新田義貞700x1000


新田氏本宗家の
7代当主・新田朝氏(にったともうじ)の嫡男として生まれた。

 

義貞は戦死した際に3740歳であったといわれ、生年については1300年前後と考えられている。

 

義貞の育った上野国新田荘(現在の群馬県太田市周辺)は、気象の変化が激しく、夏は雷が轟き、冬は強烈な空っ風が吹き荒れる風土で、義貞はそのような風土の中で武芸の研鑚を積み、利根川で水練に励みながら強靭に育っていった。

 

 

1318年、父・朝氏が死亡したことにより、義貞が新田氏本宗家の家督を継承し、第8代当主となる。

 

 

新田氏は源義国(源義家の四男)の長男・新田義重に始まり、もともと広大な領地を有していたが、新田氏とは同祖の足利氏(源義国の次男・源義康から始まった)と比べると、鎌倉幕府を掌握していた北条家に冷遇され、義貞の代の新田氏はその領地も縮小していた。

 

源義国 

  源義国

1331
年、後醍醐天皇は鎌倉幕府を打倒する計画を立てるが、その計画が鎌倉幕府にもれ失敗し、幕府軍に捕えられた後醍醐天皇は隠岐島に流される。

 

 

幕府に従って千早城(大阪府南河内郡)に立てこもっていた楠木正成(後醍醐天皇側)への攻撃に義貞は加わっていたが、病気を理由に無断で新田荘(現在の群馬県太田市および桐生市・伊勢崎市・みどり市・埼玉県深谷市の一部にあった荘園)に帰還した。

 

その後、楠木正成の討伐のために膨大な軍資金が必要であった幕府は、資金調達のために重税を集め出していたが、義貞はその徴税の使いを殺害した。

 

 

間もなく幕府が報復として新田討伐の軍勢を差し向けるという情報が入ると、義貞の弟・脇屋義助の主張によって幕府と積極的に対立する方針をかためる。

 

八幡荘
 

義貞はわずか150騎で挙兵すると、長崎孫四郎左衛門尉が守る上野守護所(現在の群馬県安中市)に攻め入って壊滅させ、八幡荘(現在の群馬県高崎市・安中市にあった荘園)で体勢を整えた。

 

 

そこに利根川を越えて越後国・信濃国・甲斐国の新田一族や、里見・鳥山・田中・大井田・羽川などの氏族が合流し、7,000の大軍に膨れ上がった義貞軍が鎌倉を目指すこととなる。

 

 

さらに、利根川を渡って武蔵国に入る際、足利尊氏の嫡男・千寿王(せんじゅおう)と久米川付近で合流した。

 

千寿王が率いていたのはわずか200であったが、足利尊氏の嫡男と合流したことで義貞の軍に加わろうとする者はさらに増え、その軍勢の規模は約20万といわれている。

 

小手指原
 

新田軍は鎌倉街道を進み、入間川を渡り小手指原(現在の埼玉県所沢市北野)に達し、桜田貞国を総大将とする幕府軍と衝突した。

 

 

両者は遭遇戦の形で合戦に及び、布陣の余裕はなく激戦となり、義貞軍は入間川まで幕府軍は久米川まで撤退して軍勢を立て直すこととなる。

 

 

翌朝、義貞軍が久米川(現在の東京都東村山市諏訪町)に布陣する幕府軍に奇襲を仕掛けて戦闘が再開された後、幕府軍は分倍河原まで退却することになった。

 

 

分倍河原に布陣する幕府軍に北条泰家を大将とする10万騎が加わるが、それを知らずにいた義貞軍は突撃を敢行して返り討ちにあう。

 

 

堀兼まで敗走した義貞は、退却も検討していたが、そこへ北条氏と親しいはずの大多和義勝が6000騎を率いて義貞に加勢すると、義貞軍は分倍河原へと奇襲を仕掛け、多摩川を渡り、霞ノ関(現在の東京都多摩市関戸)にて幕府軍の北条泰家に大勝利を収める。

 

新田義貞(分倍河原)
 

勢いに乗った義貞は一気に鎌倉まで攻め上がり、幕府軍は敗戦に次ぐ敗戦により鎌倉の防備を固め、どの方面にも援軍がすぐ駆けつけられるよう、鎌倉中に兵を配置した。

 

 

鎌倉は攻撃しにくい地形であるため、義貞は海岸ぞいから攻めることを考えたが、潮が満ちていて鎌倉まで行けなかったが、「太平記」では義貞が稲村ヶ崎の海岸で黄金作りの太刀を海に投じた所、龍神が呼応してみるみる潮が引き、鎌倉へと続く砂浜が広がる奇蹟が起こり、義貞軍は鎌倉に突入できたといわれている。

 

新田義貞5

いずれにせよ、稲村ヶ崎を突破した義貞の軍勢は鎌倉へ乱入し、由比ヶ浜における激戦の後、幕府軍を前後から挟み撃ちにして壊滅させた。

 

 

1333年、北条高時らが自害し、鎌倉幕府は滅亡する。

 

 

義貞が鎌倉を陥落させるも、武士達の評価は、後醍醐天皇の誘いを受けて天皇方につくと鎌倉陥落に先んじて京都を制圧した足利尊氏の方が高く、武士達は新田よりも足利へと接近していき、義貞と足利尊氏の対立が深まっていった。

 

新田義貞6
 
1334年、後醍醐天皇が貴族や寺院の利益を考えた天皇中心の政治(建武の新政)を始め、これによって武士の不満が高まることになる。

後々、足利尊氏はその不満をまとめ上げていく。

 

 

1335年、信濃国で北条氏残党が北条高時の遺児・北条時行を擁立し、鎌倉を占領した(中先代の乱)

 

 

足利尊氏は後醍醐天皇の命令を受ける前に北条時行の討伐に向かい、鎌倉に本拠を置くと、武功のあった者への褒美として新田一族の所領を分け与える。

 

さらに、足利尊氏は朝廷の帰京命令に従わず「義貞と公家達が自分を陥れようとしている」と主張して鎌倉に留まった。

 

 

後醍醐天皇は、義貞に「錦の御旗」を贈って足利尊氏の討伐を命じる。

 

 

義貞は事実上の官軍(天皇および朝廷に属する軍)総大将となるものの、形式上の総大将である尊良親王(後醍醐天皇の子)の周辺には口うるさいだけの公家達がおり、加えて同時に進軍した北畠顕家は義貞よりも官位が上で指図できる立場でなかった。

 

 

そのため指揮系統が混乱して上手く連携が取れず、足利側に兵をまとめて出撃するだけの余裕を与えてしまう。

 

 

新田軍は迎撃してくる足利軍に三河国矢作(愛知県岡崎市)、駿河国(静岡県静岡市駿河区)で勝利するが、箱根で大敗を喫し、伊豆から西へと逃れる。

 

 

その途中、義貞は天竜川に橋を駆けて渡った後、部下の「追撃してくる足利軍がこの橋を渡れない様、橋を切り落すべきである。」という提案に対して、「敵の追撃に対する焦燥からあわてて橋を切り落して逃げたと思われては末代までの恥である。」と返答して、橋を切り落とさず、また、義貞は部下達に先に橋を渡らせ、自らは一番最後に橋を渡った。

 

天竜川
 

義貞は帰京するも、義貞を追撃する足利軍は破竹の勢いで京都まで攻め上がり、義貞らは敗北し、京都は足利軍に占領されることとなる。

 

 

しかし、奥州より上ってきた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が京都へ到着すると形勢は逆転していき、義貞が楠木正成、北畠顕家らと共に、京都へ総攻撃を仕掛けると、京都の奪還に成功した。

 

一方で、尊氏をはじめとする足利軍の主要な武将の首を挙げることはできず、敗走する足利軍は丹波を経由して摂津まで逃れ、九州へと落ち延びる。

 

 

 

義貞は足利尊氏を追撃し、その途上で足利側の赤松則村(あかまつのりむら)の拠点である播磨を攻めた。

 

 

しかし、新田軍は赤松則村の白旗城をなかなか陥落させることが出来ず、50日近くも時間を浪費すると、着実に九州で戦力を増強した足利尊氏が30万人ともいわれる軍勢で海上・陸上の二手に分かれて再び京都を目指す。

 

 

新田軍は進撃してきた足利軍に福山城(岡山県総社市)で敗れ、義貞はさらに進撃を続ける足利軍を楠木正成と共に和田岬で迎撃する(湊川の合戦)が、海と陸からはさみ討ちにされて敗れる。

 

楠木正成は自害し、義貞は敗走することとなった。

 

福山城
 

京都を占領した足利尊氏が後醍醐帝との和平工作に着手すると、後醍醐帝もこれに応じるが、この和平交渉は義貞には知らされず、義貞は事実上、天皇から切り捨てられる形となる。

 

事情を知った義貞の部下である堀口貞満(ほりぐち さだみつ)は「なぜ義貞の多年の功を忘れ、大逆無道の尊氏に心を移されるのか。」と目に涙を浮ながら後醍醐帝の無節操を非難した。

 

 

それから間もなく、義貞が3000騎で駆けつけ、後醍醐帝を包囲すると、後醍醐帝は新田一族の功をねぎらい「和議を結んだのは計略であり、それを義貞に知らせなかったのも計略が露呈して頓挫することを防ぐため。」と取り繕う。


後醍醐天皇
  
後醍醐天皇
 

義貞は妥協案として、後醍醐帝の子である恒良親王と尊良親王の臣下として北陸に行かせて欲しいと提言する。

 

 

1336年、義貞は両親王らとともに北陸道を進み、金ヶ崎城(福井県敦賀市金ヶ崎町)へ到着した。

 

 

この年は通年に増して寒さが厳しい年であったことが分かっており、降雪にはまだ早い時期でありながら、金ヶ崎城まで落ち延びる義貞一行は、途中猛吹雪に襲われ、多くの凍死者を出す。

 

 

義貞が金ヶ崎城に入城後まもなく足利軍の攻撃を受ける。

 

金ヶ崎城
 

足利軍は6万の大軍で金ヶ崎を攻め、海上にも水軍を派遣して四方から包囲して総攻撃を仕掛けるが、戦いの序盤は義貞が優位に展開する。

 

 

しかし、金ヶ崎城の食料は日に日に尽きてゆき、城中は飢餓に襲われ、馬を殺して食糧にしたり、死人の肉すら食べるという凄惨な状況へと追い詰められていった。

 

 

1337年になると斯波高経(しばたかつね)率いる足利軍の攻撃はより激しさを増し、新田軍は城内から出撃し、足利軍の背後にいる杣山城の脇屋義助(義貞の弟)らと連携して足利軍をはさみ討ちにしようとするが、風雪の激しさから同時に攻撃することができず、金ヶ崎城はついに陥落する。

 

 

落城に際して、新田義顕(義貞の長男)は戦死、尊良親王は自害、恒良親王は捕虜となった。

 

義貞は難を逃れて、ここを生き延びる。


新田義貞の最後

1338年、義貞の率いる50騎は、黒丸城(福井県福井市黒丸町)から出撃してきた斯波軍300と燈明寺畷(とうみょうじなわて)で遭遇し、乱戦の末、義貞は水田に誘導されて身動きが取れなくなってしまう。

 

そこに矢の乱射を受け、義貞は落馬し、起き上がったところに眉間に矢が命中する。

 

致命傷を負った義貞は観念し、自害した。

 

 


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