藤堂高虎700x1000

1556
年、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)の土豪・藤堂虎高の次男として生まれる。

 

藤堂氏は先祖代々、近江国(現在の滋賀県)19村を支配する小領主であったが、乱世の中で没落し、父の代には地侍に落ちぶれていた。

 

高虎の父は安定した収入が得られるように知行取り(土地の支配権を任される)を目指したが叶わなかったため、高虎は武功を挙げて父の果たせなかった知行取りになることを夢見た。

 

滋賀県犬上郡甲良町

1570年、近江浅井郡姉川河原(現在の滋賀県長浜市野村町付近)で行われた織田信長・徳川家康の連合軍と浅井長政・朝倉義景の同盟軍が戦った「姉川の戦い」で、15歳の高虎は浅井軍の足軽として初陣を迎える。

 

 

この初陣に強い想いをかけていた高虎は、当時の平均身長を30cmは上回る188cmの巨体の持ち主で、子どもの頃から一度も泣いたことがないという筋骨隆々の剛の者だったという。

 

 

高虎はこの初陣で見事に敵の武将の首を取る手柄を立て、さらに翌年、最初に敵の首を取る一番首の手柄をたてるなど、戦のたびに浅井軍の中で戦功を挙げる。

 

姉川の戦い
 

浅井長政は高虎の活躍を高く評価して褒美の刀を授けたが、1572年、高虎はその浅井家を離れ(浅井氏はその後すぐに織田信長に滅ぼされる)、浅井家から目と鼻の先であった阿閉貞征(あつじさだゆき)のもとへ士官した。

 

 

新天地にのぞむ17歳の高虎は家中の裏切り者2人を始末するように命じられ、剣の腕が立つといわれていたその2人を難なく討ち取り、阿閉貞征は高虎の聞きしに勝る働きに目を見張るが、高虎はこの阿閉家もわずか1年で去ってしまう。

 

 

次に高虎が士官したのは、これまで仕えた主君の敵である織田信長の家臣・磯野員昌(いそのかずまさ)であった。

 

 

敵も味方もお構いなく渡り歩く高虎が、決して手放さずに次の士官先に持参したのが、日本全国どこの領主にも通用する「感状」という武士の履歴書のようなものである。

 

戦場には必ず一人一人の武将の活躍を記録する「目付」という記録係おり、この記録をもとに領主から合戦後に発行されるのが「感状」で、この「感状」があったから高虎は次々に主君を変えることが出来た。

 

磯野員昌
  
磯野員昌
 

磯野員昌からこれまでの武功を評価されて召し抱えられた高虎は、80石の知行を与えられ、18歳にして父が一生かかっても果たせなかった知行取りとなる。

 

その後、磯野員昌の所領を織田信長の甥・織田信澄(のぶずみ)が継ぎ、高虎は織田一門の家臣となった。

 

高虎は織田信澄のもとでも数々の武功を挙げるが、知行が80石から上がらなかったので、織田信澄に武功に見合う知行に上げて欲しいと求めるも聞き入れられなかったため、高虎は織田の家名もやっと手にした80石もアッサリと捨てて三度目の浪人となる。

 

 

 

次に高虎は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の弟・羽柴秀長に仕える。

 

羽柴秀長の所領は8500石しかなかったが、羽柴秀長は高虎を以前の3倍以上となる300石の知行で迎え入れた。

 

 

高虎は羽柴秀長軍の先鋒として多くの戦に出陣し、1582年、織田信長が「本能寺の変」で世を去ると、羽柴秀吉が一気に天下を掴み、高虎は羽柴家に仕えて7年で知行4600石、一軍を率いる武将へと出世する。

 
羽柴秀長
  
羽柴秀長

しかし一方で、高虎は戦場での武功だけに頼る出世に限界を感じるようになっていた。

 

羽柴家には賤ヶ岳七本槍(福島正則・加藤清正・加藤嘉明・平野長泰・脇坂安治・糟屋武則・片桐且元)と呼ばれる戦上手の家臣がひしめいており、優秀な人材が揃う羽柴家でさらに出世するにはどうすれば良いのか考えた高虎は30歳の頃に「築城」に目を付ける。

 

10ヶ所を越す城攻めを経験していた高虎は城の重要性に着目して「縄張」と呼ばれる城の設計を研究した。

 

羽柴秀吉の四国平定戦で難攻不落といわれた阿波国(徳島県徳島市一宮町)の一宮城を攻めた時、高虎は一か月経ってもおちないこの城の秘密を探るために、夜一人で一宮城の堀の深さを測りに行ったために鉄砲で撃たれるなど、時に危険を冒しながら攻めにくい城の設計術を研究する。

 

 

そんな高虎が造った城の一つである伊賀上野城(三重県伊賀市上野丸之内)20メートルを越える石垣が特徴で、高い石垣は鉄砲や弓に対する防御力を持ち、さらに攻め手に難攻不落だと精神的に威圧する効果もあった。


伊賀上野城

高虎は生涯におよそ20の城を造り、築城の第一人者として羽柴家で不動の地位を獲得する。

 

その後、羽柴家が姓を豊臣と改め、専門性を身につける事で他の武将との競争を勝ち抜いた高虎は2万石を与えられた。

 

藤堂高虎3
 

1591年、高虎が長年仕えてきた豊臣秀長がこの世を去ると、紀伊・和泉・大和の100万石は豊臣秀長の子・豊臣秀保に受け継がれる。

 

しかし、それを機に高虎は豊臣家のお家騒動に巻き込まれていく。

 

それまで実子が育たなかった豊臣秀吉は、甥の秀保や秀次を重く用いていたが、1593年、豊臣秀吉の実子・秀頼が生まれると、次第に秀保や秀次を疎んじるようになった。

 

1595年、豊臣秀吉に謀反の疑いをかけられ秀次が切腹させられた後、高虎の主君である秀保も原因不明の死をとげる。

 

 

秀保の家が廃絶となり、多くの秀保の家臣が豊臣秀吉の配下へと移っていくなかで、高虎は今まで築き上げた2万石の知行を捨て、秀保・秀長を弔うためと、忽然と俗世間から姿を消して高野山へと入った。

 

一方、秀保や秀次に仕えていた家臣は、謀反に関わったとして次々に死罪に処せられる。

 

高虎は秀保の家臣である自分にもいずれ豊臣秀吉の刃が向けられることを察知していたのであった。


高野山
 

さすがの豊臣秀吉も、全てを捨てて寺に入った高虎には手を出すことが出来ず、それどころか逆に高野山へと使者を送って、自分に仕えるようにと説得を繰り返すようになる。

 

高虎が考慮の末に説得に応じると、喜んだ豊臣秀吉は高虎に伊予・宇和島7万石という以前の3倍の知行を与えた。

 

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉
 

1598年、豊臣秀吉が亡くなると、それをキッカケに次の天下を狙う徳川家康、それに抵抗する石田三成とが対立していく。

 

諸大名が状況を伺うなかで高虎は、いち早く徳川家康支持の態度を鮮明にする。

 

豊臣恩顧の大名達はそんな高虎を裏切り者とののしったが、高虎は「侍で自分の考えを固持することができない者はナタの首が折れたようなものである。」と動じなかった。

 

 

1600年、天下を二分した「関ヶ原の戦い」は徳川家康の東軍が勝利し、この戦いにおいて高虎は脇坂安治・小川祐忠・朽木元綱の寝返り工作を成功させる。

 

 

しかし「関ヶ原の戦い」で東軍に寝返って勝利に貢献した小早川秀秋が2年後にお家廃絶、さらに高虎が寝返らせた小川祐忠が所領没収と、徳川家康はいくら自分の味方につこうとも裏切りをするような外様大名を容易に信じようとはせず、その徳川家康の疑いの目は当然のごとく次々に主君を鞍替えしてきた高虎にも向けられた。

 
徳川家康
  
徳川家康
 

1614年、さらに高虎の立場を危うくする事件が起こる。

 

徳川家康が大阪城の豊臣秀頼を攻撃した「大阪冬の陣」において、大阪城の豊臣秀頼から高虎に宛てた書状が徳川家康のもとへ渡ってしい、その内容は「申し合わせたように徳川を裏切ってくれれば約束した領国を与え、その他の恩賞も望み通りとする。」というものであった。

 

 

この書状は徳川家康側の内部分裂を誘うために豊臣秀頼側がくりだした謀略であったが、高虎の経歴を知る諸将は疑いをぬぐうことが出来ず、高虎に不審の目が向けられる。

 

 

そんな折に、苦楽を共にしてきた高虎の重臣二人(藤堂良勝・藤堂高刑)は「この度、我々は是が非でも戦死する覚悟でございます。藤堂家をつぶさないで下さい。家康の信頼を勝ち取ることを第一に考えて下さい。」と高虎に告げる。

 

なによりも大切にしてきた家臣達を犠牲にしてでも戦うことで突破口を開くのか、それともいつ取り潰されるかもしれない恐怖に怯えて暮らすのか、長いこと考え続けていた高虎はこの二人の言葉で心を決めた。

 

藤堂高虎4
 

1615年「大阪夏の陣」で藤堂軍5000は徳川家康側の先鋒として大阪城に向けて進軍を開始すると、河内の八尾の付近で豊臣秀頼側の長宗我部盛親の軍を発見する。

 

この長宗我部軍は後方にある徳川家康本陣への奇襲を目論んでいた。

 

 

藤堂軍は長宗我部軍をここで食い止める必要があったが、両軍の間には湿地帯が横たわっており、藤堂軍が湿地帯を渡って攻撃した場合、陣形が崩れて壊滅的な被害を受けることが予想され、戦の常識としては回避すべき状況だったが、高虎は徳川家康に忠義を示すために突撃を命じる。

 

 

ぬかるみに足を取られる藤堂軍は勇猛果敢で知られる長宗我部軍に苦戦して多くの戦死者を出し、戦いの直前に高虎に道を示してくれた二人の重臣・藤堂良勝と藤堂高刑も相次いで討ち死にした。

 

 

高虎は深い悲しみの感情をあらわにしながらも前進を命じ続け、決死の覚悟で襲いかかる藤堂軍を前に長宗我部軍は敗走し、長宗我部軍による徳川家康本陣への奇襲は未遂に終わる。

 

 

「大阪夏の陣」は徳川家康側が勝利したが、高虎はこの戦いで徳川家康側では類を見ない被害を出した。
 

大阪夏の陣
 

しかし、それによって疑り深い徳川家康が、主君を何度も変えてきた高虎を信頼して「国に大事が起こったときは一番手を藤堂高虎とせよ。」と評し、その後、藤堂家は加増されて伊勢・伊賀32万石となる。

 

 

「大阪夏の陣」は徳川家による太平の世までの最後の戦いであったため、徳川家康に対して何かを示すにはラストチャンスでもあった。

高虎は大きな時代の変化を見事に見抜き、勝負をかけるポイントを的確に捉え、自分の家臣を犠牲にしてまでも徳川勝利のために尽くすという忠義を見せた。

 

 

高虎60歳、知行なしの地侍として槍一本で初陣してから45年、8番目の主君のもとで国持ち大名へと出世する。

 

藤堂高虎1

徳川家康の死後も高虎は藤堂家を盤石のものとするため、2代将軍・秀忠、3代将軍・家光に仕えて、老いて目が見えなくなっても徳川将軍家のご意見番として出仕し続け、晩年までほとんどの時間を江戸で過ごした。

 

 

そんな高虎は自らの人生で学びとったものを200カ条に渡る藤堂家の家訓としてまとめる。

 

「寝室を出るときから、今日は死ぬ番であると心に決めなさい。その覚悟があれば、ものに動ずることがない。」

「冬でも薄着を好むべし。厚着を好めば癖になり、にわかに薄着となったとき、かじかむものである。」

「人をだましてはならない。真のとき承諾がえられない。深く慎むべし。」

 

 

1630年、74歳で死去した高虎の亡骸には隙間がないほど鉄砲や槍の傷があったという。

 

 

江戸時代260年間、お家断絶やお家取り潰しとなった大名家が数多くあるなかで、高虎の教えを守り続けた藤堂家は大きな処分を受けることなく存続した。




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