佐竹義宣700x1000


1570
年、佐竹義宣(さたけよしのぶ)が太田城(現在の茨城県常陸太田市)で生まれた頃、父の義重は、那須氏を攻めていたが、那須氏当主・那須資胤の娘を義宣の妻に迎えること等を条件に和睦する。

 

義宣は3歳であった。

 

 

15861590年の間に、義宣は、父・義重の隠居によって家督を相続し、佐竹氏19代当主となる。

 

太田城
 

この頃の佐竹氏は、小田原・北条氏と和議を結んで常陸国(現在の茨城)から南方の安全をはかっていたが、北方では義宣の弟・蘆名義広(あしなよしひろ)が城主となっていた黒川城は、伊達政宗に陥落させられ、南奥州の基盤を失っていた。

 

 

佐竹氏は伊達氏と対立しながら、豊臣秀吉、石田三成、上杉景勝と親交を結び、1589年、秀吉から北条征伐への出陣命令を受ける。

 

 

 

義宣は伊達政宗(義宣にとって母方の従兄にあたる)と対峙している最中であったため、直ちに命令に従うことはできなかったが、1590年、宇都宮国綱ら与力大名(より大きな大名に加勢として附属した武将)を含めた1万の軍勢を率いて北条氏の本拠地・小田原へ向かった。

 

 

義宣は、北条方の城を落としつつ小田原へ進軍し、秀吉のもとを訪れると臣下の礼をとり、石田三成の指揮下で忍城(現在の埼玉県行田市)を攻めた。

 

忍城
 

北条征伐の後、伊達政宗と争奪戦を繰り広げていた南奥羽(滑津、赤館、南郷)について、義宣は秀吉から所領支配権を認められる。

 

 

また、本領である常陸国(結城氏領を除く)および下野国の一部は「佐竹氏50.2:与力家来49.8」の割合での所領支配となるが、秀吉に服従せずに独立を認められなかった勢力も佐竹氏の配下として編入されたため、家臣化が不十分で領主権力は貧弱であった。

 

 

 

以後、義宣は常陸国全域に支配を及ぼすため、1590年、北条征伐に参陣しなかった江戸重通(えどしげみち)の水戸城を攻め落とし、そのまま南下し、大掾清幹(だいじょうきよもと)の常陸府中城(石岡城)を攻めて大掾氏を滅亡させ、常陸国全域の領主権力の強化に成功し、佐竹氏は徳川氏や前田氏、島津氏、毛利氏、上杉氏と並んで豊臣政権の六大将といわれる。

 

水戸城
 

1595年、太閤検地(豊臣秀吉が日本全土で行なった田畑の収穫量調査)を経て、義宣は54万石の支配を認める朱印状を秀吉から受けた。

 

 

 

1598年に秀吉が死去すると、秀吉への忠義を果たそうとする石田三成と徳川家康が対立を深めていく。

 

 

 

1600年、徳川家康より義宣は、上杉景勝の討伐を命じられるが、この時期の佐竹氏は東軍につくとも西軍につくともいえない状態でいた。

 

佐竹義宣1
 

関ヶ原の戦いが東軍の勝利に終わり、家康が天下を手中にすると、義宣は伏見にいる家康のもとへ向かい、途中、神奈川で会った秀忠(家康の子で後の2代目将軍)に対して陳謝し、伏見に到着した後、家康に謝罪および家名存続の懇願をする。

 

 

 

1602年、義宣は、出羽国秋田郡に国替え(転封)の命令を家康から受けた。

 

これは54万石から20万石への減転封である。

 

 

その理由は家康への恭順をハッキリさせなかったことに加え、無傷の大兵力を温存していた佐竹氏を江戸から遠ざけるためであった。

 

土崎湊城
 

義宣は秋田の土崎湊城に入城すると、角館城、横手城、大館城などを拠点に内政を行い、仙北地方で起こった一揆を平定して領内の安定をはかる。

 

 

後に土崎湊城に代わって本城となる久保田城の築城は1603年から始まった。

 

 

久保田藩の初代藩主となった義宣は、家柄や旧例にとらわれず能力本位で仕事を任せ、浪人あがりから家老となった渋江政光などは農業生産と藩財政の安定に貢献する。

 

そうした成果から、江戸中期の久保田藩の実高は45万石にも上った。

 

 

しかし、こうしたことは譜代(数代にわたって主家に仕えた家臣)の老臣の反感を買い、川井忠遠らが義宣の暗殺を企てることに繋がる。

 

久保田城
 

 

1614年、徳川方として参陣した「大坂冬の陣」で義宣は上杉景勝とともに、今福の戦いで、木村重成などの軍勢を撤退させ、これが戦況に大きな影響を与えたので、幕府における佐竹軍の評価は高まり「大阪冬の陣」で幕府から感状を受けたわずか12名のうち5名が佐竹家中の者であった。


大阪冬の陣


義宣の妻は、正室・正洞院
(那須資胤の娘)、後室・大寿院(多賀谷重経の娘)、側室・岩瀬御台(蘆名盛興の娘)など数人いたが、跡取りとなる男子がいなかったため、紆余曲折ありながら亀田藩主であった岩城吉隆(義宣の甥)が久保田藩の第2代藩主となる。

 

 

 

1633年、義宣は江戸神田屋敷にて64歳で死去した。




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