水野忠邦700x1000


1794年、唐津藩第3代藩主・水野忠光の次男として生まれる。

 

兄・芳丸が早世したため、忠光が唐津藩の世嗣ぎとなり、1812年に父・水野忠光が隠居すると家督を相続した。


唐津
 

唐津藩の表向きの石高は6万石とされていたが、実際の収入は20万石ほどあり、この税金の対象となる6万石の3倍以上もの収入からなる隠し財産が、後に忠邦を出世へと導く。

 

 

忠邦は幕閣(江戸幕府の最高首脳部)として昇進する事を強く望んでいたが、唐津藩に課せられた長崎警備という特別な任務から長崎を長期間離れることができず、そのことが出世への障害となるため、忠邦は蓄財のしやすい唐津藩を捨て、警備の負担がなく出世のしやすい浜松藩に目をつける。


長崎
 

とはいえ、移りたいからといって簡単に国替えがなるものではないため、忠邦は江戸幕府の第11代将軍・徳川家斉の側近である水野忠成が同族である縁と、唐津藩で貯めた金を賄賂に使い、1817年、見事に浜松藩への国替えを成功させた。

 

浜松

さらに忠邦は、三奉行(寺社奉行・勘定奉行・町奉行)の最上位に位置し、最終的に老中まで昇りつめることも可能なエリートの証である寺社奉行となる。

 

 

唐津藩から浜松藩へ領地を替えることで、実収入が大幅に減ってしまうため、忠邦は家臣達の猛反発を受け、国替えを止めるために自殺する家老までいたが、その後に忠邦が幕府の重臣となっていき、逆に賄賂を受け取る立場となっていったことで家臣達の不満は緩和されていった。

 

 

賄賂に賄賂を重ねた忠邦は、1825年に大阪城代に、1826年には京都所司代へと絵に描いたような出世コースを歩み、1828年に江戸城・西丸老中になると、1834年には江戸城・本丸老中へと出世し、ついに1839年、老中首座(老中の最高位)の座を手に入れる。

 

江戸城・本丸
 

1833年の大雨による洪水や冷害による大凶作をキッカケに1839年まで続いた「天保の大飢饉」は、特に東北地方の被害が大きく、その中でも仙台藩は米作に偏った政策を行っていたため被害は甚大で、この江戸三大飢饉のひとつに数えられる危機は、作物の商業化を強めて農村に貧富の差が拡大した。

 

 

この「天保の大飢饉」の影響で、貧困の百姓が多く餓死し、打ちこわしや百姓一揆が度重なり、これらの対策によって幕府は毎年60万両もの赤字を出し続ける。

 

天保の大飢饉
 

老中に昇りつめた忠邦も当初は、将軍・徳川家斉が実権を握っていたため、思うように政治を動かすことは出来なかったが、1841年に徳川家斉がこの世を去ると、忠邦は江戸三大改革のひとつに数えられる「天保の改革」に乗り出す。

 
徳川家斉

  徳川家斉
     

忠邦は徳川家斉時代の贅沢な雰囲気を一掃するべく質素倹約をすすめ、衣食に関する贅沢品は厳しくチェックするのはもちろん、大人向けの挿絵の入った本なども禁止する「ぜいたく禁止令」を出し、庶民の楽しみの多くを奪う。

 

 

そして、江戸にいる出稼ぎ労働者を農村に返し、農村人口を増やすことで米の収穫を増やし、結果として幕府の年貢収入を増加させることを狙った「人返しの法」を出すが、そもそも農村で仕事が無い人々が江戸に出稼ぎに来ているため、彼らを田舎に返したところで米の収入が大幅に増えることはなかった。

 

 

当時、物価の高騰が庶民を苦しめており、幕府から営業の独占権を与えられた商人の集まりである株仲間が物価高騰の原因であると考えた忠邦は、経済をもっと自由にすることで物価高騰が止まることを期待し「株仲間の解散令」を出すが、株仲間を中心として機能していた流通システムが混乱して逆に物価がさらに高騰する。

 

 

さらに、年貢収入の多い江戸や大坂周辺の大名達に他の領地を与え、江戸や大坂周辺の土地を幕府が直接おさめて財政収入を増やそうとした「上知令」は、土地を取り上げられることになる大名・旗本から猛烈な反発を受けて、結果的に取り下げることになった。

 

天保の改革
 

このように忠邦の「天保の改革」はどの政策も失敗に終わり、このことで幕府の脆弱さが垣間見えたことが、幕末の動乱へと繋がった面もある。

 

 

1843年、成功失敗以前に厳し過ぎる改革は多くの批判を呼び、忠邦は老中をやめさせられることになった。

 

しかし、1844年、江戸城本丸が火災により焼失すると、新たに老中首座となった土井利位はその再建費用を充分には集められなかったことから第12代将軍・徳川家慶に見限られ、その結果、徳川家慶は忠邦を老中首座に再任させる。

 
徳川家慶

  徳川家慶 


忠邦が老中首座に再任すると「天保の改革」時代に忠邦を裏切った土井利位は報復を恐れて自ら老中を辞任し、また「天保の改革」時代に厳しい市中の取締りを行った「水野の三羽烏
(鳥居耀蔵・渋川敬直・後藤三右衛門)」でありながら「上知令」時に反忠邦派に寝返った鳥居耀蔵は全財産没収などに追い込まれる。

 

 

しかしながら、重要な任務を与えられるわけでもなかった忠邦は、ぼんやりとしている日々も多く、次第に頭痛・下痢・腰痛・発熱などの病気を理由としてたびたび欠勤するようになり、さらに癪(近代以前、原因が分からない内臓疾患を一括してこう呼んだ)で長期欠勤した末に、老中を辞職した。

 
水野忠邦1

その後「天保の改革」時代の「水野の三羽烏」による明確な証拠がない厳しい取り締まりなどが追求され、忠邦は家督を長男・水野忠精に相続させたうえで出羽国山形藩に懲罰的転封を命じられる。

 
水野忠精
  
水野忠精

さらに「水野の三羽烏」の渋川敬直は豊後臼杵藩主・稲葉観通に預けられ、後藤三右衛門は斬首となった。

 

 

どん底の陥っていた幕府財政を立て直すために改革に意気込みながらも、その全てが失敗に終わった忠邦は、1851年に56歳で病死する。

 


厳し過ぎた改革は、システム的な失敗以上に、多くの反感から協力を取り付けることを困難にした。


度重なる失敗を経験しながら最終的に「享保の改革」を成功させた徳川吉宗との差は、将軍でなかったことに加え、人間の感情を無視し過ぎたゆえかもしれない。




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