紀元前356年7月20日、アルゲアス朝マケドニアの王ピリッポス2世と母オリュンピアスの子として、後に後世の人類が畏敬の念を込めたアレクサンドロス大王と呼ぶアレクサンドロス3世が生まれる。
ピリッポス2世はギリシア神話の英雄ヘーラクレースを祖とする家系とされていて、アレクサンドロス3世はそのことを強く意識しながら猛々しい生涯を送っていく。
アレクサンドロス3世が10代の頃に、高名な学者アリストテレスが教師として招かれ、アレクサンドロス3世は同世代の学友と共にギリシア人として高潔に生きることを学ぶ。
そして、この頃に共に学んだ仲間には親友ヘファイスティオンなど、王になってからのアレクサンドロス3世を支える者達がいた。
ピリッポス2世のもとで急速に影響力を強めたマケドニアを脅威に感じたアテナイとテーバイが同盟を組む、そして紀元前338年、カイロネイア(現 ギリシャ共和国中央ギリシャ地方リヴァディア市)でマケドニア軍とアテナイ・テーバイ軍が戦う。
アレクサンドロス3世は一軍の将として父ピリッポス2世に従い、初陣でありながらもマケドニアの勝利に大きく貢献する。
しかし、父ピリッポス2世が暗殺されると、アレクサンドロス3世は弱冠20歳でマケドニア王を継承することとなった。
ピリッポス2世の死の混乱に乗じてテーバイが反乱を起こすが、アレクサンドロス3世は、それを制圧して再びギリシア世界の覇権を握ると、次は世界の覇権を握るべくペルシアを目指す。
ギリシア世界こそが唯一絶対に素晴らしい。
ペルシアの圧倒的な繁栄と拡大は人類的な間違いである。
それがアレクサンドロス3世の動かぬ信念だった。
この世界を、野蛮なペルシアの支配から解き放ち、栄光あるギリシア文明を広めるのだと、アレクサンドロス3世は強い意志を持っていた。
紀元前334年、ペルシアに侵入したマケドニア軍38000が、ペルシア連合軍40000とアナトリア地方(現 トルコ領内)のグラニコス川(現 ビガ川)で対峙する。
「グラニコス川の戦い」と呼ばれるこの戦闘では、マケドニア軍の主力である長さ5.5m重さ6kgにもなる槍を抱えた長槍部隊が川に阻まれ機能しなかった。
アレクサンドロス3世は、意を決して自らが先頭になって突撃する。
人目をひかないわけにはいかない派手で煌びやかな装飾と一際輝く鎧を身にまとったアレクサンドロス3世は、敵将ミトリダテスを自身の投げ槍で仕留めるのであった。
この時のアレクサンドロス3世の闘神のごとく鮮やかかつ勇猛な姿は、味方将兵からの尊敬と憧憬を集めた。そして、その噂は広がり、その後の数多の戦いにも大きな影響を及ぼした。
それは偶然の結果論ではなく、アレクサンドロス3世の意図したものであった。
一瞬の勇敢さにさえ人心を操作する企みが含まれている大王の資質をアレクサンドロス3世は備えていた。
アレクサンドロス3世は初めてのペルシアとの戦いで、自身が尊敬してやまないギリシア神話の英雄アキレウスの生まれかわりであることを確信する。
続いて紀元前333年、イッソス(現 トルコ・イスケンデルン)で、アケメネス朝ペルシア帝国の王ダレイオス3世自らが率いるペルシア軍12万と衝突する。
マケドニア軍は4万足らずと数で劣りながらも、強いカリスマ性をおびたアレクサンドロス3世に率いられ、ペルシア軍は5万人ともいわれる戦死者を出す大敗を喫した。
この「イッソスの戦い」でアレクサンドロス3世は、ダイレイオス3世の母・妻・娘などを捕虜にした。
ペルシア軍が戦場に女性などの非戦闘員を同行させていたのは、マケドニア軍をなめていたからであった。
戦争はスポーツと違ってどんな相手にも全力というわけにはいかない。
準備する戦力によって食費も移動コストも大きくなるのが戦争である。
大国がほどよい戦力で小さな敵を迎え撃つのも重要なことなのである。
地図の広さで戦うわけではないが、広大な領土を持つペルシア帝国が侵入してくる敵にいちいち王が出陣するわけにはいかない。
マケドニアとペルシアでは、その国力と文明の発展度があまりにも違った。
ダレイオス3世が「所詮マケドニア」と思っていたことは不自然ではなく、むしろ良い政治的認識であるはずだった。
しかし、歴史が大きく動く時というのは、それまでの正解が不正解になるのかもしれない。
アレクサンドロス3世は、この時の捕虜の中にいた絶世の美女バルシネを愛人にし、そのバルシネは後にアレクサンドロス3世の子へーラクレースを産むことになる。
アレクサンドロス3世は、軍事の天才ぶりをいかんなく発揮しながら、さらにペルシアの支配下にあったエジプトを征服する。
エジプトで将兵達に充分な休養を与えると、アレクサンドロス3世はペルシアの奥深くを目指して遠征を再開する。
紀元前331年、「イッソスの戦い」でマケドニア軍の脅威を身を持って知ったダレイオス3世は、諸説あるが15万ともいわれる大軍を準備した(100万を超えるという伝承もあるが、それは現実的ではなく、むしろそれだけ総力を挙げたという解釈が妥当である)。
マケドニア軍47000は、チグリス川上流のガウガメラで、このダレイオス3世率いるペルシアの大軍と衝突する。
アレクサンドロス3世のカリスマ性に、ペルシア軍兵士は恐れおののき、マケドニア軍兵士の士気は高かった。しかし、勝敗を分けたのは、そういった精神的な勢いだけではなく、実際にマケドニア軍はとても強かった。
マケドニア軍兵士は当時では珍しい職業軍人が主軸になっていた。
軍人というのは非生産な存在であるため、生産性が低い時代において生活を保障して日々訓練をさせるというのは困難であった。
そのため、職業軍人を主軸においたマケドニア軍は、命令系統が安定し、戦術遂行速度が格段に速かった。
「ガウガメラの戦い」といわれるこの戦いでは、アレクサンドロス3世の柔軟かつ斬新な指揮が注目を集めているが、それを可能にしたのは日々訓練された兵士達の連携能力の高さにあった。
結果、アレクサンドロス3世は圧倒的な戦力差をものともせずペルシア軍に圧勝した。
一方、総力を駆使した「ガウガメラの戦い」に大敗したペルシア帝国は風前の灯火となった。
ペルシア帝国の中枢に侵入したマケドニア軍は、バビロン(現 イラク・バグダッド)やスーサ(現 イラン南西部フーゼスターン)やペルセポリス(現 イラン・ファールス)といった大都市で略奪の限りを尽くす。
こうした行為は、ペルシア戦争時(この時代の100年ほど前)に、ペルシアがギリシア世界の誇りであるアテナイのアクロポリスを焼き払ったことへの怨念であった。
栄光あるギリシア世界に傷をつけた野蛮なペルシアに神の鉄槌を振り落とす。
それは、ヘーラクレースの血を引き、アキレウスの生まれかわりであるアレクサンドロス3世にとって悲願であった。
しかしながら、アレクサンドロス3世は、ペルシアの文明の高さを目の当たりにして、徐々に心境に変化が出始める。
さらに、これだけの大帝国を治め、民衆からも慕われていたダレイオス3世という人物に尊敬の念を抱くようになっていった。
そんな折に、逃亡中のダレイオス3世が配下のベッソスに暗殺されたことを知る。
アレクサンドロス3世は、ベッソスを残酷に処刑し、ダレイオス3世を丁重に埋葬した。
その後、アレクサンドロス3世は、広大なペルシア帝国を完全制覇すべく、紀元前329年から紀元前327年までに、バクトリア(ヒンドゥークシュ山脈とアムダリヤ川の間に位置)やソグディアナ(現 ウズベキスタン領内)を平定する。
しかし、過酷なゲリラ戦であったため、マケドニア兵士の士気はこの頃から低下していくようになる。
そして、最後に征服したペルシア帝国の地バクトリアで、後にアレクサンドロス3世の子アレクサンドロス4世を産むロクサネを妻に迎えた。
ペルシア帝国を滅ぼしたアレクサンドロス3世は次にインドを目指す。
そして、その先には世界の果てオケアノスがある。
オケアノスに到着することはアレクサンドロス3世の夢であった。
紀元前326年、インダス川を渡ってインドに侵攻すると、マケドニア軍約40000はヒュダスペス川(現 ジェーラム川)にて、現代のパンジャーブ地方一帯の領主パウラヴァ族の首長であったポロス率いる約34000と衝突。
両軍合わせて2万人ほどの戦死者をうむ厳しい戦闘をマケドニア軍は勝利する。
オケアノスを目指すアレクサンドロス3世は、さらなる進軍を目指ししていたが、その先に待ち構えるインド軍が20万を超える大軍と6千頭もの象を用意しているという情報が入る。
さらにこの「ヒュダスペス河畔の戦い」の損害が大きく、兵士達の望郷の念が強くなったため、アレクサンドロス3世は引き返すことを決断する。
夢半ばでインドを後にすると、ゲドロシア砂漠(現 パキスタン・バローチスターン州)を通って、紀元前324年、スーサに帰還した。
ペルシアの文明の高さに尊敬の念が強くなっていたアレクサンドロス3世は、ペルシアをギリシア世界の色で支配するのではなく、ギリシアとペルシアの融合を考えるようになっていた。
その一環として、マケドニアの兵士と現地のペルシア人女性との合同結婚式をおこなった。
この時、アレクサンドロス3世は、ダイレイオス3世の娘スタテイラ2世を二人目の妻に迎える。
同時に、親友ヘファイスティオンを帝国宰相に任命するが、ヘファイスティオンはそれから間もなく病死してしまう。
ギリシア神話の英雄アキレウスは、親友パトロクロスをトロイヤ戦争で殺したヘクトルを生きたまま馬車で引きまわして全身ズタボロにして殺した。
自身をアキレウスの生まれかわりと信じていたアレクサンドロス3世は、幼い頃から、ヘファイスティオンに「オマエはパトロクロスだ。」と言っては、互いの友情をかみしめあっていた。
ヘファイスティオンを失ったアレクサンドロス3世の悲しみは深く、これを機にその行動は精彩さと冷静さを欠いたものが増えていく。
バビロンに帰還したアレクサンドロス3世は、さらにギリシアとペルシアの融合を進めるため、ペルシア風礼式や行政制度を取り入れ、代官に現地有力者を任命した。
このアレクサンドロス3世の行動は、マケドニア人達の目には、ギリシアをないがしろにしたペルシア化と映り、多くの反感をかった。
アレクサンドロス3世は、ここからアラビア遠征を計画していたが、10日間高熱にうなされた末、紀元前323年6月10日に死去した。
昏睡状態のアレクサンドロス3世が印綬の指輪をペルディッカスに託したことから、ペルディッカスがアレクサンドロス3世死後の主導権を握ることになる。
アレクサンドロス大王は超がつくほど短期間のうちにアケメネス朝ペルシアを打倒し、広大な領土を自らの帝国の支配下に置くが、その死後、残された帝国の継承者を巡って有力諸将による勢力争い(ディアドコイ戦争)が起こった。