千葉氏は、桓武天皇の曾孫・高望王(たかもちおう)の末子・平良文(たいらのよしふみ)を祖とし、平良文は「平将門の乱」前後に下総国相馬郡(現在の柏市、我孫子市、茨城県北相馬郡など)を獲得し、以後この地を中心に活躍するようになる。
平良文から5代下がった平常兼(たいらのつねかね)の息子・千葉常重(ちばつねしげ)は平安時代後期の1126年に現在の千葉県千葉市中央区亥鼻付近に本拠を移して武士団を形成し、これが、千葉の都市としての始まりとなった。
後の世に千葉氏中興の祖とされる千葉常胤(ちばつねたね)は、千葉常重の子として大椎城(現在の千葉県千葉市緑区大椎町)で生まれる。
1135年、18歳で家督を相続し、亥鼻の居城や相馬郷(現在の柏市、我孫子市周辺)の領土を受け継ぐ。
常胤が家督を継いだ翌年、下総国の国司(朝廷の役人)・藤原親通(ふじわらのちかみち)が税金の滞納を理由に父・千葉常重を逮捕・監禁し、相馬郷と立花郷(現在の千葉県香取市、千葉県香取郡東庄町)の権利を要求する。
1143年、源義朝(源頼朝の父)がこの問題に介入し、相馬郡の権利を奪った。
こうした事態に対して常胤は一旦、相馬御厨と立花郷を譲ることに同意し、後に滞納分を返済すると相馬郡の郡司(国司の下)に任命され、相馬郷の権利を回復させていく。
また、源義朝に対しては、主従関係を結ぶことで、土地の支配権を確保した。
そのため常胤は、1156年、朝廷が皇位継承問題などで分裂したことで、後白河天皇側の源義朝・平清盛らと崇徳上皇側の源為義・平忠正らが武力衝突した「保元の乱」に源義朝の指揮下で出陣する。
しかし、1159年、藤原通憲と結んで勢力を伸ばした平清盛を打倒しようと、源義朝が藤原信頼と結んで挙兵した「平治の乱」で、源義朝が平清盛に敗れると、常胤が約20年かけて回復させていった所領は没収され、常胤は相馬御厨と橘庄の権利を全て失う。
藤原親通(平氏側)とむすび、所領没収のキッカケを作った常陸国の佐竹義宗と、常胤に確執が生まれる。
この頃「平治の乱」で敗れた源義朝の大叔父にあたる源義隆の生後50日余りの子・源頼隆が、常胤のもとに流されてくると、常胤は厳しい平氏の監視下にありながら、この子を密かに源氏の子として庇護し大切に育てた。
1180年、平清盛によって伊豆に流されていた源頼朝が34歳で挙兵し、石橋山(神奈川県小田原市)で平氏に敗れ、安房国に逃れてくると、頼朝は直ちに常胤に使者を送って加勢を求めた。
常胤はすぐ源頼朝に従うことを決意し、一族300騎を率いて救援に向かう。
この時に源氏の子として育ててきた源頼隆を伴い、源頼朝から源氏の孤児を育ててきたことを深く感謝される。
常胤がすぐに源氏軍へ参陣した背景には、源頼朝の父・源義朝との関係だけでなく、領地問題でもめた藤原親通・佐竹義宗が平氏側の立場であることも大きかった。
実際に、この後、佐竹氏討伐を進言して相馬御厨の支配を奪還する。
また、平氏に討たれた息子・日胤の仇をとるのが目的の一つでもあった。
その後、常胤は一貫して頼朝を支え、相模国鎌倉を本拠とすることを進言するなど、筆頭御家人として鎌倉幕府の創設に重要な役割を果たす。
安房国で再挙した源頼朝に東国武士が参集して大軍へと膨れ上がり、は鎌倉に入った後、駿河国富士川(現在の静岡県富士市)で平氏軍と衝突し(富士川の戦い)勝利すると、平氏打倒に焦る源頼朝はこのまま平氏を追撃して京都に進入することを望むが、常胤はそれに反対して東国を固めるように進言する。
実際に、源頼朝がここで一度地盤を固めたことが、確実に平氏を追い詰めることにつながった。
1184年、常胤は源範頼軍に属して、木曾義仲の追討、「一の谷の戦い」に参加、その後、豊後国(現在の大分県の大部分)に渡り軍功を上げる。
1185年に「壇ノ浦の戦い」で平氏が滅亡すると、源頼朝が征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府が成立した。
1190年、奥州藤原氏を滅亡させた「奥州合戦」で、常胤は東海道方面の大将に任じられて活躍し、奥州各地に所領を得る。
源頼朝は常胤を父のように慕い、正月には必ず常胤の屋敷で新年を祝うほど厚い信頼を寄せていた。
1201年、82歳で死去。
常胤は息子たちとともに源平合戦や奥州合戦に参加し、その功績によって失った相馬御厨と橘庄を取り戻し、下総国・上総国の2か国をはじめ、東北地方から九州地方まで全国20数カ所といわれる広大な所領を獲得し、千葉氏は鎌倉幕府の中でも屈指の御家人に成長する。
獲得した所領は、千葉六党と呼ばれる常胤の6人の息子達が、それぞれ所領を分割して引き継ぎ、それぞれが本拠とした所領の地名を名乗り、分家を繰り返しながら、全国各地に広がっていった。
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