保科正之700x1000


1611
年、正之は江戸の神田白銀町で生まれる。

 

母・お静は徳川第2代将軍・徳川秀忠の乳母・大姥局の侍女であった。

 

 

下級女中を妾にする場合はしかるべき家の養女として出自を整えるのが常識であったが、正之はそれがなされずに生まれたうえ、秀忠の正室・お江は嫉妬深く側室を認めない女性であったため、お江を恐れた秀忠は正之を認知しなかったので、正之は生涯、父親と対面することなく終わる。

 

徳川秀忠
  
徳川秀忠
 

こうした事情もあり、幼い正之はお江に見つかれば命の危険もあった。

 

 

そんな正之を保護したのは武田信玄の娘・見性院で、見性院は正之の存在を知ったお江から再三の引き渡し要求があっても毅然と断り続けて、養育にあたる。

 

 

7歳になった正之は、見性院の縁で旧武田氏家臣の高遠藩(現在の長野県伊那市)主・保科正光に託され、高遠城で正之は母と生活した。

 

 

高遠は石高わずか3万石の弱小藩であったが、ここで正之が後に名君となる人格が形成される。

 

この頃、正之が教育係の家臣と農家を回っていた時「馬を農家に入れてはいけない。馬が穀物や野菜を食べてしまったら、農民の心はつかめない。」と教えられた。

 

 

1631年、正之は養父・保科正光の跡を継ぎ、21歳で高遠藩3万石の藩主となる。

 

長野県伊那市

高遠藩主となった正之が、3代将軍・徳川家光と謁見するために江戸城に行った際、正之は大名衆の末席に座るが、正之が家光の弟であることは噂になっていたため、大名達は正之に上座を勧めるが、正之は「自分は小さな藩の藩主で若輩者ですから。」と末席から動かなかった。

 

家光は正之のこの態度に好感を抱く。

 

 

家光が正之という弟の存在を知ったのは、家光が身分を隠して目黒に5人ほどの供を連れて成就院という寺で休憩していた時、そこの僧侶から「肥後守殿(正之のこと)は今の将軍家の弟君である。」と聞かされたからと言われている。

 

 

家光に気に入られた正之は、家光が朝廷へ向かう際のお伴や秀忠の墓所造営などの仕事を任され、1636年には石高7倍増という異例の大出世となる山形藩20万石に転封された。

 

徳川家光
   
徳川家光


1637
年、原城(長崎県南島原市南有馬町乙)で迫害を受けたキリシタンや農民が武装蜂起した一揆軍3万を幕府が12万の軍勢で殲滅する。

 

この「島原の乱」の大きな原因は、領主の過酷な年貢の取り立てや圧政であったため、島原藩主・松倉勝家と唐津藩主・寺沢堅高はお家断絶の処分となった。

 

原城
 

正之はこの出来事から、反乱が起きるのは政治の責任であると認識し、善政へ邁進するようになる。

 

 

 

 

1643年、会津藩23万石へさらなる出世を遂げた正之が初めてお国入りした頃、会津は、前藩主・加藤明成の過酷な年貢の取り立てと「寛永の大飢饉」によって国土は荒廃し切っていた。

 

 

正之が藩全体の正確な石高を調査すると、前藩主は実際の取れ高よりも多く年貢を徴収する不正をしていたことが分かったため、正之は年貢を低く修正して減税する。

 

 

前藩主・加藤明成は百姓一揆が起きたら全村なで斬りにすると豪語する決断力あるリーダーであったため、農民達には自分の身は自分で守らなければならないという意識が強かったため、隠していた水田が少なくなかった。

 

 

しかし、正之の減税に感動した農民達は隠していた水田を自主的に申告し、その結果、税収は逆にプラスとなる。

 

会津

減税によって税収を増やした正之は、藩が米を備蓄して凶作や飢饉に備える「社倉制度」を実施し、7000俵からスタートした社倉は10年後には23000俵、幕末には10万俵と拡充し続け、会津藩では度重なる飢饉でも餓死者を一人も出さなかった。

 

 

さらに、年を取って働けなくなった老人は一家のお荷物とされたこの時代、会津では長生きは良いこととして、90歳以上の老人には「養老扶持」として掛け金なしの生涯年金が支給されるようになる。

 

 

1889年にドイツ帝国のビスマルクによる「年金保険」が年金制度のさきがけとされているが、正之はその226年前の1663年に「養老扶持」を開始していた。

 

 

こうして、「社倉制度」や「養老扶持」で、将来不安が減少した会津の領民の消費は活性化し、経済を発展させることになる。

 

 

また、領民に限らず旅人も対象にした医療の無料化によって、多くの行商人が集まり、これも会津の経済を発展させた。

 

会津若松城2
 

1651年、家光は死の間際に正之を枕頭に呼び寄せ「家綱を頼むぞ。」と言い残す。

 

父に認知されなかった正之にとって、時の将軍である兄からの信頼はなによりもの存在肯定であった。

 

これに感銘した正之は、11歳で4代将軍となった家綱と幕府のために尽くし、1668年には「会津家訓十五箇条」を定め、その第一条は「会津藩たるは将軍家を守護すべき存在であり、藩主が裏切るようなことがあれば家臣は従ってはならない。」で、以降、会津藩の藩主・藩士はこれを忠実に守る。

 

 

しかし、幕末には、この遺訓を守ることによって、会津藩は過酷な運命を辿ることになった。

 

明暦の大火

1657年、本郷丸山の本妙寺より出火した「明暦の大火」は、その火の手が江戸城にまで迫って来る。

 

 

幕閣達は将軍・家綱をどこに避難させるかで議論し、それぞれの別荘や屋敷に迎えようとするが、正之は「本丸に火が廻ったら西の丸に移れば良い。西の丸が焼けたら本丸の焼け跡に陣を立てれば良い。城外へ将軍を動かすなどもってのほかだ。」と進言した。

 

 

リーダーが軽々しく動けば人心が動揺すると考えた正之は、将軍を江戸城に留めることで災害本部を明確にし、徳川家はどんな時も江戸の町を統治するのだという事を人々に示す。

 

 

また、将軍が避難先を選べば、選ばれた家臣と選ばれなかった家臣とが、後々門閥闘争を起こす可能性もあり、将軍個人を逃がすという意味では決してベストとはいえないこの正之の判断は、本物の危機回避であり、一石二鳥の戦略であった。

 

浅草御蔵
 

火の手はさらに浅草御蔵(江戸最大の米蔵)に迫る。

 

火消し達がことごとく出払っている状況で、正之は「米蔵の米、取り放題」という奇策を打ち出す。

 

これは米経済のこの時代では、国家の金庫を解放して現金掴み取りの大判振る舞いをするようなものであった。

 

飲まず食わずの被災者達は、食料欲しさに道々で必死に火を消しながら米蔵を目指したため、被災者が消防隊として働き、焼失するはずだった米が救援物資になるという、まさに一石二鳥の結果となる。

 


 

10万人もの死傷者を出し、焦土と化した江戸の町を、正之は火事に強い町へ作り変えるべく復興に乗り出す。
 

上野広小路
 

まず、建物から建物へ火が移りにくい町にするため、幹線道路を拡大し、上野広小路はこの時に作られた。

 

次に、当時は敵の侵入を防ぐため隅田川に橋を架けることは制限されていたが、多くの人が墨田川に飛び込み溺死したため、正之は軍事より市民の安全を優先して両国橋を建設する。

これは江戸が隅田川を越えて発展するキッカケにもなった。

 

両国橋
 

焼失した江戸城天守閣の再建は中止し、そのための費用や資材は復興に回される。

 

 

復興には16万両という国庫が空になるほどの資金が投入されたため、多くの反対意見ももあったが、正之は「こういう時に使うために貯めてきたのだ。こういう時に使わないのであれば、最初から貯めなければ良い。」と、反対の声を一蹴した。

 

 

こうして、大災害を教訓に民の安全を第一にしたことで、交通・経済を活性化させ、江戸は世界に例を見ない100万都市へと発展した。

 

 

 

江戸幕府は、幕府権力の絶対優位を確立するために、3代将軍・家光までに131の大名家が厳罰化された「大名改易」で取り潰され、職にあぶれた大量の浪人が不満分子となり、それが社会不安となる。

 

 

力で抑える政治に限界を感じていた正之は、江戸時代という世界的にも珍しい300年間も戦争のない太平の世を印象付ける政策を打ち出していく。

 

保科正之2
 

「末期養子(まつごようし)の禁の緩和」

後継ぎのいない大名家を取り潰して徳川の権力を盤石にするために、それまで後継ぎのいない大名が死の間際に養子を迎え、お家の存続をはかる末期養子を幕府は禁じていたが、正之は末期養子を認めることで、諸藩に幕府の共存共栄の意思を示す。

 

 

「大名証人制の廃止」

幕府は、大名の家族や家臣を人質として差し出させ、謀反を起こさせないようにしていたが、これを廃止して、信用による和平路線へと前進する。

 

 

「殉死の禁止」

殉死は、主君が死んだ後、家臣が後を追って切腹することで、主君への忠義を示すものである。

正之は、これからの時代は、忠義を示すのは藩や幕府などの政治体制であるべきだと考えていたため、殉死を禁止することによって、個人を崇拝する独裁的な気風に対して意識改革をもたらした。

 

保科正之1

1669年、正之は嫡男の正経に家督を譲って隠居し、1672年に江戸三田の藩邸で死去した。

 

 

正之は幕府より松平姓(徳川家と祖先を同じくする家臣の姓)を名乗ることを勧められたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通し、第3代・正容になってようやく松平姓と葵の紋(徳川一門の家紋)が使用されるようになる。

 

 


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