沖田総司700x1000


天使の心を持った殺人鬼、沖田総司は、陸奥国白河藩藩士・沖田勝次郎とミキの長男として、江戸の白河藩屋敷(東京都港区西麻布)で生まれた。

 

2人の姉がおり、両親とは3歳前後で死別したといわれている。

 

 

 

9歳頃、近藤や土方のいる天然理心流の試衛館の弟子となり、若くというより幼くして試衛館塾頭を務めていた。

 

 

 

日本史上最も人を斬った新撰組という組織において、最も剣の腕がたったと言われる沖田は、日本史上最強の男であったという解釈も出来なくはない。

 

 

そんな沖田の強さのルーツは天然理心流にこそあった。

 

試衛館
 

 

幕末というのは、実戦と剣術の乖離が大きくなって久しいと言われていた時代である。

 

 

武士が刀で斬り合うという機会が大きく現象する一方で、武士のたしなみとして剣術の修練は逆に熱心にされていた。

 
 

であるが、しかし、修練に使われた竹刀は刀より圧倒的に軽く、この軽い竹刀を巧みにコントロールする技術が発達していく。

 
 

幕末の頃はすでに、軽い竹刀を操作しやすいように、現在の剣道と同じように、両手の間隔を開けて竹刀を握ることが一般化している。

 
 

日頃こういった練習をしていたので、この時代の武士はいざ実戦の場で刀を手にしても、そのように扱っていた。

 

 
 

ところが、実戦に通用する剣術を第一に考えていた天然理心流では、野球のバットを握るように両手の間隔を開けず、竹刀よりもはるかに重い刀を力強く扱えるような修練がなされていた可能性があり、その根拠として、現存する土方歳三が愛用した和泉守兼定(いずみのかみかねさだ)が、バットのように握っていた痕跡が残っている。

 

  

実際に、江戸時代初期以前、竹刀が作られるようになる前は、刀をバットのように握るのが一般的であった。

 

刀の握り方
 

このように、沖田の強さの根拠は、新撰組隊士やその敵達の証言だけでなく、具体的な技術的背景からも検証することが出来る。

 

 

 

永倉新八は後年「練習では、土方歳三、井上源三郎、藤堂平助、山南敬助などが子供扱いされた。恐らく本気で立ち合ったら師匠の近藤もやられるだろうと皆が言っていた。」という証言を残す。

 

 

 

 

しかし、いくら強くても、親はなく男兄弟のいない、まだまだ幼さの残る沖田にとって、試衛館で共に汗を流す近藤や土方は本当の兄以上の存在であった。

 
 

 

 

 

1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、沖田は近藤や土方についていく形で、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人で京都へ赴く。

 

 

おそらく、この時、沖田に政治的な志はほとんどなく、近藤や土方と遠足に行くような気分であった。

 

 

 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していき、やがて新撰組は近藤勇主導の組織になるが、沖田は新撰組が近藤主導の隊に変わるための数々の内部抗争において暗殺実行者として働く。

 


その決定打となった芹沢鴨の暗殺にも実行者として加わった。

 

沖田総司2

 

新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の際には、近藤隊4名の一人として20名以上の敵に突入するが、戦闘中に持病が発症し、吐血しながら倒れ込み、戦線離脱する。

 

 

この頃から沖田は、兄貴分と慕う近藤や土方との時間がそう長くはないことを感じ始めていた。

 
 

 

 

 

総長の山南敬助が脱走した際には、たった一人で追っ手として向かうことを近藤と土方から命じられる。

 

沖田は山南が大好きであった。

 

隊規の局中法度で脱走は死罪である。

 

 

 

近藤や土方は、沖田の人生そのものような試衛館で、子どもの頃から一緒に過ごした兄貴分であるが、剣術の腕は沖田の方が上だった。

 

 

一方、山南には沖田にはない知性があり、数々の初めて訪れる土地で、その風土や歴史を解説してくれるなど、山南の知性は若い沖田の好奇心と向上心を存分に刺激した。

 

 

 

沖田は、土方と近藤が山南を見逃すために、自分一人に追いかけさせたのだと察する。

 

 

しかし、沖田が近江草津で山南を発見すると、山南は抵抗することなく、沖田の期待を裏切ってアッサリと新撰組の屯所に戻った。

 

近江草津

屯所に戻った山南は正式に切腹を命じられ、その介錯は、山南たっての希望により沖田が果たすことになる。

 

 

 

 

 

沖田は、凄腕の新撰組一番隊組長としての顔とは裏腹に、いつも冗談を言っている陽気な人物で、暇な時は屯所界隈の子ども達と遊んでいる事が多かった。

 

 

山南に並び人当たりが良く、優しく無邪気な沖田は、まるで天使のようだと言われ、そんな沖田にとって、新撰組での人斬りの日々は、激しいストレスになっていたのかもしれない。

 

 

ただ、兄のように慕う近藤や土方が、自分の強さを頼りにしてくれることも素直に喜びを感じていた。

 

 

もしかしたら、こうした複雑な心理が、その行動を不安定にし、持病の悪化を早めていったのかもしれない。

 

 

沖田総司1
 

沖田は、体調の悪化とともに徐々に第一線で活躍することがなくなり、「鳥羽・伏見の戦い」には参加せず、江戸に戻ってからは幕府の医師・松本良順により千駄ヶ谷の植木屋でかくまわれて療養生活を送る。

 

 

近藤が甲陽鎮撫隊として出陣する前に見舞いに来ると、沖田はただただ声を上げて泣き、あの無邪気な姿は見る影もなくなっていた。

 

 

近藤が板橋刑場で処刑されてからも、そのことを知らない沖田は「近藤さんはどうされたのでしょうね。お便りは来ませんか?」と寂しがっていたという。

 

 

 

 

そうして、近藤の死を知らぬまま、近藤の死から2カ月後、持病の労咳(結核)でその生涯を終えた。

 

 

没時年齢については生年が明確でないため2425歳という説が有力視されている