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蕭何(しょうか)は劉邦と同じ沛
(江蘇省徐州市)の出身で、若い頃から沛で役人をし、ポストは低かったが、その仕事ぶりは真面目で能率も良く、周囲の評価も高かった。

 

また、共に劉邦の天下統一を支える曹参(そうしん)は、この頃の部下である。

 

 

 

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がると、蕭何は曹参らと沛でクーデターを起こし、秦政府から派遣されていた県令(沛の長)を殺害すると、劉邦を後釜の県令に迎えた。

 

 

沛での劉邦は遊び人で仕事も出来ず、蕭何や曹参もこの頃から後々の大活躍を見抜いていたわけではない。


しかしながら、劉邦はどこか憎めない人物で人気があり、この先、兵を増やしていくうえで、それが一番重要な要素であることは蕭何も曹参も理解していた。
 

 沛

 

以降、蕭何は劉邦軍における内部事務の一切を切り盛りする。

 

 


 

この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 


 

蕭何は劉邦軍の食糧調達を担当し、これを絶やすことがなかったので、劉邦軍の兵士達は略奪に走ることがなく、劉邦軍は攻略した土地に対して蛮行を働かないという評判を生み、それが多くの無血開城を実現させていく。

 

蕭何2

 

劉邦が項羽よりも先に関中入りし、咸陽を占領した時には、他の者が宝物殿などに殺到する中、蕭何ただ一人、秦の歴史書、法律書、人口記録などが保管されている文書殿に走り、それら全て持ち去る。

 

そのためこの後、遅れて関中入りした項羽が宮殿を焼き払うが、蕭何が持ち去った貴重な文書は燃えることなく、それらは後々、劉邦が漢王朝を開く際に大いに参考となった。

 

 

 

 

結局、劉邦は関中に一番乗りするものの、強く権利を主張すれば項羽に殺されることは確実であったため、秦滅亡による采配は項羽が思いのままにすることになる。

 

 

紀元前206年、項羽は秦との戦いでの功績は二の次で、お気に入りの諸侯を各地の王にして、領地の分配をおこなった。

 

関中に一番乗りした劉邦は、逆にその存在が危険視され、 流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられる。

 

楚漢時地図
 

劉邦が漢王になると、蕭何は丞相(NO.2)として内政の一切を担当することになった。

 

 

それからまもなく、韓信が劉邦軍に加わる。

 

韓信はもともと項羽軍にいたが、その存在が見向きもされなかったため、活躍の場を求めて劉邦軍へと鞍替えしてきたのだが、韓信は家柄もなく項羽軍では雑兵で実績もないため、劉邦軍でも活躍の場が与えるのは難しかった。


 

そのため、韓信は劉邦軍での活躍もあきらめて去ろうとするが、蕭何は韓信に計り知れない才能を感じて「自分が韓信を劉邦に推挙して、駄目であれば、私も漢を捨てる。」とまで言って引き止める。


 

劉邦は蕭何の推薦を受け入れ、韓信を大将軍へと大抜擢した。

  

劉邦がなんの実績もない韓信の能力に期待するための唯一の材料は蕭何への信頼だけで、それはつまり、蕭何なくして軍事の天才・韓信は歴史の表舞台に立つことはなかったのである。

 

 

 

 

一方、項羽は多くの不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。

 

 

劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。
 

徐州市(彭城)
 

蕭何は関中に留まって、関中から戦地の劉邦軍に向けて食糧と兵士を送り続け、それを途絶えさせることはなく、劉邦軍を後方から支える。

 

しかも、関中での治世において、民衆の不満を買うことなく名丞相として称えられた。

 

 


 

項羽と劉邦の戦い(楚漢戦争)は二転三転するも、紀元前202年、劉邦軍の勝利に終わる。

 
 

蕭何の送り続けた食料と兵士がなければ、そして、根拠地である関中が安定していなければ、劉邦が負け続けてもなお最終的には勝利することもなく、さらに戦場で大活躍した韓信を雑兵から大将軍へ押し上げたのは他ならぬ蕭何であった。


 

皇帝に即位した劉邦は、論功行賞において、戦地で戦い続けた将軍らを差し置いて蕭何を戦功第一に選ぶ。

 

 


 

皇帝となった劉邦が漢王朝(前漢)を開くと、蕭何は長年続いた戦乱で荒れ果てた国土の復興に従事した。

 

 

紀元前196年、蕭何は韓信が謀反を企てていることを知ると、策謀を用いて誘い出して誅殺する。

 

韓信は用心深い性格であったが、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何だけは信用していたゆえの油断であった。

 

軍事の天才・韓信が反乱を起こせば、劉邦には大きな困難が待ち受けていたはずであるが、それを水際で防げたのは蕭何という存在あってである。

 

蕭何1
 
 

しかし、やがて劉邦の猜疑心が蕭何にも向き始めた。

 

蕭何は長年にわたって関中を守り、民衆からの信望が厚く、その気になればいとも簡単に関中を掌握できるため、危険視される。

 

そのため、蕭何は汚く金儲けをしたり、わざと自らの評判を落とすことにより、劉邦に反乱の可能性を感じさせないようにした。

 

 


 

劉邦の死の2年後、蕭何も後を追うように亡くなる。


跡取りに恵まれにくかった蕭何の家系は何度も断絶するが、歴代の皇帝は蕭何の王朝への功績が大き過ぎるため、血の繋がる者を見つけ出しては位を与えて家系を継続させた。

 

 

200年の長きに渡って続く漢王朝において、臣下としての最高位である「相国」は「それだけの功績のものがいない」として、与えられたのは蕭何と曹参だけである。




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