土方歳三700x1000


土方は、武蔵国多摩郡石田村(現在の東京都日野市石田)で豪農の土方隼人と恵津の間に10人兄弟の末っ子として生まれた。

 
 

土方家は多摩の豪農であったが、土方は、生まれる前に父を6歳の時に母を失っていた。

そのため、土方は、次兄の喜六とその妻なかによって養育される。

 

 

土方は幼い頃に、武士になったらこの竹で矢を作ると言って竹を植えたりするなど、武士になりたいという思いを幼い頃から抱いていた。

 
 

人一倍プライドの高い土方は、武士にペコペコするのが面白くなかったのかもしれない。


豪農として裕福な生活を送るよりも、金はなくとも武士のように威風堂々と生きることの方が、魅力的に思えたのだろう。

 

ヤンチャな少年期の土方はバラガキ(不良少年)と呼ばれていた。


土方歳三4

土方は、17歳の時に松坂屋上野店の支店である江戸伝馬町の木綿問屋に奉公に上がり、そこで働いていた年上の女性を妊娠させてしまうといった問題を起こして郷里に戻ったという説もある。

 

後に京都で数多の浮名を流す土方の性分はこの頃から発揮されていたのかもしれない。

 

 

 

土方の姉のぶは、日野宿名主の佐藤彦五郎に嫁いでおり、彦五郎は近藤勇との親交厚く、自宅に剣道場を持っていた。


土方は、その道場に指導に来ていた近藤と出会い、天然理心流に入門する。


年齢も1歳違いと、歳近い土方と近藤は、この頃から非常に仲が良かった。

 

 


 

1863年、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集されると、土方は近藤についていく形で、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に京都へ赴く。

 

幼い頃から武士になりたいと思っていた土方は、京都で武士らしい仕事が出来ることに期待を膨らませていた。

 

 


 

京都に辿り着いた浪士隊は、壬生浪士組から新撰組に名を変え、徐々にその存在感を増していくが、隊内は近藤派と芹沢派の確執が色濃くなる。

 

土方にとって新撰組は近藤主導の隊でなくてはならなかった。


 

それは、近藤がトップになることによって新撰組はより発展していくという確信と共に、人一倍プライドの高い土方には自分が慕う近藤が隊内で芹沢鴨と同列以下であることが気にくわなかったのかもしれない。

 

 
 

土方は後々、新撰組の栄枯盛衰を良くも悪くも左右する局中法度という隊の決まりを絶対化することに尽力し、この局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込み、同じように局中法度を大義名分に芹沢鴨を自らの手で暗殺した。

 
 

こうして、新撰組は土方の望み通り近藤勇主導の隊になる。

 

 

このように、ここまでも、そしてここからも、近藤が隊外での交渉などで新撰組の権威を高める一方で、新撰組という組織そのものをプロデュースしたのは土方であった。

 

土方は、局長である近藤の右腕として、剣豪揃いの新撰組で鬼の副長と恐れられる。

 

副長
 

新撰組の名を天下に轟かせた池田屋事件の際には、近藤隊4名が倒幕派の浪士20名以上を発見して突入、近藤隊突入の知らせを聞いた土方は、現場に急行した後、戦闘に参加させる者と池田屋の周辺を防御する者に分けた。

 
 

その理由は、この夜に倒幕派の捜索をしていたのは新撰組だけではなかったからである。

 

 

騒ぎを聞きつけ現場に駆けつけてきた会津藩や桑名藩は味方ではあるが、土方は彼らを池田屋の中には入れないようにした。

 
 

それは、まだ立場の弱かった新撰組の手柄を横取りされないためである。

 

 

命懸けの激しい戦闘の中でも、様々な状況の分析を瞬時にし、最大の利益をつかむ土方らしい機転であった。

 
 

土方が池田屋事件の手柄を守っていなければ、新撰組の名声があれほど一気に上がることもなく、破格の恩賞も間違いなくなかったであろう。

 

 

 
 

土方は最盛期を迎えた新撰組を守るために度を越した非情さを貫く。

 

試衛館以来の盟友である山南敬助をはじめ、河合耆三郎、谷三十郎、武田観柳斎などの幹部も局中法度を破った者は例外なく粛清した。

 

 

 

 

 

1867119日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、186813日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。

 

 

こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。

 

 

どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868(明治元年)127日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。
 

高瀬川堤での戦闘(鳥羽・伏見)
 

この「鳥羽・伏見の戦い」の際には、土方は負傷していた近藤の代わりに新選組の指揮をとった。

 

 

 

 

 

そこから、流山で新政府軍に投降した近藤が板橋刑場で斬首されると、土方は島田魁ら数名の隊士のみを連れて大鳥圭介らが率いる旧幕府軍と合流し、北へ北へと転戦し、仙台で榎本武揚らと合流すると、蝦夷地(現在の北海道)に渡る。

 

 

旧幕府軍が箱館の五稜郭を占領後、土方は、松前城を陥落させ、江差を占領するなどの活躍をした。

 

五稜郭
 

その後、五稜郭を本陣に旧幕府は榎本武揚を総裁とする「蝦夷共和国」を成立し、土方は大幹部として陸軍奉行並となり、箱館市中取締や陸海軍裁判局頭取も兼ねる。

 

  
 

186949日、新政府軍が蝦夷地乙部に上陸を開始。

 

 

土方は、二股口の戦いで新政府軍の進撃に対し徹底防戦し連戦連勝を重ねるが、土方軍が死守していた二股口とは別の松前口が突破され、敵に逃げ道を塞がれる危険性が出たので、土方軍はやむなく二股口を退却し、五稜郭へ帰還した。

 

 

 

1869511日、新政府軍の箱館総攻撃が開始される。


これによって、京都時代から土方になついていた新撰組の島田魁らが守備していた弁天台場が、新政府軍に包囲され孤立してしまう。
 

 土方歳三2

 

土方はわずかな兵を率いて出陣、箱館一本木関門まで来ると、敗走してくる味方に対して「退く者を斬る!」と一喝し、鬼神のごとく戦うが、銃弾が土方の腹部を貫き落馬する。

 

側近が駆けつけた時にはもう絶命していたという。

 
 

34歳没。

 

 
 

 

その6日後、蝦夷共和国は新政府軍に降伏する。


榎本武揚や大鳥圭介は投獄の後に、新しい時代に必要な人材として政府要職に就く




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