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プトレマイオスはマケドニア王国の貴族ラゴスの子で、早い段階から側近騎兵隊将校として、ラオメドン、ネアルコらと共にアレクサンドロス3世からの厚遇を受けていた。


東方遠征では将軍として重要なポジションを任され続ける。


紀元前330年以降は側近護衛官となっており、アレクサンドロス3世の親友ヘファイスティオンや豪傑ペルディッカスと共に王からの信頼が特に厚い重臣であった。




紀元前323年にアレクサンドロス3世がバビロン(現 イラク・バグダッド)で死去すると、有力諸将の会議の結果、プトレマイオスは肥沃な土地エジプトの太守となる。


この時点での帝国のトップであるペルディッカスが、アンティパトロスの娘ニカイアとの婚約を破棄すると、ペルディッカス派とアンティパトロス派に分裂する。


プトレマイオスはアンティゴノスらと共にアンティパトロスに味方した。

アレクサンドリア

そうした折に、ペルディッカスがバビロンからマケドニア本国へ移送中だったアレクサンドロス大王の遺体をプトレマイオスは奪い、そのままエジプトのアレクサンドリアに埋葬する(ただ、現在にいたるまで遺体は発見されていない)。


アレクサンドロス大王の遺体を埋葬するという行為は後継者をアピールする行為であり、さらにエジプトはかつてアレクサンドロス大王が王(ファラオ)として民衆に受け入れられた意義深い土地である。

プトレマイオスに後継者としての強い野心がハッキリとあることが伺われる行動であった。



しかし、紀元前321年、プトレマイオスを討伐しに来たはずのペルディッカスが、ナイル川の渡河に失敗すると部下のセレウコスらに暗殺された。

プトレマイオスにとって最大のピンチになりかけていた事態が幸運にも回避される。




ペルディッカスの死により、プトレマイオスが支持したアンティパトロスが帝国のトップになるが、紀元前319年、老齢であったアンティパトロスが死去すると、アンティゴノスが破竹の勢いで勢力を拡大していった。


圧倒的な勢力となったアンティゴノスは、帝国の完全掌握を目指し、バビロンを治めるセレウコス討伐に力を注ぎ始めた。

サラミスの海戦

プトレマイオスは、アンティゴノスの意識がセレウコスのシリア方面に向いている隙に、エジプトから地中海を経てギリシア世界に勢力を伸ばそうとする。

しかし、紀元前306年「サラミス海戦」でアンティゴノスの息子デメトリオスが、プトレマイオスの艦隊を大敗させ、それを阻止する。




アンティゴノスがアンティゴノス朝を開き王となると、プトレマイオスとセレウコスもそれに対抗して王朝を開いた。


アレクサンドロス大王の遺体が埋葬されており、肥沃な大地が広がるエジプトを背景に、プトレマイオスも後継者としての野心を隠さなかった。

プトレマイオス1

さらに、プトレマイオス、セレウコス、カッサンドロス、リュシマコスは、アレクサンドロス帝国の統一を強攻に進めようとする最大勢力アンティゴノスに対抗するために同盟を組んだ。


紀元前301年に「イプソスの戦い」でセレウコス・リュシマコスの連合軍はアンティゴノスに勝利して戦死させる。


セレウコスは、旧ペルシア支配地域の多くを領土にし、ハッキリと最大勢力となると、ここまでずっと共闘関係にあったプトレマイオスとの対立が色濃くなる。


紀元前282年、セレウコスは「コルぺディオンの戦い」でプトレマイオスに味方するリュシマコスを敗死させ、さらに故国マケドニアを勢力下におさめようと遠征する。


しかし、この遠征にプトレマイオスの息子ケラウノスが同行していた。

息子ケラウノスは、プトレマイオスからエジプトを追放され、さらにプトレマイオスがエジプトの王位をケラウノスの弟に継がせる意思をハッキリさせていたため、ケラウノスは自力でマケドニア王になる野心を抱き、遠征道中にセレウコスを暗殺した。




紀元前288年、プトレマイオス朝エジプトは、プトレマイオスの後妻ベレニケ1世が産んだ息子プトレマイオス2世が後継者となると、その後300年近い繁栄を築く。
 
アレクサンドリア

そして、このプトレマイオス朝の最期の女王となるのが、絶世の美女として知られるあのクレオパトラ7世である。