近藤勇の名前は、宮川勝五郎、嶋崎勝太、大久保大和などの時期も含め、ここでは「近藤」に統一して書きすすめます。
近藤は、武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市)に比較的裕福な百姓の宮川久次郎と母みよの三男として生まれる。
父の久次郎は様々な英雄伝を近藤に読み聞かせていた。
そんな父の影響で、近藤は忠臣蔵の大石内蔵助を尊敬し、後に新選組の隊服を製作する際に赤穂浪士の装束を真似たといわれている。
また、三国志の関羽に憧れ、それが強い男になりたいと思うキッカケにもなった。
近藤が15歳の頃、父が留守の時、家に強盗が押し入る。
やっつけてやろうと飛びだそうとした兄に近藤は「強盗は入ったばかりの時は気が立っているものです。立ち去る時の方が気が緩むので、そこでやっつけましょう。」と言う。
そして、強盗が立ち去ろうとした時に、近藤は兄と共に飛び出した。
ビックリして盗品を投げ捨てて逃げる強盗を、兄が追いかけようとすると、近藤は「窮鼠猫を噛むということがあります。盗られたものは戻ったので良しとしましょう。」と言う。
このエピソードは、いざという場面での近藤の判断力と人間性の高さを表しており、近藤の剣の師匠である近藤周斎が養子に欲しがるキッカケにもなった。
近藤は、江戸牛込(現在の東京都新宿区)に所在する天然理心流の道場である試衛館に入門し、やがて、道場主である近藤周斎の養子となり、清水徳川家の家臣である松井八十五郎の娘つねと結婚したのち、天然理心流宗家四代目を襲名する。
上昇志向の強い近藤は、天然理心流に対する強い誇りを持ちながら、このまま田舎道場で人生を終えることを想像する度に晴れない気持ちになるのであった。
そんな折に、将軍・徳川家茂が京都に行った際の警護の浪士が募集される。
浪士隊募集の話をきいた近藤は、なにかのキッカケになるのではと直感し、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助、永倉新八、原田左之助、藤堂平助という試衛館の8人と共に参加を決めた。
浪士隊募集に、集まった200名余りの浪士たちは将軍の京都訪問に先がけ「浪士組」を成し、中山道を進む。
京都に到着後、この浪士組のキッカケとなった清河八郎という人物が、勤王(天皇に忠義を尽くす)勢力と通じ、浪士組を天皇配下の兵力にしようとしていたことが発覚する。
協議の結果、清河の計画を阻止するために浪士組は江戸に戻ることとなった。
これに対して近藤を中心とする試衛館派と、芹沢鴨を中心とする水戸派は、あくまでも将軍警護のための京都残留を主張。
近藤達は京都に残留し、壬生村(現在の京都府京都市中京区)の八木源之丞邸やその周辺に分宿する。
その頃、京都守護職を務める会津藩(伝統的に幕府と縁が深い)の藩主・松平容保は、京都の治安維持のための浪士を手配しようとしていた。
近藤達は会津藩にその役目を名乗り出て、結果「壬生浪士組」が結成される。
壬生浪士組はすぐに、近藤派と芹沢派の確執が色濃くなっていく。
この頃、隊の名前はついに「新撰組」となり、さらに新撰組の栄枯盛衰を良くも悪くも左右する局中法度という隊の決まりも作られる。
近藤と土方は、この局中法度をもとに芹沢派の新見錦を切腹に追い込み、1863年9月、市中で乱暴狼藉を働き新撰組の評判を落とす芹沢鴨を派閥争いも絡んで暗殺した。
こうして芹沢派は完全に一掃され、新撰組は近藤勇主導の隊になる。
1864年正月15日、14代将軍・徳川家茂が京都に到着した。
その頃、新選組は不審者の捕縛、拷問や諜報の結果、京都に潜伏する尊攘派の計画を知る。
その内容は、祇園祭の前の風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて、徳川びいきの中川宮朝彦親王を幽閉し、一橋慶喜(次期将軍)・松平容保(会津藩主)らを暗殺し、孝明天皇を長州へと誘拐するというものであった。
尊攘派の計画会合が行われる日時を知った新撰組は、1864年6月5日、近藤隊と土方隊に分かれ捜索を開始、22時頃、近藤隊は池田屋で会合中の尊攘派志士を発見する。
近藤隊は、近藤勇・沖田総司・永倉新八・藤堂平助の4名で20数名の敵に突入し、真夜中の戦闘が始まった。
新撰組で最も剣の腕が立つ沖田が、戦闘中に持病が発症し、吐血しながら倒れ込み、戦線離脱。
藤堂は、頭を守る鉢金をしめ直すところを斬りつけられ、出血で視界がままならず、戦線離脱。
新選組側は一時、近藤と永倉だけで戦うことになるが、土方隊が到着すると勝負は一気に決着に向かう。
尊攘派は吉田稔麿・北添佶摩・宮部鼎蔵・大高又次郎・石川潤次郎・杉山松助・松田重助という才能豊かな逸材を失い大打撃を受けた。
そのため、専門家の間では、池田屋事件により逸材たちが落命し明治維新が1年遅れたとも、逆に倒幕派を刺激してしまい明治維新が早まったともいわれている。
桂小五郎(後の木戸孝允)は、会合への到着が早すぎたので、一旦池田屋を出て対馬藩邸で大島友之允と談話していたため、難を逃れた。
この後世に知れる池田屋事件で、御所焼き討ちの計画を未然に防ぎ、今も残る貴重な文化財を焼失から救い、天皇の誘拐などの阻止に成功した新撰組の名は天下に轟く。
この働きにより、新選組は朝廷と幕府から感状と褒賞金を賜った。
池田屋事件の後、藤堂の仲介で新撰組に才能豊かな伊東甲子太郎が加わるが、近藤と伊東が時局を論じ合った際に、徳川幕府あっての尊王攘夷という考えを持つ近藤に対して、伊東は孝明天皇の衛士になることを主張したため、近藤は伊東らの分離を警戒する。
近藤の予想通り、伊東は新撰組から分離した御陵衛士を結成した。
伊東ら御陵衛士は、近藤の征長論(長州は征伐するべき)に対し、長州寛容論(長州を征伐する必要はない)を主張。
近藤は国事議論を目的に伊東甲子太郎を呼び出し、大石鍬次郎らに伊東を暗殺させる。
さらに他の御陵衛士たちを誘い出して夜襲し、伊東について行った藤堂平助(藤堂は伊東の道場の弟子だった時期があった)も殺害された。
この遺恨が後々、近藤の運命を左右する。
1867年、新選組は会津藩預かりから隊士全員が幕臣となり、近藤は三百俵旗本となって、幕府代表者の一員として各要人との交渉を行うほどに出世し、新撰組は最も輝かしい時を迎えるが、同時に時代の波は新撰組の思惑とは逆方向に進み出す。
1867年11月9日に将軍・徳川慶喜は大政奉還を行い、朝廷から徳川幕府に貸し出されていた政治権力を明治天皇に返上し、1868年1月3日には岩倉具視らによって王政復古の号令が発して徳川慶喜の身分の剥奪と徳川家の領地全ての没収を決定し、明治新政府が樹立する。
こうして徳川幕府は政治の実権を完全に失うことになった。
どう好意的に解釈しようとしても暴虐で挑発的な薩摩藩に対して、徳川慶喜の周囲では「討薩」を望む声が高まり、慶喜は討薩を決定するが、1868年(明治元年)1月27日、旧幕府軍と新政府軍における「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍が敗れると、新選組も幕府軍艦で江戸へと戻る。
江戸に戻った新撰組は、旧幕府から新政府軍の甲府進軍を阻止する任務を与えられ、甲陽鎮撫隊と名を改めて、甲州街道から甲府城を目指して進軍するが、その途中、甲州勝沼の戦いにおいて新政府軍に敗退した。
近藤らは江戸に引き上げるが、会津において再起を図る計画を主張する永倉新八、原田左之助が隊を離脱。
近藤・土方は隊を再編成し、下総国流山(現在の千葉県流山市)の光明院・流山寺に分宿して長岡七郎兵衛宅を本陣とし、越谷に本陣を置いていた新政府軍の背後を襲う計画を立てる。
しかし、新撰組は武装準備不十分の状態で新政府軍に包囲された。新政府軍はこの時点では武装勢力を不信に思っていただけで、それが新撰組とは気付いていなかった。
新政府軍は薩摩や長州といった新撰組が京都で取り締まった者達が占めているため、新撰組であることが発覚するかしないかで、隊士もろもろの処遇が大きく変わるため、近藤は意を決して、単身、新政府軍に出頭し、自らを「大久保大和」と名乗り、武装組織が新撰組とは無関係であることをアピールする。
ところが、新政府軍の中に、かつて新撰組が暗殺した伊東甲子太郎の御陵衛士であった加納鷲雄、清原清がいた。
彼らによって、新撰組の局長・近藤勇であることが発覚してしまう。
結果、近藤は、板橋刑場で斬首される。
満33歳没。
首は京都の三条河原に晒された。
一方で、近藤が出頭して時間を稼いだことにより、残された隊士はそれぞれの運命に向かっていくことになる。
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