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10世紀後半の京の都では天皇を中心に貴族達による政治が行われていた。

 

貴族はおよそ150人で、その一握りの上位20人が公卿(左大臣・右大臣・内大臣・大納言・中納言・参議)と呼ばれて国政を司り、こうした公卿の座を巡って、貴族達の間では激しい抗争が繰り広げられる。


京都

数々の陰謀を働かせた結果、公卿の大半を占めるに至った藤原氏は、今度は次第に一族同士で相争うになっていった。

 

 

966年、道長は藤原兼家の五男として京都に生まれる。

 

道長の父・兼家は実の兄である藤原兼通との出世争いで不遇な目にあいながらも、そこから這い上がり、朝廷での権力を築き上げ、右大臣にまで出世した人物であった。

 

道長はこうした一族の骨肉の争いを目の当たりにしながら、どうして肉親同士で争わないとならないのかと苦悩しながら育つ。

 
藤原兼家
  
藤原兼家


父・兼家の五男であった道長は病弱であったこともあり、兄達を差し置いて朝廷で昇進することをあまり意識していなかった。

 

 

しかし、987年、道長が22歳の時、左大臣・源雅信の娘・倫子(りんし)との結婚という大きな転機が訪れる。

 

この当時の結婚は、夫が妻の家に入る「婿入り婚」であったため、妻の家柄が夫の将来を大きく左右し、道長も結婚によって倫子の父・源雅信が所有する莫大な財産と名誉を手にすると、計らずとも出世の糸口を掴むことになった。

 

988年、道長は参議を飛び越して権中納言となって、公卿の一員に加わる。

 

藤原道長
 
それから7年後の995年、疫病が全国で蔓延し始め、朝廷でもわずか3カ月のうちに道長の兄を含む7人の公卿達が次々に亡くなった。

 

これによるポストの欠員から、権大納言の道長と内大臣・藤原伊周(ふじわらのこれちか)の二人が次の政権トップを担うと目されるようになる。

 

藤原伊周は道長より上位だが、道長から見て甥(道長の兄・道隆の嫡男)であった。


 

間もなく、朝廷で新たな人事が発表されると、道長は右大臣に昇進、伊周は内大臣に留任となり、道長は伊周を抜く。


一条天皇の母・詮子
(せんし)は道長の姉で、甥の伊周よりも弟の道長の昇進を一条天皇に強く訴えかけていたことが、この逆転劇に大きく影響した。


一条天皇
  
一条天皇

最高職である左大臣が空席だったため、道長は30歳で事実上の政権トップへと登りつめる。


 

しかし、当時の藤原一族・藤原実資(ふじわらのさねすけ)が書き綴った日記「小右記」では、道長に出世で追い越されて憤る伊周の行動が記されており、この人事は大きな波紋を広げた。

 
藤原実資
   
藤原実資


995
年、御所で伊周が道長と乱闘さながらの口論となり、さらにその3日後、道長と伊周の従者同士が衝突し、道長の従者が殺される。

 

 

しかし、これに対してもし、伊周に制裁を加えれば、父・兼家のように一族を骨肉の争いに巻き込んでしまうと考えた道長は、報復のための行動を取らなかった。

 

 

996年、藤原為光の四女に通う花山法皇を、伊周は自分の想い人である藤原為光の三女が目当てと誤解して矢を放つという乱心行為を起こし、大宰府への流罪となった。

 

 

伊周の失脚後、道長はそれまで空席だった左大臣に昇格し、数々の幸運が続いた結果、名実ともに政権トップの座が転がり込んで来る。

 

 

穏やかな政治を目指し、一族同士が争うことのない政権をいかにして作るか考え続けた道長は、実はその生涯で陰謀を働いたことがなかった。

 

京都2
 

左大臣に就任してから20年に渡って道長が綴った日記である国宝「御堂関白記」は、そのほとんどが朝廷の日々の出来事に対する簡潔な内容であるが「(道長の娘・彰子)産気づく、午の刻、ヘソの緒を切る。」など、天皇家に嫁がせた娘達に関する事はイキイキと詳しく書き留めている。

 

 

自分の娘が産んだ皇子が天皇に即位すれば、道長の血を引く天皇が生まれることになり、道長は孫である天皇の権威を背景に長期安定政権を築くことを考えるようになった。

 

道長は天皇家との間に外戚(母方の親族)関係を築くことに執念を燃やし、朝廷での地位を確固たるものにしようとする。

 

藤原道長1
 
999年、道長の長女12歳の彰子(しょうし)20歳の一条天皇に嫁ぐ。

この時、一条天皇には正室の定子と側室が他に3人いたが、一条天皇の寵愛はとりわけ定子へ向けられていた。


 

一条天皇は彰子の寝所には寄りつかず、嫁いでから5年が過ぎても彰子が身ごもる気配はなく、道長は焦りを覚えるようになる。

 

源氏物語
 

そこで道長は、源氏物語の作者としてその教養の高さがすでに宮中で評判となっていた紫式部に彰子の教育を委ね、妃としての魅力を養うことで、向学心の高い一条天皇の気を引こうとした。

 

彰子のもとには、紫式部の意向に従って漢籍や古今東西の珍しい書物が揃えられ、一条天皇はその書物に興味を持ったことをキッカケに彰子のもとへ通うようになっていく。

 

1008年、彰子が一条天皇に嫁いでから9年、ついに彰子と一条天皇との間に皇子・敦成(あつひら)親王が産まれる。

 

 

天皇との血縁の濃さがそのまま発言力となったこの時代、道長は自らの政権を安定させるキッカケを掴み、その喜びは尋常ではなかった。

 

紫式部
  
紫式部
 

1011年、一条天皇が病のために32歳の若さでこの世を去ると、次の皇位に就いたのは道長の姉・超子と冷泉天皇との間に生まれた三条天皇となる。

 

しかし、道長の意向が認められて皇太子は敦成親王になり、道長は次の皇位が自らの孫に約束されたことでひとまず安心した。

 

ところが、さらにその次の皇太子の座を巡り、道長と三条天皇の思惑がぶつかる。

 

三条天皇は次の皇太子には自分の皇子をと考えていたが、道長はもう一人の孫・敦良(あつなが)親王を立てることを望んだ。

 
三条天皇
  
三条天皇
 

自分が生きているうちに2代先の皇太子まで決めておきたいと考えた道長は、なんと三条天皇に譲位を迫るという強引な行動に出る。

 

三条天皇は憤慨して「私に対する左大臣の無礼な態度は甚だしく、寝食もままならないほどで憂鬱極まりない。」と当然のごとく譲位には応じないが、道長は計5回も三条天皇に譲位の要求を突き付けた。

 

 

1015年、御所が2度に渡って焼け落ち、公卿達は口々に「天下滅亡の時が来た。」と怯え出す。

 

これを好機と見た道長は「火事は天皇の不徳が招いたものとせん。」と三条天皇に強く譲位を迫り、ついに三条天皇は道長に屈して譲位の要求を呑んだ。

 

 

1016年、道長の孫・敦成親王が後一条天皇として皇位を継ぎ、悲願であった天皇の外戚となった道長は、この日の日記に「天晴(てん はれ)。」と記している。

 
御堂関白記
 

さらに一年後、道長は思惑通り、もう一人の孫・敦良親王を皇太子とすることに成功し、これによって後一条天皇に続いて、その次の天皇も自分の孫となることが約束された。

 

 

一方で、この頃52歳となっていた道長は、老いと病から激しさを増す胸の痛みに死期を感じ始め、自らの死後も末永く政権を安定させたいと強く願うようになる。


 

そこで道長は、天皇の外戚が他に出現しないように、なんと孫である後一条天皇の妃に自分の娘・威子を立てようとした。


公家の間で近親婚はそれほど珍しいことではないが、さすがに甥と叔母の結婚は当時でも極めて異例である。

 

平安京

10181016日、政権安定にこだわる道長の執念が実り、威子が後一条天皇の妃となった。

 

道長の娘と孫が夫婦になったその日の夜、道長は宴の席で居合わせた公卿達を前に歌を読んだ。

 

「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることもなしと思へば」

 

藤原道長3
 

1019年、道長は病からの救いを求めるかのように出家し、日記から最後の一月はひたすら念仏を唱え続ける日々であったことが分かる。

政権の最高権力を手に入れた道長も、その晩年は一人のか弱い病人であった。

 

1027年、道長は61歳でこの世を去る。

 
 

 

後一条天皇から三代に渡って道長の孫が皇位を継承し、この間に、それまで長いこと続いていた権力抗争は終わりを告げ、かつてない長期安定政権を迎えた朝廷では王朝文化が花開いた。

 
京都3
 

道長の天皇家との婚姻戦略は、政治的にだけではなく、文学の面でも平安を生み出したのである。




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