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かつて、大王と呼ばれた天皇と有力な豪族によって統治されていた倭国・大和王権は、現在の奈良県明日香村をその拠点としていた。

 

574年、聖徳太子(厩戸皇子)は天皇家の皇子として生まれる。

 

585年、物部氏や蘇我氏に擁立され聖徳太子の父・用明天皇が即位。


用明天皇
  
用明天皇
 

物部氏は古くから王権に仕えてきた豪族で、軍事と神事を司り、古の神々を祀る儀式は大和王権の政治と強く結びついていた。

 

蘇我氏を率いる蘇我馬子(そがのうまこ)6世紀の半ば朝鮮半島の百済から倭国にもたらされた仏教を信仰し、この外来思想をもとに新たな国造りを目指して権力の拡大を目論んでいた。

 

 

物部氏と蘇我氏はそれぞれ天皇家と深いつながりを持ち、皇位継承にも大きな影響力を持つ二大勢力として対立。

 

 

物部氏の実力者である物部守屋(もののべのもりや)は仏を異国の神として排斥して、当時に流行した疫病の原因も蘇我氏が仏教を信じたためとし「聖徳太子絵伝」には物部守屋が蘇我氏の建立した寺院を焼き払う場面が描かれている。

 

物部守屋
  
物部守屋

587年、用明天皇が即位後わずか2年で病に倒れて崩御すると、物部氏と蘇我氏が倭国の主導権を巡って全面対決する日がやってきた。

 

 

この古くからの神々を奉じる物部氏と新たな思想である仏教を奉じる蘇我氏の戦いで、仏教を厚く信仰する伯父・蘇我馬子を通じて仏教に出会った聖徳太子は蘇我軍の一員として参戦する。

 

 

激闘の末、戦いは蘇我軍の勝利に終わったが、長く激しい戦いに民は傷つき、血で血を洗う権力抗争のなかで死んでいく者達を目の当たりにした聖徳太子は、仏教の教えとは程遠い過酷な現実を知った。

 

聖徳太子伝
 
政治の実権を握った蘇我馬子は甥にあたる崇峻天皇を即位させるが、崇峻天皇が徐々に蘇我馬子が大和王権を牛耳っていることに不満を漏らすようになると、蘇我馬子は配下の者に崇峻天皇を亡き者にするよう命じ、592年、崇峻天皇が暗殺される。

 

 

続いて蘇我馬子は聖徳太子の叔母にあたる推古天皇を即位させ、大和政権が始まって以来、初の女性天皇が誕生した。


推古天皇
  
推古天皇
 

593年、20歳となった聖徳太子は推古天皇のもとで摂政に任じられ、蘇我馬子と共に政治を担う立場となる。

 

この時、聖徳太子は「太陽や月は、天上にあって大地をあまねく照らす。政をおこなう者が、太陽や月のようにあまねく国を照らすものとならなければ、幸福な国を創ることはできない。」と決意の言葉を残した。

 

聖徳太子3
 

この頃、東アジアでは300年以上も分裂していた中国が「隋」によって統一されるという大きな変化を迎え、これは稀にみる巨大帝国の出現であり、朝鮮半島の国々や倭国にとって存亡に関わる出来事となる。

 

 

「隋」の都・長安(現在の西安)は碁盤の目のように整然と道路が敷かれ、壮麗な建造物が建ち並び、世界でも稀にみる大都市であった。

 

 

中国との関係が深い朝鮮半島の高句麗・百済・新羅は、この「隋」という脅威が誕生すると、すぐさま使者を送って君臣関係を結ぶ。

 

 

倭国は中国とは100年以上に渡って正式な国交を結んでいなかったため、巨大帝国「隋」出現にどのような対応をすべきか検討するための情報が不足していた。


長安
 

聖徳太子は高句麗からやって来た慧慈(えじ)という僧侶から、長安では広大な寺院がいくつも建立され、高度な建築や装飾工芸の技術が発達し、絵画や彫刻などの美術も盛んになり、多彩な仏教文化が花開き、「隋」の初代皇帝・文帝(楊堅)は仏教を保護する国造りを進めていることを聞く。

 
文帝
  
文帝


聖徳太子は寺院建立や仏像鋳造など様々な技術を倭国に伝えた仏教と同様に、中国や朝鮮半島では政治家や役人の道徳・倫理を説く思想として尊ばれていた儒教も学んだ。

 

 

「隋」は官僚制度が整えられ、強固な中央政権国家が成立し、その官僚の規律として儒教が導入され、仏教や儒教を重んじる先進的な国であった。

 

 
一方で、倭国の政治制度は重要な事柄は中央の有力豪族の思惑で決められ「隋」の進んだ制度とは程遠いもので、多くの民が貧しく苦しい生活を余議なくされ、その現実は聖徳太子が思い描いた慈悲の心で民をあまねく照らすものとはかけ離れていた。

 

「聖徳太子伝暦」では、聖徳太子は飢えた民と出会うと、自ら衣をぬいで、その民の身を覆い「かわいそうに、どんな境遇の人なのだろう。この道ばたで行き倒れた人は。」と嘆く場面が描かれている。

 

奈良県明日香村
 

598年、高句麗が「隋」の支配地域に侵入し、激怒した文帝は直ちに高句麗に大軍を差し向けると、強大な「隋」の軍隊を前に高句麗は屈服する。

 

 

朝鮮半島の国々と深い関係にあった倭国にとって、大国「隋」の朝鮮半島への影響力の増大は脅威であり、友好関係を結ぶ必要に迫られていた。


高句麗
 

600年、聖徳太子は120年ぶりに倭国の使者を中国に派遣(第一回遣隋使)する。

 

「隋」の役人は倭国の使者に対して「倭国ではどのように政治がおこなわれているのか。」と問うと、倭国の使者は王の権威を強調しようと思うあまり「倭国の王は、天を兄とし、太陽を弟とする。王は、兄である天が明るくなるまで王宮で政をおこない、弟である太陽が昇ったあとは政をしない。」と、古くから伝わる神話をそのまま持ち出して答えた。

 

 

これを聞いた文帝は、倭国は神話を語る政府機構のない国だとあきれ、外交を結ぶような相手ではないとバカする。

 

 

聖徳太子はこの屈辱的な外交失敗から大きな改革に乗り出していく。

 

第一回遣隋使
 

603年、聖徳太子は「冠位十二階」を制定する。

 

聖徳太子は冠位を表す名称に儒教の徳目を表す6つの言葉をさらに大小に分けて「大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智」12の冠位を作り、これは豪族のなかから一族の地位や血縁に関係なく、実力のある者を登用し、位を授けるという革命的な制度であった。

 

聖徳太子は豪族が支配する倭国を官僚が政治を取り行う国へ変え、その結果、中央集権国家の基礎が形づくられていく。

 

 

さらに聖徳太子は明日香の地に新たな宮殿「小墾田宮(おはりだのみや)」建造し、この小墾田宮は朝庭と呼ばれる儀式を執り行う場と上級の官人達が毎朝出勤する庁(まつりごとどの)と呼ばれる建物が造られた。

 

小墾田宮1
 

そして604年、誕生したばかりの官僚がどのように行動するべきか、その規則や道徳を示す「憲法十七条」が完成する。

 

聖徳太子はこの「憲法十七条」に理想国家実現への願いを込め、仏教や儒教などの思想を学んだことを活かして官人がいかに正しく政治を行うか具体的に記した。
 

「官人は、朝早く出勤し、夕方は遅く退出せよ。公の仕事には、暇はない。」


「官人たるもの、貪りを絶って、欲を棄て、民の訴えを公正に裁かなければならない。私利私欲や賄賂によって判断を誤るようなことは、官人にあらざる行いである。」


「すべての官人は、礼の精神を根本とせよ。上に立つ官人が礼をもてば、世が乱れることはない。官人に礼あれば、民も必ず礼を守り、国家は自ずと治まる。」

 
小墾田宮2

また仏教の教えに従い行いを正すことも説く。


「篤く三宝を敬え。三宝とは、仏、経典、そして僧である。人間は極悪の者はまれである。教えられれば、道理にしたがうものである。仏の教えを篤く敬えば、よこしまな心や行いを正すことができる。」

 
 

そして人と人との関わりについて持つべき心の有り様を示す。


「こころのいかりを絶ち、人の違うことを怒らざれ、人皆心あり。我必ずしも聖にあらず。彼必ずしも愚かにあらず。共にこれ凡夫。ここをもちて、かの人いかるといえども、かえりて我が失ちを恐れよ。」

 

 

幼い頃から、豪族達の凄惨な争いや骨肉の王位継承争いを間近に見てきた聖徳太子は、己の利や一つの考えに囚われれば必ず争いが起こることを知り、仏教、儒教、外来の思想や法律など優れたものを分け隔てなく「憲法十七条」に採り入れた。

 

聖徳太子4
 

第一回遣隋使の屈辱以来、聖徳太子は「冠位十二階」「憲法十七条」「小墾田宮の建設」など着々と改革を進め、今こそ再び大国「隋」に使者を送り、国交を取り結ぶべき時と決断する。

 

 

聖徳太子が使者に抜擢した小野妹子は、有力な豪族ではなく、能力によって「冠位十二階」の「大礼」の位を授かった人物であった。

 

小野妹子
  
小野妹子
 
607年、二度目の遣隋使が倭国を旅立ち「隋」へと向かう(第二回遣隋使)

 

この時、小野妹子は倭国の国書を携え、そこには「日出づる処の天子、書を日没する処の天子へ致す。つつがなきや。」と、まるで倭国と「隋」が対等以上かであるように記されていた。

 

倭国の国書を読んだ二代目の皇帝・煬帝は「世界に天子はこの煬帝ただ一人、倭国の無礼な使者は二度と取り次いではならない。」激怒する。

 

 

しかし、この時「隋」は高句麗との戦争が再び目前と迫っていたため余計な敵を増やしたくないという事情があり、さらに、小野妹子が公式の冠位を持つ使者であったため倭国が官僚制度を整えた国家に成長していることを知り、倭国を外交交渉が可能な相手と認めた。

 

煬帝
  
煬帝
 
608「隋」の使者が初めて倭国の地を訪れる。


「隋」の使者は倭国に敬意を払い、
4回深々とお辞儀をする倭国の作法をとって、小墾田宮で煬帝の国書を読み上げた。

 

 

それは屈辱の第一回遣隋使から8年、アジアの大帝国「隋」が聖徳太子の改革によって生まれ変わった倭国を公式に認めたといえるものである。

 

聖徳太子1
 

聖徳太子は若い頃から大切にした仏教の慈悲の心を形にし、薬を作る施薬院(せやくいん)、病んだ者を治療する療病院(りょうびょういん)、飢えた者を養う悲田院(ひでんいん)、悪を絶ち善を修める敬田院(けいでんいん)などの施設を建て、民の救済に力を尽した。

 

奈良県明日香村2

605年から現在の法隆寺のあたり斑鳩(いかるが)に居を構え、仏教の経典の研究に没頭していた聖徳太子は、622222日、48歳で病に倒れ、理想国家の建設に捧げた生涯を終えた。

 

「日本書記」ではこの時の様子を「日月、輝きを失い。天地、既に崩れぬ。」と記している。

 



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