703x999韓信


韓信は淮陰(現在の江蘇省淮安市)の出身で、貧乏で素行も悪かったため職にも就けず、他人の家に上がり込んでは居候するという生活に終始する。

 

そのような状態であったため、淮陰の者達はみな韓信を見下していた。

 

 

そうして居候のあてがなくなり、韓信が数日間何も食べないで放浪していると、見かねた老女に数十日間食事を恵まれる。

 

韓信はその老女に「必ず厚く御礼をする」と言ったが、老女は「あんたがかわいそうだっただけ。礼など望んでいない。」と言われた。

 

韓信5
 

そんな韓信に町の輩が絡んで「お前は背が高く、いつも剣を帯びているが、実際は臆病者なんだろう。違うなら俺を刺してみろ。できないならば俺の股をくぐれ。」と挑発される。

 

すると韓信は黙って輩の股をくぐり(日本の土下座よりも屈辱的な行為)、周囲の者達はブザマな韓信の姿が面白くて面白くて大爆笑した。

 

その時のことを韓信は「恥は一時、志は一生。ヤツを切り殺して、その仲間に狙われるだけだ。」と判断したという。

 

 


 

秦の始皇帝の死後、「陳勝・呉広の乱」をキッカケに各地で秦の圧政に対する反乱の火が広がると、紀元前209年、韓信は反秦の旗手となっていた楚の項梁、次いでその甥の項羽に仕えるが、裁量を与えられることも出世の見込みもなかった。

 

 

 

 

紀元前206年、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになり、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなう。

 
 

功績の大きかった劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。

 

領地分配
 

韓信は項羽のもとを離れ、左遷された劉邦のもとへ活躍のチャンスを求めるが、韓信は項羽軍で雑兵に過ぎず実績もないため、劉邦軍でも活躍の場を得られる理由は何一つなかった。

 

 

そうしてウダツのあがらない韓信が罪を犯し、同僚13名と共に斬刑に処されそうになった時、韓信は劉邦の重臣の夏侯嬰に「壮士を殺すような真似をして、劉邦には天下に大業を成す気はないのか。」と訴えると、夏侯嬰は韓信を面白く思って劉邦に推薦する。

 

 

しかし、韓信は命拾いしたものの望むような出世はかなわず、劉邦と同郷の重臣である蕭何に自らの才をうったえると、今度は蕭何が韓信を劉邦に推薦するが、やはり望むような出世はかなわなかった。

 
 

ついに韓信は劉邦軍での活躍もあきらめて脱走しようとするが、蕭何が慌てて引き止め「今度推挙して駄目だったら、私も漢を捨てる。」と説得し、劉邦は蕭何の必死のアピールを受けて、韓信に全軍を指揮する大将軍の地位を任せるという大抜擢をする。

 

韓信1
 
 

韓信はさっそく大抜擢に応えて、劉邦が関中を手に入れられる根拠を説明する。

 

「項羽のあまりの強さに表だっていないが、項羽に対する諸侯の不満は大きく、劉邦が行動すれば呼応する者は少なくない。また、関中は劉邦がかつて咸陽で略奪を行わなかったので、恭順する者が多く、たやすく落ちる。」というものだった。

 

 

 

劉邦が関中へと出撃すると、韓信の言っていた通り、劉邦は一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、紀元前205年、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指す。

 

 

劉邦軍は、一度は項羽が留守にしていた彭城を制圧するものの、激怒した項羽は3万の精鋭で戻ってくると56万の劉邦軍を粉砕する。

 

 

 

 

劉邦らは命からがらケイ陽(河南省鄭州市)に逃げ込むと、項羽軍に包囲され、長い籠城を続けることになった。

 

 

劉邦は軍事の天才である韓信に望みを託し、項羽に寝返った諸国を攻めて軍勢を集めるように命じる。

 

2韓信
 

劉邦軍の未来を一任された韓信は、曹参らと共にわずか12000の兵で出撃し、魏(現在の山西省運城市夏県)、代(現在の山西省北部)、と制圧すると、20万の兵を持つ趙(現在の河北省)を攻め、見事な戦術で趙の軍勢を挟み打ちすることに成功して大勝利すると、燕(河北省北部)を降伏させた。

 

 

韓信は続いて70余城を有する斉(現在の山東省)に攻め込むと、瞬く間に50余城を落とすが、項羽は龍且・周蘭に20万の軍勢を任せて斉に援軍を送る。

 

 

韓信は川の水を上流で堰止めするが、龍且・周蘭は冬季で河川の流れが緩やかなのだと思って警戒せず、堰止めした川の堤防を壊すと濁流が一気に20万の軍勢を呑み込んだ。

 

 

斉を平定した韓信は、劉邦に対して斉の戦後処理をスムーズにするために、斉の王となりたいと申し出る。

 

 

項羽軍の包囲で苦しむ劉邦は、韓信が帰ってくるという連絡を期待していたのに、王になりたいという野心を臭わす要求を出してきたので激怒するが、張良に韓信が機嫌を損ねて本当に独立勢力なったら終わりであると諭され、韓信が斉王となることを許可した。

 

 
 

軍事の天才である韓信に項羽も強い警戒心を抱き、使者を送って韓信を項羽側に引き込もうと画策するが、韓信は項羽に冷遇されていたことを恨んでおり、一方で劉邦は大抜擢してくれたうえ斉王になることまで認めてくれたので、韓信は項羽の使者の話を退ける。

 

 

 


 

その頃、劉邦はケイ陽を脱出し、広武山での長い持久戦を経て、両軍はいったん和睦してそれぞれの故郷に帰ることになっていた。

 
 

しかし、劉邦はこの和睦を破って、撤退中の項羽軍に襲いかかる。

 

 

韓信は劉邦からの援軍要請を受けていたが、軍事の天才である韓信にとって、戦争が終結することは自らの価値を失うことであるため、劉邦への援軍を一度躊躇するが、劉邦が戦後も韓信の斉王の地位を約束すると、韓信は30万の軍勢を率いて参戦した。

 

 

韓信が参戦すると、今度こそ劉邦が有利とみた諸侯も続々と劉邦軍に加勢し、その軍勢は60万にのぼり、項羽軍は垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)へと追い詰められる。

 

 

韓信は劉邦に全軍の指揮を譲られると、項羽軍の囲い込みに成功し、ついに劉邦軍が勝利を収めた。

 

韓信3

戦闘とは囲い込みや挟みうちの状態をいかに作るかが勝負である。

 

100人の集団を20人が円形に囲んでいる状態を想像してみて欲しい。この100人と20人の戦いは圧倒的に20人側が有利になる。100人側の中心部は戦闘に参加できないため、ものの数にはならず、戦闘が展開される円周部の数的優位は20人側にある。20人側は二人で一人を攻撃しながらその囲いをジリジリと狭めていくことが出来る。

 

この例に近づけるための様々な駆け引きがなされるのが戦闘であり、軍事の天才と呼ばれた名将達は、アレクサンドロス大王しかりユリウス・カエサルしかり、この駆け引きを制するセンスが抜群であった。

 

そして、紛れもなく韓信もその一人である。

 

 

 

 

紀元前202年、天下を統一した劉邦は、楚の出身である韓信を斉王から楚王へと栄転させる。

 

 

故郷に凱旋した韓信は、飯を恵んでくれた老女、自分に股をくぐらせた輩、居候中に追い出された主人を探し出すと、老女には使い切れないほどの大金を与え、輩には「あの時、オマエを殺しても名が挙がるわけでもなく、我慢して侮辱を受け入れたから今の地位がある。」と言って役人に取り立て、居候先の主人には「世話をするなら、最後まで面倒を見ろ。」と戒めてわずか百銭を与えた。


韓信4
 

 

しかし、自体は一転して、劉邦は帝国の安定のために大粛清を始める。

 

 

韓信・彭越・英布の3人は領地も広く百戦錬磨の武将であるため、彼らが野心を抱いて再び中国が戦禍に乱れる可能性を摘む必要があった。

 

 

紀元前196年、楚王の位を取り上げられた韓信は、度重なる冷遇からついに反乱を起こそうと目論むが、計画を知った蕭何の策にはまって捕えられ、誅殺される。

 

 

警戒心が強く慎重な性格の韓信も、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何を心底疑うことはできなかった。




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