劉邦は沛(江蘇省徐州市)で、父・劉太公と母・劉媼の三男として誕生する。
若い頃の劉邦は酒色を好み、家業を嫌い、縁あって務めていた下級役人の仕事にも不真面目に取り組んでいた。
そのため、沛(はい)の役人の中には、後に劉邦の天下統一を助ける蕭何(しょうか)と曹参(そうしん)もいたが、彼らもこの頃は劉邦を高くは評価していない。
劉邦はあまり褒めるべき点がないような人物であったが、仕事で失敗しても周囲が擁護し、劉邦が飲み屋に入れば自然と人が集まり店が満席になるなど、不思議と人望があった。
ある時、沛へとやって来た単父(現在の山東省)の名士である呂公という者を歓迎する宴が開かれる。
沛の人々はそれぞれ贈り物や金銭を持参して集まったが、あまりに多くの人が集まったので、この宴を取り仕切っていた蕭何は、贈り物が千銭以下の者は地面に座ってもらおうと提案した。
そこへ劉邦がやってきて贈り物は「銭一万銭」と呂公に伝えると、あまりの高額に驚いた呂公は丁重に劉邦を迎えて上席に着かせる。
蕭何が呂公に「劉邦は銭など持っていない。」と伝えると、呂公は逆に劉邦に対する興味を深め、劉邦の龍顔(顔が長くて鼻が高く髭が立派であること。縁起が良いとされていた。)に惚れ込み、自らの娘・呂雉を娶わせた。
紀元前209年「陳勝・呉広の乱」が起こり、秦(史上初の中国統一帝国)の圧政に対する反乱が各地で盛り上がっていき、沛でも反乱軍に協力するべきかどうかの議論がされるようになる。
蕭何と曹参は人気のある劉邦を沛の長に担ぎ上げ、反乱に参加することとなった。
この時に、劉邦が集めた兵力は2~3千で、配下には蕭何と曹参の他に、犬肉業者をやっていた樊カイ(はんかい)などがいた。
ほどなく、劉邦は張良との運命的な出会いをする。
後に軍師として劉邦の天下統一の立役者となる張良は、自らの兵法を指導者としての資質ある者に託そうと、さまざまな人物に説いていたが、誰からも相手にされないでいた。
ところが、劉邦は出会うなり熱心に張良の話を聞き、感激した張良は、以降、劉邦の作戦のほとんどを立案し、ほとんど無条件に採用された作戦の数々は大きな戦果を上げていくことになる。
この頃「陳勝・呉広の乱」から始まった反秦軍の名目上の盟主は楚(現在の湖北省・湖南省を中心とした地域)の懐王となっており、事実上の主導者はその懐王を擁立した項梁(項羽の叔父)という人物であった。
項梁が戦死すると、懐王は宋義・項羽・范増を将軍とした主力軍で趙(河北省邯鄲市)にいる秦軍を破ると、そのまま秦の首都である咸陽まで攻め込むように命じた。一方で、この頃、懐王の勢力下に参加していた劉邦には、西回りの別働隊で咸陽を目指させる。
そして、懐王は「一番先に関中(咸陽を中心とした地域)に入った者をその地の王にする。」と宣言した。
項羽は途中で宋義を殺すと自ら総指揮官となり、河を背に3日分の食料以外の物資は船も含めて全て破棄して兵士達に死に物狂いで戦わせるという戦術をとったり、撃破した秦軍の捕虜20万人を生き埋めするなど、敵も味方も震えあがらせる指揮をとり、大きな戦果を上げていく。
人間は恐怖とプレッシャーによって強いストレスを感じた時、最も効率的かつ合理的に働くことを項羽はよく知っていた。
一方、西回りの劉邦が苦戦しながら高陽(河南省杞県)まで辿り着くと、劉邦は儒者であるレキ食其(れきいき)の訪問を受ける。
劉邦は大の儒者嫌いであったため、投げ出した足を女達に洗わせながらレキ食其と面会するという態度をとった。レキ食其がその態度を一喝すると、劉邦は無礼を詫びてレキ食其の話に耳を傾けた。
レキ食其は「この先の陳留(現在の河南省開封市)は交通の要所で食料が豊富なためこれを得るべきである。また、降伏しても身分を保証すると約束すれば余分な犠牲を出さずに済む。」と進言する。
軍隊という無生産な存在を維持しながら食料を確保し続けるのは簡単な話ではないが、戦争において食料の確保が最優先事項であることは、古今東西の最終的な勝利者となった指揮官全ての共通認識である。人間は食べなければ斬られずとも死ぬのである。
項羽が20万人の捕虜を新たな戦力として組み込んだり、奴隷として苦役に就かせるなどの有効利用をせずに虐殺したのは、項羽の残忍な気性がゆえだけではなく、食料問題に対する合理性・効率性という理由も大きかった。
レキ食其の進言を採用した劉邦は、陳留の無血開城に成功し、大量の食糧と兵の増員に成功する。
劉邦はこれ以降も度々無血開城に成功しながら各地を攻略して行ったので、その進軍は激しい戦闘を繰り返す項羽よりも早かった。
そして、ついに劉邦軍は項羽軍よりも先に関中へと入り、秦の首都・咸陽を目の前にする。
反秦軍の勢いに観念した秦の王・子嬰は、劉邦の所へ白装束に首に紐をかけた姿で現れ、皇帝の証である玉璽などを差し出して降伏し、劉邦の部下の多くは子嬰を殺すべきだと主張したが、劉邦は子嬰を許した。
劉邦が咸陽に入城すると、元来が遊び人で田舎者の劉邦は、宮殿の財宝と後宮の女達に興奮して喜ぶが、樊カイや張良に諫められると、それらに一切手を出さなかった。
ここでの我慢は、後々、劉邦が項羽と雌雄を決する際に、多くの人々からの信用を集める一因にもなる。
一方、項羽は東から劉邦を滅ぼすべく関中に向かって進撃。
項羽には、自分が秦の主力軍を次々に打ち滅ぼしてきた自負があり、別働隊として出撃した劉邦が先に関中入りして、我が物顔でいることに怒り心頭であった。
その時、項羽の叔父である項伯が劉邦軍の陣中を訪れ、かつて恩を受けた張良を劉邦軍から救い出そうとするが、張良は劉邦を見捨てて一人で生き延びることを断り、劉邦が項羽に弁明する機会を作って欲しいと頼み込む。
劉邦が項羽を訪ねに行くと、本営には劉邦と張良だけが通され、護衛の兵がついていくことは許されなかった。
劉邦はまず項羽に「私達は共に秦を討つために協力し、私は思いもよらず先に関中に入ったが、項羽をさしおく気はない。」と伝える。
項羽側はハナから劉邦を殺す気で開いた宴会だったので、項羽の軍師・范増は度々劉邦を殺すようにうながす。
しかし、劉邦が平身低頭に卑屈な態度を示し続けていたので、項羽は劉邦を殺す必要性を感じなくなっていった。
ここで劉邦を殺す決断をしなかった項羽に対して范増は「こんな小僧と一緒では謀ることなど出来ぬ。」と激怒する。
さらに張良や樊カイの機転もあり、劉邦の命は紙一重であったが、どうにか切り抜けた。
その後、項羽は咸陽に入り、降伏した子嬰ら秦王一族や官吏4000人を皆殺しにし、宝物を奪い、華麗な宮殿には火を放ち、更に始皇帝の墓を暴いて宝物を持ち出す。
項羽は「西楚の覇王」を名乗り、飾りに過ぎないにも関わらず意見を言うようになった懐王は邪魔になったので暗殺する。
紀元前206年、項羽はお気に入りの諸侯を各地の王にして、思いのままに秦滅亡による領地の分配をおこなった。
この領地の分配は、秦との戦いでの功績は二の次で、その最たるものは関中に一番乗りした劉邦が、約束の関中の地ではなく、流刑地に使われるほどの辺境の地である漢中を与えられたことであった。
この漢中が、地図の上で咸陽の左側に位置することから、活躍の場が失われる移動や降格を「左遷」と言うようになったとされている。
さて、こんな苦境の中で新たに劉邦軍に加わったのが韓信であった。
韓信はもともと項羽軍にいたが、その存在が見向きもされなかったため、活躍の場を求めて劉邦軍へと鞍替えし、その才能を見抜いた蕭何の推挙により、すぐに大将軍となる。
一方、項羽は多く不満を買い、各地で反乱が続発し、項羽はそれらを圧倒的な力で鎮圧し続けるが、その数の多さに東奔西走するようになり、項羽から劉邦に対する注意力は薄れていく。
劉邦はその隙に乗じて関中へと出撃すると、一気に関中を手に入れ、さらに有力諸将の項羽への不満をまとめあげながら、56万人にも膨れ上がった軍勢で項羽の本拠地・彭城(現在の江蘇省徐州市)を目指した。
紀元前205年、反乱鎮圧に奔走する項羽が留守にしていた彭城を、劉邦は56万の連合軍でアッサリと制圧する。
連合軍は大勝利に浮かれて、日夜城内で宴会を開き、女を追いかけ回していた。
彭城の陥落を知った項羽は3万の精鋭を選んで猛スピードで引き返してくると、項羽軍3万は油断しきっていた連合軍56万を木っ端微塵に打ち破り、連合軍は10万人にものぼる死者を出す。
この時、劉太公(劉邦の父)と呂雉(劉邦の妻)が項羽軍の捕虜となる。
この大敗北により、ここまで劉邦に味方していた諸侯達は慌てて項羽になびいていった。
大敗北から4カ月、劉邦は逃げ込んだケイ陽(河南省鄭州市)で籠城を続ける。
孤立した劉邦が再起をはかるためには軍勢を集めることが急務であった。
劉邦は軍事の天才である韓信に望みを託し、項羽に寝返った諸国を攻めて軍勢を集めるように命じる。
劉邦軍の未来を一任された韓信は、わずか12000の兵で20万の兵を持つ趙(現在の河北省)を攻め、見事な戦術で趙の軍勢を挟み打ちすることに成功して大勝利すると、その後も次々に項羽に寝返った諸国を打ち破り、その軍勢を吸収していった。
同じ頃、項羽の軍勢に完全包囲をされて、苦悩する劉邦に韓信から手紙が届く。
劉邦は韓信の帰りの知らせであることを期待していたが、その内容は、斉を安定させるために王を名乗りたいというものであった。
劉邦は自信を持った韓信が野心を抱いて裏切ろうとしていると察し、激怒する。
しかし、張良が「ここは韓信の望み通りにするべきである。さもなくば、韓信は本当に裏切るだろう。」とさとし、劉邦は韓信の機嫌を損ねないように斉王となることを認めた。
劉邦は韓信が戻るまでの時間稼ぎをするため、天然の要塞と名高い広武山(河南省)に移動して籠城の態勢を固める。
道が険しく一気に攻め入ることの出来ない項羽軍は、籠城する劉邦軍と谷を挟んだ向かい側に陣をはり、両軍の膠着状態は数カ月も続いた。
項羽軍の食料が底をつきはじめると、焦った項羽は、捕虜にとっていた劉太公(劉邦の父)を引き出して、大きな釜に湯を沸かし「父親を煮殺されたくなければ降伏しろ。」と迫ったが、劉邦は「殺したら煮汁をくれ」と返答する。
次に項羽は「これ以上、我ら二人のために犠牲者を出さぬよう二人で一騎打ちをして決着をつけよう。」と言ったが、劉邦はこれを笑い飛ばした。
そこで項羽は、弩(威力のある弓)の上手い者達に劉邦を狙撃させ、矢の一本が劉邦の胸に命中し、劉邦は大怪我をするが、劉邦はとっさに足をさすってみせ、味方に動揺が走って士気が低下するのを防ぐ。
紀元前203年、ついに項羽軍の食料は底をつき、項羽は、捕虜にとっていた劉邦の父や妻を返還することで、劉邦といったん和睦することを決める。
項羽は東へ引き上げ、劉邦も西へ引き上げようとしていたが、張良は「もしここで両軍が引き上げれば、あの強い項羽軍が再び勢いを取り戻すので、今こそが劉邦軍が勝つ千載一遇のチャンスである。」と言って、退却する項羽軍の後方を襲うことを劉邦に進言した。
項羽の背後を追う劉邦軍が、韓信の集めた30万の大軍とさらに今度こそ劉邦有利を察した有力諸侯も雪崩をうって劉邦に味方したため、60万にも膨れ上がっていき、ついに項羽を垓下(現在の安徽省蚌埠市固鎮県)に追い詰める。
劉邦は全軍の指揮を韓信にアッサリと譲り、韓信は60万の大軍勢をもって項羽軍10万を包囲し、食料不足にする作戦をとった。
やがて項羽軍が疲弊し切った晩、領邦軍60万は楚の歌の大合唱を始める。
故郷である楚の歌が敵側から聴こえてきた項羽は「こんなにも多くの故郷の者が敵側についているのか。」と嘆いた。
ここから、孤立して助けや味方がいないことを意味する「四面楚歌」という言葉が生まれたとされている。
その後、項羽は残った少数の兵を伴い、超人的な武勇で包囲網を突破するが、最終的に自害を選んだ。
紀元前202年、劉邦は皇帝に即位し、論功行賞では、戦場での功が多い曹参よりも、兵員と物資の調達をし続けた蕭何を第一とするなど、細やかな評価を下していく。
韓信は楚王に任命された。
また、張良には3万戸の領地を与えようとしたが、張良はこれを断る。
さらに、劉邦を裏切ったり、挙兵時から邪魔をし続けながら、最後はまたぬけぬけと劉邦の陣営に加わった雍歯を真っ先に什方侯にした。これは張良の策で、劉邦が恨んでいるはずの雍歯でさえ功があれば恩賞が下るなら、この論功行賞は公平になされると、他の諸侯に説得力と安心感を与える効果があった。
劉邦は酒宴の席で自らが天下統一を成し得た理由を「わしは張良の様に策をめぐらし千里先から勝利する事は出来ない。わしは蕭何の様に兵をいたわって補給を途絶えさせず安心させる事は出来ない。わしは韓信の様に軍を率いて戦いに勝つ事は出来ない。だが、わしはこの張良、蕭何、韓信という三人の英傑を見事に使いこなす事が出来た。反対に項羽は范増一人すら使いこなす事が出来なかった。これが、わしが天下を勝ち取った理由だ。」と語った。
天下を統一した劉邦は、一転して、帝国の安定のために大粛清を始める。
韓信・彭越・英布の3人は領地も広く百戦錬磨の武将であるため、彼らが野心を抱いて再び中国が戦禍に乱れる可能性を摘む必要があった。
紀元前196年、楚王の位を取り上げられた韓信は、反乱を起こそうと目論むが、かつて自分を高く評価して大将軍に推挙してくれた蕭何の策略でおびきだされて、誅殺される。
彭越は梁王の地位を取り上げられ、蜀に流刑されるところであったが、劉邦の妻・呂雉の進言により流刑ではなく処刑に変更された。
次は自分の番だと警戒した英布は反乱を起こすが、激戦の末、敗れる。
劉邦も英布との戦いの際に受けた矢傷が元で、紀元前195年に死去した。
強大な諸侯は全て劉邦に粛清され、劉邦の起こした漢王朝に対抗できる者はなく、劉邦の息子・劉盈(りゅうえい)が2代目皇帝に即位すると、漢王朝はその後約200年の長きに渡って続く。
劉邦は「陳勝・呉広の乱」で秦の圧政に対する反乱の狼煙を上げた陳勝を尊び、その墓所の周辺に民家を置き、代々墓を守らせていた。
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