織田信長700x1000


1534
年、現在の愛知県の一部である尾張国を治める小さな大名であった織田信秀の三男として誕生する。

 

信長は大名の後継ぎとは思えない奇抜な格好をし、人々の理解を越えた常識では考えられない振る舞いをするので「大うつけ(あほう、バカ息子)」と呼ばれていた。

 

1551年、信長は18歳で織田家の家督を継ぎ尾張国の領主となる。

 
清州城

この時、信長にとって最大の脅威は、隣国駿河を拠点とし、加えて遠江・三河の三国を持ち70万石を治める大大名・今川義元であった。

 

文武両道に優れる今川義元は東海一の弓取りと称えられ、弱体化した室町幕府を助け、天下に号令できる人材である。



その今川義元は尾張への侵攻を目論んでおり、織田軍の10倍ともいわれていた今川軍を怖れ、織田側の武将達は次々と今川側に寝返っていき、織田家の国境を守る二つの城は労せず今川家の手に落ちた。

 
今川義元
  
今川義元
 

こうしてそれまで味方だった武将が今川側についた結果、織田側の内情は敵に知られることとなるため、いざ戦争になった時に極めて不利となる。

 

 

そこで信長は寝返った武将達がこれまでに書いた手紙や書状を出来る限りかき集め、その筆跡を真似て、今川側の内情を信長に知らせるかのような内容の偽の手紙を作成すると、それが今川側の手に渡るようにした。

 

つまり、織田側を裏切った武将達が実は信長と通じていると、今川義元が勘違いすることを狙ったのである。

 

この信長の作戦は見事に当たり、今川義元は織田側から寝返ってきた武将達を疑って切腹させてしまう。

 

 

1560年、今川義元は一気に織田家を攻め滅ぼそうと25000の兵を率いて駿河を発つが、一方で迎え討つ織田軍の兵力は4000程度であった。

 

 

今川軍がこの戦いの前線基地となる沓掛城(くつかけじょう)に入ると、今川義元は主だった家臣を集めて、夜のうちに織田軍の砦に近い大高城に移動して翌朝すぐに織田軍の砦を襲うことを決める。

 

しかし、この予定は織田側の密偵によって全て信長に筒抜けとなっていた。

 
沓掛城
 

一方、同じように織田軍も作戦会議を開いていたが、なかなか意見はまとまらず、信長は「もう夜もふけた。みな帰れ。」と結論が出ないまま会議を終了させる。

 

正面衝突では勝ち目のないこの戦いで、信長は今川義元の首ただ一つに狙いを絞ることを、この時すでに決めていたが、今川側に作戦が漏れるのを警戒していた。

 

 

 

今川軍は予定通り大高城に移動して早朝に織田軍の砦への攻撃を開始、織田軍の砦に配備された兵は今川軍の大兵力にたちまち呑み込まれていく。

 

順調かつ優勢な戦局から今川軍の意識は攻撃に偏っていき、今川義元のいる本隊が徐々に手薄になりつつあった。

 
大高城
 

今川軍が砦への攻撃を開始した知らせを聞いた信長は「敦盛(…人間50年、下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、一度生を受け滅せぬもののあるべきか…)」という舞を踊る。

 

 

踊り終えた信長がわずか5騎を従えて清州城をとび出すと、織田軍は自分達の動きを悟られないように、いくつかの集団に分かれて時間をおき次々に出発し、善照寺砦に集合した。

 

 

善照寺砦に着いた信長は、今川軍が総兵力25000のうち砦攻略に1万、後方守備に1万、今川義元のいる本隊は5000となっていることを知ると、さらに今川義元のいる本隊の兵数を減らさなければならないと考え、砦攻略中の今川軍に300の兵を囮として突入させ、今川軍がより攻撃へと意識が集中するように仕向ける。

 

 

一方で、今川軍本隊は桶狭間に到着すると、順調に砦を攻略しているという知らせに満足した今川義元が休憩を命じていた。

 

 

この今川軍の動きは、信長が街道中に張り巡らせた見張りによって逐一信長に伝わるようにされており、今川義元のいる本隊の桶狭間での休憩も、織田家の武将・簗田出羽守(やなだでわのかみ)によって確認され信長に報告される。

 

善照寺砦
 

桶狭間と呼ばれる地域には標高64.9メートルの山だったらしき場所があり、今川義元は守りやすく見はらしの利くこの小さな山の上で休憩をとった。

 

 

信長は密かに今川軍本隊に接近するために善照寺砦からより桶狭間に近い中島砦への移動を考えるが、川の近くである中島砦は低い立地であったため、移動の様子が桶狭間山から丸見えになる。

 

そこで信長は、織田軍3000人のうち2000人を中島砦まで率いることにし、残る1000人は善照寺砦に残し、その残した1000人に「のぼり」を立てさせる。

 

こうすることによって、桶狭間にいる今川軍本隊には織田軍が全て善照寺砦に待機しているように見えた。


桶狭間山
 

今川軍本隊に悟られることなく2000の兵を中島砦へと移動することに成功した信長は、この時、桶狭間の空が雨雲に覆われているのを確認すると、あたり一面が雨雲で暗くなったのを好機と見て突撃を開始、ほどなく激しい雨が桶狭間一帯を襲うと、今川軍本隊は散り散りになって雨宿りをし始める。

 

 

そこへ織田軍が一気に山を駆けあがって来ると、不意をつかれた今川軍本隊は大混乱に陥り、織田軍の武将・毛利良勝(もうりよしかつ)が今川義元を討ち取ると、総大将を失った今川軍は総崩れとなって今川領へと逃げ帰っていった。

 

 

清州城に戻った信長は、この「桶狭間の戦い」で槍働きのあった者よりも、今川義元が桶狭間で休憩中であるという決定的な情報をもたらした簗田出羽守に一番大きな恩賞を与える。

 

 

信長は今川義元から奪った「左文字の刀」を生涯大切にし、信長の死後は豊臣秀吉そして徳川家康へと渡った。

 

桶狭間の戦い
 

信長は美濃の斎藤道三の娘・濃姫を娶っていたため、斎藤氏とは縁戚関係にあったが、斎藤道三が嫡男・斎藤義龍に討たれると、信長と斎藤氏の関係は険悪になっていく。

 

 

1561年に斎藤義龍が急死し、その嫡男・斎藤龍興が後を継ぐと、ついに信長は美濃に出兵し「森部の戦い」に勝利すると、斎藤氏の家中は分裂が始まる。

 

 

その後、西美濃三人衆(稲葉良通・氏家直元・安藤守就)などを味方につけた信長は、1567年に「稲葉山城の戦い」に勝利して斎藤氏を滅ぼすと、尾張・美濃の2カ国を領する大名となり、岐阜に拠点を構えるようになった。

 

斎藤龍興
  
斎藤龍興
 

34歳となった信長は、古い秩序や権威に頼る貴族に変わって武士が天下を治める「天下布武」を発表し、この理念を実現するために京都にのぼることを目指す。

 

しかし、岐阜と京都の途上には、当時24歳の浅井長政が強固な基盤を築いていた。

 

 

信長は浅井長政を「先祖に越える剛の者」と評価し、戦うことは避けたい相手と判断して「近国無双の美人」といわれた22歳の妹・お市を嫁がせて同盟を結ぶことを考える。

 

 

絶世の美女を娶った浅井長政は大果報者と羨まれ、その始まりは政略結婚であっても二人は深く愛し合うようになった。


お市
  
お市
 

1568年、浅井長政を味方にし、側面から攻撃される心配のなくなった信長は6万ともいわれる大軍勢を引き連れ、敵対勢力を破竹の勢いで蹴散らしながら京都へと進撃、一気に畿内一円に勢力を伸ばし、室町幕府の復興を唱え足利義昭を第15代室町幕府将軍にする。

 

 

念願が叶い将軍の座についた足利義昭は、恩賞として信長に副将軍の地位を与えようとするが、信長はそれを拒否し、次第に足利義昭をないがしろにして権勢をふるい始めた。

 

 

1570年、信長は「天下の義は信長に任せたのだから、上意をうかがわずに信長の考えで成敗する。」と足利義昭の態度を咎め、これまでに出した指令を取り消すように命じる「五カ条の条書」を承諾させると、諸国の大名達に天皇や将軍に挨拶しに京都へと馳せ参じるように命令を下す。

 

 

この命令は表向き天皇や将軍のためという名目を掲げているが、実質的には「信長に従え」という意味であり、信長の力を怖れた多くの大名達が京都に集まる。

 

織田信長3
 
ところが5100年に渡って越前国(現在の福井県)を治め、古い家柄と格式を誇る名門・朝倉家の家臣達は信長の命令に対して口々に異を唱え、当主・朝倉義景は信長の命令を無視した。

 

 

朝倉義景が天皇や将軍のためという名目を無視したことは、逆賊として討伐する口実が出来、信長にとって好都合というより狙い通りであったが、信長が朝倉攻撃の準備を始めると「朝倉家と浅井家は古くから同盟関係にあるため、朝倉攻めは浅井長政に伝えるべきでは。」という声が信長の家臣から出る。

 

 

浅井長政に伝えることで朝倉攻めの計画が漏れることを嫌った信長は「我々は縁者にて親しき仲なり、朝倉と浅井は元来他人なり、然れば一旦の断わりにも及ぶべからず。」と家臣達の懸念を一蹴した。

 

朝倉義景
  
朝倉義景
 

信長が3万の軍勢を率いて予定通り越前に侵攻し、一気に朝倉家の本拠地に迫ろうとした矢先、浅井長政が朝倉側について信長に反旗をひるがえしたという知らせが届く。

 

信長は「虚説たるべき(嘘であろう)」と、お市を嫁がせた浅井長政の裏切りに驚く。

 

 

浅井家にとって信長の朝倉攻めは青天の辟易であり、信長の大軍には勝てないと言う家臣達と、近江の領有で利害の分かれる信長に味方すべきではないという浅井長政の父・浅井久政とで意見が分かれ、最終的に朝倉家との同盟関係を優先する決断にいたった。

 

浅井家が朝倉家に味方すると、遠く本国を離れて遠征している信長の大軍は補給路を断たれて袋のネズミも同然となり、浅井・朝倉は今ならば信長を討てると確信する。

 

 

しかし、この危機に信長は同盟者として参戦していた徳川家康にすら知らせずに、3万の軍勢を戦場に置き去りにして忽然と戦場から姿を消した。

 

 

主を失った織田軍は激しい追撃にさらされるが、豊臣秀吉、徳川家康、明智光秀という信長の死後に天下を争う事になる三人がこの「金ヶ崎の戦い」では一致団結して奮戦し、なんとか撤退の道を切り開く。


金ヶ崎の戦い
 

戦場から姿を消した信長は、浅井領を避けて琵琶湖の西側を馬で駆け、3日後、突然に京都に姿を現すと、悠然とかねてより命じていた御所の修理の視察に訪れ、越前からの決死の逃避行などなかったように見せると、その1週間あまり後に本拠地である岐阜に舞い戻った。

 

 

京都で自分の健在ぶりを見せつけた信長は、一刻も早く自分を裏切った浅井長政を討伐すべく軍勢を招集し、復讐の念を燃やしながら2万余の軍勢を率いて近江に攻め込み、浅井長政の居城である小谷城へと迫る。

 

 

小谷城は曲輪と呼ばれる陣地を張り巡らせた難攻不落の要塞で、織田軍がこれを無理に攻めれば戦いは長期化し、相当の損害を覚悟しないとならないのは明らかであり、さらに城内には浅井長政に嫁いでいる信長の妹・お市がいた。

 

 

信長はなんとかして浅井軍を城から引きずり出して平地での決戦に持ち込もうと、豊臣秀吉や柴田勝家らに小谷城の城下町に火を放つように命じ、領民想いの浅井長政がいたたまれなくなって出陣してくることを狙う。

 

 

織田軍による放火の知らせを聞いた浅井長政は、案の定、出陣を口にするが、家臣達から朝倉義景の援軍が到着するまで辛抱するようにさとされる。

 
 小谷城

 

信長は町を火の海にしても浅井長政が動かないとみると、姉川を挟んで小谷城の向かい側にある浅井家の横山城を包囲した。

 

 

大軍の攻撃を受けて悲鳴を上げる横山城から助けを求められると、浅井長政の我慢も限界に達する。

 

 

浅井長政は、横山城を攻めている織田軍が小谷城に対して背を向けている今ならば、織田軍の本陣を突くこともできると考え、小谷城を出陣すると大依山へと移動し、一気に山を下りて突撃する態勢を整えた。

 

 

翌日、浅井長政が待ちに待った朝倉の援軍8000が到着するが、朝倉軍の総大将は当主・朝倉義景ではなく、その従兄・朝倉景健であったため、愕然とした浅井長政は「手ぬるき軍の次第なり」と憤る。

 

 

一方、横山城を囲んでいた織田軍にも徳川家の援軍5000が徳川家康本人に率いられて到着し、織田軍の総兵力はこれで25000となって浅井・朝倉同盟軍13000を大きく上回った。

 

 

この頃、徳川家の最大動員は8000ほどであったため、徳川家康は本国に3000しか残さずにはるばる三河から駆け付けたことになる。

 

 

姉川を挟んで織田・徳川連合軍と浅井・朝倉同盟軍が対峙すると、織田軍は全軍が横山城を攻めていたところで回れ右をした形だったため、本来は一番奥に構えているはずの本陣(信長がいる)が最前線に張り出した奇妙な陣形となった。


 

合戦は徳川軍5000と朝倉軍8000の援軍同士が激突し、それを横目に浅井軍と織田軍が衝突。

 

不十分な態勢で浅井軍の猛攻にさらされた織田軍は、13段に構えた陣のうち11段まで打ち破られ、あわや総崩れというところまで追いつめられる。

 

優勢に戦いを展開する浅井軍は織田軍に深く喰い込んで長く伸びきっていた。

 

 

そこへ横山城の近くに残されていた織田軍前衛部隊3000が、新手の軍勢が出現するかのごとく駆け付け、長く伸びきった浅井軍の側面へと突撃して大逆転が生じる。

 

 

それを目にした朝倉軍は戦意を喪失して退却を開始、浅井軍は左翼から織田軍に右翼から徳川軍に包囲殺到され、浅井長政がなんとか小谷城に逃げ込む惨敗となった。

 

姉川の戦い

この「姉川の戦い」以後、新しい時代を目指す信長と旧来の秩序を守ろうとする反対勢力との対立は鮮明なものとなる。


 

 

1571年、信長は中立勧告を出したにも関わらず浅井・朝倉に味方した比叡山延暦寺(滋賀県大津市)を焼き討ちにし、僧侶、学僧、上人、児童の首をことごとく刎ねた。

 

比叡山延暦寺焼き討ち
 

「姉川の戦い」から3年、信長は越前の朝倉義景を滅ぼした後、満を持して再び小谷城を攻める。

 

討ち死にを覚悟する浅井長政に「一緒に死にます」とすがるお市に対して「生きて私の菩提を弔ってくれ」と逃げるようにさとし、信長はあたかも浅井長政と言葉を交わしたかのごとく、城の前で攻撃を中止すると、お市が城を逃れ出るのを待ってから総攻撃を仕掛けた。


浅井長政
  
浅井長政
 

武田氏、朝倉氏、浅井氏などの有力大名や石山本願寺に反信長包囲網を呼びかけていた足利義昭を、1573年に信長は京都から追放して室町幕府を滅ぼす。

 

 

反信長包囲網に加わっていた石山本願寺の11世宗主・顕如は、京都に入ってから度々軍事費を要求する信長に不快感を抱き、全国の信者に信長と戦うように檄文を送る。

 

 

一向宗の本山・石山本願寺は現在の大阪城あたりにあり、寺を中心とした巨大な町は税が免除されるなどの特権があったため、各地から信者だけでなく商人が集まった。

 

 

こうした寺を中心とした町を「寺内町」といい、大阪をはじめ当時の重要な輸送路であった河川沿いの各地に作られ、本願寺はこうした流通の拠点を握って全国にネットワークを張り巡らせ、この強大な経済力を背景に鉄砲などの武器を集め、戦国大名に引けを取らない軍事力を備える。

 

 

全国から一向宗の信者が集まり、あたかも独立した都市国家のようであった聖地・大阪の賑わいをイエズス会の宣教師は「本願寺は日本で最も大きい宗派で、ここの僧侶が日本の富の大部分を所有している。」と記した。

 

石山本願寺

信長は1570年からこの本願寺の勢力に苦しめられ、伊勢長島(現在の三重県桑名市)で本願寺門徒らが蜂起した「長島一向一揆」では信長の弟・織田信興が自害に追い込まれる。

 

 

また、顕如は武田信玄を味方に引き込むことにも成功し、信長と同盟する徳川家康の軍が1572年の「三方原の戦い」で武田軍に蹴散らされ、信長は大いに苦しめられた。

 

 

しかし翌年、武田信玄が突然に死去し、これを機に信長は室町幕府を滅ぼすと、本格的な一向一揆の弾圧に乗り出す。

 

 

1574年、信長は長島一向一揆に対して大軍を派遣すると、降伏しようとする一揆の人々を許さずに根切り(完全殺戮)を命じ、男女2万人を焼き殺した。

 

長島一向一揆
 

1575年、三河国長篠城(愛知県新城市長篠)をめぐり、織田・徳川連合軍38000が武田勝頼の軍勢15000に勝利した「長篠の戦い」の後、信長は中国地方に豊臣秀吉、北陸地方に柴田勝家、山陰地方に明智光秀、中部・関東地方に滝川一益など、有力な家臣を大将として各地に送り、全国統一に向かう。

 

長篠の戦い
 

朝倉氏滅亡後、信長は朝倉家から寝返った桂田長俊に越前の支配を任せていたが、越前は一向一揆の手に落ちる。

 

その越前に顕如は、自らの側近・下間頼照を派遣するが、下間頼照と地元の人々に間に対立が起こり、越前の一向一揆が一枚岩でなくなると、それを好機ととらえた信長が3万余の軍勢で攻め込む。

 

 

一向一揆側は完全崩壊して右往左往しながら山中へ逃げていったが、信長は殲滅の手をゆるめず「山林を探し、居所が分かり次第、男女を問わず斬り捨てよ。」と命じ、一揆衆12250人以上が討ち取られ、さらに奴隷として尾張や美濃に送られた数は3万から4万にのぼり、越前から一向衆は完全に駆逐された。

 

 

命を怖れずに向かってくる一向一揆に手を焼いた信長は、越前に重臣・柴田勝家を配置し、さらにその補佐として府中三人衆(前田利家・佐々成政・不破光治)を送る。

 

越前一向一揆
 

1576年、琵琶湖岸に築城を開始した安土城は1579年に五層七重の豪華絢爛な城として完成した。

 

イエズス会の宣教師は「その構造と堅固さ、財宝と華麗さにおいて、安土城はヨーロッパの最も壮大な城に比肩しうるものである。」と母国に驚嘆の手紙を送っている。

 

岐阜城を嫡男・織田信忠に譲った信長は、安土城に移り住んで、ここを天下統一事業の拠点にした。

 

安土城
 

越前一向一揆を壊滅させた信長は大阪攻めを命じ、荒木村重、明智光秀などが海と陸から石山本願寺への攻撃に向かうが、これを迎え討つ一揆勢は数千丁もの鉄砲で織田軍を苦しめ、信長自身も足を鉄砲で撃たれて負傷する。

 

 

本願寺は、上杉謙信、武田勝頼らとともに新たな反信長包囲網を形成し、それまで信長と友好関係にあった毛利輝元もこれに加わった。

 

 

強力な水軍を持つ毛利軍は、大阪で籠城を続ける顕如に兵糧を運ぶために大阪湾へと進み、それを阻止しようとした織田軍の船300艘は、毛利水軍の「焙烙」という手榴弾のような武器によって壊滅的な打撃を受ける。

 

 

焙烙の威力に衝撃を受けた信長は、焙烙による攻撃を防ぐために長さは30メートルにもおよぶ世界で初めての鉄張りの戦艦を造った。

 

織田信長1
 

一方、顕如の側も織田軍の切り崩し工作を進め、摂津守となっていた荒木村重が寝返って本願寺と結び、これに呼応した毛利水軍の600余艘が本願寺への兵糧米を積んで再び大阪湾に現れる。

 

 

1578年、2年前と同様に火力兵器を駆使して織田軍を打倒しようとする毛利水軍であったが、信長が作らせた巨大な鉄船は焙烙にビクともせず、鉄船に積まれた大砲が火を吹くと、大阪湾の制海権は信長の掌握するところとなった。

 

 

これにより石山本願寺で籠城する40000人への補給路は完全に断たれる。

 

石山合戦
 

1580年、戦局が大きく有利になった信長は、意外にもここで「顕如率いる本願寺が大阪の地を明け渡すならば、教団を赦し今後その地位を保証する。」という提案を勅命講和(天皇の命令によって)という形で提示した。

 

 

このまま抵抗を続けて完全に破壊し尽くされるよりも、講和を結び信仰だけは守り続ける方が得策と判断した顕如は大阪を出て和歌山へと移る。


顕如
  
顕如
 

しかし、信長と妥協した顕如に対して、顕如の息子・教如は本願寺に籠って徹底抗戦を全国各地の信者に呼びかけた。

 

 

こうした顕如と教如の意見の喰い違いは地方の信者達に大きな混乱を与え、一向一揆が大名を追い出した「百姓の持ちたる国」加賀国では、加賀一向一揆の拠点である金沢御坊が陥落してからも、信者達が白山の山々に籠って大日川と手取川に挟まれた鳥越山に城を築いて抵抗を続ける。

 

 

ところが、補給路を断たれ追い詰められていった石山本願寺は、顕如が去った4カ月後、徹底抗戦を唱えていた教如もついに大阪の地を退き、火を放たれた大阪の町は三日三晩燃え続け、信長と一向宗の10年戦争「石山合戦」に事実上の終止符が打たれた。

 

教如
  
教如
 

一方、加賀国ではなかなか鳥越城を攻略できず、一揆の人々の抵抗に手を焼いた柴田勝家は、鳥越城主・鈴木出羽守とその一族に講和を持ちかけて誘い出し、騙まし討ちにして殺害する。

 

 

殺された一揆の指導者19人の首は安土城下に晒され、その後さらに徹底的な残党狩りによって捕らえられた300人の門徒全員が磔刑に処せられ、信長を苦しめた加賀一向一揆の抵抗が収束した。

 

加賀一向一揆
 

その後、信長は武田勝頼を自害に追い詰めて450年の歴史を誇る名門・甲斐武田氏は滅亡させるが、1582年、明智光秀が謀反を起こして京都本能寺に宿泊していた信長を襲撃する「本能寺の変」が起こった。

 

寝込みを襲われた信長は、包囲されたのを悟ると寺に火を放ち自害、天下統一を目前にして49年の波乱の生涯を閉じる。

 

信長の嫡男・織田信忠も宿泊していた妙覚寺から二条御新造に退いて戦うが自害に追い込まれ、織田政権が崩壊した。

 

本能寺の変
 

謀反を起こした明智光秀は中国大返しで畿内に戻った豊臣秀吉に敗れ、その豊臣秀吉がかつての本願寺跡に大阪城を築き、そこを拠点に天下統一を実現していく。

 

 


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