楊貴妃700x1000


楊貴妃が、絶世の美女として後世に名を残したのは、ただ美しかったからではない。

楊貴妃の美しさが中世の中国に多大な影響を与えたからである。


 

彼女はただ愛されただけである。

 
 

けれど、それで、歴史が変わった。

 

玄宗皇帝1
  玄宗皇帝

楊貴妃に多大な愛を注ぐことになる玄宗皇帝は、
8世紀初頭の唐(現 中国)の第9代皇帝であった。

 

玄宗皇帝は、馬術、弓術などの武術に優れ、さらに書道、音楽、占星術などの学問に長け、特に音楽はさまざまな楽器を巧みに弾きこなし、作曲の才能にも恵まれていた。

 

科学技術の発展にも熱心で、水力を利用した正確な時計や、巨大な鉄製のつり橋を広大な黄河に架けるなど、人民の生活向上に尽力する。

 

極めつけは、儒学の影響から進歩的な人権主義者であり、障害者や貧しい者のための病院を建設した。

 

 

当時の中国の君主は、神官としての職務もあったため、ひどい干ばつに襲われた時に、玄宗皇帝は33晩にわたって、飲まず食わずで天からの水を願って祈ったため、数日で痩せてしまう。

心配する廷臣に「自分は痩せて良い。万民を太らせねば。」とリーダーとしての姿勢を示す。

 

 

中国の歴史上、唐の時代は最も偉大な時代とされ、この世界で唐の皇帝に肩を並べることが出来たのは、ペルシアの大王とローマ帝国の皇帝だけであった。


楊貴妃を愛した男は、そんな偉大なる皇帝である。

 

楊貴妃5


楊貴妃は本名を揚玉環
(ようぎょくかん)といい、719年、蜀(四川省)の下級官吏の楊玄淡の四女として生まれた。

 

楊貴妃は幼いころに両親を失ったため、叔父の家で育てられる。

 
 

その類い稀な美しさは、幼少から知られるところとなり、宮女として後宮に入るや、17才にして玄宗皇帝と武恵妃の子である李瑁(りぼう)の妃として迎えられた。

 
 

後宮には、3千人もの宮女がいたといわれており、並みいる美女の中で楊貴妃に目が止まった事は、楊貴妃の並外れた美しさだけでなく輝くような存在感があったことを物語っている。

 

 

 

一方、玄宗皇帝が56才の時、武恵妃が40才で病死すると、妻を失った悲しみ、50代で独り身になった寂しさ、玄宗皇帝はそういったものから元気を失ってしまった。

 

 

玄宗皇帝が最も信頼していた部下である宦官の高力士から、絶世の美女として楊貴妃の話をしたのをキッカケに、楊貴妃は玄宗皇帝に見初められる。

 

楊貴妃22才であった。


 

その美しさに魅了された玄宗皇帝は、なんと息子の李瑁から楊貴妃を召し上げることにするが、そのまま楊貴妃を自分の愛人にしたのでは、いくらなんでも世間体が良くない。

 

そこで、一時的に楊貴妃を坤道(道教の尼)にして、息子から妻を奪うという構図にワンクッション入れた。

 

 

 

745年、楊貴妃は、後宮の宮女3千人の中で最高位となる「貴妃」の位を玄宗皇帝に与えられ、公に後宮に入る。

 

 

そして、楊貴妃の一族も一同に大出世していき、これが後々、大きな弊害を生むことになる。


 

叔父の楊玄珪、兄の楊銛、従兄の楊錡に高い地位が与えられ、3人の姉も「国夫人」という高い位を授けられて毎月高額の化粧代が支給される。

 
 

極めつけが、飲んだくれで風来坊に過ぎなかった又従兄 (はとこ)の揚国忠は、その後、国家NO.2格である「宰相」にまで登りつめ、宮廷全体を牛耳るほど権力を手にするようになっていく。

 

楊貴妃2

さて、楊貴妃をそばに置くようになった玄宗皇帝はすっかり楊貴妃が生活の全てになっていた。

 
 

楊貴妃からは龍脳(香料の一種)の香りが遠くまで届き、夏の暑い日に楊貴妃が流した汗はよい香りがするほどで、その髪は艶やかで、肌はきめ細かく、体型はほどよく、あらゆる楽器を自在にこなした。

 
 

また、踊りを踊らせれば翔ぶように見事に舞い、その姿はまるで天女のごとく、歌声も天下一品であったと伝えられている。

 

 

玄宗皇帝は作曲もするほどの芸術肌の人間だったので、楊貴妃は趣味嗜好を共有できる親友のような存在でもあった。


 

美人は三日であきるという俗言が示すように、歴史上、多くの権力者は当代一の美女をその生涯で何人も見初めてきたが、玄宗皇帝にとっての楊貴妃はその例には当てはまらない唯一無二の存在であった。

 

 

玄宗皇帝は、楊貴妃が望むことなら何でも叶え、貴重な果物ライチ(茘枝)が大好きだった楊貴妃に、少しでも新鮮なライチを食べさせたいという一心から、玄宗皇帝は何千キロも離れた嶺南から長安(現 西安)まで早馬で運ばせる。

 

砂煙をあげて走り去る早馬を見た人々は、それがまさか楊貴妃個人の嗜好を満たすためだとは夢にも思わず、急ぎの公用だと思っていたほどであった。

 

 

愛する楊貴妃のためなら、どれほど公務が妨げられようとも、玄宗皇帝はおかまいなしになり、国は大きく乱れていった。

 

 

 

 

752年、ついに楊貴妃の又従兄である楊国忠が宰相に登りつめ、楊一族の私欲に満ちた横暴は目に余る激しいものになる。

 

 

そんな折に、もともと楊貴妃に取り入って出世してきた安禄山(あんろくざん)が、楊国忠の地位を脅かす存在になってきたため、楊国忠は安禄山をひどく冷遇する。

 

 

755年、身の危険を感じた安禄山がついに反乱を起こす。

 

安禄山は長年、北方異民族から首都を防衛するためにつくられた節度使という軍隊の長官で、笵陽(北京)方面の軍団を安禄山は自在に操れる立場にあり、そのため、安禄山の起こした反乱は15万人におよぶ大軍であった。                      

 

 


破竹の勢いで進軍してくる反乱軍が、首都長安(西安)になだれ込んでくるのは時間の問題であった。

 
 

恐怖におびえた玄宗皇帝は、楊貴妃、楊国忠、高力士、李亨らを引き連れて、蜀(四川省)を目指して長安を脱出する。

 

 

しかし、同行する兵士達は次第に逃走に疲れ、疲れと共に反乱軍への恐怖が増していった。

 

そんな疲れや不安の矛先が、反乱の原因となった揚一族の横暴に向かうようになり、馬嵬(陝西省興平市)に至ると、楊国忠を強く憎んでいた武将の陳玄礼(ちんげんれい)を筆頭に兵士達は、楊国忠を殺害し、その首を槍で串刺しにして晒した。

 

楊貴妃の姉達も惨たらしい殺され方をする。

 

 

 

そして、楊一族の中で、楊貴妃一人が残された。

 

陳玄礼らは玄宗皇帝に対して、楊貴妃の殺害を要求する。

 

高力士は唐再興のために必要な決断だと玄宗皇帝に必死に懇願した。

 

 

楊貴妃は「国の恩に確かにそむいたので、死んでも恨まない。最後に仏を拝ませて欲しい。」と言い残し、首吊り死する。


 

この直後、楊貴妃の好きなライチが献上品として届いたので、玄宗皇帝はこれを見て涙が止まらなかった。
 

楊貴妃1
 

国が乱れたのは楊貴妃のせいではなかった。

ただ、賢明な楊貴妃は、国そのものといっても過言ではない皇帝の愛されながら、国のために自分がなにもしていない事、それを罪と理屈付けることの出来る女性だった。

 

 


やがて、玄宗皇帝は幽閉同然の身となり、楊貴妃の遺体にあった香袋を愛おしそうに手にしながら寂しさに耐える毎日を送った。

また、画工に彼女の絵を描かせ、それを朝夕眺めていたという。

 

 

 

 

現在、西安の西60キロほどの所にある馬塊に楊貴妃の墓がある。

 

楊貴妃にあやかろうとする人々が、碑の一部を削って持ち帰るため、半分ほどになっており、また、その墓の土を化粧の時に混ぜて使えば、楊貴妃のように美しくなれるという伝説
があり、土を持ち帰っていく者も多い。




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