石田三成700x1000

1560年、近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)の豪族である石田正継の次男として誕生。

 

 

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の同盟軍が戦った「姉川の戦い」は両軍合わせて15000の死者が出るという凄惨を極めたものであった。

 

 

当時11歳の石田三成はその戦場からわずか5キロメートルのところで暮らしており、3年後、織田信長に滅ぼされた浅井氏に代わりその地の領主となったのが、三成がその生涯を捧げる羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)である。


滋賀県長浜市石田町
 

さっそく城下の再建に乗り出した羽柴秀吉は、整備した長浜の城下町に市を開き、鍛冶などの工業を奨励し、長浜は瞬く間に全国から人とモノが集まる商業都市として生まれ変わっていった。

 

 

1577年、近江の人々が笑顔を取り戻す姿を見つめながら羽柴秀吉の領国経営に心酔して成長した三成は18歳の時に士官を求める。

三成の才智謀慮を感じ取った羽柴秀吉は、まだなんの実績もない三成に300石の高い禄を与えて家臣に召し抱えた。

 

秀吉と石田三成

1583年、羽柴秀吉が柴田勝家と織田信長の後継を争った大事な一戦「賤ヶ岳の戦い」で24歳の三成は、賤ヶ岳七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)と呼ばれるメンバーをさしおいて「先懸衆」として先陣をきる。

 

しかし、三成はこの戦場でなんの武功も上げられず、また、その後も戦場での槍働きで活躍することはなかった。

 

 

武功こそ立身出世の条件であった戦国時代でありながら羽柴秀吉は戦下手の三成を重臣として使い続ける。

 

豊臣秀吉
   
豊臣秀吉
 

1590年、羽柴秀吉が天下統一を果たし、時代が戦乱から太平へと大きく転換する中で、三成はその真価を発揮していく。その代表的なものが太閤検地である。

 

 

検地とは田畑の面積を測り、その生産力を石高として把握する調査であるが、検地奉行に抜擢された三成はその方法を根本的に変えた。

 

これまで検地はその土地の領主が自ら申告していたので、不正な申告が横行し、石高の実態がつかめなかったが、

三成は他の家臣と共に国中の農村に直接おもむいて土地を測り直したのである。

 

 

その結果、例えば島津氏が治める薩摩では、215000石とみなされていた石高が倍以上の58万石と評価されるなど、三成の検地改革によって初めて全国の大名の力が正確に把握できるようになった。

 

 

当時、長さや体積の単位は地域によってマチマチであったが、三成はこれを全国的に統一してモノサシや升などを作り、こうして単位が統一されたことにより流通は円滑となって、全国の商業は大きく発展する。

 

 

緻密な計算が得意で経済感覚に長けた三成は豊臣秀吉(羽柴家が姓を豊臣に改める)の右腕として辣腕をふるい、豊臣秀吉は三成の功績を認めて筑前・筑後33万石の大名になることを勧めた。

 
太閤検地
 

しかし三成は、この所領が倍増することになる破格の加増に対して「私が九州の大名になってしまったら大阪で政務をつかさどる人がいなくなります。」と断る。

 

 

自分の所領を増やすよりも豊臣政権のもとでいち早く統一国家を建設し、故郷の近江が復興したように国全体に秩序と繁栄を築くことこそが三成の願いであった。

 

 

 

しかし、1598年、豊臣秀吉が死去し、まだ6歳の豊臣秀頼がその後継者となると三成の運命が大きく変わっていく。


石田三成3
 

三成が「天下が騒乱にあった時、太閤様が現れ世をしずめ、今ようやくこの繁栄を得た。誰が後継ぎの秀頼公の世になることを祈らない者があろうか。」と言う一方で、徳川家康は天下は実力ある者が取るものだと豊臣秀吉の喪が明けぬうちに野心を見せ始めた。

 

 

三成は再び戦乱の世に逆戻りさせてはいけないと徳川家康の行動を警戒するも、豊臣秀吉の死から4カ月後の冬、徳川家康は突然に諸大名との縁組を盛んに始める。

 

大名同士の縁組は特定の大名が勢力を拡大することになるため、豊臣秀吉の生前から固く禁じられた行為であった。

 

 

徳川家康の行動が豊臣体制の切り崩しと見た三成であったが、豊臣家の一家臣にすぎない三成が大大名である徳川家康の行動を止める事は容易ではなかったため、三成は対抗手段として「五大老・五奉行」制にうったえる。

 

 

五大老(徳川家康・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元)・五奉行(石田三成・前田玄以・浅野長政・増田長盛・長束正家)は幼い豊臣秀頼の補佐役として政権を担う中枢であり、重要な課題に関してはこの「五大老・五奉行」10人の合議で取り決めるのが約束事であった。

 

 

三成はこの合議の約束を盾に徳川家康の行動を糾弾し、全員が三成に同調したため、さすがの徳川家康も大名同士の縁談をあきらめざるを得なくなる。

 

 

1599年、徳川家康を実力でけん制できる唯一の大名である前田利家が死去すると、かろうじて三成主導でされていた政権運営が揺るがされていく。

 

前田利家
  
前田利家

前田利家が死去したその夜、かねてより奉行として豊臣政権で幅を利かす三成に反感を募らせていた加藤清正・福島正則ら七人が突如、三成を襲撃した。

 

 

三成は間一髪で襲撃を免れるが、徳川家康が七人の武将を説得して襲撃をあきらめさせたため、三成は徳川家康に弱みを握られることとなる。

 

徳川家康から「今回の騒動は三成殿にも責任がある。自国に戻って12年、謹慎されよ。」と告げられた三成は、襲撃から8日後、近江の佐和山城で謹慎することとなった。

 

 

こうして、豊臣秀吉の死からわずか半年足らずで、三成は徳川家康により豊臣政権の中枢から追放される。

 

 

1599年、権力への野心を隠さなくなった徳川家康は豊臣家の根拠地である大阪城に入城し、豊臣秀頼の後見役におさまると、大名達の所領を独断で加増し始めた。

 

さらに徳川家康は上杉景勝を武力討伐するため会津へと向かう。

 

この上杉景勝討伐への出兵は三成をおびき出すための徳川家康の戦略であった。


徳川家康
  
徳川家康
 

徳川家康の挙兵から一月後、三成の無二の友である越前敦賀の大谷吉継が佐和山城の三成のもとを訪ねると、三成は「天下は家康のものになろうとしている。戦いによって除くべし。」と打ち明ける。

 

 

三成の挙兵計画を聞いた大谷吉継は、もはや徳川家康にかなう者はいないと無謀な戦いを止めようとするが、三成の心が決まっているのを悟ると、大谷吉継も「三成とは昔からの親しい友だ。今さら見放すわけにもいかない。」と心を決めた。

 
大谷吉継
  
大谷吉継
 

三成は徳川家康の号令に従い上杉景勝の討伐に向かう諸大名を、逆に徳川家康を討つ軍に変えてしまう事を考えるが、奉行職を解かれた三成には諸大名へ命令する権限がなかったため「今度の家康公の行いは太閤様に背き、秀頼様を見捨てるがごとき行いである。」と徳川家康の弾劾状を有力大名へ送る。

 

 

豊臣秀頼の威光は功を奏し、弾劾状によって進退を決めかねていた毛利輝元が呼応して総大将として大阪城に入ると、これを機に状況を眺めていた西国大名達は雪崩をうって大阪城に結集した。

 

 

1600年、こうして三成は「関ヶ原の戦い」において西軍となる9万の大軍勢が誕生し、会津に向かった徳川家康軍8万を凌ぐ勢力を自ら表に出ることなく組織する。


毛利輝元
  
毛利輝元
 

西軍は手始めに徳川家康の西の本拠である伏見城を攻め落とした。

 

 

「大阪に大軍現る」を知った徳川家康は、西から西軍9万と北から上杉軍3万に挟み討ちにあえばひとたまりもないため、急遽、江戸へと引き返し、江戸から動けなくなる。

 

この時点ではまだ三成は徳川家康に勝っていた。

 

石田三成2
 

三成は西軍を大阪を守る4万、丹後方面に4000、伊勢方面に3万、美濃方面に2万、北陸方面に70005つに分け、さらに別働隊として会津から上杉軍36000が対峙する形を作る。

 

そして、三成は東軍の豊臣恩顧の大名達に豊臣秀頼の命という大義を掲げた徳川家康弾劾状を送りつけ、東軍8万のうち最大5万が西軍に変わる可能性を探った。

 

 

 

ところが、三成率いる美濃方面軍2万が伊勢方面軍3万と合流するために大垣城(岐阜県大垣市郭町)に入ると、大垣城から25kmに位置する清州城(愛知県清須市一場)に東軍の先鋒45000が突然現れる。

 

 

軍を分散させ2万しかいない三成は、45000の東軍に対して身動きがとれない状態となるが、さらに三成を驚かせたのは東軍の先鋒を務めたのが福島正成・黒田長政といった豊臣秀吉への忠誠心が強いことで知られた武将達だった。

 

豊臣恩顧の武将が徳川家康になびくわけがないと信じていた三成の自信が揺らいだ。

 

大垣城
 
豊臣恩顧の大名も敵に回すことになった三成は戦略を見直し、西軍の総大将である毛利輝元に大阪城からの出陣を要請するが、徳川家康と毛利配下の大名との間で「戦闘に参加しなければ毛利の所領は保証する。」という密約が交わされていたため、毛利輝元はいっこうに大阪城から動かなかった。

 

 

徳川家康は所領の安堵や加増の空手形をエサに多くの大名の参戦を封じており、三成も諸将が徳川家康に籠絡(巧みに手なずける)されていることに勘付いていく。

 

三成は豊臣家への忠誠よりも現実的な利に走る人のもろさを嘆いていて「人の心、計りがたし。」ともらした。

 

 

毛利輝元が出陣せず、徳川家康が大垣城から4キロメートルの地点に到着すると、三成はこうなっては戦下手の自分が大将となるしかないと決戦の覚悟を決める。

 

その夜、三成は軍勢を集めて「明日、早朝に関ヶ原へ出陣すべし。」と告げた。


石田三成1
 

午前8時、豊臣政権による統一国家を守ろうとする石田三成率いる西軍85000、次なる天下人を狙う徳川家康率いる東軍75000による「関ヶ原の戦い」が開戦。

 

 

三成隊に襲いかかる東軍先鋒部隊に対して、三成隊は長槍部隊で応戦して押し返す。

 

そして、三成は山の上に布陣する味方に加勢を求め、何度も狼煙を上げるが彼らは動かず、この時、西軍で実際に戦闘に参加していたのは、宇喜多秀家・小西行長・大谷吉継の隊だけであった。

 

 

正午、西軍側から味方に攻撃をする裏切り者が出始め、午後1時、大谷吉継隊は持ち堪えられずに全滅し、三成の無二の友である大谷吉継が命を落とす。

 

さらに宇喜多秀家・小西行長の隊も敗走し、残るは三成隊だけとなると、各所で戦っていた東軍部隊が総出で三成隊めがけて殺到した。


宇喜多秀家
  
宇喜多秀家 

 

その様子について「三成は戦下手と評されていたが、その戦いぶりは尋常ではなかった。」と記されているものがあり、三成隊は一人また一人と壮絶な討ち死にをしてみるみる消耗していく。

 

午後2時、三成隊が全滅して「関ヶ原の戦い」は東軍の勝利で終わる。

 

 

当代随一の知性を持ちながらも戦下手で人望がなかったと評されている三成であるが、実際のところ裏切らなかった配下の武将達は三成のために命を捧げて戦った。

 

 

「関ヶ原の戦い」に敗れた三成は独り落ち延びて滋賀県木之本町の山中にある洞窟に身を隠すが、6日後、追手に捕まり、京都へと護送される。


大蛇の岩窟
 

そして「戦に敗れて自害しないのはなぜか?」と問われた三成は「私は再起するつもりでいた。」と答えた。

 

三成は市中引き回しのうえ、賀茂川のほとり京都六条河原で処刑され、40歳でその生涯を終える。

 

 

 

「関ヶ原の戦い」後、三成の居城である佐和山城も、なんとか徳川家康の関心を買おうと先を争う小早川秀秋・脇坂安治ら東軍に寝返った武将達に攻められ落城した。

 

佐和山城

その城内は、再び天下が乱れることを憂いた三成の一途な生き様を写したかのように、豊臣政権で奉行を務めた男の居城とは思えぬほど質素そのものであったといわれている。

 

 

 

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