マリア・テレジア

 
 

1717年、オーストリア=ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール6世の長女として誕生する。

 

神聖ローマ帝国は、ドイツ地方の都市国家の集合体をさし、それぞれの都市国家は独立した力を持っており、ハプスブルク家の当主はオーストリア大公国の大公位および1273年から神聖ローマ帝国の皇帝位を継承してきた。

 

 

さて、それまでハプスブルク家は男系相続を定めていたが、カール6世の子どもで成人したのはマリア・テレジアと妹マリア・アンナだけであったことから後継者問題が深刻化することになる。

 

マリア・テレジア1
 

マリア・テレジアの結婚相手としてプロイセン王太子フリードリヒ2世との縁組も上がるが、フリードリヒ2世がカトリックに改宗する意思がないことから縁談はまとまらなかった。


そこで、神聖ローマ皇帝レオポルト
1世に仕え、軍司令官として活躍したシャルル5世を父に持つロートリンゲン公( フランスのロレーヌ地方に存在したロートリンゲン公国の君主)レオポルトの息子との縁組が決定される。

 

 

レオポルトの3人の息子は、1723年からハプスブルク家のウィーン宮廷へ留学し、マリア・テレジアは6歳の時に15歳の次男フランツ1世と出会い、成長にともない確かな恋心を抱く。

 

結婚の4日前にマリア・テレジアがフランツ1世にしたためた手紙が現在も残っていて、未来の夫への情熱的な想いが書かれており、1736年、当時の王族としては奇蹟にも近い恋愛結婚で結ばれた。
 

フランツ1世
  
フランツ1世

 

父カール6世は、マリア・テレジアが相続権を失い、他のハプスブルク家人に相続権が移ることを恐れ、ハプスブルク家領の分割の禁止と長子であれば女子にも相続権があるとする長子相続制「プラグマーティシェ・ザンクチオン(皇帝の勅令)」を出し、領邦各国に認めさせようとする。

 

 

マリア・テレジアはオーストリア大公とまり、神聖ローマの帝位は夫フランツ1世が継承することとなった。

 

  

 

1740年にカール6世が死去すると、マリア・テレジアの家督継承に、領邦国バイエルンが異議を申し立て、ドイツ地域で勢力を増していたプロイセンがバイエルン側から介入して領土へ侵攻し「オーストリア継承戦争」が勃発する。

 

これ以降、かつての婚約者候補だったハプスブルク家新当主マリア・テレジアとプロイセンのフリードリヒ2世は生涯の宿敵となった。

 

フリードリヒ2世
   
フリードリヒ2
 

この機会にオーストリア・ハプスブルク家の弱体化をねらうブルボン家のフランス王ルイ15世は、同じくブルボン家のスペインと共にプロイセン・バイエルンなどを支援する。

一方、植民地争いでフランス・スペインと対立していたイギリスはオーストリアを支援した。

こうして「オーストリア継承戦争」はヨーロッパ各国が関わる戦争となる。

 

 

 

オーストリアの戦況は不利で、窮地に追い込まれたマリア・テレジアは、ハンガリーに救いを求めた。

 

ハンガリー貴族はこの状況を、オーストリアの支配から脱する好機と考えている可能性が高かったが、マリア・テレジアは3歳の娘マリア・アンナを連れ、捨て身の演説をする。

 

若く美しい幼子を連れた母親の訴えは、ハンガリー貴族と議会の心をつかみ、6万人の出兵その他の支援を取り付けた。

 

 

17427月、イギリスの仲介でオーストリアとプロイセンが一時的に休戦し、フランス・バイエルン連合軍がプラハから撤退する。

 

 

 

1744年、プロイセンが再び侵攻してくるが、フリードリヒ2世の野心があからさまだったため、休戦前とは逆にプロイセンに同調する国はなかったが、軍事の天才フリードリヒ2世のプロイセンにオーストリアは敗れる。

 

 

その結果、マリア・テレジアのハプスブルク家相続と夫フランツ1世の神聖ローマ皇帝即位は承認されるが、プロイセン王国が占領していたシュレージエン( ポーランド南西部からチェコ北東部に属する地域)を割譲することになった。

 

マリア・テレジア3
 

マリア・テレジアはフリードリヒ2世への復讐を目指し、オーストリアの軍制と内政の改革に乗り出す。

 

ハプスブルク家にとってフランスは、イタリア戦争、三十年戦争、スペイン継承戦争、オーストリア継承戦争などを通じて抗争を続けてきた宿敵であったが、1749年、御前会議で宰相カウニッツは同盟国をイギリスからフランスへ変更することを提案する。

 

皇帝フランツ1世や重臣達が呆気に取られる中で、マリア・テレジアはこれを支持した。

 

 

1756年、マリア・テレジアは、フランス国王ルイ15世の愛人であるポンパドゥール夫人を通じてルイ15世を懐柔し、フリードリヒ2世を嫌悪するロマノフ朝ロシアの女帝エリザヴェータとも交渉をまとめ、「3枚のペチコート作戦」と呼ばれる反プロイセン包囲網を結成し、プロイセンの孤立に成功する。

 

また、フランスとの関係をより深めるために、マリア・テレジアの生後間もない娘マリー・アントワネットとルイ15世の孫ルイ・オーギュスト(後のルイ16)の政略結婚も内定した。

 

 

 

 

プロイセン包囲網の成立を知ったフリードリヒ2世は愕然とし、1756年、包囲網を打破すべくザクセンに侵攻して先制攻撃をしかけ「七年戦争」が始まる。

 

オーストリア軍はフランス、ロシアの支援を受け、前回とは異なり優勢に戦争を進めた。

 

しかし、ロシアの女帝エリザヴェータが死去すると、その後を継いだピョートル3世がフリードリヒ2世びいきだったため、ロシアが対プロイセン戦線から手を引いたことで、戦況は大変化を遂げる。

 

プロイセンは息を吹き返し、またもやオーストリアは敗戦し、悲願であったシュレージエン奪還を諦めざるを得なくなった。

 

喪服のマリア・テレジア
 
 

1765818日、夫である神聖ローマ皇帝フランツ1世が死去する。

 

マリア・テレジアは以後、それまで持っていた豪華な衣装や装飾品をすべて女官たちに与え、喪服だけをまとって暮らし、しばしば夫の墓所で祈りを捧げた。

 

 

マリア・テレジアは、多忙な政務をこなしながら、フランツ1世との間に男子5人、女子11人の16人の子供を産み、精力的に子ども達による婚姻政策を推し進めた。

 

そこには、自身の家督相続を巡った混乱の経験から、可能な限り子どもを残しておきたいという想いが伺える。

 

 

オーストリア系ハプスブルク家の男系最後の君主となったマリア・テレジアと、その夫の家名ロートリンゲンを合わせたハプスブルク=ロートリンゲン家は息子ヨーゼフ2世の代から名乗られるようになった。

 

 

1773年、イエズス会(フランシスコ・ザビエルらによって創設さたカトリック教会)を禁止し、それによって職を失った下位聖職者達を教員として採用し、他国に先駆けて小学校の義務教育化を確立させ、国民の知的水準が大きく上昇する。

 

 

 

17801129日、ヨーゼフ2世、四女マリア・クリスティーナ夫妻、独身の娘達に囲まれながら、2週間前の散歩の後に発した高熱がもとでマリア・テレジアは死去した。

 

 

死の直前まで、フランス王妃になった遊び好きな末娘マリー・アントワネットの身を案じ、フランス革命の発生を警告する手紙を送っていたという。