1521年、躑躅ヶ崎館(甲斐国山梨郡古府中)を拠点とする甲斐の守護大名・武田家の嫡男として誕生する。
武田家の治める甲斐国は狭い盆地ごとに諸豪族が独自の勢力を築き、家臣達の武田家への忠誠心も薄く、信玄の父・信虎は隣国との領土争いに明け暮れ、また、家臣達をまとめるために逆らう者は容赦しない態度でのぞみ、国は貧しく、人々は信虎を怖れて反感を抱いていた。
信玄は16歳で初陣を飾ると、わずかな手勢で夜襲をかけ、見事に城を落とし、一番の手柄をあげた優れた知略は家臣達の評判となる一方で「一切、夜昼のわきまえもなく乱鳥の狂。」と言われるほど道楽三昧の日々を送る。
1541年、家臣達は信玄の父・信虎を国外に追放し、21歳の信玄を新たな国主へとまつりあげた。
しかし、信玄は国主になっても相変わらず遊び続け、間もなく、これを好機とみた勢力に攻め込まれ、領土の一部を奪われてしまう。
このままでは自分達の生活が危うくなると危機感をおぼえた家臣達は、新たな領土を求めて内紛に揺れる信濃の諏訪氏を攻め、家臣達は当主のためというよりも自分のためにと奮戦し、わずか11日で勝利を収める。
信玄はこの戦の後、絶世の美女と謳われた諏訪氏の娘・諏訪御料人(すわごりょうにん)に熱をあげるが「もし二人の間に男子が生まれて諏訪の地を治めることになれば、せっかく手にした領地を失う」と考えた家臣達はいっせいに反対した。
その時、新参の家臣・山本勘助は「もし男子が生まれれば、諏訪家の旧臣達はお家再興に望みをかけ、奉公に励むでしょう。」と機転を利かせた言葉で信玄に味方した。
この頃、信玄は「頼まずよ、人の心のつれなさを、恨むるほどに夜も更けにけり。」と嘆いているように、家臣達の横暴な振る舞いが目立ち、勝手に関所を設けて領民から密かに通行税を徴収する者までいた。
そんな状態を打開するために、信玄は26カ条におよぶ「甲州法度」を作成し、その条文の最後は「自分も決まり事を破ったら相応の処分を受ける。」という言葉で締めくくられていたが、家臣達はいっこうに従わず、自らの領内に「甲州法度」を一切停止するとふれ回る者も現れる。
信玄が家臣達を掌握できずにいる中で、隣国信濃の有力豪族・村上氏との間に武力衝突が起こり、家臣達は功を焦って信玄の命令を無視して我先にと敵陣深くに切り込んで暴走し、武田軍は兵の一割を失う大損害を受け、戦は完敗に終わった。
信玄が、浪人として諸国を巡り各地の大名の統治方法を目の当たりにしてきた山本勘助に、家臣の統率術を尋ねると「戦を続けて領土を獲得なさいませ。その土地を全て家臣に与えれば、大将を大事にするはずです。」と、山本勘助は答える。
1551年、隣国の村上氏が度重なる戦で疲弊していると聞いた信玄は、密偵を派遣して敵の一部を武田側に寝返らせ、そのうえで村上氏に奇襲をかけ、瞬く間に勝利を収めた。
新たな領土を獲得した信玄は、即座に家臣に分け与え、これにより信玄を主君として積極的に敬う家臣が現れはじめ、信玄はその後も隣国・信濃に攻め続け、信濃の7割を支配するようになる。
しかし、領土を広げ、獲得した領地を惜しみなく恩賞に使い、家臣達の求心力を高めるには、戦を繰り返さなくてはならず、そしてそれには軍備や戦術以上に戦争で重要な食料の増産が不可欠であったが、山がちな甲斐国は水田が少なかった。
米の生産をあげるには新田開発をしなければならないが、甲府盆地を流れる河川は甲斐を取り囲む山々から流れ出るため、雪解けの時期は水量が多く、流れも急で、ひとたび大雨が降れば大洪水を引き起こし、田畑や人家に大きな被害を与える。
信玄の父・信虎の時代、公共事業は各々の豪族が自分の領内だけで行っていたが、信玄は武田家主導のもとで甲斐全体の治水を計画し、総延長50㎞、川の上流から下流まで甲斐全体を広い視野で見据えた合理的な治水工事を、甲斐の豪族や家臣をあげて取り組む。
当時、甲府盆地を東西に流れる御勅使川(みだいがわ)は何本にも枝分かれし、南北を流れる釜無川と6カ所で交わり、この交差地点で水かさが増えて洪水が起きていた。
そこで信玄は、御勅使川の枝分かれを2本にまとめて釜無川との合流地点を減らし、さらに合流地点を人里離れた地域になるようにコントロールしたため、洪水被害が少なくなり、この治水事業によって耕地は3倍へと増える。
こうして甲斐国の結束を改善する信玄の前に、若くして越後を統一し、周辺の大名から戦の神・毘沙門天の化身と怖れられていた上杉謙信が大きな壁として立ちはだかっていた。
そこで信玄は嫡男に今川家から嫁をもらい、北条家には娘を嫁がせ、今川・北条・武田の三国で軍事同盟を成立させ、背後を固めて上杉謙信と領土を接する信濃に兵を集中し、1553年の「第一次川中島合戦」を皮切りに計5度の川中島での戦いを演じることになっていく。
戦の手柄に対して評価・賞賛するために発給する「感状」は、戦後、館に戻って作成されるのが常であったが、信玄はその日のうちにその場で発行して家臣に渡した。
さらに黄金や陣羽織や刀といった褒美も、信玄は常に戦場に持参し、戦功のあった者へその日のうちに与え、こうした気遣いによって家臣達はよく働くようになり、信玄は強敵・上杉謙信と互角に渡り合う。
ところが「永禄の大飢饉」によって農作物は壊滅、税を納められなくなった農民は逃亡、家臣達の収入は途絶えるという危機が信玄を襲うと、謙信はこの好機を見逃さず「第四次川中島の戦い」が始まる。
1561年、謙信率いる上杉軍は川中島を見渡せる妻女山に陣取り、その知らせを受けた信玄は慌てて海津城(長野県長野市松代町松代)に入るが、山の上に陣取った謙信から完全に動きを掌握されてしまう。
追い詰められた信玄は山本勘助の策に頼って、兵を二つに分け、別働隊が上杉軍を背後から奇襲し、上杉軍が山から下りたところを本隊で迎え討ち、最終的に挟み討ちにする「きつつき戦法」をとるが、これは謙信に見破られ、上杉軍は密かに山から降りていた。
作戦が空振りした武田軍は上杉軍の猛攻を受け、激戦の中、山本勘助も戦死し、上杉軍が武田軍の本陣まで押し寄せ、信玄絶体絶命かと思われた時、間一髪で妻女山に向かっていた武田軍の別働隊が戻ってくる。
この時、信玄の目に映ったのは、自分の命にかえても主君を守ろうとする家臣達の姿であった。
数々の戦を経ることによって育まれていった家臣達との結束がここで発揮され、攻勢に転じた武田軍は上杉軍を撤退させる。
信玄は家臣団に戦の褒美として、現在の価値にして約150万円にもなる黄金を与えていた。
甲斐国には20以上の金山があったが、そのほとんどが武田氏以外の各豪族の領内にあり、もともと甲斐国の黄金は武田氏の収入にはなっていなかったのである。
黄金を採掘していた金山衆(かなやましゅう)と呼ばれる高度な技術者集団は、豪族に従属せず独立した生活をしていたため、豪族から身を守ることが大きな負担となっていた。
信玄は金山衆の安全を保証し、安全を保障されて作業に専念することが出来た金山衆の黄金産出量は増え、信玄はその見返りに産出した黄金の4割を受け取ったのである。
強引に金山衆を配下に置こうとするのではなく、利害が一致する契約によって、信玄は結果的に黄金産出の効率を上げ、手にした豊富な黄金で日本最初の金貨である甲州金を発行した。
一方で、これまで天下に最も近いと言われていた駿河の今川義元が織田信長に討たれるなど甲斐を取り巻く勢力図は大きく変わり始める。
動揺する今川家をこの機に乗じて討ち滅ぼせば、京都への道が開け、天下取りが現実味を帯びてくると信玄は考えた。
信玄の嫡男・武田義信は同盟関係にある今川家から嫁をもらっていたが、信玄は今川攻めを決意していたので、義信に妻と離縁するように命じるが、義信はそれを拒否し今川攻めにも真っ向から異をとなえる。
この今川攻めを巡って、信玄に賛成する者と、義信について反対する者とに分かれて対立し、強い結束を見せるようになった家臣達に大きな波紋が広がった。
やがて、義信が反対派の家臣達と信玄の追放を企てているという報告が入ると、信玄は義信を幽閉し、さらに80人あまりの義信派の家臣を処刑・追放に処し、残った家臣達に血判で忠誠を誓わせた「血の起請文」を提出させる。
しかし、それでも家臣達の対立は収まらず、信玄は悩み続けた末、争いの根は元から断たなければならないと判断し、1567年、嫡男・義信を自害に追い込み、さらに義信の法名に謀反人の印である「謀」の字を加えて未来永劫反逆者の汚名を着せた。
信玄が示した強い覚悟は再び家臣達の結束を取り戻していく。
1568年、信玄は駿河への侵攻を開始し、甲斐と駿河の国境にある深沢城(静岡県御殿場市)を包囲した際、この城攻めに多くの金山衆を同行させている。
金山衆は黄金採掘で坑道を切り開く技術を活かして、深沢城の地下にトンネルを掘り、城内の井戸に穴を空けて籠城の生命線となる水を深沢城から絶やしたり、城壁を陥没させて崩すなど大きな戦果をあげた。
わずか半月で深沢城を落とした信玄は、瞬く間に駿河の東半分を手中にし、東海道への進出を果たす。こうして武田の領土は100万石を超え、戦国時代有数の大国へとのし上がった。
織田信長に警戒心を抱いていた将軍・足利義昭は、信玄の活躍を耳にすると密書で織田信長の討伐を要請する。
家督を継いで31年、家臣団の結束に心を砕き、我が子までを手にかけた信玄は、堂々と京都まで侵攻する大義名分を得て、ついに天下取りの道が見えてきた。
1572年、信玄は「我、存命のうちに天下を取り、京に旗を立つ。」そう言うと、過去最大となる25000の兵を率い、京都を目指して出陣する。
信玄の行く手を待ち受けるのは急速に領土を拡大していた織田信長・徳川家康の連合軍であったため、信玄はまず三河・遠江を支配する徳川家康を倒してから西へ進むことを考え、徳川家康のいる浜松城(静岡県浜松市中区)付近まで兵を進めた。
ところが、数で劣る徳川家康は城から兵を全く出さず、いつ終わるとも知れない籠城戦の構えを見せる。
武田軍はここで無理に城攻めを行えば無駄に兵を失う危険があったが、しかし、徳川家康を無視して西に兵を進めれば背後を取られて織田信長と挟み討ちにされるため、信玄はどうしても徳川家康を叩かなくてはならなかった。
戦う前にすでにかつてない窮地に立たされていた信玄は大胆な行動に出る。
信玄は突如、三方ヶ原(現在の静岡県浜松市北区三方原町近辺)の台地へと軍勢の進路を変え、徳川軍に背を向けると、そのまま三方ヶ原の台地を横断して逃げ場のない細く狭い一本道を下りはじめた。
武田軍が不利な環境で無防備な体勢になりかけている知らせを受けた徳川家康は、これを千載一遇のチャンスと見て11000の兵を城から出撃させ、猛然と武田軍の背後へと迫る。
一方で武田軍は、信玄の号令のもとで一斉に進行方向をそれまでの逆にとり、下りてきた坂を一気に駆け上がると、再び三方ヶ原の台地へ登り、一糸乱れぬ動きで陣形を整えた。
浜松城の西に広がる三方ヶ原は、周囲が崖で逃げることが出来ず、木が一本もなく広大で、この騎馬軍団に適した台地で、信玄は正面への攻撃に力を発揮する「魚鱗の陣」で待ち構える。
これを成し得たのは、信玄が自らの人生を懸けて作り上げた武田軍の結束力であった。
全軍一致となった武田軍は有利なシチュエーションで、あたかも猛虎が羊の群れに突撃したが如く、まんまとおびき出された徳川軍へと猛攻を加え、なす術のない徳川軍は壊滅し、わずか2時間で戦いは武田軍の圧勝に終わる。
この戦いで完膚無きまでに打ち負かされた徳川家康は、この時に感じた死の恐怖を生涯の教訓にし、また、武田家滅亡後、強かった信玄のやり方を知るために積極的に武田の遺臣を保護して召し抱え、そのことは徳川家康の大きな躍進の礎となった。
「三方ヶ原の戦い」に圧勝した信玄は、京都へ、そして天下を目指すはずであったが、1573年、陣中で重い病にかかり志半ば、51歳でこの世を去る。
信玄は「3年間は自分の死を隠し、国の守りを堅めよ。そして、いつの日か、武田の旗を瀬田(京への入り口)に立てよ。」という遺言を残す。
信玄の死後、後継者の武田勝頼は「長篠の戦い」で織田信長・徳川家康連合軍に敗れ、急速に衰えていった武田家は、信玄の死後わずか10年で滅亡する。
その生涯を家臣の統率に心血を注いだ信玄は、最後まで家臣への配慮を忘れず、子ども達にもその心得を家訓として残した。
「家臣が病の際には、たとえ手間がかかっても見舞うこと。」
「離反した場合でも、覚悟を直す者については過去を咎めず、再び召し抱えること。」
「家臣の身を喉の渇きのように思い、潤し続けること。」
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