源頼朝700x1000


清和天皇を祖とし、河内国(主に現在の大阪府東部
)を本拠地として源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の流れを汲む源義朝の三男として、頼朝は1174年、尾張国熱田(現在の名古屋市熱田区)の藤原季範の別邸(現在の誓願寺)で生まれる。

 

 

遡る(さかのぼる)こと1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した「平治の乱」で、源氏の頭領・源義朝は関東の武士団に挙兵を呼び掛けるが、自らの所領を守ることにしか関心のない関東武士は源義朝の動員要請を拒否した。

 

 

保身に走って賢明な判断をしたつもりの関東武士は、ここから全盛期を迎える平氏の世で辛酸を舐めることになる。

 

 

兵力が不足した源義朝は、平清盛に敗北して命を落とし、源氏は没落した。
 

源義朝
  
源義朝
 

この時、源義朝の嫡男・頼朝は囚われの身となり、死刑が当然視されていたが、平清盛は池禅尼(平清盛の継母)の嘆願もあり、頼朝を殺さずに伊豆への流罪とする。

 

 

1160年、頼朝は蛭ヶ小島(現在の韮山)に流され、当初は平氏の権威を恐れた人々の冷たい目が注がれ、その境遇は厳しいものであった。

 

 

頼朝に対する監視の目は相当に厳しかったが、行動の自由はかなり認められていたようで、やがて伊豆の豪族・伊東祐親の娘と恋に落ち、男の子も生まれる。

しかし、それを知った伊東氏は、平氏に睨まれることを恐れて激怒した。二人の仲は強引に引き裂かれ、3歳になった男の子は松川の奥の淵に沈めて殺される。

 

 

源氏没落後に、朝廷で権力を握った平氏は、全国22カ国で平氏一門が国司(役人)を務めるようになり、伊豆の豪族たちも平氏に取り入ることで領地を保っていた。

 

 

ところが、1177年、頼朝は北条政子と結婚する。

政子の父・北条時政も頼朝との結婚には大反対であったが、政子の情熱と強い意思におされてしぶしぶ承諾した。

 

源頼朝6
 

一方で「平氏にあらずんば 人にあらず」の言葉に現れている通り、京都での平氏の栄光は頂点に達し、1179年、平清盛は権力をより強固にするため、後白河法皇を幽閉し、反対派の貴族を一掃し、孫にあたる安徳天皇を即位させ、平清盛の権勢はもはや誰にも止められないかに思えた。

 

 

1180年、ついに平氏の横暴への不満が爆発し、後白河法皇の子・以仁王は決起(以仁王の乱)し、以仁王は平氏打倒を命じる書状を諸国に散らばった源氏の末裔達に発する。

 

それは伊豆の頼朝にも届き、さらにその2ヶ月後、平氏が以仁王の書状を受け取った源氏を追討する計画を立てているとの続報が届く。

 

 

自分の命が狙われていると知った頼朝は、否が応でも決起せざるを得なくなり、関東各地の豪族に書状を送って協力を要請するが、その返事のほとんどが「あなたが平氏にたてつくなど、富士山と背比べをするようなものだ。」というもので、頼朝のもとにはわずか40騎余りしか集まらなかった。

 

蛭ヶ小島
 

頼朝は伊豆国の目代(役人の代理人)・平兼隆を襲撃するが、その6日後、石橋山(現在の神奈川県小田原市)に陣を構えたとたん、瞬く間に平氏軍3000に取り囲まれ、完膚無きまでに叩き潰された頼朝はわずかな兵を従えて箱根の山中に落ち延びる。

 

石橋山


数日間の山中逃亡の後、死を逃れた頼朝は、真鶴岬
(神奈川県真鶴町)から船で安房国へ脱出した。

 

 

一方、平清盛は20年前に命を助けた頼朝が反旗をひるがえしたことに激怒し、平氏のエースと目されていた孫の平維盛(たいらのこれもり)24歳を総大将に頼朝追討軍を組織する。

 

平維盛
  
平維盛
 

頼朝の父・源義朝は関東の武士を味方に出来ず平氏に敗れたため、頼朝は関東の武士を味方にするために、現状に不満を持つ人々に目をつけた。

 

 

関東では平氏に取り入った一部の武士が勢力を拡大する一方で、多くの武士が先祖伝来の領地や地位を脅かされており、頼朝はそうした豪族達に「以仁王は東国各地の土地の支配権は全て頼朝に任せると言っている。」という書状を送る。

 

 

実際の以仁王から頼朝への書状には、そんなことは一言も書かれておらず、書状の内容は頼朝の捏造であったが、このハッタリが功を奏す。

 

 

頼朝のもとに、まず安房国(現在の千葉県南部)の豪族・安西氏一族が合流、さらに下総国(主に現在の千葉県北部)の千葉氏が一族300騎で合流し、頼朝は軍勢を集めながら房総半島を北上していった。

 

 

上総国(千葉県中部)の大豪族・上総広常(かずさひろつね)は平氏との関係が悪化し、その地位と所領が危うくなっていたが、未知数の頼朝を担ぎ上げて平氏を敵に回す決心もつかず、事と次第によってはその場で頼朝の首を刎ねるつもりで、2万騎を従えて頼朝に合流する。

 

 

上総広常は2万の大軍を背景に威圧的な態度で頼朝に挨拶するが、頼朝は合流が遅れた上総広常を一喝し、その迫力に気圧された上総広常は「頼朝は大将軍なり」と服従することを決断。

 

上総広常
   
上総広常
 

北上して下総国を抜けた頼朝軍は、武蔵国(主に現在の東京都・埼玉県)との国境である隅田川にさしかかるが、当時の隅田川はまるで海のようだと言われるほど水量が多く、隅田川の交通を支配していた秩父平氏の協力なしに進軍することは不可能であった。

 

秩父平氏は「平治の乱」で源氏が没落した後、平氏と結びついて勢力を伸ばした一族である。

 

 

しかし、この頃から100年前、秩父平氏は頼朝から4代前の源義家に従って、奥羽鎮圧に参加しており、秩父平氏はこの時に朝廷から恩賞をもらえなかったが、源義家は私財を投じて報いたため、源義家は理想の頭領として脈々と語り継がれていた。

 

 

頼朝が源氏のシンボルである白旗を隅田川の岸に70本並べると、遠い記憶を呼び覚ますこの呼びかけに秩父平氏は「平氏は今の主、頼朝は四代相伝の君なり。」と応え、頼朝は平氏に不満を持つ者だけではなく満足している者をも味方につけることに成功する。

 

 

頼朝は隅田川を渡り、白旗は武蔵国中の噂となって頼朝軍は10万へと膨れ上がり、相模国に進んで源氏に縁の深い鎌倉へと辿り着く。

 

源頼朝2
 

その頃、平維盛は駿河国(現在の静岡県中部)に進み、頼朝軍が予想外の膨張をする一方で、平維盛は駆武者(国家の正式な徴兵)で兵を集めようとするが、人々はなんの見返りもない徴兵を逃れようとし、平氏軍は3万程度にしかならなかった。

 

 

 

頼朝は、平氏軍が東に進むほど少しずつとはいえ軍勢が増えるので、素早く出陣し、出来るだけ西で決戦しようと考える。

また、相模の大庭氏や常陸の佐竹氏といった平氏勢力に背後を襲われる可能性を考えた。

 

そこで頼朝は、足柄山で背後を守れる富士川の手前に陣を張る事を決める。

 

 

たった2ヶ月で20万の大軍に膨れ上がった頼朝軍は、箱根を越え富士川(現在の富士市)に至ると、対岸には平氏軍3万が頼朝軍の大軍勢に震え上がりながら陣取っていた。

 

 

平維盛は川を挟んで睨み合い、そのまま引き分けに持ち込めないかと考えるが、その夜、頼朝軍の一部隊が平氏軍の背後に回ろうと川を密かに渡ろうとすると、水鳥の大群が一斉に飛び立ち、極度の緊張状態にあった平氏軍はパニック状態に陥って我先にと逃げ出す。


富士川
 

戦わずにして勝利した頼朝はこの機に乗じて一気に京都へと攻め込むことを望んだが、千葉常胤らの意見を聞き入れ、鎌倉で勢力を固めることを選び、駿河、遠江、相模、伊豆など戦で得た土地を従った武士達に分け与えた。

 

 

遠い未来の大きな報酬よりも、例え小さくとも早い段階で手に入る報酬に、人間は期待と希望と信頼が芽生えるのである。

 

 

頼朝は打倒平氏にはやる気持ちを抑え、この段階での戦果を褒美として振る舞ったことによって、関東武士の大きな信頼を勝ち得ることに成功し、こうして作られた主従関係は源平合戦のみならず、後の鎌倉幕府確立の礎ともなった。

 

 

 

「富士川の戦い」を終えた頃、頼朝の弟・源義経が、頼朝の陣へと駆け付ける。

 

義経は父・源義朝が命を落としたあと、京都の鞍馬寺で育ち、その後、奥州藤原氏に身を寄せていたが、兄・頼朝の挙兵を知ると胸をトキメかせながら馳せ参じてきた。

 

兄弟二人はこれまでの境遇を語っては涙し、平氏打倒の悲願を誓いあう。

 

源義経
  
源義経
 

その頃、京都では、頼朝・義経の兄弟とは従兄弟にあたる木曾義仲(きそよしなか)が、平氏の大軍を破って西国に追い払い、平氏の狼藉によって荒廃した京都の治安回復を期待されていた。

 

ところが、木曾義仲の大軍が京都に居座り、食糧事情が悪化し、さらに皇位継承への介入などにより後白河法皇と不和となる。

 

1183年、朝廷は頼朝に木曾義仲の追討を命じた。

 

 

頼朝は、義経ともう一人の弟・源範頼(みなもとののりより)を木曾義仲の追討軍として派遣。

 

義経と範頼は木曾義仲の陣を次々に突破して京都に迫るが、京都を目前とする宇治川の橋は騎馬武者が川を渡れないように外されていた。

 

 

川は雪解け水が流れ、相当な激流であったが、義経は怖れることなく流れに馬を乗り入れ、一気に川を渡る。

 

 

時間稼ぎが出来ると踏んでいた木曾義仲は、想定外の早さで京都に侵入してきた義経に対応できずに壊滅状態となり、その後、落ち延びる途中で命を落とす。


宇治川の戦い
 

木曾義仲を破ったのも束の間、平氏が大軍を率いて一の谷に現れた。

 

平氏軍は傾斜のきつい山と海に挟まれた一の谷で強固な陣を敷いていたので、源氏軍は二手に分かれて谷の両側から挟み討ちにすることを決める。

 

ところが、義経は突然に2万の部下を取り残し、わずか70騎を引き連れて一の谷の崖の頂上を目指すという単独行動に出た。

 

そして、下ることは到底不可能に思える最大傾斜60°の崖を猛スピードで下ると、崖側が完全無防備になっていた平氏軍に突撃し、虚をつかれた平氏軍は大混乱に陥れられ、源氏軍が大勝利をおさめる。

 

 

しかし、関東の武士をまとめることを第一とする頼朝は、2万の軍勢を置き去りにし、手柄を独り占めするような行動は他の武将との和を乱す行為とし、再三に渡る大勝利の功労者である義経に恩賞を与えなかった。

 

一ノ谷の戦い

さらに、義経は後白河法皇より京都の警察権を握る「検非違使(けびいし)」を任じられると、官位をもらえば源氏の名があがるはずだと思い、二つ返事でそれを受け取る。

 

 

朝廷の権威を利用して権勢を誇った宿敵・平氏とは異なる関東に根差した新しい独自の権力を模索していた頼朝は、自分と義経のビジョンの違い、そして、後白河法皇の兄弟仲を離間させるための作戦に気付かない義経の政治観のなさにあきれ、義経を平氏追討軍から外した。

 

 

ところが、義経を欠いたまま平氏との戦闘を開始した源氏軍は苦戦を重ね、兵糧が欠乏し、騎馬も足りなくなり、戦場を引き上げて国に帰ろうと言いだす者も現れ出し、背に腹は代えられなくなった頼朝は義経の起用を決断。

 

 

この頃、平氏は瀬戸内海の屋島を根拠地としていたため、源氏軍は船で屋島に攻め込もうとするが、出港予定日に嵐が起こり、源氏軍は行く手を阻まれる。

 

義経は出港延期を主張する源氏軍を置き去りにし、わずか150騎の手勢を船に乗せて暴風の中を強行出港、またも独断で単独行動に走った。

 

 

屋島に到着した義経は、船を平氏軍の陣から遠く離れた海岸に付け、平氏軍の背後から忍び寄ると、大軍が押し寄せてきたかのように演出するため浜辺に火を放つ。

 

 

嵐で油断していた平氏軍は、突然の大軍らしき敵の襲来に驚き、慌てふためいて船に乗って逃亡し、義経はわずか150騎で平氏の大軍を海へと追い払ってしまった。


屋島

平氏軍は屋島から壇ノ浦に逃亡する。

 

 

屋島の戦いから一月後、義経が率いる源氏軍は、船戦が得意な平氏軍に対して、敵の舵取りを狙うという戦法を取り、動きを封じられた平氏軍は壊滅した。

 

この「壇ノ浦の戦い」で源氏が勝利したことにより平家は滅亡する。

 

壇ノ浦の戦い
 

勝利の歓喜とは裏腹に戦場から「義経は勝手にふるまい、統率を乱し、関東武士の恨みを買っている。」という報告が頼朝に届く。

 

 

このままでは関東武士をまとめ上げることは困難になると判断した頼朝は、捕虜を輸送して鎌倉の近くまで戻ってきていた義経に対して「鎌倉に入ってはならない。」と告げる。

 

 

鎌倉とは目と鼻の先の腰越で、鎌倉入りの許可を待つ義経は「あらぬ告げ口に対し、私の言い分もお聞きにならないで鎌倉に入れてもらえず、私の気持ちはお伝えできず、これでは兄弟の意味もないと同じです。私が朝廷から高い位をいただいたのは、源氏の名誉でこそあれ、私の野心を示すものではあるはずがありません。どうか賢明な判断をお願いします。」といった内容の手紙を頼朝に書く。

 

 

頼朝は返事を出さず、義経は2週間待って返事が来ないことを悟ると、わずかな伴を連れて京都へと戻る。

 

腰越
 

京都で義経は、兄・頼朝からはもらうことが出来なかった平氏討伐の恩賞として、後白河法皇から伊予守(現在の愛媛県の長官)に任じられた。

 

 

一方、頼朝は義経が京都で謀反を企んでいるとの噂をから義経の身辺を探る密偵を放つ。

 

命を狙われていると察した義経が、朝廷に頼朝追討を願い出ると、後白河法皇はこれを許可した。

 

 

ところが、朝廷から自分を追討する命令が出されたことを知った頼朝は、5年ぶりに鎌倉を出て京都を目指す。


朝廷や公家はその噂だけで慌てふためき、頼朝を恐れた後白河法皇は、今度は頼朝による義経追討を承認する。

 

 

頼朝の大軍に対して、義経に味方しようとする者は皆無に等しく、義経は京都を逃げ去った。

 

 

頼朝はこの機に乗じて朝廷に迫り「守護(警察権)・地頭(年貢の徴収権)」という新しい役人を全国に置くことを認めさせ、関東の武士達をその職に就けて朝廷の影響力を弱めることに成功する。

 

源頼朝

1189年、頼朝は逃亡した義経をかくまった奥州藤原氏を攻撃。

 

頼朝の圧力に屈した藤原泰衡(ふじわらのやすひら)によって義経は自害に追いやられた。

 

その後、頼朝は奥州藤原氏を滅ぼし、全国の軍事支配を達成する。

 

 

1192年、頼朝は征夷大将軍となり、名実ともに武家政権としての鎌倉幕府を成立させ、以後700年近くに渡って続く武士の時代の幕を開けた。

 

 

1199年、51歳で死去。

 

 

 

多くの物語では、義経が悲劇のヒーローとして扱われ、頼朝は冷徹な兄として描かれることが多いが、頼朝の義経討伐は、関東の武士団への配慮だけではなく、義経が無意識に所属した旧体制に対する「NO!」でもあり、平氏とは異なる新たな武士の世を切り開くうえで避けては通れないものであった。

 
佐奈田与一1
  佐奈田与一

また、頼朝は石橋山を訪れては、ここで戦死した佐奈田与一を思い出して大粒の涙を流していたという。

 

 


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