足利尊氏700x1000



1305年、鎌倉幕府の御家人であった足利貞氏の次男として生まれる。

 

尊氏が当主となった足利家は源氏直径の東国武士のなかでも筆頭格の名門で、鎌倉幕府内でも北条氏に次ぐ勢力をもっていた。


鎌倉1

典型的な東国武士達は、もともと農民と共に荒れ地を開墾して、その地を領地とした開発領主であったため土地への執着心が強かったが、その土地を手放さないとならない事件が起こる。

 

13世紀後半、元(1271年~1368年まで中国とモンゴル高原を中心とした領域を支配した王朝)が二度に渡って日本に侵攻してきた(元寇)

 

鎌倉幕府は元の再度の襲来に備えて、武士達に沿岸部の警備を命じたり重税を強いるなど、強圧的な政治を行ったため、武士は次第に困窮し、厳しい生活を強いられる。

 

武士達は借金の肩に先祖伝来の土地を失っていく。

 
元寇
 

幕府の実権を握る北条氏は、武士達の困窮をかえりみることはなく、一族で富と権力を独占したため、武士達の不満は高まっていくばかりであった。

 

東国武士の筆頭格であった尊氏は、腐敗堕落した幕府に対する武士達の不満を強く肌で感じていく。


北条高時
  
北条高時
 

1331年、この情勢を好機と見た後醍醐天皇が、鎌倉幕府を滅ぼして権力を朝廷に取り戻そうと挙兵すると、鎌倉幕府は尊氏に派兵を命じ、尊氏は後醍醐天皇の拠る笠置と楠木正成の拠る下赤坂城の攻撃に参加し、幕府軍の勝利に貢献するものの、この頃から幕府に対する反感を強く抱くようになる。


楠木正成
  楠木正成

1333
年、鎌倉幕府のなかでも筆頭格の地位にあった尊氏は、再び倒幕軍を起こした後醍醐天皇を討つために京都に向かうが、途中で後醍醐天皇の倒幕の綸旨(天皇の意志を伝える文書)に応じ、尊氏が倒幕軍についたことで多くの武士が倒幕軍についた。

 

 

尊氏の謀反をきっかけに倒幕の軍勢は、東は陸奥国から西は九州まで膨れ上がり、新田義貞が150年続いた鎌倉幕府と北条氏を滅ぼす。


新田義貞
  
新田義貞
 

武家政権であった鎌倉幕府が滅亡すると、後醍醐天皇は全ての政治を自らが行う事を宣言し、平安時代を理想として公家に富や権力を集中させる「建武の新政」が始まり、武士の生活は再び苦しめられることとなった。

 

 

それは倒幕のために戦った武士達の期待を裏切るものであったが、そもそも異民族蔑視する「夷」という表現を用いて鎌倉幕府を「東夷」と呼んでいた後醍醐天皇には武士に対する差別意識があったのである。

 

 

「建武の新政」では全ての恩賞は後醍醐天皇が下す「綸旨」によって決められ、この頃、武士に与えられた土地が後から没収されて公家や寺社に渡されてしまうという事が度々起きていた。

 

実際に、後醍醐天皇の綸旨には「信濃国の伴野庄という土地は玉井孫五郎という武士に与えた」直後「土地を没収した」と記されているものが残っている。

 
後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

「太平記」には当時の武士が「これでは御家人はみな公家の奴隷のようだ。」と怒りを込めている様子が描かれていて「建武の新政」に対する武士の不満は日ごとに大きくなり、生活が苦しい武士達のなかには窃盗などを行う者が現れ、地方では大規模な反乱も相次いだ。

 

 

これを見て立ちあがった尊氏は、武士のための奉行所を独自に設置して相談に乗るようになり、より多くの武士達の期待が尊氏に集まっていく。

 

 

新政権の一員として京都に留まっていた尊氏であるが、先祖伝来の東国はなによりも大切な場所で常に気にかけていたため、尊氏は後醍醐天皇に掛け合い、弟・足利直義を鎌倉に派遣して東国を足利の支配下に置いた。

 

ところが、2年後の1335年、旧幕府の残党が東国で挙兵し、弟・足利直義の軍は旧幕府側に敗れて鎌倉の支配権を奪われたので、京都の尊氏は直ちに出陣すると、各地で旧幕府勢力を次々に撃破し、瞬く間に鎌倉の奪還に成功する。

 
鎌倉2

勝利を収めた尊氏は京都に戻ろうとせず鎌倉に留まり、一族の拠点である鎌倉、ひいては東国の支配を盤石なものにするために武士の心を掴むことを考えた。

 

後醍醐天皇に安芸国を没収された小早川祐景(こばやかわすけかげ)という武将に尊氏は「再び領地の所有権を与え、自らの武力でその権利を守る。」という内容の書状を送っている。

 

このように尊氏は、戦で活躍した武士に恩賞として独断で土地を与え、土地を没収された武士達のために天皇の許可なく次々と土地を返還していった。

 

 

これに激怒した後醍醐天皇は、尊氏を朝敵とみなし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍を派遣する。

 

足利尊氏1
 
尊氏の「尊」の字は、天皇になる前の後醍醐天皇が尊治親王だったためであり、尊氏は武士にはない雅で威風堂々とした後醍醐天皇を敬愛していた。

度々名前を変更することが珍しくない時代において、後醍醐天皇の敵になった後も「尊氏」と名乗り続けていたことからも、尊氏が生涯において後醍醐天皇に対する憧れを持ち続けていたことが分かる。

 

 

尊氏は朝廷に逆らう意思がないことを見せるため、武士にとって命ともいえる本結を切り落とし、政務の一切を弟・足利直義に譲ると宣言して、鎌倉の寺に引きこもって戦いを放棄した。

 

 

寺に引きこもった尊氏に代わって出陣する家臣達は、東へと迫りくる足利討伐の朝廷軍を迎え討つが、三河、駿河と大敗北をくり返して壊滅寸前となり、追い詰められた足利軍は箱根に立て篭もる。

 

足柄峠
 
ここを破られれば鎌倉まで一気に攻められる状況で、尊氏はここが一門の運命の分かれ目だと感じ、朝廷軍と戦うことを決意してザンバラ髪のまま出陣した。

 

 

尊氏の求心力から大軍勢となった足利軍は、東国の鎌倉と西国を隔てる重要な防衛ラインで、古来から東海道の難所とされてきた足柄峠(神奈川県南足柄市)で決戦に挑む。

 

この防衛ラインを破られたらもう後がない足利軍は、天地を揺るがすほどだったと伝えられる激戦「竹ノ下の戦い」の末、朝廷軍を撃破した。

 
竹ノ下の戦い
 

劇的な勝利を収めた足利軍は、この時、京都へと敵を追撃すべきか、それとも鎌倉に戻るべきか、意見が分かれ、ここでピタリと足を止めることになる。

 

弟・直義や東国の武士達は強固に戻ることを主張するが、倒幕以降、尊氏のもとには西国の武士達も参集しており、彼らは京都で戦うことを主張した。

 

そして、この分かれた意見の選択は、武家政権の拠点を鎌倉と京都のどちらにするかということを意味する。

 

 

この時から150年前の1180年「富士川の戦い」で勝利し、今の尊氏と同じ選択を迫られていた源頼朝は、平氏を追撃するために京都に向かおうとするが、家臣達の意見を受け入れて鎌倉に戻り、鎌倉幕府を開く。

 
源頼朝
  
源頼朝

尊氏の脳裏には、この源頼朝が下した伝説の決断がよぎるが、尊氏には西国の武将が多く味方につき、彼らをないがしろにして期待を裏切れば、彼らは朝廷の味方につくかもしれないという状況の違いがあった。

 


そして、さらに源頼朝の時と決定的に違う時代背景ある。

 

関東武士達が抱えた借金の先は主に京都の寺社であり、元寇以来、借金を返せなくなった関東武士達は土地を手放してきた一方で、後醍醐天皇が所有していた荘園は主なものだけでも全国に220カ所あり、他にも公家や寺社など多くの荘園所有者が集中していた京都には全国から圧倒的な金品が集まり、盛んな経済活動が行われていた。

 

 

京都の経済活動を取りこんでこそ、文化の中心地である京都を手に入れてこそ、関東武士の地位も上がると、尊氏は判断する。

 
足利尊氏4
 

1336年、尊氏は鎌倉から京都へ攻め上ることを決断したが、奥州から駆け上ってきた北畠顕家の軍に京都から追い出されて九州へと逃れることになった。

 
 

この頃、尊氏が戦功のあった武士に出した感状には、戦いがあったその日のうちに恩賞を約束していたことが記されている。

 

当時、感状を即日に発効することは珍しく、尊氏の細かな心配りで武士達は尊氏への忠誠を誓い、尊氏のもとには次々と武士が集まり、朝廷軍から寝返る者も出てきた。

 


九州で武士を集めて大勢力となった尊氏は、再び京都を目指し、摂津国湊川(現在の兵庫県神戸市中央区・兵庫区)で後醍醐天皇側の新田義貞・楠木正成の朝廷軍と衝突する「湊川の戦い」に勝利し、この戦い以後、朝廷軍は尊氏に抗う力を失う。

 
湊川

尊氏が日本の政治の中枢であった京都を制圧後、後醍醐天皇に対抗するため新たに光明天皇を擁立して、室町幕府を開くと、これを認めない後醍醐天皇は吉野(現在の奈良県吉野郡吉野町)に逃れて新しい朝廷を立ち上げた。

 

その結果、天皇家は北朝(京都朝廷)と南朝(吉野朝廷)の二つに分裂し、南北朝時代が始まる。

 
光明天皇
  
光明天皇

後醍醐天皇は、尊良親王・恒良親王に新田義貞を従えさせて北陸へ、懐良親王を征西将軍に任じて九州へ、宗良親王を東国へ、義良親王を奥州へ、と各地に自分の皇子を送って北朝側に対抗させようするが、劣勢を覆すことができないまま病に倒れた。

 

 

この南北朝時代は、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一する1392年まで56年続く。


後小松天皇
  
後小松天皇
 

尊氏は幕府を京都に開くという決断が、南北朝の動乱を招いてしまったという現実に苦悩して「早く現世と縁を絶ちたい。現世の幸福に代えてでも、どうか来世はお助け下さい。」と記した文書を清水寺に納めている。

 

 

1350年、尊氏と意見が対立していた弟・足利直義が南朝側につくと、尊氏に実子として認知されず足利直義の養子となった足利直冬も南朝側につき、南朝と北朝の抗争「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」は激化した。

 

足利直義
  
足利直義
 
1358年、尊氏は足利直冬との合戦で受けた矢傷による背中の腫れ物がもとで、京都二条万里小路第(現在の京都市下京区)にて52歳で死去した。

 

足利尊氏2
 

一方で、尊氏は新しい武士の政権の安定に心血を注ぎ、室町幕府の施政方針を示した「建武式目」を改定する追加本を次々に出し、その数は60を越えた。

 

「恩賞は家柄や身分を問わず成果次第である。」

「恩賞が遅れた場合、尊氏自身に直訴してよろしい。」

 

こうして天皇や貴族の本拠地であり続けた京都に、初めて誕生した武士の政権が安定していくと、地方から多くの武士団が移住し、京の町はさらに発展していった。

 
祇園祭

日明貿易など東アジアとの交流も盛んになり、平安京以来の雅な公家文化に質実剛健な武家文化が融合し、生け花、能楽、茶の湯など、この時期に日本独特の伝統文化の礎が確立する。

 

室町時代に入って一大消費地となった京都では、商業も飛躍的に発展し、この頃「町衆」と呼ばれる有力商人達が現れはじめ、その町衆が莫大な財力や磨かれた美意識を競い合う「祇園祭」もこの時代に今の形をとるようになった。

 

 

尊氏が幕府を開いたことで、京都は政治・経済・文化、全ての面で新たな都となった。




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