朝倉義景700x1000

  

1533年、越前国の朝倉氏第10代当主・朝倉孝景の長男として生まれ、この時、父・朝倉孝景は40歳で唯一の実子であった。

 

生母は若狭武田氏一族の広徳院(光徳院)といわれいる。

 

義景の幼少期に関しては不明な点が多く、守役や乳母に関しては一切が不明で、伝わる逸話もほとんど無い。

 

一乗谷城
 

1548年、父が死去したため家督を相続して朝倉氏第11代当主となるが、当初は若年のため1555年までは一族の名将・朝倉宗滴に政務・軍事を補佐されていた。

 

 

朝倉宗滴の死後もしばらくは深刻な政治情勢に巻き込まれることが無かったため、越前国は周辺諸国に比べて安定・平和・栄華を極め、この当時の越前国を訪れた者は「義景の殿は聖人君子の道を行ない、国もよく治まっている。羨ましい限りである」と讃えている。

 

 

 

1552年、室町幕府の第13代将軍・足利義輝より「義」の字を与えられ「義景」と改名し、左衛門督(鎌倉時代以降は朝廷の機能としては有名無実化していたが、源頼家なども歴任し、官職のなかでも武家に好まれた。)にも任官。

 

こうしたことは、父・朝倉孝景の時代に室町幕府での地位を高めたことに加え、衰退する室町幕府にとっては守旧的な朝倉家の力を必要として優遇された。

 

家紋朝倉義景
 

1565年、将軍・足利義輝が松永久秀らによって暗殺されると、義景は足利義輝の家臣であった和田惟政・細川藤孝・米田求政らと連絡を取り合い、足利義輝の弟・足利義昭が幽閉先の奈良を脱出して近江国に移るように画策する。

 

 

その後、若狭武田家を頼っていた足利義昭が越前国に身を寄せると、義景はその来訪を歓迎した。

 

 

 

1567年、朝倉家の家臣・堀江景忠が、朝倉家と長年の対立が深刻化していた加賀一向一揆と通じて謀反を企てたため、義景は加賀国から来襲した杉浦玄任率いる一揆軍と交戦しつつ、堀江家に攻撃をしかける。

 

堀江景忠は必死に抗戦をするが、結局、加賀国を経て能登国へと没落した。

 

一方で、加賀一向一揆とは足利義昭の仲介により和解が成立する。

 

加賀一向一揆
 

足利義昭は上杉謙信など諸大名に上洛(広義においては京都に入ることを意味するが、狭義では室町時代末期に足利幕府の将軍を保護することを意味した。)を促す書状を送ったが、それらの大名家は隣国との政治情勢などから出兵は難しかった。

 

 

足利義昭は義景にも上洛戦を求め、義景の館を訪問したり、さらに義景に限らず朝倉一門衆とも関係を深める。

 

 

京都に自らが軍勢を連れて上洛し、室町将軍の保護者となる事は、権威をもたらし、政治的影響力を高める事となるが、義景は嫡男・阿君丸が急死して悲しみにくれていたことなどもあり、足利義昭が望む上洛には冷淡であった。

 

 

義景がここでもし上洛していれば、天下を狙える可能性すらあったが、こうした決断力の鈍さが後々大きく運命を左右する。

 

結局、足利義昭は美濃国を支配下におき勢いに乗る織田信長を頼るため越前国から去った。

 

足利義昭
  
足利義昭
 

1568年、若狭守護・武田氏の内紛に対して、義景は当主である武田元明の保護という名目で介入し、若狭を支配下に置くが、武田家臣の粟屋勝久や熊谷氏などは義景に従属することを拒否して頑強に抵抗する。

 

 

 

この頃、足利義昭を将軍にした織田信長は、織田領である美濃と京都の間に突き出た位置関係となる越前国を治める義景を服属させる必要があったため、足利義昭の命令として2度にわたって義景に上洛を命じるが、義景は織田家に従うことを嫌い、さらに上洛することで朝倉軍が長期間に渡って本国・越前を留守にする不安から拒否した。

 

 

 

しかし義景の上洛拒否は、反意があるという言い掛かりから越前出兵への口実を織田信長に与え、1570年、織田信長・徳川家康の連合軍が侵攻を開始、天筒山城・金ヶ崎城(共に福井県敦賀市)が織田軍の攻勢の前に落城する。

 

 

ところが織田信長と同盟関係にあった浅井長政は、越前侵攻を不服として織田信長を裏切って急襲したため、前に朝倉軍、背後に浅井軍という絶体絶命の窮地に陥った織田信長は京都に撤退。

 

浅井長政
  
浅井長政
 

このとき、朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の最後尾部隊を率いた豊臣秀吉(この時は木下秀吉)の抵抗に阻まれ、織田信長をはじめとする有力武将を取り逃がし、再挙の機会を与えることになった。

 


 

1570年、織田・徳川連合軍と朝倉・浅井連合軍は姉川(滋賀県長浜市)で激突した「姉川の戦い」で、朝倉軍は徳川軍と衝突したが徳川四天王と名高い榊原康政に側面を突かれて敗北し、織田信長は浅井方の支城の多くを落とし、朝倉・浅井連合軍は非常に不利な立場に陥る。

 

姉川の戦い
 

織田信長が三好三人衆(三好長慶の死後に三好政権を支えた三好氏の一族・重臣だった三好長逸・三好宗渭・岩成友通の3)および石山本願寺討伐のために摂津国に出兵している隙に、義景は浅井軍と共同して織田領の近江坂本(現在の滋賀県大津市)に侵攻し、織田信長の弟・織田信治と重臣・森可成を敗死に追い込んだ。

 

 

織田信長が軍を近江に引き返してくると、朝倉・浅井軍は比叡山延暦寺に立て籠もって織田軍と対峙し、小競り合いや合戦があるものの、足利義昭・二条晴良らの和睦の調停に応じて、両軍は講和することとなる。

 

この講和の際、織田信長は義景に対して「天下は朝倉殿持ち給え。我は二度と望みなし」という書状を送っており、強敵として警戒していた。

 

織田信長
  
織田信長
 

織田信長が本願寺と交戦状態に入る(野田城・福島城の戦い)と、将軍・足利義昭は甲斐国の武田氏をはじめ近江国の浅井氏、そして越前国の義景らと織田信長包囲網を構築。

 

義景は、こうして織田信長包囲網の一角を担った本願寺の顕如の子・教如と娘の婚約を成立させる。

 

 

義景は浅井長政と共同して織田領の横山城、箕浦城を攻撃するが敗退し、この後、織田信長は前年に朝倉氏に協力した比叡山延暦寺を焼き討ちし、延暦寺の堂塔はことごとく炎上し、多くの僧兵や僧侶が殺害された。

 

比叡山延暦寺
 

1572年、甲斐国の武田信玄が遠江・三河方面へ侵攻し、徳川軍が次々と城を奪われる。

 

それに対して織田信長が岐阜に撤退すると、義景は浅井勢と共同で攻勢をかけるが、虎御前山砦(滋賀県長浜市中野町)の豊臣秀吉(この当時は羽柴秀吉)に阻まれた。

 

 

義景が部下の疲労と積雪を理由に越前へと撤退すると、武田信玄はそれに対して激しい非難を込めた文章を送りつける。

 

義景が再三の出兵要請に二の足を踏む間に、同盟者であった武田信玄が陣中で病死し、武田軍が甲斐へと引き揚げたため、織田信長は主力軍を朝倉家に向けることが可能となった。

  

朝倉義景1
 

1573年、織田信長が3万の大軍を率いて近江に侵攻すると、義景も朝倉全軍を率いて出陣しようとするが、決断力の弱さから数々の好機を逸してきた義景は家臣の信頼を失いつつあり、朝倉家の重臣である朝倉景鏡、魚住景固らが出陣命令を拒否。

 

 

このため、義景は山崎吉家、河井宗清らを招集し、2万の軍勢を率いて出陣するも、大嶽砦(滋賀県長浜市小谷丁野町)が織田信長の暴風雨を利用した電撃的な奇襲を受けて大敗する。

 

 

さらに丁野山砦(滋賀県長浜市小谷丁野町)が陥落すると、義景は浅井長政と連携を取り合うことが不可能となり、越前への撤兵を決断した。

 

しかし、撤退する朝倉軍は織田信長の追撃を受ける。

 

織田信長の追撃は厳しく、朝倉軍は撤退途中の刀根坂(福井県敦賀市刀根)において壊滅的な被害を受けた。

 
刀根坂
 

義景自身は命からがら疋壇城(福井県敦賀市疋田)に逃げ込んだが、この戦いで斎藤龍興、山崎吉家、山崎吉延ら有力武将の多くが戦死。

 

 

義景はさらに疋壇城から逃走して一乗谷を目指したが、その間にも将兵の逃亡が相次ぎ、残ったのは鳥居景近や高橋景業ら10人程度の側近のみとなってしまう。


疋壇城
 

さらに、朝倉軍の壊滅を知って、一乗谷の留守を守っていた将兵の大半が逃走してしまい、義景の出陣命令に対して朝倉景鏡(あさくらかげあきら)以外は出陣して来なかった。

 

 

 

義景は一乗谷を放棄し、越前大野の東雲寺に逃れ、平泉寺(福井県勝山市)の僧兵に援軍を要請するが、すでに織田信長に懐柔されていた平泉寺は逆に東雲寺を襲ったため、義景は賢松寺(福井県大野市泉町)に逃れる。

賢松寺


一方、柴田勝家を先鋒として一乗谷に攻め込んだ織田軍は、手当たり次第に居館や神社仏閣などを放火し、その猛火は三日三晩続き、朝倉家
100年の栄華は灰燼と帰した。

 

 

 

義景は従兄弟の朝倉景鏡の勧めで賢松寺に逃れていたが、その朝倉景鏡が織田信長と通じて裏切り、賢松寺を200騎で襲撃すると、ついに観念した義景は自害を遂げ、39歳で生涯を閉じる。

 

 

義景の首は織田信長の家臣・長谷川宗仁によって、京都で獄門に曝され、血族の多くも織田信長の命を受けた丹羽長秀によって殺害され、朝倉氏は滅亡した。

 

丹羽長秀
  
丹羽長秀
 

義景は朝倉氏代々の功績を受け継ぎ、一乗谷に京都から多数の文化人を招き、一大文化圏を築き上げ、個人としても戦よりも文芸に凝り、歌道・和歌・連歌・猿楽・作庭・絵画・茶道など多くの芸事を好んだ。

 

 

1581年に越前国へ布教に赴いたルイス・フロイスは、越前のことを「日本において最も高貴で主要な国のひとつであり、五畿内よりも洗練された言語が完全な形で保たれていた」と記している。


 


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