前田利家700x1000


1538年、尾張国海東郡荒子村(現在の名古屋市中川区荒子)で、その地を支配していた荒子前田家の当主・前田利春の四男として生まれる。

青年時代の利家は、武将の身辺に仕えて諸々の雑用を請け負う「小姓」として織田信長に仕えた。


1552年、元服前の利家は、尾張下四郡を支配する清洲城主・織田信友(清洲織田氏)と織田信長の間に起こった「萱津の戦い」に初陣し、合戦の際に目立つ様、自ら朱色に塗った槍を持って首級ひとつを挙げる功を立て、織田信長は「肝に毛が生えておるわ」と賞賛する。

前田利家2

1556年、織田信長とその弟・織田信勝による織田家の家督争い「稲生の戦い」では、宮井勘兵衛に右目下を矢で射抜かれながらも利家は「まだ一つも首級を挙げてない」と顔に矢が刺さったまま敵陣に飛び込み、弓を射た宮井勘兵衛本人を討ち取る功を立て、信長は大いに喜んで「利家はまだかような小倅ながらもこのような功を立てたぞ」と、合戦中に味方を鼓舞し、利家は矢を抜くことなく戦後に手柄を確認する「首実検」にも参加した。


日頃から短気で喧嘩早く、戦場での活躍が目立ち、三間半柄(約6m30cm)というとても長く派手な槍を手にしていた利家は、1558年、尾張上四郡を支配していた岩倉城主・織田信安(岩倉織田氏)の息子・織田信賢との争い「浮野の戦い」にも参加して功を挙げ、この頃から「槍の又左」の異名で称えられるようになる。


また、この戦いの後、武芸に秀でた者達からさらに選抜された豪のエリートが織田信長直属の使番を務める「赤母衣衆」の筆頭に抜擢された。

さらにこの年、従妹のまつ(芳春院)を妻に迎える。

前田利家3

1559年、信長のお気に入りの同朋衆(雑務や芸能に従事する人)拾阿弥とモメて、利家は拾阿弥を斬殺し、出仕停止処分を受けて浪人暮らしとなった。



1560年、織田信長が少数の軍勢で本陣を強襲し、2万5千といわれる大軍を率いて尾張に侵攻した駿河の今川義元を討ち取った「桶狭間の戦い」に、利家は出仕停止を受けていたのにも関わらず無断で参加し、計三つの首を挙げる功を立てるも復帰は許されずに終わる。


1561年、織田信長が西美濃を征服しようと長良川を渡って森部村(現在の岐阜県安八郡安八町)に進出し、1500の兵を三手に分け、斎藤龍興の軍6000を挟み撃ちにして破った「森部の戦い」で、利家はまたしても無断で参戦し、「頸取足立」の異名を持つ足立六兵衛という怪力の豪傑を討ち取る功績を挙げると、ようやく復帰を許された。


利家の浪人中に父・利春は死去し、前田家の家督は長兄・利久が継いでいたが、1569年に織田信長が兄・利久に代わって利家が前田家の家督を継ぐように命じる。

森部の戦い

1570年、浅井氏・朝倉氏との「金ヶ崎の戦い」では、戦国史上有名な織田信長の撤退の警護を利家が担当し、続く「姉川の戦い」では浅井助七郎なる者を討ち取る功績を上げ、織田信長に「今にはじまらず比類なき槍」と褒めたたえられた。


石山本願寺との間に起こった「春日井堤の戦い」で、織田軍は敗走することになるが、利家は一人で踏みとどまって敵を倒し、味方の退却を助けるという働きをみせる。


その後、利家は「一乗谷城の戦い」「長島一向一揆」「長篠の戦い」などの戦で、佐々成政・野々村正成・福富秀勝・塙直政らと共に織田軍の快進撃を語るうえで欠かすことの出来ない鉄砲奉行として参戦した。

春日井堤の戦い

1575年、織田信長は越前国制圧後、利家・佐々成政・不破光治の3人(府中三人衆)に越前府中10万石を与え、利家は佐々成政らと共に柴田勝家を支えながら上杉軍と戦うなど北陸地方の平定に従事する一方で、織田信長の命により「有岡城の戦い」や「三木合戦」といった戦いにも参加する。


1581年、織田信長より能登一国を与えられ、利家は七尾城主となって23万石を領有する大名になり、その翌年、港湾部の町から離れた七尾城を廃城し、港を臨む小丸山城を築城。

小丸山城

1582年、明智光秀が謀反を起こして京都の本能寺に宿泊していた主君・織田信長を襲撃した「本能寺の変」が発生した時点で、利家は柴田勝家に従って上杉軍最後の拠点であった魚津城を攻略中だったため、豊臣秀吉(この時点の名は羽柴秀吉)が明智光秀を討ち果たした「山崎の戦い」に加わることができなかった。


そして、織田家臣団筆頭格でありながら先をこされた柴田勝家と、織田信長の仇を討ってみせた豊臣秀吉による織田家の実権争いが表面化すると、利家は柴田勝家の側につきながらも豊臣秀吉との関係にも大いに悩んだ。


そんな折に、柴田勝家の命を受け、利家が金森長近・不破勝光と共に山城宝積寺城(現在の京都府大山崎町)にいた豊臣秀吉に一時的な和議の交渉を行った際、利家は豊臣秀吉に逆に懐柔され、1583年の「賤ヶ岳の戦い」で5000ほどの兵を率いて柴田軍として布陣するも、突然に撤退し、豊臣秀吉の勝利を決定づけることになった。


敗北して北ノ庄城へ向かう途中の柴田勝家は、越前府中城(現在の福井県武生市)にこもる利家のもとを立ち寄り、これまでの労をねぎらって湯漬けを所望したという。

北ノ庄城

その後、利家は使者の勧告に従って豊臣秀吉に降伏し、柴田勝家のいる北ノ庄城攻めの先鋒となると、戦後、領土の保障および加賀国のうち二郡を加増されて、本拠地を能登の小丸山城から加賀の尾山城(後の金沢城)へと移した。

金沢城

1584年、豊臣秀吉と徳川家康・織田信雄が衝突した「小牧・長久手の戦い」では、佐々成政が徳川家康らに呼応して加賀国・能登国に侵攻したが、利家は「末森城の戦い」で佐々成政を撃破した。


その佐々成政との戦いは翌年まで持ち越され、その間に利家は上杉景勝と連絡をとって越中国境に進出させたり、佐々成政の部将となっている越中国衆・菊池武勝に誘いの手を伸ばす。


そうして、利家が先導役を果たし豊臣秀吉が10万の大軍を率いて越中国に攻め込むと、佐々成政は降伏し、利家の嫡子・前田利長が越中国4郡のうち砺波・射水・婦負の3郡を加増された。


その後、越前国の国主である丹羽長秀が没すると、利家は豊臣政権下における諸大名の窓口としての機能を求められるようになる。

前田利家4

豊臣秀吉が島津氏などの九州諸将を降伏させた「九州征伐」では、利家は8,000の兵で畿内を守備し、嫡子・前田利長は九州まで従軍した。


豊臣秀吉が天皇の代わりに政治を行う「関白」に任官して豊臣姓を賜ると、利家は筑前守・左近衛権少将に任官し、1590年には朝廷組織最高機関での官職「参議」に任じられる。



北条氏制圧のための「小田原征伐」では、利家は北国勢の総指揮として上杉景勝・真田昌幸と共に上野国に入って松井田城をはじめ諸城を次々と攻略し、さらに武蔵国に入ると鉢形城・八王子城を落とした。

松井田城

1591年、国内を統一した豊臣秀吉は「朝鮮出兵(文禄・慶長の役)」のために名護屋城(現在の佐賀県唐津市、東松浦郡玄海町)の築城を開始、1592年、利家は諸将に先んじて京都を出陣して名護屋に向かった。


豊臣秀吉が母・大政所危篤の報を得て、急ぎ大阪に戻り、約3ヶ月間名護屋を留守すると、その間、徳川家康と利家が豊臣秀吉に代わって諸将を指揮し、政務を行い、これが後の五大老の原型となる。


1593年、朝鮮(李氏朝鮮)の宗主国・明(1368~1644年に存在した中国の歴代王朝の一つ)との講和が進み、明の使者が名護屋に着くと、徳川家康と利家の邸宅がその宿舎とされた。


豊臣秀吉が待望の男子である秀頼誕生の報で大坂に戻ると、利家も金沢に帰り、この時にまつの侍女・千代との間に、後の第三代加賀藩主・前田利常となる猿千代が生まれる。

豊臣秀吉
  
豊臣秀吉

1598年頃になると利家は健康の衰えを見せ始めるようになり、豊臣秀吉がその最晩年に京都の醍醐寺三宝院裏の山麓において催した「醍醐の花見」に妻のまつと陪席すると、嫡子・利長に家督を譲った。


利家は隠居することを望んでいたが、「五大老・五奉行」の制度を定めた豊臣秀吉より大老の一人に命じられ、それから間もなく、豊臣秀吉は利家らに嫡子・秀頼の将来を繰り返し頼み没する。


この時、秀頼はわずか6歳、政治の実権は五大老(徳川家康、前田利家、宇喜多秀家、上杉景勝、毛利輝元)と五奉行(石田三成、前田玄以、浅野長政、増田長盛、長束正家)による合議体制に委ねられ、豊臣秀吉の遺言通り、徳川家康が伏見城(現在の京都市伏見区桃山町周辺)に、利家が秀頼に付き従って大坂城に入り、利家は大坂城の実質的な主となった。

前田利家1

しかし、徳川家康は豊臣秀吉亡き後の覇権を狙い独裁的な態度を示すようになり、伊達政宗・蜂須賀家政・福島正則と婚姻政策を進め、利家はこれに激しく反発する。


利家には、上杉景勝・毛利輝元・宇喜多秀家の三大老や五奉行の石田三成、また後に「関ヶ原の戦い」で家康の側につくことになる細川忠興・浅野幸長・加藤清正・加藤嘉明らが味方し、豊臣秀吉亡き後の実質的な実力者が利家であることは動かし難い事実であった。


利家と対立することを不利と悟った徳川家康は、向島(現在の近鉄向島駅付近)へ退去すること等で和解する。


この直後、利家の病状が悪化し、徳川家康が見舞いのため利家邸を訪問した際、利家は抜き身の太刀を布団の下に忍ばせていたという。


利家が大阪の自邸で病死(60歳)すると、徳川家康により加賀征伐が検討されるが、利家の跡を継いだ利長が母・芳春院(まつ)を人質に出す条件を受け入れ、加賀征伐は撤回された。
 
芳春院(まつ)
  
芳春院(まつ)

その後、前田家は政争を上手く立ち回り、明治の世まで加賀藩主として生き残る。



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