大石内蔵助700x1000

大石家は平安時代中期に平将門追討の功により貴族に成り上がった藤原秀郷の末裔小山氏の一族で、代々、近江国守護佐々木氏のもと栗太郡大石庄(滋賀県大津市大石東町・大石中町)で現地の田荘などで実務を取りし切る下司職をつとめていた。

 
藤原秀郷
  
藤原秀郷

その後、大石氏は一時期没落するが、大石良勝(内蔵助の曽祖父)は大坂夏の陣での戦功が著しかったため、豊臣政権の五奉行筆頭・浅野長政の三男・浅野長重(浅野長矩の曽祖父)の永代家老(武家の家臣団のうち最高の地位)に取り立てられ、浅野長重の長男・長直が赤穂に転封されると大石家も赤穂に移る。

 

赤穂城

1659年、内蔵助は大石良昭の長男として誕生し、1673年に父が34歳の若さで亡くなると、内蔵助は祖父・良欽の養子となり、内蔵助が19歳の時に祖父・良欽が死去すると、その遺領1,500石を受け継ぎ、21歳の時に正式な筆頭家老となった。

 

 

平時における内蔵助は凡庸な家老だったようで、昼行燈(ぼんやりした人や役に立たない人をあざける言葉)とアダ名され、藩政は老練で財務に長けた家老・大野知房が牛耳っていたといわれている。

 

1686
年、内蔵助は但馬豊岡藩京極家筆頭家老・石束毎公の18歳の娘りくと結婚し、1688年には長男・松之丞(後の良金)を、1690年に長女くう、1691年に次男吉之進、また1699年に次女るり、さらに1702年には三男・大三郎(後に広島藩に仕える)をもうけた。

 

 

1694年、備中松山藩水谷家が跡継ぎが無かったため改易(身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること)となった際、内蔵助の主君・浅野長矩(あさのながのり)が城の受取りを任じられたため、内蔵助は改易への不満から徹底抗戦の姿勢を見せていた松山城(岡山県高梁市内山下)に単身入り、水谷家の家老・鶴見内蔵助を説得して無事に城を明け渡させる。


大石内蔵助3
 

1700年に浅野長矩が参勤交代(各藩の藩主を定期的に江戸に出仕させる江戸幕府の法令)により赤穂を発ち、浅野長矩は1701年に、東山天皇の使者達の接待役を幕府より命じられ、接待の指南役は高家肝煎(江戸幕府における儀式や典礼を司る)の吉良義央であった。

 

 

1701421(元禄14314)、幕府の一年間の行事の中でも最も格式高いと位置づけられていた「勅答の儀」が執り行われるはずであったが、この儀式が始まる直前、江戸城松之大廊下において、接待役にある浅野長矩が吉良義央に対して「この間の遺恨覚えたるか」と叫び、脇差で斬りかかる。

 

脇差は本来突くほうが効果的であるため、浅野長矩は吉良義央の額と背中に傷をつけただけで致命傷を与えることはできず、側にいた梶川頼照が即座に浅野長矩を取り押さえた。


 

浅野長矩は取調べで刃傷に及んだ理由を「遺恨あり」としか答えておらず、遺恨の内容も語らなかったので、この事件の原因は真相不明であるが、最も有力とされている説は、賄賂をむさぼるのが好きな吉良義央に対して浅野長矩が賄賂を拒否したために辱められたという「賄賂説」で、映画やドラマなどではこの説を採用するものが多い。

 

 

朝廷との儀式を台無しにされた第5代将軍・徳川綱吉は激怒し、浅野長矩は大名としては異例の即日切腹を命じられ、さらにの赤穂浅野家はお家断絶となる。

 

一方で、吉良義央には何の咎めもなかった。

 

浅野長矩
  
浅野長矩

事件から2週間ほどで、次々と江戸から赤穂へ「刃傷事件」「浅野長矩切腹」「赤穂藩改易」といった情報が送られ、一通りの情報が揃うと、幕府の処置に不満で徹底抗戦を主張する篭城派と、開城すべきとする恭順派に分かれるが、赤穂藩士の多くは喧嘩両成敗の武家の定法に反する幕府の裁定を一方的なものであると強い不満を持つ。

 

 

こうした中、内蔵助は城をあけ渡した上で浅野長矩の弟・浅野長広を立てて「浅野家再興の嘆願」および「吉良義央の処分」を幕府に求めることで藩論を統一し、篭城殉死希望の藩士たちから「義盟」の血判書(誓いの強固さを示すため血液で捺印する)を受け取った。

 
浅野長直
  
浅野長広
 

さらに内蔵助は、赤穂藩改易のため紙くず同然になる藩札(江戸時代に各藩が独自に領内に発行した紙幣)を六分替え(額面の6割交換)という高い率で幕府の正規の貨幣(金・銀・銅貨)との交換に応じ、城下の混乱をおさえ、家中が分裂する危険の回避につとめる適切な処置を行う。

 

 

また、内蔵助は「浅野家再興」と「吉良義央処分」を求めた嘆願を再三行うが、赤穂城受け取りの使者に任命された隣国の龍野藩藩主・脇坂安照と備中足守藩藩主・木下公定率いる軍勢に赤穂城を明け渡すこととなる。

 

 

赤穂城退去後の内蔵助は、遠林寺(兵庫県赤穂市加里屋)において藩政残務処理にあたり、この間は幕府から29人扶持(一人扶持=米5俵で、1日あたり5合の1年分)を支給された。

 
遠林寺跡
 

残務処理を終えた内蔵助は生まれ故郷である赤穂を後にし、家族とともに京都山科で隠棲する。

 
山科は、内蔵助の母方の大叔父にあたる進藤俊式(進藤家は公家である近衛家の家臣の家柄で分家が浅野家に仕えていた)の親戚である進藤長之(近衛家家臣)が管理していた土地であった。

また、大津の錦織にいた母の叔父(阿波蜂須賀藩家老・池田玄寅)の子・三尾正長からの資金援助を受ける。


京都山科
 
そして、京都東山の来迎院(泉涌寺塔頭)の住職・卓巖和尚が大石家の外戚にあたり、内蔵助はこの人物を頼って来迎院の檀家(寺の会員のようなもの)となって寺請証文(寺院が檀家に対して発行した文書で身分証明書となった)を手に入れた。

 

こうして内蔵助は、山科の居宅と来迎院を行き来し、旧赤穂藩士たちと密議をおこない浅野家再興を目指す。


来迎院

この頃、浅野家遺臣達の意見は二つに分かれはじめる。

 

一つは奥野定良・進藤俊式・小山良師・岡本重之ら赤穂詰めの高禄取り家臣を中心とした「お家再興優先派」で、もう一つは堀部武庸・高田郡兵衛・奥田重盛ら江戸詰めの腕自慢な家臣を中心とした「吉良義央への仇討ち優先派」であった。

 

 

リーダーである内蔵助は、どっちつかずの態度で分裂を回避しながら、実際にはお家再興に力を入れて「吉良義央への仇討ち優先派」にしかるべきタイミングを待つよう促すという立場をとる。


堀部武庸
  
堀部武庸

しかしながら、お家再興よりも吉良義央の首を挙げることを優先する堀部武庸らからは再三にわたり江戸へ来るようにとの書状を送りつけられたため、内蔵助は「吉良義央への仇討ち優先派」をなだめるために原元辰・潮田高教・中村正辰・進藤俊式・大高忠雄らを江戸へ派遣するが、派遣した彼らは逆に堀部武庸に論破されて「吉良義央への仇討ち優先派」になってしまったため、内蔵助自身が江戸へ向かうことになる。

 

 

内蔵助は前川忠太夫宅(東京都港区三田)で堀部武庸と会談し、浅野長矩の一周忌での決行を約束した。

 

江戸での用事を済ませた内蔵助は京都へ戻り、盟約に加わることを望む長男・大石良金(おおいしよしかね)の参加を認める。

1702年、妻りくをはじめとする大石良金以外の家族を妻の実家である豊岡へ帰す。


大石良金
  
大石良金
 

そしてこの頃から内蔵助は、吉良家や上杉家(米沢藩の第4代藩主・上杉綱憲は上杉氏に養子入りした吉良義央の長男)の目を欺くため遊廓などでの遊びが激しくなった。

 

 

また、徐々に脱盟者も出始め、その一人は「吉良義央への仇討ち優先派」の中心人物であった高田郡兵衛だったため、面目を失った「吉良義央への仇討ち優先派」は発言力を弱らせ、内蔵助はこれをチャンスと「浅野長広(浅野長矩の弟)に浅野家を継がせるかどうかの幕府の判断が決まるまで仇討ちはしない。」ということを決定する。

 

 

しかし、吉田兼亮と近松行重を江戸に派遣して「吉良義央への仇討ち優先派」にその決定を伝えさせると「吉良義央への仇討ち優先派」は納得せずに堀部武庸が京都へ乗り込んで来た。

 

 

そして、ついに幕府は浅野長広が浅野家を継ぐことを認めず、浅野長広を広島藩お預かりとすることを決定し、これにて「お家再興」は絶望的となった。

 

 

お家再興が絶望的となり、幕府への遠慮が無用となった内蔵助は、堀部武庸なども呼んで会議を開催し、吉良義央を討つことを決定する。


大石内蔵助2
 

討ち入りを決定した内蔵助は、盟約の当初に提出させていた誓紙を一人一人に返し(神文返し)、死にたくない者は脱盟するようにと促すと、奥野定良・進藤俊式・小山良師・岡本重之・長沢六郎右衛門・灰方藤兵衛・多川九左衛門ら「お家再興優先派」が続々と脱盟していき、最大で約120人いた参加者から約60人が脱落した。

 

 

内蔵助は軽部五兵衛宅(神奈川県川崎市幸区平間)に滞在して、ここから同志達に第一訓令を発してから江戸に入り、息子・大石良金が滞在中であった日本橋近くの旅館・小山屋(東京都中央区日本橋本町)の裏店を拠点に定めると、同志に吉良邸を探索させ、吉良邸絵図面を入手する。

 

 

また吉良義央の在邸確実の日を知る必要もあった。

内蔵助は1214日に吉良邸で茶会がある情報を入手し、この茶会の予定日が確かな情報と判断すると、討ち入りを同日夜に決定する。

 
吉良義央
  
吉良義央
 

122日に深川八幡の茶屋で全ての同志達を集結させ、討ち入り時の武器・装束・所持品・合言葉・吉良の首の処置などを事細かに定め、さらに「吉良の首を取った者も庭の見張りの者も亡君の御奉公では同一。よって自分の役割に異議を唱えない。」ことを確認し、これが最終会議となった。

 

 

 

1215日未明、47人の赤穂浪士は吉良屋敷に討ち入る。

 

表門は内蔵助が大将となり、裏門は大石良金が大将を務めた。

2時間近くの激闘の末に、赤穂浪士達はついに吉良義央を探し出し、これを討ち果たして首を取る。


大石内蔵助4

見事に主君の仇討ちを成し遂げた赤穂浪士一行は江戸市中を行進し、浅野長矩の墓がある泉岳寺へと引き揚げると、吉良義央の首を亡き主君の墓前に供えて仇討ちを報告した。

 

 

その後、吉田兼亮・富森正因の2名が赤穂浪士一行と別れて大目付・仙石久尚の屋敷(東京都港区虎ノ門)へと向かい、自首手続きを行うと、幕府から石川弥一右衛門・市野新八郎・松永小八郎の3人が泉岳寺へ派遣され、内蔵助ら赤穂浪士一行は彼らの指示に従って仙石久尚の屋敷へ移動する。

 


幕府は赤穂浪士を4つの大名家に分けてお預けとし、内蔵助は肥後熊本藩主・細川綱利の屋敷(東京都港区高輪)に預けられ、大石良金は伊予松山藩主・松平定直の屋敷(東京都港区三田)に預けられたため、この時が親子の今生の別れとなった。

 

細川綱利邸
 

仇討ちを義挙とする圧倒的な世論の中で、幕閣は助命か死罪かで揺れたが、天下の法を曲げる事はできないとした将軍の御用学者・荻生徂徠(おぎゅうそらい)などの意見から切腹が決定し、赤穂浪士を預かっている4大名家に切腹の命令がもたらされる。

 
大石内蔵助の切腹

同日、幕府は吉良家当主・吉良義周(吉良義央の養子)の領地没収と信州配流の処分を決定。

 

 

内蔵助は細川家家臣の安場一平の介錯で切腹し44歳で生涯を終える。

その亡骸は主君・浅野長矩と同じ泉岳寺(東京都港区高輪)に葬られた。




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