黒田官兵衛700x1000


1546年、黒田職隆の嫡男として播磨国(兵庫県南西部)の姫路に生まれる。

 

1561年、姫路付近の豪族・小寺政職(こでらまさもと)の近習となり、1567年頃、父・黒田職隆から家督と家老職を継ぎ、小寺政職の姪にあたる櫛橋伊定の娘・光(てる)を正室に迎え、姫路城代となった。

 
姫路

小寺家の重臣として知恵才覚比類なしと言われた官兵衛であったが、1575年、小寺領は東からは織田信長、西からは毛利輝元が勢力を伸ばし、それぞれ激しくせめぎ合い、両大名の脅威にさらされた小寺家は存亡の危機を迎え、多くの家臣は古くから交流のある毛利に従うことを主張する。

 

しかし、織田信長の将来性を見抜いていた官兵衛の「信長、その勢い天下を覆うべし。」という意見によって小寺家の方針は織田側につくことで決まった。

 

官兵衛が織田信長のもとへと向かって、播磨の豪族の戦力の大小や毛利氏への忠誠心の強弱を説明すると、織田信長はすぐさま自分が大切にしていた圧切長谷部という刀を与えて協力を命じる。

 
圧切長谷部

官兵衛が織田信長に通じたという知らせを聞いた毛利輝元は激怒し、1577年、播磨の豪族達への見せしめのためにも5000の軍勢で小寺領・姫路城へと攻め寄せた。

 

迎え討つ小寺の兵はわずか500で、10倍の敵を前にした官兵衛は、領内の民衆にありったけの旗を持たせて後方に待機させ、500の兵で毛利軍に奇襲をかけると、毛利軍は圧倒的に数の少ない敵のまさかの奇襲に不意をつかれて慌てふためく。

 

官兵衛はその一瞬の形勢有利を見逃さず、後方に控えていた領民に一斉に旗を掲げさせると、毛利軍はこれを織田の援軍が到着したのだと勘違いして大混乱に陥り、撤退を余儀なくされる。

 

この勝利を聞いた織田信長は「敵をすぐさま追い崩し、あまたを討ち取った旨、神妙である。」と官兵衛を評した。

 
織田信長

  織田信長 


1577
年、官兵衛は織田信長が毛利攻めに派遣した豊臣秀吉と運命的な出会いを果たす。

 

秀吉が官兵衛に協力を求めると、官兵衛は織田と毛利のどちらにつくか揺れている播磨の豪族達を巧みな説得で次々に織田側に引き入れていき、播磨の豪族の8割が織田につくことを約束したため、秀吉は大きな抵抗にあうことなく、わずか2カ月で播磨を平定する。

 

人たらしと言われるほど巧みな交渉力を武器にのし上がってきた秀吉は、官兵衛に自身と相通じるものを見出し、二人はたちまち意気投合した。

 

 

一方、味方だと思っていた播磨の豪族が次々に寝返った毛利輝元は58000の大軍を播磨へと送り込み、この毛利の大軍勢に播磨の豪族達は怖れおののき、官兵衛の主君・小寺政職も毛利側に寝返ったのである。

 

官兵衛は再び織田側につくように説得を試みるが、織田に反抗する勢力に捕えられ、摂津の有岡城に幽閉された。

 
毛利輝元
  
毛利輝元

織田信長はいつまでも戻らない官兵衛が敵に寝返ったと考え、裏切り者の官兵衛の息子を殺すように秀吉に命じるが、秀吉はここで官兵衛の息子を殺せば官兵衛は二度と自分に仕えてくれないだろうと考え、官兵衛の息子を匿った。

 

有岡城で官兵衛は毛利側につくように執拗に迫られたが、がんとして首を縦に振らず、幽閉は一年間続き、暗く湿気に満ちた牢獄で、官兵衛は絶え間なく襲う蚊やシラミによって全身が皮膚病に侵され、生死の境をさまよう。

 

1579年、織田軍が有岡城の攻略に成功し、これによって牢獄から救出された官兵衛は、頭髪は抜け落ち、片足が不自由になっていた。

 

歩くこともままならない変わり果てた官兵衛と再会した秀吉は「命を捨てて城に乗り込むこと忠義の至り。我、この恩に如何にして報ずべき。」と言い、これを機に官兵衛は秀吉直属の家臣となる。

 

有岡城
 

1582年、播磨を平定した秀吉は官兵衛とともに備中国(岡山県西部)に進軍し、毛利軍の守りの要である高松城を意表を突く作戦で攻め落とそうと考えた。

 

高松城は周囲を沼地に囲まれた天然の要害であったが、秀吉はその地形を逆に利用しようとし、高松城を囲む全長3キロメートルに及ぶ堤をわずか半月足らずで作り、水を堰き止めようとする。

 

しかし、梅雨時で水かさを増した川は、大木を投げ込んでも大石を投げ込んでも水を堰き止めることができず、官兵衛はこの秀吉の誤算をフォローすべく、大きな石が山のように積まれた30槽の船を川下から引いて隙間なく並べると、船の底を一斉に破って船を沈めて川の水の勢いをゆるめたうえで、2000人の兵でそこに土嚢を積ませた。


高松城水攻め
 

こうして、秀吉の思惑通り高松城が水の中に孤立して、毛利軍があと一歩で陥落しかけた時、秀吉のもとに主君・織田信長が明智光秀の謀反によって討たれた「本能寺の変」の知らせが届く。

 

 

秀吉は動揺のあまり我を忘れて泣き崩れるが、しかし、官兵衛は冷静かつ大胆に秀吉に「御運が開けましたな。天下をお取りなさいませ。」と直言し、言葉の意味を悟った秀吉はハッと我に返った。

 
本能寺の変

 

織田信長の後継者になるためには、その仇を討つことが鍵になると瞬時に見通した官兵衛は、すぐさま毛利側と和睦の交渉に入る。

 

官兵衛は領土割譲の交渉で大幅に譲渡し、また切腹するのは高松城主だけとするなど、破格の条件を出し、織田信長の死が毛利に伝わる前に和睦を結ぶことに成功すると、官兵衛はすぐさま全軍を京都に向かわせるための準備に奔走した。

 

高松城から明智光秀のいる京都までは約200km、道々の領民に炊き出しや水を用意させ、昼夜走り続けた秀吉軍25000は、わずか7日間で京都に到着する(中国大返し)

 

こうして、秀吉は明智光秀に兵力を整える暇を与えず、織田信長の仇討ちに成功した(山崎の戦い)

官兵衛は瞬時の判断で、秀吉を織田信長の後継者争いの一番手に押し上げる。

 

明智光秀
  
明智光秀 


ところが、あまりに知略に長けた官兵衛の実力は、次第に秀吉へ不安を与えるようになっていき、この後、秀吉は四国平定に功のあった官兵衛に一切の恩賞を与えなかった。

 

1586年、秀吉は九州平定の先発隊として官兵衛を派遣し、官兵衛はこの戦いに一人息子・黒田長政を同行させ、19歳の若武者であった黒田長政は勇猛果敢に戦果をあげるが、官兵衛は「匹夫の勇にして大将たる道にあらず。」と、ただ血気にはやるだけで思慮分別がないと戒める。

 

一方、官兵衛は島津家のもとにまとまる九州各地の豪族達に「秀吉公に降伏するならば、本領の安堵は約束する。ただし、貴殿が降伏の意を示したことが、他の大名に知られると貴殿が攻められる恐れがある。秀吉公が九州に来られるまで、降伏の儀は互いに内密とするように。」という内容の書状を送って回った。

 

すると、誰が秀吉につき、誰が味方なのか、寝返りの噂が九州を飛び交い、疑心暗鬼に陥った九州の豪族達の結束は官兵衛の思惑通りに崩れていく。

 

こうして秀吉の本隊が到着すると、九州の武将達は一人また一人と秀吉に恭順の意を示し、秀吉は到着後わずか一月で九州全土を平定できたのである。

 
小早川隆景
  
小早川隆景

九州を平定した秀吉は恩賞を申し渡し、小早川隆景には筑前国52万石、佐々成政には肥後国50万石が与えられたが、秀吉のために最高の舞台を用意した最大の功労者である官兵衛に与えられたのは豊前国の一部わずか12万石であった。

 
佐々成政

  佐々成政
 

ほどなく官兵衛は、秀吉が自分の功績に報いなかった理由を知ることになる。

 

ある時、秀吉は重臣達に「わしの次に天下を取るのは誰だと思うか。」と問いかけ、徳川家康、前田利家、上杉景勝など大大名の名が次々にあがっても秀吉は首を横に振り続け「黒田官兵衛だ。わしは危機に陥った時、たびたび官兵衛に策を尋ねた。官兵衛の答えはいつも思いもつかない優れたものばかりだった。官兵衛の器が大きく思慮が深いことは天下に比類がない。もしあの男が望むなら、すぐにでも天下を取ることができるだろう。」と語った。

 
豊臣秀吉
  
豊臣秀吉

人伝に秀吉のこの言葉を聞いた官兵衛は、自分が天下を奪うのではないかと秀吉が疑っていると考え、愕然とする。

 

1589年、官兵衛は家督を息子・黒田長政に譲ってアッサリと隠居し、この時「心清きこと水の如し」という意味を込めて、名前を黒田如水(くろだじょすい)と改めた。

 

黒田官兵衛1
 

1590年、秀吉は天下統一の最後の難関である北条氏と決戦すべく、徳川家康や前田利家といった名立たる名将を揃え、26万という未曽有の大軍勢で小田原城を包囲する。

 

しかし、北条氏は26万もの兵を抱える秀吉軍はすぐに兵糧がつきて引き返すに違いないと考えて全く動じなかった。

ところが、秀吉は兵糧が尽きるどころか海上輸送によって大量に物資を運び、陣中に町を作り上げてみせる。

 

さらに小田原城を見おろす丘の上に密かに城を築かせ、城が出来あがると周辺の木を切り倒し、一夜にして巨大な城が出現したように見せかけ、北条氏の戦意を奪おうとした。

 

しかし、北条氏は戦わずして敗れるのは武門の名折れと難攻不落の小田原城に籠って徹底抗戦の構えを崩さなかったため、このまま北条氏が降伏しなければ面目の失われる秀吉は「官兵衛の知恵、絞るべき時なり。」と官兵衛を頼る。


小田原城
 

官兵衛が和睦を促す書状とともに上等な酒と魚を北条氏に贈ると、北条氏は返礼として火薬と鉛を「城攻めに用いられんことを乞う。」と贈ってきたため、秀吉軍の誰もがそれを北条氏の挑発だといきり立った。

 

しかし官兵衛は、北条氏は力と権勢を見せつける秀吉に意地になっているが、心の底では戦いを望んではいないと考え、たった一人丸腰で小田原城に向かう。

 

官兵衛は北条氏に「大軍を前にして籠城すること百日、北条殿の武名は十分、天下に伝わった。」と、北条氏の気持ちに寄り添いながら説得を続ける。

 

戦場での幾多の交渉に臨んできた官兵衛は、相手の思いを汲むことで和睦がなることを知っていた。

 
北条氏直
  
北条氏直

こうして北条氏は降伏し、難攻不落の小田原城が開城すると、秀吉は事実上の天下統一を成し遂げるが、この時も秀吉は官兵衛に恩賞を与えなかったが、一方で、敵であった北条氏は、自分達に敬意を払って和睦交渉を進めた官兵衛に、北条早雲から伝わる北条氏の家宝・日光一文字(国宝)を贈る。

 

日光一文字
 

1598年、官兵衛が生涯をかけて仕えた秀吉がこの世を去ると、秀吉亡き後の天下への野心を隠さず自らの勢力拡大を画策する徳川家康と、それを阻止しようとする石田三成との衝突が避けられなくなっていく。

 

こうした情勢において突如、官兵衛は「こういう時こそ絶好の機会が来る。」と動き出し、密かに摂津、備後、周防の3カ所の港に足の速い船を泊め置き、上方の情報をわずか3日で豊前まで伝えさせる環境を整備する。

 

 

官兵衛は秀吉亡き後の天下を狙った壮大な構想を立て、その戦略は、九州の豪族達はそのほとんどが徳川家康と石田三成の対立に呼応して出兵し、もぬけの殻となった九州を平定するのが第一段階とし、次に九州平定で拡大させた戦力を率いて中国地方へと攻め上り、さらに兵を増やしていくのが第二段階、そして最後に徳川家康と石田三成の勝者と対決し、疲弊しているはずの最終決戦の相手を無傷の自分が打ち破り、最終勝利を手中に収めようというものであった。

 

徳川家康
   
徳川家康

この戦略を成就させるには、官兵衛が最終決戦の相手と予想している徳川家康が石田三成と出来るだけ長く戦うことが必要条件である。

 

1600年、石田三成の西軍が、徳川家康の東軍側の伏見城を攻撃すると、その知らせを豊前にいた官兵衛は整備した早舟によっていち早くキャッチした。

 
石田三成
  
石田三成

「花々しく一合戦つかまつる」

官兵衛55歳、今度は己の天下取りのために全知全能を注ぎこんだ戦いが始まる。

 

官兵衛は自分の策略を徳川家康に勘付かれないように、息子・黒田長政に5400の兵を率いらせて東軍に参加させたため、官兵衛が動員できる兵は半分に減ってしまった。

 

そこで官兵衛は、これまで倹約を重ねて貯めていた大金を全てはたいて、農民達を兵として雇いあげると総勢9000の黒田軍がにわかに誕生する。

 

 

豊前の中津を出陣した官兵衛は、隣国の豊後の大友義統(おおともよしむね)と対決し、立石城に追い込むことに成功すると、命の保証を条件に大友義統を降伏させ、その兵を自軍に吸収した。

 
大友義統
  
大友義統

ちょうど同じ頃、徳川家康率いる東軍は74000と、石田三成率いる西軍は82000とが、拮抗する兵力で美濃国の関ヶ原に布陣する。

 

一方、大友氏を降伏させた官兵衛は、わずか4日後、熊谷氏の安岐城を落とし、さらに北上して垣見氏の富来城を攻め立てた。

 
富来城

ところが、破竹の勢いで進軍する官兵衛のもとに「関ヶ原の戦い」の戦況報告が届くと、官兵衛は唖然とする。

 

開戦当初、一進一退で戦線が膠着した「関ヶ原の戦い」は、西軍の小早川秀秋が東軍に寝返って西軍を攻撃し始めると、西軍は混乱し、形成は一気に東軍へと傾き、長期戦が予想された天下分け目の決戦は、わずか半日で東軍が勝利を収めてしまった。

 

さらに、この早期決着の功労者はなんと我が子・黒田長政であったのである。

 

徳川家康の命を受けた黒田長政は、この勝敗を決定付けた小早川秀秋と交渉し、寝返らせることを成功させていた。

 

小早川秀秋
  
小早川秀秋
 

血気盛んなだけと侮っていた息子・黒田長政が、皮肉なことにこの大一番で父の戒めを守り、父親譲りの才能を発揮したことに、官兵衛は「長政の大たわけめ。急いで家康に勝たせてなんになる。」と言って悔しがる。

 

 

想定を大幅に超える誤算から官兵衛は、小倉、久留米、柳川と矢継ぎ早に城を落とし水俣まで進むと、雪だるま式に膨らんだ3万の兵で九州平定を目指して島津氏に迫った。

 

しかし「如水(官兵衛)の働きは底心が知れぬ」と、官兵衛の進軍にただならぬものを察知した徳川家康から官兵衛あてに「今すぐ島津への進軍をやめよ」との書状が届く。

 

九州平定が今だならず、中国、四国を制圧するにはなお一層の時間がかかる現状に、ついに時間切れかと悟った官兵衛は兵を収めて帰国の途についた。

 

水俣
 

豊前に帰国した官兵衛に、息子・黒田長政が「家康公はわたくしの手を取って功績をたたえてくれました。」と「関ヶ原の戦い」での働きを報告すると、官兵衛は「家康公が取った手はどちらの手だ。」訊ね、黒田長政「右の手です。」と答えると、官兵衛は「その時そのほうの左手はなにをしていた。」と言い放った。

 

なぜ徳川家康を左手で殺さなかったのかという、父・官兵衛の本心を知った黒田長政は絶句したという。

 
黒田長政
  
黒田長政

「関ヶ原の戦い」の後、徳川家康は官兵衛に「望みのままの領地を与えよう。」と言ってその本心を探ったが、官兵衛は本望を遂げられなかった悔しさなどおくびも見せず「年老いた私には功名富貴の望みはございません。」と答えた。

 

野心を感じさせるような返答によっては、黒田家の取り潰しの可能性もある場面であったが、官兵衛の答えに徳川家康はそれ以上の追求が出来ず、黒田家は「関ヶ原の戦い」の論功行賞として筑前52万石を与えられる。


福岡城
 

側室を持たなかった官兵衛は生涯を妻ただ一人と添い遂げ、福岡城の一画に屋敷を構えて、妻と水入らずの暮らしを楽しむ余生を送った。

 

1604年、秀吉の死の6年後、官兵衛は59年の生涯を閉じる。

 

 

晩年、官兵衛は病に倒れると家臣達を口汚く罵るようになり、困った黒田長政がなだめに行くと、官兵衛は「わしが嫌われて、早くそなたの世になればいいと思わせるためにしているのだ。」とささやいた。



 

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