島津氏とともに龍造寺氏と戦った有馬氏は親族であるため、戦いには空鉄砲を撃つほどに消極的だったので「沖田畷の戦い」後に、大村氏は島津氏の追撃も受けずに開放された。
1587年、純忠は咽頭癌と肺結核に侵されて重病の床であったので、代わりに19歳の嫡子・喜前(サンチョ)を豊臣秀吉の九州平定に従わせることで、領地を保証される。
豊臣秀吉
病で衰えた純忠は神父を呼んではたびたび来世の事を話して欲しいと願い、それを聞きながら大いに満足して涙を流したという。
死を悟った純忠は、領内に拘束していた捕虜200名を釈放し、死去の前日には可愛がっていた小鳥を侍女に命じて籠から逃がしたが、この時、侍女が小鳥をぞんざいに扱ったため純忠は怒りをあらわにするが、怒る事は神の意思に反すると思いなおし「小鳥はデウス様が作られたものであるから、今後とも愛情をもって扱ってほしい」と言って侍女に立派な帯を与える。
弱小国を歓迎されない形で継ぎ、様々なストレスに襲われ続けた純忠は、坂口館(長崎県大村市荒瀬町)で55歳にして死去した。
その後、豊臣秀吉によってキリスト教宣教と南蛮貿易を禁止する「バテレン追放令」が出される。
もともと織田信長の政策を継承し、キリスト教布教を容認していた豊臣秀吉が「バテレン追放令」を出した理由は諸説あるが「キリスト教が一向一揆のように反乱につながるのを防ぐため」「キリスト教徒が神道・仏教を迫害をしたため」「ポルトガル人が日本人を奴隷として売買していたため」「秀吉が連れてくるように命じた女性がキリシタンであることを理由に拒否したため」などとされている。
また、純忠の生前の暴走ともいえるキリスト教信仰および優遇も遠因ではあったかもしれない。
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