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項氏は代々、楚
(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の将軍を務めた家柄であった。

項羽は両親を早くに亡くしていたので、叔父の項梁に養われる。

 

 

後々の項羽からすると想像しがたいが、幼少期の項羽は勉強が苦手で剣術の覚えも悪く、項梁がそのことを叱ると、項羽は「文字なぞ自分の名前が書ければ十分。剣術のように一人を相手にするものはつまらない。私は万人を相手にするものがやりたい。」と言ってのけた。

 

 

項羽は成人すると、身長が9(207センチ)の大男となり、中国史上最強と称される(三国志の呂布よりも評価が高い)超人的な怪力の持ち主となり、異常な迫力と威圧感に満ちていた。

 

陳勝・呉広の乱
 

紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起き、秦の圧政に対する反乱が各地へ広がっていくと、項羽は項梁に従って会稽郡(現在の浙江省紹興市)の役所に乗り込み、たった一人で数十名の役人を皆殺しにし、叔父の項梁が会稽の長となり、反秦軍に参加する。

 

 

その後、反秦軍の有力者となった項梁は、羊飼いに身を落としていた旧楚の懐王(秦の中国統一の流れで権威を失った)の孫を、秦への復讐の象徴として担ぎ出して「懐王」を名乗らせると、反秦軍の名目上のトップにした。

 

 

 

 

項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。

 

 

 

そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。

 

 

 

 

項梁の死後すぐに楚軍の指揮をとったのは宋義という人物であったが、項羽は宋義を殺害し、以降、楚軍の総大将は項羽となる。

 

項羽5
 

項羽は鉅鹿(現在のケイ台市平郷県)で、叔父・項梁を戦死させた章邯が率いる20万の大軍と戦う。

 

項羽は、章邯軍の食料運搬部隊を襲い、敵の大軍を飢餓に追い込み、士気を低下させ、味方に対しては川を渡った後に三日分の食料のみを与え、残りの物資は船もろとも沈め、三日で決着がつかねば全滅あるのみという状態に追い込んだ。圧倒的に数では劣る項羽軍は一人で十人の敵を倒して、この決戦に勝利する。

 

 

人間は恐怖とプレッシャーによって強いストレスを感じた時、最も効率的かつ合理的に働くことを項羽はよく知っていた。

 

 

項羽はその後も秦軍を攻め、連戦連勝し、20万以上の秦兵を捕虜として得ると、これらを全て生き埋めにした。


 

項羽が20万人もの捕虜を新たな戦力として組み込んだり、奴隷として苦役に就かせるなどの有効利用をせずに虐殺したのは、項羽の残忍な気性がゆえだけではなく、食料問題に対する合理性・効率性という理由が大きかった。

 

戦争とは食料問題との戦いである。

 

軍隊という無生産な存在を維持しながら食料を確保し続けるのは簡単な話ではないが、人間は食べなければ斬られずとも死ぬ。

 

項羽のこの問題への解答は、おそらく少数精鋭だったのではないかと考えられる。

一人で10人殺せれば、食料は10分の一で済むという、戦術的にも戦略的にも合理性・効率性を求めたのではないだろうか。

 

 

 

項羽軍は常軌を逸した戦闘能力で連戦連勝を重ねながら咸陽を目指すが、別働隊として咸陽を目指していた劉邦軍が先に関中に入っていた。項羽は大いに怒り、劉邦を攻め殺そうとする。
 

鴻門の会
 

劉邦は慌てて項羽の伯父・項伯を通じて和睦を請い、項羽は劉邦を殺す予定で酒宴に招き、軍師の范増は酒宴中に度々劉邦を殺すように項羽をうながす。

 

しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていく。

 

ここで劉邦を殺す決断をしなかった項羽に対して范増は「こんな小僧と一緒では謀ることなど出来ぬ。」と激怒した。

 

 


 

その後、項羽は、先に関中入りした劉邦に降伏していた子嬰ら秦王一族や官吏4000人を皆殺しにし、宝物を奪い、華麗な宮殿には火を放ち、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出す。

 

 

項羽はそのまま利便性の高い咸陽を首都にするか迷うが、故郷に錦を飾るために、楚の彭城(現在の江蘇省徐州市)を首都と定めて、自らを「西楚の覇王」と称した。

 

 

 

紀元前206年、項羽はお気に入りの諸侯を各地の王にして、思いのままに秦滅亡による領地の分配をおこなう。

 

この領地の分配は、秦との戦いでの功績は二の次で、その最たるものとして関中に一番乗りした劉邦に約束の関中の地ではなく、流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えた。

 

この漢中が、地図の上で咸陽の左側に位置することから、活躍の場が失われる移動や降格を「左遷」と言うようになったとされている。

 

 

また、飾りに過ぎないにも関わらず意見を言うようになった懐王を、項羽は邪魔になったので暗殺した。

 

楚漢時地図
 
 

項羽は秦を滅亡させても中国を安定させることは出来ず、斉(現在の山東省)の田栄が項羽に対して反乱を起こすと、これをキッカケに領地分配に不満を抱いていた諸侯達が続々と反乱を起こす。

 

 

僻地で漢王にさせられていた劉邦は、項羽の懐王殺害を知ると、項羽の非道さを有力諸将に訴え、相次ぐ項羽への反乱の火を煽り、項羽への不満をまとめあげていく。

 

 

項羽は討伐軍を率いて各地を転戦し、圧倒的な戦闘力ですぐに反乱は鎮圧されていくが、そこから間を置かず別の地域で反乱が置き、項羽がその討伐に行けばすぐにまた別の地域で反乱が再発するという状態が続いた。

 

 

そのため、項羽は劉邦の動きに対する意識が希薄になっていき、さらに、味方だと安心していた英布に何度も応援要請をしては仮病を使われ、最終的にはその英布は劉邦の側についてしまう。

 

 

劉邦は有力諸将と連合して、56万の大軍勢で、項羽が留守にしている彭城を占領する。

 

 

 

激怒した項羽は3万の精兵のみを率いて猛スピードで彭城に引き返し、なんと劉邦の56万の大軍を打ち破り、劉邦を敗走させ、劉邦の父や妻を捕虜にとった。

 

項羽3


その後、項羽は劉邦を何度も追い詰めながら、最後にはいつも逃げられてしまい、さらに別の反乱の鎮圧に戻らざるを得なくなり、加えて内部分裂工作も起きて疑心暗鬼になった項羽は有能な部下を疑い、父についで尊敬する人とまで呼んでいた軍師・范増との関係も悪化させる。

 


 

劉邦が天然の要塞と名高い広武山(河南省)に移動して籠城の態勢を固めると、項羽軍は道の険しさから一気に攻め入ることが出来ず、籠城する劉邦軍と谷を挟んだ向かい側に陣をはり、両軍の膠着状態は数カ月も続いた。

 

 

そうして、項羽軍の最大かつ致命的欠点である食料問題が表面化する。

 

項羽軍の食料が底をつきはじめると、焦った項羽は、捕虜にとっていた劉太公(劉邦の父)を引き出して、大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ。」と迫るが、劉邦に「殺したら煮汁をくれ」と返答された。

 

 

次に項羽は「これ以上、我ら二人のために犠牲者を出さぬよう二人で一騎打ちをして決着をつけよう。」と言ったが、劉邦にこれを笑い飛ばされる。

 

 

そこで項羽は、弩(威力のある弓)の上手い者達に劉邦を狙撃させ、矢の一本が劉邦の胸に命中し、劉邦は大怪我をするが、劉邦はとっさに足をさすってみせ、味方に動揺が走って士気が低下するのを防ぐ。

 

 

 

紀元前203年、ついに項羽軍の食料は底をつき、項羽は、捕虜にとっていた劉邦の父や妻を返還することで、劉邦といったん和睦して故郷に帰ることを決める。

 

 

しかし、劉邦は和平の約束を破り項羽の後背を襲ってきた。

 

 

疲弊の極みにあった項羽軍はさらに背後をつかれ、これまでのように数的な不利を跳ね返せずに敗走し、再び多くの有力諸侯を味方につけ60万にも膨れ上がった劉邦の連合軍に垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)へと追い詰められる。

 

 

 

ある晩、城の四方から項羽の故郷である楚の国の歌が聴こえてきたため、項羽は「こんなにも多くの故郷の者が敵側についているのか。」と嘆いた。

 

ここから、孤立して助けや味方がいないことを意味する「四面楚歌」という言葉が生まれたとされている。

 

虞美人
  
虞美人
 

その夜、項羽は愛人である虞美人(ぐびじん)に歌を贈った。

 

歌の内容は「かつて私の力は山をも動かす程強大で、気迫はこの世を覆い尽くすほどであったが、時勢は私に不利であり、もはや愛馬が前に進もうとしない事すら、どうにもならない。そんなことよりも、虞よ、虞よ、オマエをどうすれば良いのか。」

 

その歌を受けた虞美人は、項羽の足手まといにならないように自殺をする。

 

 


その後、項羽は手勢800騎を率いて、連合軍の包囲網を超人的な戦闘力で突破するが、東城(現在の安徽省定遠県の東南)に辿りついたときには項羽に従う者わずか28騎になっていた。

 

 

 

そこで数千の劉邦軍に追い付かれた項羽は、配下の28騎を七騎ずつ4隊に分けて、それぞれ敵軍の中に斬り込んでいく。

 

項羽は一人で100人近い敵兵を鬼神のごとき強さで殺し、項羽とその配下が再び集結すると、脱落したのはわずか二人だけであった。

 

 

 

そこから、項羽たちは、烏江という長江の渡し場(現在の安徽省馬鞍山市和県の烏江鎮)に至った。

川の先には、かつて項羽たちが決起した江東の地がある。

 

烏江鎮
 

烏江の役場長は項羽に「江東は小さな所ですが土地は千里あり、万の人が住んでいます、彼の地ではまた王になるには十分でしょう。この地で王となられよ。この近くで船を持っているのは私だけなので、漢軍が来ても渡ることはできません。」と告げた。

 

 

しかし、項羽は笑いながら「昔、江東の若者8000を率いて川を渡ったが、今ここに、その時の者は一人もいない。江東の者達が、再び私を王にすると言ってくれても、彼らに会わせる顔がどこにあろうか。」と断ると、馬を降り、配下の者達にも下馬させて、そのまま劉邦軍を迎え撃つと、項羽一人で敵兵数百人が殺す抵抗をみせる。

 

 

 

項羽は敵の中にかつて自分を慕っていた同郷の呂馬童がいるのを見つけると「劉邦は私の首に千金と万の邑を懸けていると聞く、お前にその恩賞をくれてやろう。」と言うと、自ら首をはねて死んだ。



 

その結果、項羽の死体は五つに分かれ、劉邦はその五つの持ち主(楊喜・王翳・呂馬童・呂勝・楊武)に対して一つの領土を分割して与えた。

 


 

劉邦は無惨な死体となった項羽を哀れみ、礼を以て葬った。




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