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1118年、伊勢平氏の棟梁である平忠盛の長男として生まれる。

 

 

1156年、権力を一手に握っていた鳥羽法皇の死後、後継の座を巡り対立を深めていた後白河天皇と崇徳上皇には、それぞれの陣営に警護役である武士達が連なり、双方の武力衝突に至った「保元の乱」において、平氏の頭領であった清盛は後白河天皇側についていた。

 

 

崇徳上皇は寝静まる夜明け前に館(白河殿)に火をかけられ、駆け引きをする間もなく勝負は決し、その結果、崇徳上皇は讃岐に流さる。

 
保元の乱
 

勝者である後白河天皇側の清盛は、播磨守となり、さらに大宰府(現在の福岡県太宰府市)の次官にも任じられ、これが武士である清盛が権力の階段を登る第一歩となった。

 

播磨国(現在の兵庫県南部)は都と西国を結ぶ瀬戸内海の要衝であり、大宰府は中国大陸への窓口であったため、後の清盛にとってこの二つを得たことは大きな意味を持つ。

 
大宰府
 

一方で「保元の乱」を制した後に上皇となった後白河天皇は、一部の武士を寵愛したため、朝廷内に新たな対立が生まれることになる。

 

「保元の乱」から3年後の1159年、二つに分かれた貴族勢力とともに武士も両派に分かれた。

 

西国に拠点を持つ清盛率いる平氏と東国に基盤も持つ源義朝率いる源氏、「保元の乱」では協力し合って崇徳上皇軍を倒した両者が力と力で激突する。

 

 

源義朝は清盛が京都を留守にしている隙に、まず16歳だった二条天皇の身柄を確保、さらに後白河上皇も御所に幽閉し、優勢に争いを進めた。

 
源義朝
  
源義朝


その時、都を離れて紀伊半島の熊野へと向う途中であった清盛はほとんど武器を携えておらず、このまま京都へ戻っても勝負の行方は明らかであったが、熊野の水軍が丸腰の清盛一向に鎧や弓矢などの提供を申し出る。

 

かつて清盛の父・平忠盛が熊野本宮を造営して以来、平氏はこの地に強い影響力を持っていた。

 

 

しかし、京都の六波羅の屋敷に戻った清盛はすぐに反撃に打って出ずに、秘策を計画する。

 

平清盛1
 
源義朝らが陣取る御所の北の門から一台の牛車が出てくると、暗闇の中で源氏の軍勢が取り囲む。

牛車の中にいた4人の娘が神社への参詣だと告げると、兵達はいぶかしながらも中にいたのが女なので牛車をそのまま通す。

 

ところが、牛車の中にいた4人のうち一人は、十二単をまとった二条天皇であった。

 

御所をあとにした牛車は清盛の待つ六波羅に到着する。

 

清盛が狙い通りに、敵を油断させ、密かに二条天皇を奪うと、ほどなく後白河上皇も御所を脱出し、天皇を手中にした清盛は官軍となった。

 

牛車
 
そうして清盛は兵を挙げ、御所に立て篭もっていた源氏の軍勢を巧みに外へとおびき出すと、本拠地である六波羅で戦いを挑む。

 

この平氏と源氏による武士の覇権をかけた決戦は、地の利を活かした平氏が勝ち取り、天皇と上皇を奪われた源氏は賊軍となって敗走する。

 

源義朝は東国に逃げる途中、裏切りにあって殺され、その首は都で晒された。

 

 

清盛は謀反に加担した貴族や武士を容赦なく粛清するなかで、源義朝の幼い子ども達の命だけは清盛の母の強い願いから助けてしまう。

そして、14歳の源頼朝は伊豆へ流し、2歳の源義経は鞍馬山へと預けられる。

 

 

「平治の乱」を収めた43歳の清盛は恩賞として、武士で初めて「正三位(上から5番目の位)」に任じられ、参議へと特進し、天皇のそばで国政へ発言できるようになった。

 

平治の乱
 

1160年、武士として初めて政治への参画が認められた清盛は、そのお礼と報告をかねて厳島神社を参詣する。

 

海に浮かんでいるかのような壮麗な社殿を誇る世界遺産・厳島神社は清盛によって造営され、古来より瀬戸内海で生きる人々から崇敬を受けた。

 

厳島神社4
 
各地から都へと運ばれる物資、それを略奪する海賊の追討を代々朝廷から命じられていた平氏は、瀬戸内を勢力の基盤とし、その海域を守っていたのである。

 

平氏は海賊を武力で圧するだけではなく、海賊行為を止めさせ、地形や潮流の複雑な瀬戸内海の水先案内役として海賊を自らの水軍として組み入れた。

 

瀬戸内海
 

この頃、都では若き二条天皇とその父・後白河上皇という血を分けた親子が政治の主導権を巡って対立を始め「保元の乱」「平治の乱」に続く新たな戦いの火種がくすぶる。

 

清盛は「平治の乱」で御所から救いだした二条天皇から後見役として強い信頼を得て、深く政治に関わる一方で、二条天皇と対立する後白河上皇とも良い関係を保っていた。

 

清盛は仏教を深く信仰していた後白河上皇のために、蓮華王院(三十三間堂)を造営し、千手観音象をはじめ様々な宝物を奉納する。

 
蓮華王院
 

1165年、二条天皇が23歳の若さで急死すると、明確な後ろ盾を失った清盛は、躊躇することなく後白河上皇への接近を強めた。

 

 

二条天皇の死後、後白河上皇は自身の7歳の皇子で、清盛の義理の甥にもあたる高倉天皇を後継者とする。

 

まだ子どもであった高倉天皇は後白河上皇にとって扱いやすく、清盛にとっては義理の甥という近い存在であり、両者の利害が一致する高倉天皇の存在は二人の関係を強くした。

 
 

後白河上皇との関係を強化した清盛はわずか一年半の間に大納言、内大臣、さらに官職の最高位である太政大臣へと猛烈なスピードで出世していく。

 

高倉天皇
  
高倉天皇

太政大臣となり官職を極めた清盛であるが、相次ぐ病に襲われ、1168年、六波羅の屋敷を離れて出家する。

 

 

一方で、清盛は摂津国・福原(現在の神戸)の大輪田泊(おおわだのとまり)と呼ばれる小さな港の改修に着手した。

 

大輪田泊は水深が深く潮の干満の差も少ないため、遠浅の海岸が続く大阪湾に比べて大きな船が停泊するのに都合の良い地形である。

 

九州の太宰府を窓口に宋(960年~1279年に存在した中国の王朝)との貿易を行っていた当時の日本は、大宰府で大型船から小型船へと荷を積み替えてから、荷物を都へと運んでいたため、清盛はこうした手間を省くために福原に直接大型船を入れて、ここを日宋貿易の拠点にしようと考えた。

 

兵庫区(大輪田泊)

その大輪田泊には東からの強い風でしばしば船が難破するという欠点があったため、清盛はまず福原周辺の山を切り崩してその土砂を使い、海岸から沖に通じる30ヘクタールの埋め立て地を作り、その先に強風を防ぐための防波堤を設けて港を築いたのである。

 

 

さらに清盛は、大宰府から福原までの瀬戸内海航路の整備も行う。

 

大小700余りの島々と潮流が複雑に入り組む瀬戸内海の難所の一つであった音戸の瀬戸(現在の音戸大橋が架かっている)は、清盛が大型船を通行させるために島を切り開いて作り上げたものである。

 
音戸の瀬戸
 

1170年、前年に清盛にならって出家していた後白河法皇を、清盛は福原に招き、宋の商人に引き合わせると、陶磁器や宋銭さらにオウムなどの珍しい動物を献上し、これを契機に日宋貿易はさらに発展した。

 

清盛は福原の整備に力を注いで貿易の利権を独占し、日宋貿易を活性化してさらなる富の拡大を目論んだのである。

 

しかし、9世紀末の遣唐使廃止以来、皇族が異国の人々と接見することはなかったため、当時の貴族の日記には「未曾有のことなり。天魔の仕業か。」と、清盛に対する反発が朝廷内で芽生えていく。


平清盛3
 

後白河法皇と清盛の親密な関係は、平氏一門の繁栄にも繋がり、清盛の長男・重盛は大納言、三男・宗盛は中納言、娘の徳子は高倉天皇に嫁ぐ。

 

 

清盛をはじめ平家一門の一人一人が反映を祈って厳島神社に奉納した国宝「平家納経」は、贅をつくされ33巻の経典全てに金や水晶がほどこされ、平安時代最高峰の装飾芸術といわれている。

 

平家納経
 
しかし、武士として朝廷の警護役から身を起こし、権力の階段を駆け上がり、圧倒的な富を背景に栄華を極め、絶大な力を誇示する清盛を疎ましく思う勢力が現れた。

 

1177年、反清盛・平氏打倒を掲げ、貴族中心の政治体制を取り戻そうとする人々が京都の鹿ヶ谷(現在の京都市左京区)に密かに集結する。

 

「鹿ヶ谷の陰謀」といわれるこの密談が行われた藤原俊寛の山荘には、清盛の権勢の前に完全に影響力を失っていた後白河法皇の姿もあった。

 

しかし、この企みは密告によって露呈し、清盛は陰謀に関わった者を斬首や島流しなど厳罰に処し、側近を失った後白河法皇の孤立化は進んだ。

 
鹿ヶ谷
 

1178年、清盛の孫となる高倉天皇の皇子(後の安徳天皇)が誕生し、清盛の立場がさらに有利となった。

 

 

ところが1179年、清盛の後継者に決まっていた長男・重盛が死去すると、白河法皇は重盛の所領を全て召し上げて平家一門が相続することを認めず、さらに重盛の喪中にも関わらず遊興にふけて平氏の体面を踏みにじったため、清盛と後白河法皇の対立は決定的なものとなる。

 

 

それまで清盛は朝廷の権威を重んじる姿勢を示し「鹿ヶ谷の陰謀」でも後白河法皇は一切咎めなかったが、度重なる後白河法皇の挑発的な振る舞いに堪忍袋の緒が切れ、ついに後白河法皇を捕えて幽閉した。

 
後白河天皇
  
後白河法皇

清盛は19歳の義理の甥・高倉天皇を後白河法皇の代わりに上皇へ、そして3歳の皇子(清盛の孫)を安徳天皇として即位させる。

 

 

こうして清盛が武士として初めて政治の実権を奪って築き上げた武士の世は、江戸時代まで600年以上続くこととなっていく。

 

平氏は全国の領地の半分近くを独占、一門の者は「平氏にあらざるは人にあらず」と言い放った。

 
安徳天皇
  安徳天皇

1180
年、清盛は都を京都から日宋貿易の拠点にと開いた福原に移し、400年近く続いた平安時代で初めての遷都が行われる。

 

しかし、この遷都を境に次々と干ばつや疫病の流行が起こり、深刻な病が高倉上皇を襲ったため、人々は遷都が招いた災いだと噂した。

 

清盛はやむなく都を京都に戻すが、ここで平氏にとって最大の危機が訪れる。

 
六波羅
 

「平治の乱」で敗れてからおよそ20年、勢力を再び強めた源氏が、平氏打倒を掲げて、かつて清盛が命だけはと助けた源頼朝を中心に東国で挙兵した。

 

源頼朝やその弟・義経に率いられた源氏の軍勢は各地で平氏を打ち負かして京都へと迫る。


源頼朝
  
源頼朝

源氏との激しい戦いの最中の1181年、清盛は熱病に倒れて、そのまま63歳でその生涯を閉じた。


清盛は死の間際「頼朝が首をはね、我が墓の前にかくべし。」と言い残す。

 

平清盛4
 
清盛を失った平氏は源氏軍に都を追われ、西へ西へと敗走し、清盛の死から4年後の1185年、源義経を総大将とする源氏軍に「壇ノ浦の戦い」で敗れて滅亡する。

 

瀬戸内の海とともに力を伸ばした平氏がその海の中に没していった。




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