1月4日に千葉県柏市の手賀川で、17歳の少年が、橋の欄干から転落させられたとして、全裸の状態で遺体となって発見され、小島庸平容疑者ら4人が逮捕された事件で、被害者少年が2015年8月にLINEのメッセージで友人に「命狙われてるから助けてほしかった」「居場所ないから」「俺の家バレてる」とつづっており、事件の5カ月前には被害者と小島容疑者らはトラブルになっていた可能性があることが分かった。


被害者と中学からの友人は「詳細はあまり聞かなかった。巻き込まれたくなかったので。気を引くためのうそだろってスルーしていた」と話していた。




事件そのものとは関係ない話であるが、被害者の友人は非常に貴重なことを言っているなと思わされた。

なかなかここまで正直な言葉は出ないと思うんだよね。

普通は、たぶん「まさかこんなことになるとは…」を前面に出した言葉を口すると思うんだよね。

自分を守るために。


であるが、しかし、もちろんどんな事にも例外があるけれど、トラブルに巻き込まれたり、あと自殺を検討していたり、そういった者に「助けて」と言われた時、行動を取らない者の本質がまさにこれなんだよね。


まず助けない理由を探すものなんだ。

だから「嘘を言っているのだろう。」「たぶん大丈夫だろう。」そう思うことで、助けない自分を納得させる。



ハッキリ言っておきたいのは、助けない事が悪い事ではない。


それは、助けを求める者と助けを求められた者とが認識している親密度の差が表面化しただけだから。


知り合った人全てに対して深く深く精神的に関わるなんて誰も出来ない。
そんなのキリがない。

そもそも、親密度に対する認識が全て双方向的だったら、世の中に失恋なんて存在しない。



ただ、助けを求める側は確実に相手を選んでいる。


つまり、結果、無事だった時、それはその助けを求めた者に、トラブルを乗り越える能力や運があったり、自殺を踏みとどまる生命力があったり、そういうことである。

誰か別の人が助けた結果ではない。


助けを求められて、それをスルーするということは、この世界でただ一人の助けられる可能性を放棄するということである。


繰り返すが、そのこと自体は、なにも悪くない。

際限なく誰でもなんてわけにはいかないし、親密度への認識に差が生じるのも当然だ。


ただ、心の中に「どうでもいい」という感覚があったのは間違いがない。


けれど、普通は、こういった結果になった後、その「どうでもいい」という感覚を見せないような言葉を発する。


そして、正直な言葉を発するというのは、冷たいとか、開き直ってるとか、そういうんじゃなくて、それこそが結果と向き合っている証だと思うんだ。


自分を守って、結果から逃げるような言葉を発しなかった被害者の友人の姿勢は、逆に同情をさそわれるものがある。