三好長慶700x1000

1522年、管領(室町幕府における将軍に次ぐ役職で将軍を補佐して幕政を統轄する)・細川晴元の家臣である三好元長の嫡男として生まれる。

 

 

父・三好元長は主君・細川晴元の重臣であり、細川晴元の仇敵であった細川高国を滅ぼした功労者であったが、三好元長の有能さは次第に疎まれるようになっていき、1532年、細川晴元の手引きで蜂起した一向一揆(浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした権力に対する抵抗運動)に討たれて自害することになった。

 

主君から見限られた父・三好元長の無念は凄まじく、その自害の様は、自身の腹をかっ捌いただけで終わらず、腹から取り出した臓物を天井に投げつけるという壮絶さであったという。

 
三好元長
  
三好元長

こうして幼くして父を亡くした長慶は母と共に阿波国(徳島県)へ逃れた。

 

 

1533年、細川晴元が三好元長を殺害するために手を借りた一向一揆は、やがて細川晴元でも抑えられなくなり両者の関係は悪化するが、長慶がこの両者の講和に尽力したことにより、長慶は父の仇である細川晴元に仕えるようになる。

 

 

父の仇である細川晴元の家臣となった長慶は、ひそかに阿波国で勢力を拡大し、1539年、父が残した河内の領国を取り戻すために、石山本願寺法主・証如の後ろ盾と2,500の兵を率いて京都に向かう。

 
証如
  
証如

河内の領国は、同族でありながら父・三好元長を死に追いやった人物の一人である三好政長(長慶の叔父にあたる)が奪っていたが、細川晴元が長慶の要求を退けて三好政長を支持したために武力対立が発生した。

 

長慶は管領・細川晴元の家臣という立場ながら、阿波国も含めた総兵力では畿内でも抜きん出た存在になっていたため、戦闘を避けたかった細川晴元は室町幕府将軍・足利義晴に仲介を依頼し、一旦の和解を迎える。

 
足利義晴
  
足利義晴

この時わずか17歳、長慶はすでに類まれな器量と軍事的才幹を備え、この講和の条件として長慶は越水城(兵庫県西宮市)を与えられ摂津半国守護代となった。

 

越水城
 
1541年、管領・細川晴元に接近することで地位を向上させてきた木沢長政が謀反を起こしたため、細川晴元は木沢長政討伐に乗り出すと、1542年、10年間畿内で権勢をふるっていた木沢長政は細川晴元側の長慶や遊佐長教らに討ち取られた(太平寺の戦い)

 

同年、長慶に嫡男・三好義興が誕生する。

 
太平寺の戦い

1543年、細川氏綱(細川晴元が滅ぼした細川高国の養子)が、将軍・足利義晴の支持を受け、細川晴元打倒を掲げて和泉国(大阪府南西部)で挙兵した。

 

1545年には山城国(京都府南部)で細川高国派の上野元治・上野元全の親子と丹波国(京都府中部、兵庫県北東部、大阪府北部)の内藤国貞らが挙兵し、細川晴元は長慶・三好政長ら諸軍勢を率いてそれを鎮圧する。

 

しかし、1546年、細川氏綱が畠山政国や遊佐長教の援助を受け、再び挙兵すると、長慶らは動きを封じられて摂津国(大阪府北中部の大半、兵庫県南東部)のほとんどを奪い取られるが、長慶の弟・三好実休ら四国の軍勢が到着すると徐々に形成は逆転し、細川氏綱を支持した将軍・足利義晴は近江に逃れて将軍職を嫡子・足利義輝に譲った。

 

足利義輝
   
足利義輝

1547年、長慶の軍が舎利寺(現在の大阪市生野区)周辺において細川氏綱・遊佐長教の軍と激突した「舎利寺の戦い」は「応仁の乱」以来の畿内における最大規模の合戦となり、長慶の軍がこの戦いに勝利すると、足利義晴は京都に戻って細川晴元・六角定頼と和睦する。

 

さらに長慶は細川氏綱に奪われた芥川山城(大阪府高槻市の三好山)を奪還すると、父の従兄・芥川孫十郎を芥川山城主にした。

 

 

長慶は細川晴元の政権下で「太平寺の戦い」「舎利寺の戦い」など戦功を積み重ね、その実力が畿内に知れ渡り、三好氏の総帥としての地位を固めてゆくにつれて、細川晴元に深く信頼される三好政長の存在は無視のできないものとなる。

 

舎利寺の戦い
 
1548年、長慶は叔父であり父の仇である三好政長を追放しようとするが、細川晴元はこれを許さず、そのことが原因となって長慶と細川晴元は対立し、長慶はかつての敵である細川氏綱・遊佐長教と結び細川晴元に反旗を翻した。

 

 

長慶はかつて父が任されていた因縁の河内十七箇所へ兵を差し向け、三好政勝(三好政長の子)が籠城する榎並城(大阪市城東区)を包囲するが、翌1549年に一旦、河内十七箇所へ戻る。

 

一方、三好政長は摂津国人の大半が長慶側となっているため山城から摂津への侵攻が出来ず、迂回して丹波を通り、猪名川流域を南下し、池田城(大阪府池田市)を攻撃後、河内十七箇所へ迫った。

 

戦いは両軍共に決め手が無く長期化していったが、三好政長が摂津江口城(大阪府大阪市東淀川区)に入ると状況は大きく展開する。

 
摂津江口城

江口城は長慶の軍を妨害しながら、近江守護・六角定頼の援軍を待つことの出来る重要な拠点であったが、北・東・南は川に囲まれ水路を封鎖されると逆に逃げ出せなくなるという地理的欠点があったため、長慶はすかさず江口城を包囲して三好政長を孤立させた。

 

 

三好政長はこの「江口の戦い」で六角定頼の援軍を期待して守勢を通すが、六角軍1万が江口城に到着する直前に、長慶が弟・十河一存と東西から江口城を急襲し、すでに長期戦で疲弊していた三好政長の軍は持ち堪えることができず、三好政長をはじめ高畠長直・平井新左衛門・田井源介・波々伯部左衛門尉ら800人ほどが討ち死にする。

 

 

三好政長を支援すべく三宅城(大阪府茨木市)にいた細川晴元は「江口の戦い」で多くの配下を失うと、長慶の追撃を恐れて京都に戻り、前将軍・足利義晴と13代将軍・足利義輝の親子らを伴って近江国坂本まで避難した。

 
三宅城

その後、長慶は幕府首脳陣が不在となった京都に入ると、細川氏綱を管領に就かせることで、長慶が幕府と京都の実権を握ることとなり、ここに三好政権が樹立する。

 
三好長慶3
 

1550年、前将軍・足利義晴は近江国坂本でそのまま病没。

 

長慶の勢いに押されて京都から近江へ逃亡し、危機感を募らせた細川晴元と将軍・足利義輝は、六角定頼の支援を背景に京都郊外の東山にある慈照寺(銀閣寺)の裏山に中尾城を建設して、京都奪回を試みた「中尾城の戦い」でも敗れた。

 
中尾城
 

1551年、細川晴元側の三好政勝・香西元成らが丹波国人衆など3000人を率いて相国寺(現在の京都府京都市上京区)に陣取り、長慶側は松永久秀・松永長頼の兄弟が摂津・阿波・和泉などの諸国から集めた4万の大軍で相国寺を包囲し、三好政勝・香西元成らは丹波へと敗走する。

 

この戦いの結果、足利義晴・細川晴元の武力による帰京は不可能となり、彼らを後援していた六角定頼は和睦交渉を始め、六角定頼の死後はその子・六角義賢が続けて交渉を行った結果、1552年、幾内の安定を図りたい長慶は和睦に応じた。

 

 

しかし、和睦に納得しなかった細川晴元は抗戦を続け、1553年、長慶は再び足利義輝・細川晴元と交戦し、再び勝利して近江国朽木へと追いやり、畿内を平定する。

 

 

1557年、長慶は播磨国の東部と丹波国を平定した。

 
三好長慶2
 

1558年、京都奪回を目指す足利義輝・細川晴元は六角義賢の支援で懲りずに立ち上がり、将軍山城(京都市左京区北白川清沢口町)で長慶の軍と交戦するが、膠着状態が繰り返されると長慶が六角義賢との和睦交渉を開始し、戦局の不利を悟った六角義賢はこれに応じる。

 

足利義輝は将軍山城から下りて相国寺で長慶・伊勢貞孝・細川氏綱らの出迎えを受けて5年ぶりに京都へ戻った。

 
将軍山城

一方、細川晴元は和睦に反対して姿をくらまし、以後も長慶への敵対行動を続ける。

 

 

13代将軍・足利義輝と和睦した長慶は、以後、室町幕府との対立関係から一転して協調関係を築いていき、勢力も順調に拡大していった。

 

 

1559年、長慶は大和国を平定すると、河内国(大阪府東部)を支配していた安見直政を攻撃、1560年には安見直政と組んで長慶に敵対してきた畠山高政の高屋城(大阪府羽曳野市古市)を攻めて勝利すると河内国を支配下に置き、飯盛山城(大阪府大東市及び四條畷市)を居城にする。

 

飯盛山城
 

1561年、長慶は細川晴元を普門寺城(大阪府高槻市富田町)に幽閉し、さらに細川晴元の長男・細川昭元も普門寺城に入城させて長慶の監視下に置く。

 

 

細川晴元は六角義賢の妻の兄であったこともあり、六角義賢は長慶の細川晴元・細川昭元親子の処遇を非難して、長慶に敗れて紀伊国に落ち延びていた畠山高政と手を組み、京都を含めた畿内において兵をあげる。

 

畠山氏は室町時代の初期より河内守護として君臨してきたが、戦国時代になって長慶の圧迫を受け、六角義賢はそんな折に畠山高政へ長慶挟撃の軍事同盟の提案をした。

 

 

こうして1562年、和泉国八木郷の久米田寺周辺(現在の大阪府岸和田市)に布陣する長慶の弟・三好実休に対して畠山高政が攻め入った「久米田の戦い」は、両軍併せて1700050000の兵力が激突し、三好実休が戦死するなど長慶の軍は敗北。

 
三好実休
   
三好実休
 

その後、長慶の居城・飯盛山城が畠山高政の軍勢に包囲されるが、三好義興・松永久秀・三好康長・三好政康・三好長逸・安宅冬康・十河存保が総勢5万ともいわれる軍勢で飯盛山城の救援に出撃すると、畠山高政の軍勢は飯盛山城の包囲を解く。

 

 

籠城していた長慶の軍勢が救援の軍勢と合流すると、河内高安郡教興寺村(現在の大阪府八尾市教興寺)付近で畠山高政の軍勢と対陣し、戦国時代における畿内での最大規模の戦いといわれる「教興寺の戦い」が始まる。


教興寺の戦い
 

新興勢力の長慶と旧勢力の畠山高政が互いの勢力の全てを結集し、畿内の覇権をめぐる最終決戦となった「教興寺の戦い」は長慶の勝利に終わり、旧勢力の畠山氏の勢力は瓦解し、六角氏が軍門に降ったため、畿内に三好氏に対抗する勢力はなくなり、長慶は河内、和泉を勢力下におき、大和、紀伊へも勢力を浸透させることに成功して天下人となった。

 

 

一方で、この一連の戦いで長慶は、一族の有力者であった三好政成や弟・三好実休などを失うという大きなダメージを負う。


三好長慶1
 

1563年、長慶の嫡男・三好義興が病死。


三好義興
  
三好義興

長慶は戦国期には珍しく
3人の弟達(三好実休・安宅冬康・十河一存)とも仲が良く、これが三好家の発展に大きく影響したのだが、1564年、長慶は松永久秀の誹謗を信じて、弟・安宅冬康に謀反の疑いを持って自害させた。

その後、謀反の疑いが誤りであったことを知った長慶は深く後悔する。

 

この頃の長慶は、相次ぐ親族や周囲の人物らの死で精神に異常をきたし、その影響は肉体にも及んでいた。

 

長慶は弟・十河一存の子・三好義継に家督を相続させると、飯盛山城にて42歳で病死。


三好義継
   
三好義継
 

家督を継いだ三好義継は若年であったため、松永久秀と三好三人衆(三好長逸・三好政康・岩成友通)が後見役として三好氏を支えたが、やがて対立して1565年~1568年まで内紛を起こす。

 

三好義継と松永久秀は新たに台頭した織田信長を味方につけると、三好三人衆は織田信長に蹴散らされたが、その後、三好義継と松永久秀も織田信長によって滅ぼされる。

 

松永久秀
  
松永久秀 


長慶は畿内の覇者となっても、京都は攻めるに易く守るに難しとして、居城を移さないなど新しい角度でものを見ることが出来たが、古くからのしきたりにはこだわり、将軍や管領を圧倒的にしのぐ実力を持ちながら、後の織田信長のように室町幕府の転覆を企てるようなことはしなかった。




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